一 砂海を往く者
赤髪の少年はぼんやりと少女を眺めていた。
明り取りから差し込む陽光と魔導灯の青白い光の下、真剣な表情で忙しそうに立ち働いている。
この少女、同じ孤児院出身者以外には同年代の友人がほぼいない少年にとって、貴重な話し相手だ。付け加えると、普段はあまり意識していないのではあるが、時折、その身体つきや立ち居振る舞いに、そこはかとなく女の色香を感じたりする異性でもある。
今も少女の動きから、己とは異なる身体を持っていることを認めて、なんとなく視線を逸らした。
その瞬間、少年の身体に強い衝動が湧き起こった。
身体の奥底より俄かに生じた生理反応。少年は唐突に訪れたその強烈な反応をやりすごそうと、身動ぎして対抗する。だが、その衝動は強まるばかりで、とどまることなく大きくなっていく。
それでも、彼は必死に我慢する。仮に人に見られた場合、特に視線の先にいる少女に見られた場合、あまりにもみっともない。そんな思いが少年に力を与える。そして、一度目の波をやり過ごし、二度目の大波を乗り切った。
だが、彼の抵抗もそこまでであった。
三度目に生じたむらむらとした衝動が、遂に彼の身体を不随意に動かした。耐えていた分だけ、その反動は大きかった。最早これまでと、少年も自らの枷を解放する。
「ふぁ~~ぁあ」
大きく仰け反り、大口を開けての大欠伸。
固まっていた筋肉が限界まで伸び、脳髄に解放感がどっと押し寄せてくる。それと同時に、なんともいえぬ脱力感が目尻の涙となって溜まっていく。そして気が付けば、両手も天高く伸び上げていた。
昨日は色々とあってほぼ徹夜になってしまい、夜明け直前に眠りについたのだ。昼過ぎまで寝て、湯浴みをしたとはいえ、やはり眠い。
少年は場所を忘れて、心身に満ち満ちた心地よい感覚に浸る。一頻りして手を降ろすと、彼の耳に笑みを含んだ声が届く。
「ふふ、クロウさん、寝不足ですか?」
赤髪の少年、クロウ・エンフリードは慌てて口を閉ざし、細めていた目を開けた。涙で滲んだ視界の中、眼鏡をかけた少女が休憩室の引き戸を後ろ手で閉めながら微笑んでいた。繋ぎ姿の少女、エルティア・ラファンだ。
みっともない姿を見られてしまったと気恥ずかしさを感じつつ、クロウはエルティアの問いかけに応じた。
「あ、あー、うん。ほら、昨日の夜、例の発掘の報酬を分配をした後、支部の酒場で遅くまで騒いでいたから、ちょっと寝不足なんだ」
彼が口にしたのは、昨晩、自分達が主催して開いた大宴会。
クロウ自身は酔いつぶれた金髪の少女と笑いが止まらなくなった小人を家に送り届ける為、夜半過ぎに引き上げたのだが、その頃でも宴はまだまだ盛況の態で終わる気配は見えなかった。その彼が抱いた感触は間違いではなく、実際、お開きになったのは空が白み始めた頃である。
話を戻して、いい塩梅に酔いの回った面々から、お持ち帰りか赤坊主、優しくしてやれよ、俺が代わってやろうか等々のからかいの言葉を受けながら、小人と少女を二人の家へと運び込んだ。そして、それからのことであるが……、先のからかいにあるような事態はまったくなかった。
なにしろ、背負って帰る時は背中越しに感じる柔らかく暖かな感触よりも耳元で漏れる苦しげな呻きにハラハラすれば、なんとか寝室の寝台に横たえた後も乙女の尊厳に関わるような事態が発生して、小人が元の調子に戻った夜明け近くまで、その対処に追われていたのだ。
まだ記憶に新しい出来事を思い出し、少年は口元に微かな苦笑いを浮かべる。それに気が付いているのかいないのか、エルティアは小首を傾げながら、自らが今朝方に目撃したことを口に出した。
「もしかして、トラスウェル広場で眠り込んでいた人達って……」
「多分、それの参加者だと思う」
「あれ全部ですか。その、結構、凄かったんですね」
エルティアは出勤途中に、広場で目の当たりにした光景を思い返す。
広場の隅で転がっている十数人程の男達。ほとんどの者がなにがしか酒瓶や酒杯といった物を抱え、また一部の者達は吐瀉物に塗れている。あまりにも無様で見れたものではなかった。
加えて、その身体から漂わせる酒臭さやすえた臭い。特に、あの独特のすえた臭いは駄目である。彼女も自身が整備士ということもあって、機械油や鉄錆、粉塵の臭いには慣れている。けれど、あれだけはどうしても慣れない。更に言えば、あんな風になるまで飲みたいという考え自体が理解できない。
自然、少女は目の前の少年を戒めるかのように告げた。
「クロウさん、お酒を飲むのは良いですけど、限度を超えて飲むような事はしないでくださいね?」
クロウは眼鏡の少女を見上げる。思いの外、鏡面の奥にある澄んだ緑瞳は真剣な物であった。故に、反論せずに頷いた。
「りょ、了解、気を付けるよ」
クロウの答え。けれど、エルティアは少年の目をじっと見つめたままだ。
整備の騒音が扉越しに伝わってくる総合支援施設の休憩室。その中で、壁掛け時計が遠慮がちに己が存在を訴える。
そんな健気な器械が十ほど時を刻んだ所で、少年は気恥ずかしさを覚え始める。肩口まである黒髪。薄褐色の肌に似合う澄んだ緑瞳はまっすぐで美しい。その上、彼女だけが持つ微かな薫りが鼻に届いたからだ。
もっとも、気恥ずかしさに耐えきれず、少年が目を逸らすよりも先に、少女が視線を逸らせた。そして、心なしか朱が入った頬を誤魔化そうとするかのように、やや慌てた風情で口を開いた。
