二 風の街アーウェル
砂塵混じりの風が吹いた。
渇いた熱風は魔導機にもたれて座っていた少年の赤い髪や肌を撫で、薄っすらと滲んでいた汗を乾していく。
時は昼下がり、ビアーデン級魔導貨客船サザード号の甲板。幅十五リュート、長さ五十リュート程の広さを持つそこには、鉄骨や袋詰め建材といった積荷が船の均等を崩さぬように積まれている。強い陽射しに熱せられた空気もあって、船首の監視所以外に人気はない。
両側舷からは魔導機関が回す四枚推進羽根の音。規則正しく時を刻み続ける推進器の根元、側壁より伸び出た水平翼は向かい風を受け、重い船体をなんとか持ち上げている。
そんな露天甲板の一画。船尾にある船橋近くで少年は空を見上げている。日陰より見えるのは、砂海で遺物漁りをしていた頃からも、エフタ市内の狭い路地で駆け回っていた頃からも、まだ在りし故郷で父の背中から見上げた頃とも、まったく変わらない空。ただただ天高く、果てしがない青。
あれだけはずっと変わらないな。
クロウは蒼穹を見つめながら、そんなことをぼんやりと思う。
吸い込まれそうな程の深い世界。あまりにも広く雄大なそれを眺めている内に、少年の心にそこはかとない不安が忍び寄ってくる。それは存在するに明確な根拠がないが故に、不定形で輪郭があやふやなモノ。己の心が生み出す不可視の魔物ともいうべきそれが、クロウの心を揺らす。
結果、彼が心に付けている箍が緩み、ある思いが漏れ出てきた。
今、自分がしている事は、故郷を再興させることに繋がっているのだろうか?
これは普段、彼が考えないようにしている思い。歳を経て、幼き頃に自身が思い定めた目標を達成する難しさが判るようになってから、極力考えることを避けてきた現実である。
ゼル・セトラス域に限った事ではないが、甲殻蟲という脅威を抱える現状において、開拓地を拓く為には膨大な資金、多種多様な人材、多大な物資、更にはそれらを取りまとめる総合的な計画や将来的な展望が必要になる。が、どれもこれもそう易々と手に入れられるモノではない。否、はっきりと言えば、一個人で全てを揃えることは不可能に近い。特に、クロウのような孤児では……。
なにか一つだけでも持っていれば、また変わって来るんだろうな。
クロウの遠い視線が中空を彷徨う。
遠大な夢に対して、あまりにも小さな自分。それを自覚するが故に、少年の視線に力はない。
揺蕩うように情景を捉えていたそれが、パンタルの脚に行き当たった。
魔導機教習を修了した後、貰い受けた少年だけの機体。乗り始めてからまだ短い期間でしかないが、一介の孤児に過ぎなかった彼に力と立場を与えてくれる、なくてはならない存在だ。
己が力の源泉を見つめる内、ぼうとしていた思考に意思が宿り、クロウの目にも活力が戻ってくる。
彼は預けていた背を離して、機体と向き直る。
厚い装甲で覆われた姿は上半身が大きく膨らんでおり、全体的に見ると歪で決して見目良いものではない。はっきりと言ってしまえば、洗練された格好良さなどまったく見いだせない鈍重な印象である。だがしかし、彼にとっては頼れる武具であり、命を預けるに値する存在だ。
クロウは手を伸ばし、焼成材で作られた装甲にそっと触れた。日射で熱せられた表面からは少しばかりざらざらした感触が伝わってくる。そのまま撫でていると、最近になって取り付けた追加部品に至る。外脛側に付けられた装甲だ。
これは今回の仕事……アーウェル市に赴く商船の護衛を請けた後、世話になっている魔導機整備士エルティアと相談して取り付けた物。本来の役目以外に収納器としても使えることもあって、勧められたのだ。
今も装甲の内側……収納空間には非常用の水や携帯食料、応急治療器具、整備用工具といった物が収められており、いざという時の生存性を高めている。
これは本当にお買い得だった。
クロウがしみじみと思い返していると、自然、助言してくれた少女、エルティアより頼まれたことが頭に浮かんでくる。六日前、つまりは出発の前日、機体の最後点検が終わった後、彼女は申し訳なさそうな顔で少年にある願い事を告げたのだ。
その願いは二つ。一つはアーウェルの家族に近況を書いた手紙を届けて、自分の現状をクロウの口で伝えてほしいということ。もう一つは、クロウの目で自分の家族が今どのような状態にあるのかを見て、自分に教えてほしいということ。両者共に、彼女にとって、自分が信頼できる相手にしかできない頼みであった。
今更な事かもしれないが、クロウにはもう血の繋がった家族はいない。けれど、幼き頃の思い出もあって、家族を思う気持ちはしかと心に残り続けている。そう、失くしたからこそ家族という繋がりの大切さが身に染みているし、エルティアが家族を思う心情も理解できる。
いや、そういった背景のあるなしに関わらず、元より世話になっている相手の頼みなのだ。クロウが二つ返事で請け負ったのは言うまでもない。
折を見て、届けに行かないとな。
クロウが預かった手紙と、アーウェルは暮らす場所としては良い所ですよと強調していた少女のことを思い出していると、頭上より聞き覚えのある声が届いた。