「え、えっと、それで、相談したいことがあると主任から聞いたんですけど……」
「え、うん。いや、その、まとまった金が入ったから、整備に使う工具類を一通り揃えようかなと思って」
「工具を、ですか?」
「そう。昨日、マディスさんと話をしていたら、機兵でも魔導機を簡易補修したり、部品を交換したりできる位の知識と腕、道具は持っておけって言われてさ」
この言葉に、エルティアは先程までの色を消し、曇り顔で応じた。
「うーん、そういった重整備は、私達専門の整備士に任せてくれた方が安全なんですけど」
「俺もそう思う。実際、なにもかもを自分でやる必要なんてないし、自分でやるよりもティアに任せた方が安心できる。だけど、マディスさんが言うには、今のご時世、どういった事が起きるかわからねぇし、必ずしも整備士の支援を受けられる環境にいられるとは限らねぇからな、ってことらしいんだ」
クロウは世話になっている先達の口調を真似て告げると、少女は硬い口元を微かに緩める。
「確かに、整備士の支援が受けられない状況という想定だと、一理ありますね」
「うん、だから、最低限の工具を魔導機に積んどきたいんだ」
エルティアは少年の声を聞きながら小さく頷く。
だが、その内心は平穏とは程遠い。今し方、自身が口にしたように、クロウの言葉に理があることは認める。けれど、それを認めようとすると、自身の職分を奪われるかのような、或いは、少年との関係が削り取られるかのような感覚を覚えてしまうのだ。
その感覚は、自分自身を否定されるような寂寥にも、置き去りにされたような不安感にも似ていて、少女の胸と胸を締め付ける。
内々にて広がっていく氷塊は、同時に、彼女に自身の中で小さく芽生えていたある思いをより強く自覚させる。
私は、この人を支えていたい。
今以上に、この人から頼られる存在になりたい。
それは少年と出会ってから今日に至るまで、少しずつ大きくなってきた想い。魔導機整備に携わる者としての責任感と機兵を支える者としての矜持、一人の人としての信用と親愛、更には女としての思慕、或いは母性が複雑に混じり合った情であった。
眼鏡の少女は胸中で静かに揺蕩う思いをあやしながら、ゆっくりと首を縦に一振り。
「わかりました。そういうことでしたら相談に乗りますし、整備の方法も一通り教えます」
と言った後、エルティアは一呼吸。それから、自分の了承を得て表情を緩めた少年を見つめて続けた。
「けれど、約束してください。本格的な整備の訓練は私がいる場所ですることと、クロウさんが機体を整備するのは、あくまでも整備士の支援が受けられない状況下であることを」
「うん、それは約束する。……さっきも言ったけど、自分でやるよりティアに任せる方が確実に安全だって思ってるし、これからも頼りにさせてもらうよ。というかさ、マディスさんが言ったような状況になるなんて、可能な限り避けたいのが本音だよ」
クロウはそう告げた後、結局、機兵って奴はさ、ティアみたいに支えてくれる人がいないと十全に働けないのですよ、と、肩を竦めて軽く笑った。エルティアもまた、少年の軽口に微笑む。その何気ない言葉が、胸の内に宿っている熱を強くするのを感じながら。
自然、年若い少年少女の間の空気が柔らかくなり、軽く世間話をしてから相談へといった空気が醸成され始めた。
が、それは形になる前に崩されてしまう。
「おーい、エンフリード。なんか、お前さんに会いたいって奴が訪ねてきたんだが?」
揉み上げの長い整備主任の声。どこか気の抜けたそれに大いに出端を挫かれた気がした。それは二人共に似た思いを抱いたようで、互いの顔を見合せると揃って苦笑したのだった。
* * *
クロウが訪ねてきた相手に会うべく立ち上がった頃。
エフタ市中央地区に位置するゼル・セトラス大砂海域農水産通商鉱魔工業組合連合会……正式名称があまりにも長すぎて、通称である組合連合会の方が一般に浸透している一大組織の本部にて、幹部の一人であるセレス・シュタールが自身の執務室に来客を迎えていた。
「お久し振りです。以前、お会いしたのは三節程前でしたか」
そう述べながら、青髪の麗人は対面の応接椅子に座る相手を見る。
背筋をしっかりと伸ばして座っているのは彼女と同年代の女。艶のある明褐色の肌に汚れない白の上下、総髪にされた光沢のある長い黒髪、更には硬質な観の整った目鼻立ち。それら全てが歪みなく統合されて、女に凛とした雰囲気を与えている。
「ああ、それ位かな。……久し振りだね、セレス」
爽やかさを感じさせる声音で挨拶に応じると、凛然とした女は軽く口元を緩めた。女としての華やかさよりも人としての親しみが強い笑み。それに釣られて、セレスもまた口元に微笑みを湛えると語を紡いだ。
「ええ、本当に、お元気そうでなによりです。フィオナ」
「ふふ、私が元気なのは当然さ。継ぐべき実家を飛び出して、自分で選んだ仕事をしているからね」
フィオナと呼ばれた女は更に口元を柔らかくすると、楽しげな様子で続けた。
「あら、自分で選んだという点では、あなたも同じだと思うのだけど?」
「さて……、私の場合はそれしか考えられなかった、というべきかもしれません」
「でもそれは、あなたにとって他に目移りがしない程に大切なものだった、って言えるかもしれないじゃないか」
初めて出会った頃と変わらない、力強い前向きな言葉。
これはセレスにとって、涼風のようなモノ。