「エンフリード」
呼び掛ける声を辿り、少年は顔を上げる。船橋の中階層にある外回廊より、彼を今回の仕事に誘った男、レイルが顔を覗かせていた。そのレイルはクロウが何かを言う前に視線で船橋の上部を指し示す。釣られて見やると、船橋より伸び立つ檣楼から見張りが進行方向から少し外れた場所を指差していた。
「ドライゼスの峰が見えたそうだ」
大砂海東端にある山脈の峰が見える。それはつまり、アーウェルまでの船旅に終わりが近づいてきたということである。クロウは頷いて、今後の予定について訊ねる。
「ウォートンさん、直はこのままで?」
「ああ、足を降ろして安全が確認されるまでは頼む」
「了解です。ここまで襲撃がなくて良かったですよ」
同輩の声を受けて、レイルの口元が微かに綻ぶ。
「そうだな。とはいえ、一番狙われやすいのは船足を落とし始めた段階だ。俺も灯台が見えた段階で備える」
クロウは耳にした言葉の意味を確認するように問いを発する。
「つまり、アーウェルの近くで事が起きると?」
「いや、アーウェル近郊で問題が起きることは、十中八九、ないとは思っている。が、一二の懸念が残る以上、備えを疎かにしたくない。今まで耳にした話を考えると、アーウェルの情勢は不安定だ。特に市軍の能力が落ちているそうだからな」
真顔での言葉。
クロウもこの旅路の中で聞いたアーウェルの状況……麻薬禍の影響で市軍の規律が悪くなっていることや市民と移民の軋轢が深まっていること、更には周辺域で賊党が跋扈していることを思うと、楽観するには些か不安である。そういった少年の心境を読み取ったかのように、年長の同期は続けた。
「なに、不安な要素がある以上は機兵らしく備える。いつも通りにするだけのことだ」
「確かに。しかし、アーウェルって、砂海東部域で一番の都市のはずなのになぁ」
「残念な話だが、今のアーウェルにそこまでの信用はないな」
クロウはレイルの厳しい言葉に苦く笑ったのだった。
* * *
クロウ達が最悪に備えて動き出した頃。
遠く離れたエフタ市において、金髪の少女が気の抜けた様子で溜め息をついた。
元より動きが悪かった手を止めて、筆記具を製図板の脇に置く。第四魔導技術開発室内の仕切られた空間は防音の魔術が効いている為、常と変わらず静かだ。けれど、その静けさは少女の塞いだ心を開くには役に立たないようで、再び溜め息。先よりもより重く深くなったそれに、彼女の身体は自然と猫背になる。背中を丸めてしょんぼりする姿。誰の目から見ても明らかに、落ち込んでいることがよくわかる姿であった。
「あーもー、シャノンちゃんー、いい加減に立ち直りなさいよー」
どこまでも落ち込んでいきそうな少女、シャノン・フィールズに苦言を呈したのは同じ机で実験器具を広げて何やら実験をしている緑髪の小人。旧文明期を生きた魔術師であり、魔導仕掛けの人形に魂を移された常識外の存在、ミソラだ。
小人は緑色の液体が入った実験器具から手を離すと、沈み切った目でこちらを見つめてくる少女に呆れた様子で言い募る。
「人間、誰にだって失敗することはあるんだからさー。そろそろ反省して次に活かすって、気持ちを入れ替えなさいよー」
「ですが、あんな……、あんな情けない姿を見せてしまうとは……、本当に、思ってもなかったんですよ」
「なら、ああいうのも愛嬌の一つだって思っときなさい。実際、クロウはそれほど気にした様子はなかったんだし」
「うぅ、それって、気にしなかったんじゃなくて、気にするのも面倒だと思われたんですよ。絶対そうです」
どうにも負の感情に振り回されているようで、一向に立ち直る気配がない。
ちなみに、シャノンが言う情けない姿を見せたのは大凡九日前のこと。それ以来、ずっとこの調子である。流石のミソラも半旬近い助手の失調に困った顔だ。
うーむ、どうしたものか。
そんな心持ちで腕組み。小人はお年頃の少女への処方箋を考える。
本来であれば、この程度の問題は酒に酔って失態を見せてしまった相手……赤髪の少年と二度三度といつも通りの触れ合いを重ねる内に、笑い話或いは大人な解決といった形で解決できることである。
ただ、今回ばかりは間が悪いというべきか、その対象である少年が護衛の仕事を請けて、エフタを離れてしまっている。しかも、聞いた予定では一節近くの期間だという。
そんな訳で、落ち込みに落ち込んだ現状から脱するには自力での再建、つまりはシャノンが自分で気持ちを上向かせる以外に方策がないのであるが……、それが上手くいかない。
無論、ミソラも先のように色々と口を出しているのではある。しかしながら、今の姿形になる前の年齢……二十歳になるかならないかだったことを考えると、魔術師としてならばともかく、人としての経験は少ない方である。故に、事の対処への明瞭な答えが見つからず、また経験に基づく効果的な助言も出せないのだ。
むぅ、出発前の準備で忙しいだろうと、変に遠慮をしたのが間違いだったか。