ゼル・セトラス大砂海域、ひいては他国他地域を含めた人類生存圏の情報を扱う役柄上、人の負……汚れた部分を直視することが多い彼女に清涼を与えてくれる貴重なモノである。
麗人は胸の内で清涼を感じながら、幼い頃より付き合いのある黒髪の女の声に応えた。
「まだ断言できる程の確信は持てませんが、できるだけそう思うことにします。……ところで、御実家の方には?」
「うん、家には昨日の内に顔を出しておいたよ。けど、相も変わらず、母は家に戻ってこい、結婚して孫を見せろの一点張りだからね。父様や弟はゆっくりしていけって言ってくれるけど、とてもゆっくりなんてできなかったよ」
「なるほど、目に浮かびますね」
眉根を下げての言葉に、セレスは納得を示すように頷く。
フィオナの実家はファルーレ商会という中堅の商会で、エフタ市のみならず、大砂海域でも相応に名の売れた存在だ。主に食料品や衣料品の類を扱っており、居を構えるエフタの他、ゼル・セトラス主要四都市……エル・ダルーク、ルヴィラ、アーウェル、ザルバーンに支店を設けている。
このファルーレ商会を経営する一家、商会の名ともなっているファルーレ家の第一子が、この黒髪の女、フィオナ・ファルーレだ。
彼女は会頭一家の長子として生まれて以来、幼少より商会の後継者になるべく、それに見合った教育を受けながら育った。つまり、そのまま順当に育っていけば、ファルーレ商会の後継者として、また、次代の主として、商会経営に差配を振るう。そんな未来が約束されていた。
ところがである。
どこでどう間違ってしまったのか、なぜにこうなってしまったのか、フィオナは後継者としての地位を辞退し、齢十六にて廃船寸前の商船を手に入れると、家族や周囲の反対を押し切って、ファルーレ商会から独り立ちしてしまったのだ。
その後、実家に戻って跡を継いでほしいという家族の願いとは裏腹に、彼女は持ち前の商才と太い肝っ玉を発揮。見事なまでに世間を渡り歩き、今では大砂海交易の主力であるビアーデン級貨物船を手に入れて、その主に収まってしまった。
結果、事ここに至ってしまっては致し方なしと、現会頭たる父は彼女に翻意を迫るのを断念。ファルーレ商会の後継者を第二子である弟に定めると同時に、フィオナには年に一度は家に顔を出すことを条件に独立を認めたのだ。
以降、フィオナは独立商船主として歩み続け、今現在も交易商としての地位を着実に築いている所である。
もっとも、かような経歴の体現者である彼女にしても、己が母を相手にするのは苦手なようで、どことなく疲れた顔で告げた。
「まったくだよ。まだ結婚する気はない、相手は自分で見つけるから大丈夫だって、なだめるのに苦労した」
「ですが……」
「ああ、うん。まぁ、このご時世だし、私がしている事を考えると、母がそう言いたくなるのはわかるよ」
普段はきりりとした顔に、嬉しさと煩わしさが入り混じった複雑な笑みが浮かぶ。肉親の情愛を受ける喜びと家族より独立した自負がそうさせるのだ。けれど、この表情はあまり余人に見せられたモノではないと、女商人は供されていた紅茶を口に含むことでそれを隠した。
そうして一息つくと、顔や声を元の調子に戻し、再び話し始める。
「でも、確かに客観的に見ると、女の身で商船主をして、多くの船乗り達と広い砂海を東西南北、時には他の地域まで行く訳だからね。母に心配するなという方が無理かもしれないな」
「そうですね。……特に船乗りは、ええ、我が兄の行状を鑑みると、小母様の不安を否定できない所です」
「まぁ、その辺に関しては、私なりに意識して自衛しているし、襲われる危険を減らす為にも船員達に寄港地での遊びを許しているから、懸念されるようなことになる可能性は低いと思う。……あぁ、それと、あなたのお兄さんに関しては大丈夫だと思うよ。本命と遊び、しっかりと分けられる人みたいだしね」
「本当に、そうだといいのですが……」
セレスにしては珍しい、表情に困った笑み。これは普段、他人に見せることがない顔である。
彼女は自分の兄は馬鹿な行いはしないと信用している。が、やはり人である以上、時に失敗することもある。そう、簡潔に言えば、兄は己と違って情に篤いので、時に女に溺れることもあるかもしれないと、心の奥底では微かな不安を抱いているのだ。
そういったセレスに心配を見抜いたのか、フィオナは少し表情を引き締めて告げる。
「セレス、そこは大目に見てあげなよ。……この荒れ果てた砂海を行き来するのはさ、時に辛い時がある」
セレスを見ているようでありながら、ここでない遠くを見つめる目。
女商人は砂海を航行する最中、時に感じることをゆっくりと言葉に変えていく。
「うん、なんというかね、廃墟や瓦礫の山々を見ていると、どうして、どうすれば、こんなことになるのかと考えて虚しさを感じたり、激しい寒暖の差で身体が疲れて精神まで沈んだり、旧文明期の人達が為した愚かさを呪わしく思ったり、大砂海や星空の大きさの前に自身の営みがとても矮小に思えたりしてね、こう、心が乾いてくるんだ。……本当にさ、あなたみたいな美しい華を愛でたくなるものだよ」
青髪の麗人は年上の友人の言葉から砂海を往く船乗り達の心情を垣間見る。同時に、それはきっと、自分で体感しなければ十全にはわからない想いだとも理解した。
けれど、そのことを口に出していうのは些か風情に欠けると思い、最後にさらりと付け加えられた殺し文句を使って言い返した。