ミソラが七日程前に下した己の判断を悔いつつ、むむむと首どころか身体が傾げる程に考え込んでいると、唯一防音されていない出入口の扉より軽い打音。続いて声が入ってくる。所属する室員の声だ。
「おーい、室長さんよ、例の素材について、ちょっと相談してぇことがあるんだが」
「ん、わかった。先に休憩室に行っといて」
「わかった」
仕切りの向こうにあった気配が遠ざかる。それを確認した後、ミソラは表情を顰めながら髪を一掻き。それから、魔術師としての顔を表に出すと、際限なく沈んでいる少女に発破を掛けることにした。
「シャノンちゃん。今、あなたが設計しているのは何だった?」
「これは……」
「うん、試作を兼ねているけど、これはクロウの為に作っているものよ」
ミソラは製図版に目を向ける。直線や曲線、幾何学文様や魔術文字、更には注釈や注意事項といったモノで描き出された魔導器の設計図である。それをじっと見つめながら、はっきりとした声で続けた。
「シャノンちゃん、例の事故、まだ忘れていないでしょ?」
「う……」
少女が言葉に詰まった様子を見て、ミソラは肩から力を抜いて笑った。
「もうね、落ち込むなとか立ち直れとか、そんなことは言わないわ。……けど、今している仕事だけは疎かにしたら絶対に駄目。じゃないと、あなたはそれこそ、一生後悔する破目になるわよ?」
「は、はい」
小人の笑みの中にある静かな迫力。それに当てられて、シャノンはただ頷く事しかできない。
「うん、よろしい! じゃ、私は相談事を聞いてくるわ」
ミソラは背中に翡翠色に輝く翼を展開させると、出入り口の扉の上を飛び越えて行った。
翠の燐光を見送った少女はこれまでと毛色の異なる溜め息をついた後、肚と眦に力を込める。そして、歯を噛みしめて両手で自分の頬を二度三度と叩く。頬に痛みが広がり、じわりと熱くなる。
色々と考えるのは後回しにして、今は自分の仕事をしっかりしよう。
シャノンはへたっていた自分の心に喝を入れて、筆記具に手を伸ばした。
* * *
遠目にアーウェル市が確認されると、サザード号の中は入港に向けて騒がしくなった。
クロウも自身のパンタルに収まり、船首の監視所近くで不測の事態に備える。そんな彼の目にも船縁の向こう側にアーウェルの姿が見え始めた。もっとも、それは灯台と防御塔、それらの足元の市壁といった外郭である。街並みといえば、作りかけらしい市壁の間より見える貧民街と思しき場所だけだ。
クロウはエフタと似た様相の貧民街から、そのまま視線を流して周辺域へと注意を向ける。
四方で一番目立つモノ。アーウェルの向こう側、つまりは東側の遠景……赤茶色の中に微かに緑色が混じった山並みに目が吸い寄せられる。クロウにとっては目新しい砂海が途切れる場所。連なる峰々を眺めつつ、あれがドライゼス山系かと独りごちた。
なかなかに雄々しい威容からなんとか目を離して、今度は南北へと目を走らせる。廃墟や瓦礫の類はエフタ市周辺と比べると多くはなく、所々に点在しているだけだ。大地を覆う砂礫も心なしか少なく見える。いや、よくよく見れば、地面には草らしきモノが風に揺れている。もっとも、それらは目に優しい緑ではなく、枯れたような色合いだ。
ああ、ここは自分が知る場所とは違うのだと、遠く離れた地に来たのだと、少年は実感する。
と、俄かに推進器の時を刻む音が遅くなる。時を同じくして、クロウの身体に微かな感触が伝わってきた。船足を落とし始めたかと、周囲に目を向ける。考えの通り、流れる風景もゆっくりになっていく。
再びアーウェルに目を戻すと、先程よりも一段とその姿が大きく映る。中でも一番南側の市壁に立つ灯台が特に目立って大きい。
大凡三十リュートから四十リュートくらいかな。
クロウが目測で高さを計っていると、傍の監視所から声が掛かった。聞き覚えのある年若い声。五日に渡る船路の最中、天測の練習に付き合った、クロウとそう歳が離れていない船員だ。少し緊張しているようで、声音は硬い。
「エンフリード殿、ウォートン殿から防御塔や市壁上の動きにも注意してくれとの伝言です」
「了解です」
クロウは声に応えて、市壁の所々にある尖塔に注意を移す。
防御塔はエフタ市の物と似た造りのようで、高さは大凡二十から三十リュート程。赤褐色で成る一つ一つを目を凝らして見つめる。上部にある監視窓に人影が見えた。そのまま下に目を向けると、砲眼や銃眼と思しき場所が塞がれているのがわかった。
周辺に脅威はないみたいだと微かに安堵しつつ、今度は市壁の上にも視線を走らせる。こちらにはまったく人気がない。そのことに疑問を覚えながら、監視所に声を掛けた。
「ウォートンさんに、防御塔は監視有で砲眼は閉まったまま、市壁の上には人気がないと伝えてください」
「わかりました」
エフタなら一人二人は見張りが歩いているものなんだがと首を傾げつつ、周辺の監視を続ける。そして、いよいよ港湾に繋がる出入口が迫ってきた。クロウはこれが最後と両舷方向にもう一度、目を走らせる。
特に動くモノは見えない。
こうして機兵達が懸念していたような事態は起きないまま、サザード号は市壁の合間を抜けた。
高さ八リュート程の市壁に囲まれて、クロウの身体から少し力が抜ける。だが、緊張は解かずに港湾部を見渡す。
アーウェルの港はエフタ市のそれと比べると大凡にして三分の二程度の広さだ。
市街地と接する北側の岸壁には造船所や市軍艦隊の基地らしき建物、船を着ける為の突堤が並ぶ。また、岸壁に沿って走る道の向こう側には倉庫らしき大型建築が軒を連ねている。が、数や大きさはエフタ市の物ほどではない。一方、灯台がある南側には北側よりも短い岸壁と突堤、そう大きくない建物が幾つか見えた。
次に岸壁に接岸している魔導船の数であるが、市軍の艦艇を除くとエフタよりも遥かに少ない。北側の突堤にサザード号と同じビアーデン級が一隻と東方から来たと思しきロナー級貨物船が一隻、四隻程のラーグ級小型魔導船。また、南側の岸壁に三隻のバルド級が並んでいるだけだ。
この船の数と比例するように、岸壁で荷役をする者達の姿もほとんど見られず、突堤に備えられた起重機も動きがない。同様に市街地に至る通りにも人通りはなく、市門を通り抜ける荷車の類は数える程である。
寂れていて活気がない。
アーウェルの港湾区に対する、クロウの印象だった。
少年が第一印象を処理している間にも、船は接岸に向けて動き続ける。
船橋と灯台ないし港湾管理者との間でなんらかのやり取りがあったのか、サザード号は数ある突堤の一つへと更に速度を落として近づき始める。それに合わせるように船底より巻き上げていた砂煙が減って行き、微かな振動が足元から伝わってきた。ソリと砂礫とが擦れる音が徐々に大きくなっていく。
そして、船は突堤や岸壁から半リュートもない所で足を止めた。
接岸した後、数人の港湾管理者が自然な足取りで乗り込んできたことを確認すると、アーウェルは一応落ち着いているのだろうと判断して、クロウも緊張を解いた。
それから、このまま機体に乗って待つべきか、それとも降りて待機するべきかと考えていると、監視所より穏やかな声が聞こえてきた。監視所の責任者を務める中年船員の声だ。
「エンフリード殿、ウォートン殿から伝言です。直及び機内待機は終了。船橋に戻って来てほしいと」
「わかりました」
と応じた後、クロウは経験を積んだ船員に、アーウェルがどう見えるか聞いてみようと疑問を声に乗せた。
「アーウェルの様子、いつもと違いますか?」
「さて、管理事務所の連中に関しては普段通りに見えました。……しかし、港に停まっている船は、やはり少ない」
「周辺域に賊党が出没しているという話が響いているということですかね?」
「おそらくはそうでしょうな。後、市内で起きている揉め事からも多少なりとも影響を受けているかもしれません」
「となると、船の護衛をどうするか話した方が良いか」
クロウは参考になりましたと船員に礼を言った後、船橋に向かって歩き始めた。
ゆっくりと歩くパンタルの後姿を見送りながら、中年船員は小さく呟いた。
「歳は若くても、機兵は機兵だな」
「班長?」
「ああ、なんでもない。いつでも荷役できるように、準備に入るぞ」
その声を合図にしたかのように、船内から船員達が出てきて、荷役の準備を始める。クロウは作業の邪魔にならないように船縁を歩き続けていると、向かう先は船橋の真下で機体から降りようとしているレイルの姿を認めた。向こうもクロウに気が付いたようで、軽く手を上げる。
「こっちだ、エンフリード」
「お疲れ様です、ウォートンさん」
「ああ、お疲れ。……と言いたい所なんだが、早速、うちの女王様が組合の支部に顔を出すらしい。俺と一緒に護衛を頼めるか?」
「あー、それは別に構いませんけど、ここの警備はどうします?」
「その辺りは大丈夫のようだ」
甲板に立ったレイルは船橋側、つまりは南側を親指で指し示しながら続けた。
「南側の岸壁に三隻のバルド級があったのを見たか?」
「ええ、ありましたね」
「あれらは旅団の船だ。だから、ここで滅多なことは起きないだろう」
クロウも旅団の存在は知っている。砂海の航路と商船を守る為に組織された、組合連合会が有する実働部隊であると。故に納得した様に頷き、機体をレイル機の隣に並べた。
「護衛はすぐにですか?」
「ああ、どうやら向こうはそのつもりらしい」
クロウがパンタルの開口部を開くと、レイルの言う女王様ことフィオナ・ファルーレが数人の男達を引き連れて船橋から出てきた所であった。女商人の顔や雰囲気に余裕がない。
「レイルにエンフリード殿、準備は……」
「フィオナ、幾らなんでも、さすがに早過ぎる」
「む、君はそうは言うがね、この港の様相は私が想定していた以上に酷い。できるだけ早く状況を、生の情報を確認したいと思うことがいけないと言うのかい?」
「いけないことじゃない」
レイルは少しだけ困った顔で苦言を呈した。
「だが、誰もがフィオナと同じように動けるとは限らないんだ」