「なるほど、そういうことならば、フィオナの船に乗る方達は幸せですね。常に癒しの華が傍にあるのですから」
「あらら、上手く返すようになったね」
「そういう言い回しが大好きな方々との交流が増えていますから」
「納得だ」
黒髪の交易商人は人の目を気にせずに束の間笑う。それをゆっくりと収めた後、名残惜しそうに続けた。
「うん、こうやって話をし続けるのも楽しいけれど、あなたの仕事を滞らせるのは本意ではないからね。雑談はこれ位にしておくよ」
「私としては、こうしてフィオナと話をしている方が楽しいのですが」
「ふふ、嬉しいお言葉だ。もし、それをあなたに言い寄ってくる男達に言ってあげればイチコロだろう」
「生憎と、そういった方には興味が薄いモノでして」
「世の男達の嘆きが聞こえてきそうだね。……さて、そろそろ、今日、私があなたを訪ねた用件を話したいと思う」
「伺いましょう」
フィオナは今日訪れた本来の目的を切り出すべく、態度を改めた。セレスもまた表情を引き締める。
ただそれだけのことであるにもかかわらず、柔らかかった部屋の空気は一変した。交渉の場に相応しいというべきか、緊張した雰囲気が漂い始める。
そして、微かな沈黙の後、フィオナは口火を切った。
「実は次の取引の為、アーウェルに向かう予定なのだけれど、どうにも現地の状況が不安定のようだからね、頼みにできる護衛が欲しいと考えている」
「ふむ……、それはつまり?」
「君が目を掛けている機兵を三旬程の間、貸してほしい」
セレスは己が気に掛けている機兵と聞き、真っ先に赤髪の少年が思い浮かんだ。
「クロウ・エンフリード殿のことですね?」
「うん、彼を護衛として借り受けたい」
至極、真剣な顔での願い。その色を崩さぬまま、フィオナは更にこうして話すに至った理由も述べる。
「エンフリード殿について経歴を調べたら、機兵になる時にあなたの後援を受けたことがわかったからね。これは声を掛ける前に、一言断らないと筋が通らないと思ったんだ」
なるほど、そういう理由かと納得しながら、セレスは女商人の求めに答えた。
「確かに彼の人が機兵になる為に後援はしました。けれど、それはある人から頼まれたが故の事です。ですから、私の方で彼の人が仕事を請ける事に対して特別な制限は設けていませんし、こちらから依頼を出したりすることもしていません」
今の所は、という続きの言葉は口に出さず、フィオナを見る。それを聞いて、女商人は少なからず当てが外れたような顔で軽く首を傾げた。
「あれ、そうなのかい? 彼がペラド・ソラールの機士と模擬戦をしたって聞いたから、私はてっきり愛の奴隷にしていると思っていたんだけど」
「どうすれば、そのような考え方に……、いえ、それ以前に、今までもそういった扱いをした方はいないのですが?」
「ふふ、冗談だよ。でも、あなたにしては珍しい事をしたから、エンフリード殿があなたのお気に入りだと思っていたのは本当」
「ならば、その点に関して、もう一度正しておきましょう。先にも言いましたが、彼を後援したのは、最近できた友人より頼まれたが故のことです」
年下の友人の口より出てきた、聞き捨てならぬ単語。自然、フィオナの目が好奇の色が宿る。だが、それは声として表に出る前に、麗人の声によって掻き消された。
「それと、模擬戦の件ですが、これは別口からの依頼を請けたそうです」
「ほうほう、あなた以外から話が行ったのか。……それは、なかなか面白い話だ」
女商人の声音に微かな喜色が混じる。
「そうですか?」
「うん。このゼル・セトラス域におけるペラド・ソラールの重要度を踏まえると、どんなことにしても、信を置ける人にしか任せられない。件のエンフリード殿にそういった話が来るという事は、彼があなた以外の、組合関係筋の誰かから相応の信用を得ているということになる。組合からの信用を持っているのは、私みたいな交易商人には嬉しい事さ」
いざという時に命を委ねる相手だからね、と続けた後、フィオナは更に言葉を重ねた。
「話を元に戻すけど、護衛の件、彼に話を持っていっていいんだね?」
「はい、私の方は構いません。……けれど、彼の人の名はどこで知ることに? まだ新人の域をでないはずですが?」
「最初に聞いたのは追加の護衛が欲しいと考えた時だね。今、私の護衛を務めてくれている機兵に、誰か伝手はないかと話を聞いたら、ここの教習所で同期だったという縁で推薦を受けたんだ」
「同期の方ですか」
「うん、東方の、ある領邦に行った時に出会ったんだけど、なかなかの逸材だと思ったから機兵になるのを支援したんだ」
セレスは先程のからかいの言葉が生まれた理由を察した。本来であれば、黙する方が良いのであろうが、彼女の口は意識せずに開いてしまった。
「つまり、その方はフィオナのお気に入りなのですね」
「あー、否定はしないよ。実際、わたしが命を預けるに足る良い男だしね」
軽く流されるというよりは、惚気のような答えが返ってきた。付け加えれば、微かに顔に赤みが差しているようにも見える。セレスは下手に突くと本題から逸れそうだと判断して、これ以上は触れずに話を進めた。
「では、その方からの推薦で?」
「いや、実際に頼もうと決断したのはエフタに着いた後。実際に、エンフリード殿の評判を集めてからだよ」