この言葉に、フィオナの後ろに控えていた三人の男達……営業、経理、船荷管理の担当者達はさり気なく首を縦に振った。それが見えていたかのように、フィオナが厳しい顔で後ろ髪を跳ねさせて背後を振り向く。若者と中年と初老、それぞれが素知らぬ顔で視線を逸らす。その様子に女商人は微かに片眉を動かすが、何も言わず、再びレイルに向き直る。
「では、後、どれ位待てばいい?」
「なに、すぐに準備できるさ」
そう告げながら、レイルは操縦席に収めてあった上着を羽織る。その頃にはクロウも甲板に降り立ち、同じく上着を羽織ろうとしていた。
そんな機兵達の姿に虚を衝かれ、フィオナの表情から焦りや凛々しさが抜ける。後に残るのは年相応の女の顔。己だけではなく船に乗り込む全員の生活を背負う商人ではない、一人の女としての顔。それに気が付き、フィオナは再び取り繕うように表情を元に戻す。それから少し拗ねた声で言った。
「まったく、君は人が悪い」
レイルは苦笑して返す。
「いつもの余裕がないように見えたからな」
別に意図してからかった訳じゃないぞ、更に続けて言うと、フィオナの背後に立つ部下達はニヤニヤと口元を緩める。女商人は気配でそれを悟ったのか、今度は大げさに天を仰ぎ、ふっと笑う。
「はぁ、か弱い雇主を弄んで喜ぶなんて、酷い連中がいたものだ」
一連のやり取りで普段の落ち着きを取り戻したフィオナに従い、クロウは他の面々と共にサザード号を降りていく。その間、少年は今回の雇主について考える。
雇用契約は終始事務的に終わったし、ここに来るまでの間もあまり話をする機会がなかったから、為人を把握し切れていない。それでも、若輩の自分に対しても機兵として敬意をもって接してくれるから、印象は良い。
ただ、共に過ごした時間や関係の深さを考えると、先にあったようなやり取りに参加することは無理だ。雇主と雇われ人の立場を保ち、仕事をしっかりと務め上げることが一番だろう。
こういった具合にクロウが己の立ち位置を再確認した所で、突堤の上に降り立った。五日ぶりに感じる盤石の大地に、少しだけほっとする。そんな彼の耳に、フィオナの聞き良い声が届く。
「バリー、いつも通りに人足と倉庫の手配をお願いする。私達は組合の支部に向かうから、なにか問題が起きた時は船長と相談して対処するように」
「わかりました」
初老の男はフィオナの指示に頷くと、倉庫群の一角にある建屋へと向かって行った。クロウ達もまた、歩き出したフィオナの後ろに続く。
突堤から岸壁沿って東西に走る道に入り、そのまま市門に至る道へ。クロウは舗装された道を歩きながら、興味を持って辺りを見回す。大抵の建物は代わり映えしないが、一つだけ変わったモノが見えた。市門から真っ直ぐに行った突堤、そこにあった地下へと向かう斜路だ。
あれは何かと思っていると、振り返っていたクロウに気が付いたのか、傍を歩く営業担当男が小声で教えてくれる。
「あれは南側の岸壁に繋がっているんですよ」
「へぇ、地下通路ですか」
感心した様に頷く。
それから市軍の屯所を右手に見ながら歩き続けると、市門が近づいてきた。幅六ルート程の門の脇に、南港湾門と銘された鉄板が埋め込まれている。この市門より両脇へと延びる街壁は外の物よりも低いようで、五リュート程の高さだ。門衛も立っているが緊張しているようには見えない。クロウ達も見咎められることなく門をくぐり抜けた。
通り抜けた先は広場であった。
大凡五十リュート四方のそこからは東西及び北へと街路が伸びている。北に向かう道は両脇に、東西に向か道には北側に、二階建てないし三階建ての建物がそれぞれ整然と並んでいる。だが、昼過ぎであるにもかかわらず、人通りはほとんどない。荷物曳のコドルや人足が荷を運んでいるだけである。
人通りが異常に少ないことを除けば、エフタとそう変わらない光景。けれども、北へと伸びた道の先に見慣れぬ建物があった。それは四つ辻に覆いかぶさるように建っている細長い塔。周囲の建物よりも一際高く、十リュート程。更によくよく見れば、それぞれの通りの交差点、そのほとんどにあるようだ。
再び若い男が教えてくれた。
「あれは風の塔です」
「風の塔?」
「はは、道すがら教えますよ」
笑みを含んだ声が遅れますよと続けたので、クロウは遅くなった足を速める。
先頭を行くフィオナは街の中心に向かう北の道には向かわずに、広場の片隅にある小さな建物へと向かう。どういうことかと首を傾げるクロウであったが、建物に近づいて理解した。それは地下に降りる為の出入り口であった。
幅三リュート程の降り階段からは風が吹き上がってくる。ひんやりとした風だ。中々の勢いに逆らって、一段一段降りる。そして、後ろから差し込む光陽の光より魔導灯の青い光がも強くなった頃、終点に辿り着いた。
「おぉ」
クロウの口から自然と声が漏れた。
階段を降りた先には高さは三リュート程、広さは大凡三十リュート四方の空間があった。天井に設えられた魔導灯が青白い光を放ち、暗さは微塵もない。また、外の熱気が嘘のように空気は涼しい。