「彼の人の評判ですか。……そういったことを耳にする機会がないので、少し興味がありますね」
「あら、あなたがこういったことに興味を持つなんて珍しいね」
「以前、顔を合わせた時の印象から、人倫に背くようなことをする方ではないと確信はしています。ですが、世間一般の評判がどうなのかまでは知りませんので」
セレスの耳に入る情報は、各地の組合支部や旅団より届けられる様々な報告書を基本に、そこに暗部が探り出す機密や小石が拾ってくる噂や時事、更には親の世代より付き合い者達の話といったモノが加わる。その為、世情については広く浅く、特定分野は裏へ突き抜ける程に深くまでといった具合になるのだ。
「ふむ、意外と信用しているんだね」
「そうでなければ、いくら頼まれても後援はしません」
「なるほど、シュタールの信は安売りできないか」
この言葉に対しては麗人は口を閉ざして答えず。ただ話の続きを待った。
それを見て取ったフィオナはこれ以上の余計な事は口にせず、自分が得た情報を語り出す。
「ここを拠点にしている同業者の間だと、それなりに名が売れているといった所かな。指名してまでは使わないけど、募った時に来てくれたら採用するって感じ。で、次に市内の業者だけど、こちらはかなりの信用を得てるみたいだね。実家で聞いても名前を知っていたよ。できれば専属で仕事を頼みたいって所もあるって話だ」
軽く一呼吸入れて、女商人は続ける。
「後、最近、地下遺構の発掘に成功したって話も聞いたよ。どんなものかと思って、昨日、私も発掘された旧世紀の遺物を見に行ったけど、完品に近いモノばかりだったね。うん、あれは間違いなく高く売れる。私も商いたいと思ったくらいだ。だからこそ、セレスが後援しただけのことはあるなって納得していたのだけれど……」
「ええ、私はただ頼まれたことを果たしただけです」
セレスの平素と変わらぬ答えに、フィオナはみたいだねと応じた。
それからしばし間を置いた後、フィオナは年下の友人の目を見つめ、口を開きかける。けれども、そのまま閉ざして首を横に一振り。表情を柔らかくすると、ゆっくりと話し出す。
「そうか。うん、その新しい友人に興味が出て来たよ。アーウェルから戻ってきたら、紹介してもらいたいかな」
「ええ、先方にも話しておきます」
「頼むよ。あなたが友人と認める人ならば、仲良くなれそうだしね」
青髪の麗人は件の小人の姿を思い出し、目の前の友人と会わせたらどうなるか考える。答えはすぐに出た。
「間違いなく、仲良くなれるでしょうね」
そう告げた声音は、実に確信がこもっていた。
* * *
所戻して、総合支援施設。
魔導機関連の装備品販売や整備等の支援を行うこの施設には、その一画に飲食店が設けられている。営業時間は昼前の十六時から夜の三十時まで十四時間。夜食を求める魔導機整備士達に愛用されている他、港湾地区唯一の食事処ということもあり、昼夕の飯時には、荷役の人足や船乗り達で溢れかえる。
けれども、今はそれら盛り時の合間である昼中。遅めの昼食を取ったり一息入れに来たりした者達が若干いるだけである。
人気がなくて寂しいというよりは、どことなく落ち着いた雰囲気といえる店内。
そこでクロウは自分を訪ねてきた男と卓を囲んでいた。
「へぇ、デルラークまで行ってきたんですか」
「ああ、初めて五都市同盟に足を踏み入れたが、中々興味深いものだったよ」
無駄のない筋肉質な身体に浅黒い肌。力ある濃褐色の眼に精悍な顔立ち。女のみならず、男であっても目を引きつられる程に偉丈夫然とした黒髪の男は、クロウの声に応じると黒茶を口に運んだ。
この男の名はレイル・ウォートン。
クロウよりも四つ五つ年上であるが、魔導機教習所で共に汗を流した機兵教習の同期であり、魔導機搭乗免許を持つ公認機兵である。教習を修了した後は、機兵になる前に世話になったという商人の船に護衛として乗り込み、旅立っていった。
そんな彼が今日、クロウを訪ねてきたのは、件の商船が二日程前に休暇と荷役を兼ねてエフタに寄港した為。レイルもまた休暇を得たことで、この街に住む同期と交友するのも良いだろうと、近況報告や情報交換を兼ねて顔を見に来たのだ。
そして、再会の挨拶もそこそこに、今は互いの近況について話を始めた次第である。
口内を湿らせた偉丈夫は陶杯を卓に置き、自身が見聞してきたことを基に、ある考えを年下の同期に話して聞かせる。
「俺が知った限りだから絶対とはいえないが、東と西、それにこの砂海域を比べると、都市の造りに差があるみたいだ」
「地域で違うんですか?」
「ああ、この辺りは水気がない荒地であることに加えて、これといった弱点がないラティアが主に活動しているからな。防御塔や見張り塔を建てた高めの市壁で街を囲っているのが一般的だ。これが東方……俺が住んでいた領邦辺りだと変わる。あそこら辺はラティアよりもヴェガルやラーバスの方が目立つんだ」
ヴェガルは陸生系の甲殻蟲で、節足がない細長い線虫のような姿形をしている。腹以外の体表に厚い甲殻を纏っており、生半可な攻撃は通らない。口腔の開口範囲が非常に大きく、魔導機をも一呑みにしてしまう。
もう一方のラーバスも陸生系甲殻蟲で、五つの複眼に二対四本の細長い節足、毒針を備えた伸縮する下顎を持つ。身に纏う甲殻は薄く全体の線は細いが、その動きは早い。
クロウは座学で学んだ知識を思い出しながら、話の続きに耳を傾けた。
「だから、市壁の他に、街の外郭……耕作地を含んだ領域の周囲に幅四リュート以上、深さ三リュート程の空堀を造り、中に逆茂木や杭と言った障害物を設置する」
「なるほど、堀に落として動きを封じるのか」
「そういうことだ。登攀能力が高いラティア相手には使えない手段ではあるが、ヴェガルやラーバスには十分通用する。後、東方はドライゼス山脈に雨が降ることもあって、この地よりは水に恵まれている。この水が利用できる領邦ならば、堀は水堀になる。……とはいえ、漲溢が起きた時は連中の死骸で、堀は埋められてしまうがな」
少年がふむふむと頷いていると、レイルの話は西方の一大勢力である五都市同盟へと移る。
「これに対して五都市同盟だが、デルラークで聞いた話だと、あちらで出る蟲はここと同じでラティアが主だそうだ。西方とゼル・セトラス域との間に明確に分け隔てるものがないことを考えると、納得できる話ではある」
ここでレイルは小麦の堅焼棒を一齧り。クロウも同じく堅焼棒を手に取って齧る。それからしばし、食感と塩気を楽しんだ後、赤髪の少年は質問を声に乗せた。
「なら、市壁の造り自体はゼル・セトラス域と変わらないってことですか?」
「市壁の造りはほとんど一緒だ。ただ、西方も東方と同じく、ここ程には乾燥していない。だから、郊外に作物畑が広がっているし、その周囲に申し訳程度だが石垣がある」
この言葉に、クロウは以前の仕事で、開拓地に行った際に見た光景を思い出した。それとエフタ市とを組み合わせて、見知らぬ場所の幻像を作り上げる。
「一面に麦畑とかが広がっていたら、いい光景でしょうね」
「ああ、この地で生活すれば、その価値がわかるな。……ただ、あそこはラティア以外にダ・フェルペが出る」
まだ学んだ記憶が新しい為か、クロウの脳裏は直ぐにダ・フェルペの情報を思い浮かべる。
ダ・フェルペ。
一対の複眼と四対八本の節足、寸胴に四枚翼を持つ飛行型甲殻蟲で、「魔導船殺し」「甲殻弾」の呼び名で知られるダ・ルヴァの近似種とされている。だた、ダ・ルヴァが魔導船のような大物を狙うのに対して、こちらは主に人をはじめとした生き物を標的としている。その襲撃方法は低空を飛んで得物の上を取ると八本の節足で掻っ攫って捕食するというものである。
やっぱり空を飛ぶ奴は厄介だなと、少年が考えている間にも話は続く。
「その対策として、外郭の境界となる石垣に高さ五リュート程の鋼鉄の柱を一定間隔で建てて、その間に鉄条網を設置していた」
「それで引っ掛けて、空から引きずり落とす、ですか」
「ああ、羽根を潰せば連中の脅威はラティア以下に落ちる。……だが、この鉄条網はラティアには通じないらしい。なんでも、鋼鉄の柱を切って鉄条網を壊して入り込むそうだ」
これといった目立った特徴はないが、どのような環境にも適応し、状況にも合わせて対応する。それが陸生系甲殻蟲ラティアの最大の武器だ。
それを再確認したクロウはぼやく様に話し出す。
「ウォートンさん、ラティアって、何気に頭良いですよね」
「加えて、連中は俺達が想像している以上に組織だっている。数が揃うとかなり厄介だ」
少年は笑えない話だと思い、うんざりとした顔を見せる。
レイルはそれを見て微かに口元を緩めると、今度は自分の番だと、クロウに問いかけた。
「エンフリードの方はこの所、どうだなんだ?」
「俺の方は、時々、知り合いからに頼まれて仕事する以外、基本、エフタ中心ですね。主に組合を通して商船や工事の護衛と言った仕事を請けてます。あ、最近だと、指名して使ってくれる所もありますよ」
「ほう、順調そうで何よりだ」
レイルは陶杯を手に持ち、ゆっくりと傾ける。微かな苦味と共に喉を潤すと、先に仕入れていた情報について質した。
「ところで、仕事の内容に遺構の発掘が入っていなかったが、それはどうなんだ?」
つい先日、終了したばかりの取り組みを唐突に出されて、少年は苦笑する。
「その話、ウォートンさんの耳にも入ったんですか?」
「入ってきたぞ。ここに来た当日の内にな。だから俺も回収された品を見てきたんだが、結構な収穫だったみたいだな」
「あはは、あれはまぐれ当たりというか、手を借りた面々の力が凄かったというか……、まず、俺一人の力じゃ無理なことですよ」
「かもしれない。だが、それでも、それを為せるだけの面子を集められること自体、なかなかできないことだと思う」
クロウはレイルからの賞賛に、気恥ずかしげに目を逸らす。その様子に、レイルは今度こそ口元を綻ばせると更に訊ねた。
「それで、今後は発掘を続けるのか?」
「いえ。今回の発掘は元々は俺自身の……、グランサーとしての未練を解消する為にやったことなんです。だから、この先、自分が主導してすることはないと思います」
「そうか。……もしも、今の仕事をクビになったら、発掘に参加させてもらおうと思っていたんだがな」
明らかに冗談とわかる表情と声。クロウも笑って言う。
「その時は、ウォートンさんが主導してくださいよ。俺が参加させてもらいますから」
「はは、考えておこう」
そう答えた後、レイルは顎に手をやる。そして、きちんと髭の剃られた肌を撫でつつ、再び口を開いた。
「それで、今は何か仕事を請けているのか?」
「あー、今は請けてないです」
「そうか」
小さな呟き。それから一つ頷くと、レイルは表情を真面目なものに変えて、話を切り出した。