少年は以前潜った事がある地下遺構を思い出しながら、辺りを見渡す。今いる場所は直上と同じく広場の役割を果たしているようで、東西及び北へと地下道が伸びている。そんな広場や道の中央には天井を支える為か、アーチを形成する石柱が等間隔で並んでいる。とはいえ、天井が高い上、道幅も五リュート近い為、それほど圧迫感はない。
地下道の出来に感心する少年であったが、それよりも彼の心を惹きつけるモノがあった。それは人通り。地上ではほとんど見かけなかった人々の往来である。休日の為か、それなりに人出があるようだ。数人の子ども達が駆けていけば、買い物かごを腕にぶら下げた女性達が通路の脇で立ち話している。恋人と思しき若い男女が腕を組んで歩き、中年の男達があーだこーだ言い合いながら通り過ぎる。
そんな人々の中にフィオナは戸惑いもなく入り込み、北に向かう通路へと向かっていく。
後に続いたクロウの耳には様々な音が入り込んでくる。
通りや横道から雑踏とざわめき、工業区に繋がる通りからは規則正しい機械音の響き、繁華街へと繋がる通りからは嬌声や笑い声、住宅区からは生活騒音と共に親が叱る声や子どもの泣き声。生の息吹とも言うべきそれらが、地下に溢れている。
クロウは殺伐とした状況を想像していただけに、なんとなくホッとする。しかしながら、寂れた港の様相を思い返して、市民と移民の対立や軋轢は表だって見えていないだけかもしれないと気を引き締め直す。
その最中、件の塔があると思しき場所、四つ辻に差し掛かった。
一目でただの辻ではないとわかる。
というのも、四本のアーチ柱で囲われた辻の中心。その天井部が直径三リュート程の円状にくり抜かれて、風と共に光陽の光が入り込んでいるのだ。その光の下には長椅子があり、老若男女が思い思いに腰かけて休んでいる。何故と思うも、辻に近づくと周辺の空気が一層ひんやりとしている。
「エンフリード殿、これが風の塔の正体です」
「光と風を地下に取り込む為、ですか」
「ええ、塔には風を冷やす仕組みがあるそうですよ」
若い男の説明に、なるほどなぁ、と感心しつつ、クロウは地下通路の先に注意を向ける。人々の合間を通して見た先、幾つかある辻には必ず外の光が差し込んでいた。
そのまま差し込む光の下に入り、上を見上げる。俄かに風が入り込んできた。エフタではまず味わえない、心地よい涼風だ。
「これは、確かに……、本当に気持ちいいですね」
「ええ、僕もここに初めて来た時は、そう思いましたよ」
クロウは同意を示すように頷いた後、この街出身の少女が住みよい街だと言っていたことに納得する。それから胸の内で、今みたいな不穏な話が聞こえてくる時よりも、もっと落ち着いた時に来てみたかったなと独語して歩き続けた。
* * *
アーウェル市の東。
市壁の外に移民街と呼ばれる場所がある。西側の貧民街が主にゼル・セトラス域の者達が住まうのに対して、東方の領邦よりこの地にやって来た者達が集住してできた街だ。とはいえ、見た目に関しては両者共に変わらない。ただ、周囲の建物より二回りは大きい光明神の教会が市壁寄りに立つことを除いては。
その教会の中、一番大きな部屋である礼拝堂で、白髪の男が跪き祈りを捧げている。その対象となっているのは、ガラス越しに輝く光陽だ。
強く差し込む陽射しの中、男は面に刻まれた皺に更なる深みを加えつつ、赤茶け色の衣服に染みを作りながら、それでも黙然と項垂れて祈り続けている。その姿は救済を求める聖者のようにも、贖いを求める罪人のようにも見えた。
初老の男の口から小さな声が漏れ出る。
「神よ、私の行いは……」
無意識に出てきた言葉であったようで、続きはない。
彼がこの地にやってきたのは十年程前のこと。
神の教えを拠り所に、人の心に安らぎを与えることが神に仕える者の役目であると愚直に信じ、結果、世俗入り混じる教会の現実に耐えきれずに故郷を捨て、この地に辿り着いたのだ。
以来、なんらかの理由で東方を離れ、大砂海の入口であるこの地にまで流れてきた者達の悩みを聞き、苦しみに寄り添い、時に共に喜び笑って生きてきた。
だが今、その生活は彼方へと消えてしまった。
男の悩み苦しむ心を表すかのように、眉間に皺が寄る。
苛まれる心は、自然、今現在の状況に至った経緯を彼に思い出させる。
かつての私がそうであったように、東方よりこの地に流れてきた者達はまずもって強すぎる光陽の日差しに驚く。次いで、自分達が住まう場所の守りの薄さに愕然とする。
そう、街壁の中で暮らしていた者達は市外で暮らすという現実に、外壁の外で暮らしていた者達は最低限の備えである外掘がないという事実に打ちのめされるのだ。
とはいえ、実際は都市に甲殻蟲が寄せてきた場合は市軍が対処に動く為、市壁の近くで暮らしてさえいれば、早々甲殻蟲に襲われることはない。だが、見知らぬ土地でそういったこともわからぬ内に、恐怖を抱くなという方が難しい。
であるからこそ、自分はここに住まう者達の意見を取りまとめ、アーウェル市政庁に市壁の拡張してほしいと要望を出した。
これに対する政庁側の返事は納得できるものであった。