「エンフリード。実は次の仕事で、アーウェルに行くことになっているんだが……、もし俺の方、いや、雇用主から護衛の仕事を頼みたいと話があったら、請けてくれるか?」
クロウは一瞬き。ついで、話を理解する。
「商船の護衛ですか?」
「ああ。まだ確定とまではいっていないんだが、アーウェルの現状を考えると、そういう話になりそうなんだ」
この言葉に、赤髪の少年も頷く。彼もアーウェルが不穏な状況にある事を聞き及んでいるのだ。
レイルは年下の同期の表情からある程度の情報を得ていることを察して、改めて説明を繰り返した。
「まだ具体的な条件はできていない。が、俺も雇用主も安全が第一だと考えているからな。できれば信用できる戦力が欲しいと思っている」
「それで俺の都合を聞きたいと」
「ああ、いきなり話を持っていってもそっちの都合もあるだろうし、こっちにしても請けられるか否かを予め知っておくだけで、今後の予定が立てやすくなるからな」
クロウはこの先やろうとしていたこと……魔導機の整備練習と、もしかしたらあるかもしれない依頼とを天秤にかけた。機兵教練を共に越えた同期の頼みであり、信用できる戦力として自分に声を掛けてくれたという事実もあり、依頼を請ける方に傾いている。故に、彼は是とする答えを返した。
「今は特に仕事も請けてないから、手は空いています」
この返答に、レイルは安堵の色を見せた。
「そうか。なら、明日までに依頼するかどうか、依頼するなら雇用の条件をどうするかも含めて、雇用主と話を詰めてくる」
「わかりました。じゃあ明日……、どこで会います?」
「そうだな。組合の支部に……、二十九時で頼む」
「二十九時に、組合支部ですね」
クロウは確認の為に時間を繰り返した後、しっかりと頷いて了解を伝えた。
その後、二人の話は夕方の飯時まで、他の同期達の話や魔導機の個々の装備品に対する評価、クロウが関わった魔導銃の開発話、耳に入ってきた噂、件のアーウェル情勢といった話題で続けられることになる。
* * *
陽が傾いて夕刻。
セレスはつい先程届けられた報告書を執務机に置いた。
状況は小康状態、ですか。
青髪の麗人は報告書を見つめながら呟く。
それは大砂海西方域の要アーウェル市についてのもの。現地にて活動中の旅団第三遊撃船隊を指揮する実兄の手によって記された物であった。
彼女が知る兄らしく、修辞の類は挨拶である最初と最後の一文のみで、後は間違いようのない簡潔明瞭な表現でアーウェルと周辺地域の状況や生じている問題、更には自分が行っている対応等々が列記されている。
青髪の麗人は新たに得た情報の分析と適切な処理を見い出すべく、目を閉ざして沈思する。
悪化の一方であったアーウェルの治安状況に歯止めがかかった。
これは追加派遣された第三遊撃船隊が港に腰を据えて、市内外へと睨みを利かせ始めた為だ。やはり、無視しえない新たな武力の登場で、移民側の勢いが弱まったのが大きい。現に、港湾の封鎖や市門を破壊しようとする動きは表だっては見えなくなった。
また、彼女が増援として送り込んだ暗部の一隊が麻薬販売の中継点焙り出しに成功。その幾つかを潰した為、市内における流通量は目に見えて減り始めた。これに付随する形で、アーウェル市軍監察部が粛軍を敢行。麻薬中毒者や密売にかかわった者達を排除し、軍内に浸透し始めていた麻薬流通網を摘発。大本を探る為に残した一部を除いて、壊滅させている。
こうした働きが奏功し、市民生活に入り込んでいた不穏な空気は鎮静化の兆しが見え始めている。
次に周辺域であるが、現地に駐留していた第二遊撃船隊がアーウェル市軍に代わって、開拓地や郷への巡回を開始している。
アーウェル市の周辺域ひいては東部域は、かねてからの麻薬禍でアーウェル市軍艦隊の機能が低下し、巡回頻度が減っていたこともあって、開拓地の一つが蟲の一群に蹂躙されて壊滅状態に陥った他、他の郷でも蟲による襲撃が散発的に発生して人的被害が発生している。
また、残念なことに被害は甲殻蟲によるものだけでは済まなかった。遂に域内への賊党の侵入を許してしまったようで、流通の担い手である商船が襲われたのだ。今現在、セレスが把握しているだけで二隻の商船が沈められ、一隻が行方知れずとなっている。
商船という言葉からの連想で、昼間にここを訪れた顔が脳裏を微かに過ぎる。
それ故に、周辺域で発生した被害、特に後者の被害に対して、麗人は表情に薄い陰を落とした。
本来であれば、両者共に適正な手当てでもって抑えることができたものである。
特に後者のような人の手による災いは……。
そもそもの話、一所で全ての需要を賄えない今の時代において、魔導船航路が脅かされるのは非常に痛い。
いわずもがなであるが、航路の安全はそこを通る者達の命や積み荷の安全に直結する。もしも、商船の被害がこの先も発生した場合、商船乗りや商人達から安全が担保されていないと見なされて、西方域を行き来する船が目に見えて減ってしまう可能性が高い。つまり、西方域の物流が滞り始めることを意味する。
仮に、事がそこまでに至ってしまった場合、周辺域の経済活動に大きな影響を与えかねないし、日常生活への制限も生じてくるだろう。そしてなによりも、居住民の間で不安が生じて、社会自体が揺らぎかねない。
要するに、周辺域の状況がこの先どうなるかについては、第二遊撃船隊の働きに懸かっていると言っても過言ではないのだ。