市の担当者曰く、今期の工事は西側の拡張と決定している。だが、次期の拡張は東側を予定しているので、それまでは待ってほしい。待ってもらう代価という訳ではないが、広がった区域に住む者達に対しては安定した収入を得られるようになるまで、大凡十年は市税を半額にする予定である。しかし、市民権は市税を満額納めてからしか得られないので注意してほしい。
今、この時を我慢すれば、破格と言ってもよい程の、手放しで喜べる条件である。
しかし、大部分の者達がこれを良しとしなかった。彼らが求めていたのは、今すぐの対処、生活環境と安全の保障であって、いつになるかわからないような答えではなかったのだ。
そして、この頃からこの移民街はおかしくなり始めた。
アーウェル市側の返答に不満を抱いた者達が自らの身を守る為と称して、出身市や地域毎に互助組織と銘打って徒党を組むようになった。それと共に他者に乱暴な振る舞いを見せる者が増え始め、他人の稼ぎを奪うという非道な行いをする者まで現れた。
そういった行いは止めるようにと幾度も諭したが、返って来たのは罵声と暴力であった。
それから日を重ねる毎に、寄る辺なき者達が助け合っていた社会が暴力こそが物をいう社会へと変遷して行った。この流れに乗るかのように、徒党同士での争いが頻繁に起き、アーウェル市内で罪を犯す者が増えた。
当然、アーウェル市民は移民……否、移民街に住まう者達に不信を抱き、仕事に雇うことをしなくなり始めた。それに不満を持った者達が再び犯罪に走る。それを受けて、仕事で雇わなくなる。
こういった具合に負の連鎖が積み重なり、徐々に糧を得る手段が減じていった結果、移民街に見切りをつけた者達は、ある者は西側の貧民街へと移り、ある者は開拓地の人員募集に応じ、またある者は必死に働いて市民となった。
一方、移民街に残った者達は自分達がお前達を守ると喧伝する徒党に否応なく組み込まれていった。こうして大きくなった徒党は新たにやってくる移民達を更に吸収して大きくなり続けた。
そうして辿り着いた先である今、かつて移民達が肩を寄せ合って暮らしていた街はなくなってしまった。幾つかの有力な徒党が互いに睨み合いながら、合議によって支配する街へと変貌してしまったのだ。
男の組んだ手と力なく落ちる。
今の状況を考える度に、あなたも早くここから出た方が良いと言ってくれた者達の顔を思い出すのだ。しかしと、男は思い浮かんだ顔に反論するかのように、改めて心に思う。
しかし、この街から離れることは……、移民街に残らざるを得なかった者達、我が身を娼館に売って親を養う娘、犯罪に手を染めてでも生きようとする孤児、徒党に搾取されながらも一家を支える為に汗を流す男達を見捨てることはできなかった。
……否、これは自分に都合の良い、ただの言い訳か。
私は、この街が歪んでいく事を止められなかった。
ただ、そのことに悔やみ、執着し続けているだけの事だ。
先の事を考えることもできず、変化させる方策も見いだせないままに。
「……神よ」
呟いた男は項垂れていた頭を上げ、救いを求めるように光陽へと面を向ける。それは苦しみと悩み、なによりも無力感に覆われていた。
同じ頃、険しい表情をした男が小さく舌打ちした。
アーウェルの東市門。この移民街と市内とを結ぶ市門で実施されていた検問を通過した後、男は市の中心街に向かって歩いている。焼煉瓦で舗装された道の両脇は農耕地で、光陽の強い日差しに負けんと言わんばかりに青い麦が直立している。その力強い姿を昏い目で見つめながら、男は唾を吐く。風に揺れる姿が苛立たしかった。
故郷を放逐されたのが三年前、くそったれな場所から追い出されて清々した。徒党を組んだのが二年前、生活に困ってる連中を引き入れて移民街に一定の影響力を持つ事ができた。麻薬の販売に手を出したのが一年前、命しかない連中にも売りさばいて手駒を増やした。
しかし、今年に入ってから何もかもが徐々に上手くいかなくなってきた。
去年までは良かったんだと、中年の男はぎりりと奥歯を噛みしめながら考える。
市軍のろくでなしに目をつけ、女とクスリで籠絡。市門を閉める閉めないで揉め事を引き起こしている間に、市軍内に麻薬を広めて骨抜きを計り、市内に流通させる為の中継拠点も作った。この中継拠点の構築は前もって二十件ほど、住居を占拠をして市軍の対処能力を飽和させておいたから楽なモノだった。
後は金のない連中を末端にして、稼ぎ時の始まりだった。最初の稼ぎは少なかったが、厄介な大砂嵐が来た時から笑いが止まらなくなる程にに売れたものだった。
それが今はどうだ。
どこのどいつが動いたかまったくわからないまま、いつの間にか中継拠点が潰されて、詰めていた気の利く連中は移民街のど真ん中で躯を晒された。
骨抜きにしたろくでなしの部隊が東市門の担当から外れて、隙の見えない部隊が新しく詰めたかと思うと、検問を設置しやがった。ついでといわんばかりに、市内に入り込んでいた末端の連中も、住居を占拠していた連中も、どいつもこいつもが市軍に捕まって、全員が鉱山送りだ。
くそったれめ!