もっとも、現実はそれだけで収まってはくれないようですが……。
セレスは心の内で呟くと薄目を開け、再び机上へと意識を向けた。
そこには実兄の報告書以外にも書類が束ねられている。昨日の夜、暗部の長が手ずから持ってきた、容易ならざる現実だ。
先にあるように、アーウェル市は市軍の体制立て直しを進めている。けれど、それは第三遊撃船隊が市に居座って小康状態を作り出し、第二遊撃船隊が周辺域を巡って負担を肩代わりしてのものである。
もしも、周辺域で第二遊撃船隊だけでは対処できない問題が発生し、第三遊撃船隊がアーウェル市を発った場合、市軍の立て直しは滞る。ついでに言えば、移民側への睨みが弱まり、今度こそ移民達が行動を起こすかもしれない。
……否、かもしれないではなく、確実に事が起きるであろう。
そう考えざるを得ない情報が暗部からの報告書にはっきりと書かれている。
それは以前、エフタで起きた一件に関わること。これを解決する過程で捕えた偽装商船長……ある領邦の工作員が吐き出した情報の中に、移民側に多数の武器と爆薬、更には複数の魔導機を供与したというものがあったのだ。
暗部が吐き出させた情報では、武器や爆薬の類がどれ程移民側に流れたのかまでは把握できていない。ただ届けられた報告書にも移民側が武器を手に入れたとの噂が流れていると記されていることから、一定量が流れたのは間違いないと見ている。
もう一方の魔導機であるが、これには情報源たる工作員が関わっていたことから、少し具体的な数がわかっている。移民側に渡った数は大凡十機。内訳としては、このゼル・セトラス域で手に入れやすい簡易魔導機ラストルが五機。東方領邦で運用されている魔導機ゴラネス一型は、一五型への更新によって民間に払い下げられた一四型が三機。そして、西方の一大勢力たる五都市同盟が開発し使用している魔導機ボルス・ディアが二機である。
これらについては現地組へと伝達が為されており、今少しすれば、より確度や精度の高い情報がもたらされるはずだ。
とはいえ、それらの情報は起きうるかもしれない事態に対処する為のもの。今現在、アーウェルが抱えている問題を解決に至らしめるものではない。
そう、事の発端であるアーウェル市での市民と移民との対立は、利害面に加えて双方の感情が絡んでしまっている為、その解決は容易ではない。
なにしろ、既存の社会体制を守り、従来の状態を維持したい市民側と、自分達の文化や社会の容認を求め、市民と同等の権利を求める移民側とでは、あまりにも隔たりが大きすぎる。妥協が見つかるのかも不透明だ。
しかも、この対立を、特に移民側を煽ろうとしている存在が見え隠れしている。このことを踏まえると、下手な刺激一つで流血の惨事へと移行することも十分ありえる。
仮にそういった事態となれば、両者の対立は決定的となり、問題の解決は更に遠のく。また、先の魔導船航路の件と同じく、周辺域にも影響が出てくるはずだ。
やはり、頼みとする存在が膝元の問題を解決できない姿を見聞きすれば、本当に必要な支援をしてくれるのだろうか、いざという時に頼りに出来るのだろうかと、不信や不安を抱いてしまうものである。
本当に、そういった状態に陥った場合、その負の感情の解消に多大な労力と時間がかかり、東部域の発展に大きな影響を及ぼしかねない。非常に忌々しきことである。
非常に面白くない想定に対して、麗人は秀麗な顔、その眉間に軽い皺を刻む。
すると、彼女の記憶は主を慰める為か、生前の父や親しい小父達が幼い彼女に告げた言葉を掘り起こしてきた。
人の世で起きる問題の解決は、一朝一夕でできるものではない。
まずは問題の本質を把握し、解決とする場所を定める。次に付随する諸々を分析し、解決に至るまでの過程を見い出して段階を設ける。それから、一つ一つの過程に対して適正に対処し、個々の段階の解決を積み重ねて、はじめて問題の解決とは成るものだ。
そう言葉を紡いだ彼らの口元は、どこか苦く、それでいて楽しそうな形を描いていた。故に憶えている。
もっとも、その一つ一つの過程への対処が必ずしも上手くいくとは限らないし、問題自体が変化してしまって想定した段階自体が変わってしまうこともある。なにしろ、人の世は……このような世界になったとしても複雑怪奇なモノであり、まことに面倒極まりないモノなのだから。
だから、問題の解決が目標としていた結果より外れてしまうことも多々起きうる。むしろ、思い通りにいかないのが当たり前であって、常に想定した最善が得られると考える方がおかしい。
結局の所、こういったことは腹を据えて、より良い方に辿り着くことを信じて、めげずに地道にやっていくしかないのさ。
脳裏に甦った笑い交じりの言葉。
それに対して、自分で思い出しておきながらではあるが、セレスの中に小さな反発心が顔を覗かせた。
それは重々にわかっていますが、時には問題を一刀で断ちたいと思うことはいけないのでしょうか?
本当に、もしも、そのようなことができる存在がいてくれれば、この身や財を捧げてでも……。
セレスは実りも益もない方向へと流れかけた思考を受けて、少し疲れているのかもしれないと軽く首を振る。それから気分転換の為に大きく深呼吸。肺腑の空気と共に気分を入れ替えると、ゼル・セトラス域や周辺国の状況を踏まえながら、今後のアーウェル市情勢への打つ手を見い出すべく、黙然と勘案を進めていくのだった。