己が組織した徒党、その力を大いに削がれた男は荒んだ目で農耕地を走る水道橋を見上げる。石造りのそれは強固でそう簡単に揺るぎそうにない。それが気に入らない。
遠目に見える水道橋の大元、水揚げ風車を睨む。ゆっくりとだが確実に羽根を回す姿が目に映る。当たり前のように回る姿が癪にさわった。
しかし、男は荒れる感情を面に出さず、何を思ったのか顔を隠すように背中を丸めて歩き出す。その口元には下卑た笑みが湛えられている。
はは、市の連中がこの俺を排除しようってんなら、こっちも力で抗するだけだ。武器や魔導機はお前らだけが持ってるんじゃねぇってことを思い知らせてやる。
ああ、そうだ。
俺の徒党を、潰してくれた礼は必ず返す。
絶対に、ここを、この街を灰に戻してやる。
俯き笑う表情には獰猛さと嗜虐の色が滲み出て、醜く歪み切っていた。
中年の男が一人昏い感情に浸っている頃。
北岸壁で荷役に従事していた若い男が肩に担いでいた荷を下した。
「監督っ、これで最後っす!」
「おぅ、ご苦労! 今日はこれで仕舞いだ! ほれ、今日の給金だ!」
「あーざっす!」
若者は威勢の良い声で礼を言うと、差し出された給金を手に取る。四時間、身体を酷使しながら汗水流して働いて、三百五十ゴルダである。これが高いのか安いのかは人の判断それぞれであるが、若者には十分だったようで、満面の笑顔で頭を下げた。
その笑顔を認めた作業監督の男は少し申し訳なさそうな顔で告げた。
「すまんな、一年前はもう少し出せたんだが……」
「いえ、そんな! 今の状況で、移民の俺を雇ってもらってるだけでもありがたいっすよ!」
「いや、それでも本当にすまん。だが、もう少し耐えてくれ。後少しで、上に給金を上げることを説得できそうなんだ」
それを耳にして、若者は驚き、ついで嬉しそうに笑って再び礼を言った。本当に嬉しそうな笑顔に、監督も笑みを浮かべて頷いた。
そして、若者は監督の元を辞すと、仕事をしていた倉庫を離れて歩き出す。
その口元には笑みが浮かんでいる。だが、目には浮かんでいたはずの喜びの色はいつの間にか消えていた。
若者は人気のない道を歩きながら、静かに考える。
予想以上に組合の動きが早い。
アーウェルの状況が悪いと見るや、旅団の船隊を追加派遣してきた上、防諜部隊まで出張って来ている。お陰で市軍の態勢は立ち直りつつあるし、市内に入り込んだ麻薬販売網は全てを断ち切られ潰された。市軍にはまだ繋ぎが残っていると聞くが、それは大元を探る為に残した罠の類だろう。移民街に躯を晒して牽制と共に挑発を入れた事も考えると、実に厄介な相手だ。
以前、先々代達が砂海域にクスリを浸透させようとして失敗したのも納得できる。
若者はわざとらしく肩や頭を動かし、気分転換の為に身体の凝りを取る振りをしながら岸壁に立つ。それから、鋭い目で南側の岸壁を見据え、存分に旅団が保有するバルド級を観察する。
船首に連装砲が一門、両舷に連装機銃が二基、船尾に魔導機を収めた格納庫。どのような事態にもそれなりに対応できる、無駄のない武装。それが三隻。
まさに、この地に仇為すモノに睨みを利かし、時に鉄槌を下す番人といった所か。
若者が己が抱いた印象はそう間違っていないと考える。事実として、目の前で居座る旅団の増援が到着してしばらくすると、こちらが煽って調子づかせていた移民達の動きが著しく鈍化しているのだから。
額の汗を腕でぬぐう。
光陽の日差しに熱せられての物か、強敵を前にしての物かはわからない。
だが、若者はこの地を護る守護者に挑まなければならない。このアーウェルの力を削ぎ落した後、内部から掌握し、ゼル・セトラスへの足掛かりを手に入れる為。この砂海域全てを食い物にして、彼が属する領邦に繁栄をもたらす為に……。
そう、既に事は動き出している。彼の同胞はこの地に入り込んで周辺域を脅かしているし、このアーウェルの移民にも魔導機と武器、それに爆発物が渡っているのだ。
後は移民を燻らせつつ、動く機会を待つだけだ。
若者は近く訪れる時を思い、無表情のまま微かに震える。そして、表層を年若い移民の物に切り替えると、踵を返したのだった。




