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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
5 技師は夢追いに猛る
40/96

三 禍福呼ぶ東風

 燦々たる陽光の下、若者は目を細めた。

 船縁に佇む彼の目に映るのは、遥か彼方にある地平線と果てしなく続く荒野。かつての文明の名残とも呼べる廃墟群と乾き切った砂礫が織り成す崩落の地。

 ここには彼が故郷で常々目にしている緑は見当たらない。空を覆い尽くす雨雲も、周囲をありのままに映し出す水面も、風のままに流れる白雲も、悠然と座する高き峰も、時々により色を変えていく大海も、何一つ。あるのは、赤と青。この二色を混ぜ合わせることなく、ただ一線で分けた寂びた世界だ。


 若者は身体に篭った熱を追い払うように、大きく息を吐き出す。


 故郷で多くの恵みをもたらす光陽は未だ体感したことがない程に猛々しく強い。今も若者の肌を容赦なく焼き、汗という形で身体から水分を奪い続けている。

 額から頬を伝って汗が落ちる。甲板で一度跳ねると、跡も残さず散じて消えた。それを目にした所、不意に、まだ今の時期の光陽は優しいとの案内人の言葉を思い出す。自然、盛陽を迎える頃はどのようになるのかと考え、眉を顰めた。


 そこに一陣の横風が吹き付ける。熱を帯びた風。含まれた砂塵が肌に張り付き、鉄錆びた臭いが鼻につく。遅れて、足元が震えるように揺れた。頼りない浮遊感が彼の中に入り込んでくる。

 しかし、彼の足は確と甲板に着いて離れず、上体も揺らぐことない。若々しい顔に動揺もなく、落ち着いている。


「流石と言うべきかな」


 そんな彼に声を掛ける者がいた。若者は聞き覚えのある声に振り返る。故郷で身分の高い者……貴族が身に着ける緋色の外套が目に入る。ついで、白い物が混じった黒髪の下、切れ長の鋭い目を認めた。


「トゥーラン閣下」


 予期せぬ上役の登場に、若者は思わず背筋を伸ばす。一方、トゥーランと呼ばれた中年男は鷹揚に頷いて見せた。


「楽にしていい」


 その言葉に従って若者が少し楽な姿勢を取ると、トゥーランは鋭い目と口髭を湛えた口元を緩ませて話し出す。


「シルドラ卿、今まであまり話す機会はなかったが……、ふふ、並み居る機士を退けて、齢十五でこの使節団の護衛に抜擢されただけあるな」

「恐縮です」


 口髭の貴族はシルドラ卿と呼んだ若者にゆっくり歩み寄り、その隣に立つ。両者の身長差は然程の物ではない。しばし肩を並べて、荒れ果て乾き切った大地を見やった後、トゥーランは口を開いた。


「大砂海。前任者から凄いものだと聞いていたが、実際に来てみると納得の光景だ」

「はい、見ると聞くは大違いだと思っていました」

「ああ、この地に入ってより早や四日。目にする景観はほとんど変わらぬ。まったくもって、我らが知る大東洋の如く広大であるな」


 そう言ってから目を眇め、天の恒星を仰ぐ。


「加えて、光陽の輝きは強く、陽射しも荒々しい。我らが住まう地、アドロスの島々は雨が多すぎて苦労することが多いが……、この地と比べれば格段に優しいのだと実感できる」


 トゥーランは視線を横に立つ若者に戻す。それから年長者らしい余裕を持った顔で告げた。


「この地に根を張って生きること、我らには想像できぬ苦労があろう。この先、この地の者達と話をする際は、その点を留意するようにな」

「はっ、心得ました」


 彼らが属する都市ペラド・ソラールより、ゼル・セトラス組合連合会との交易交渉と航路防衛協議の任を与えられた使節団。その長からの直々の言葉に、若者は表情を引き締めて答えを返した。



  * * *



「クロウさん、点検整備の結果ですけど、これといった問題は特にありませんでした。蓄魔器と魔力伝達管は正常に稼働していますし、魔力量も十全(満タン)の状態です。油圧系にも油漏れや汚れはなかったです。骨格部に歪みは見当たりませんし、主要部の剛性検査も合格です。各関節部の摩耗も規定値の許容範囲内で収まってます。被膜も破れていませんでした。操縦系の配線に異常はないです。少し前に換装した空調系も冷媒漏れといった不具合は起きていません。記録値を見るに、復魔器との適合も上手くいっています」


 整備の騒音の中、一息で続いた結果報告に赤髪の少年は頷く。それを認めると、説明している眼鏡の少女は更に続けた。


「後、頼まれていた格納装備を背部に取り付けました。注文の通り、砲弾運搬用の頑丈な物を流用して作りましたけど、これで良かったんですよね?」

「うん、それで合ってる。ほんと、面倒な注文を受けてくれて助かったよ。ありがとう、ティア」


 機兵服姿のクロウが礼を言う。すると、機体整備を担当した魔導機整備士ことエルティア・ラファンが照れで頬を染めて微笑んだ。


 クロウとエルティア。

 この二人の関係がほんの少し変化したのは、魔導機の空調機器買い替えを進める最中のことである。

 それなりに付き合いも長くなったし、いい加減に他人行儀なのは止めようと、クロウが提案して、互いに名前で呼び合うようになったのだ。

 もっとも、エルティアからの願いで、クロウからの呼び方は彼女の愛称であるティアである。エルティアよりもこっちの方が呼びやすいでしょうから、という説明であったが、それだけが理由なのかはわからない。別の答えがあるか否か、知っているのは当人のみである。


 そういった人の機微はさておいて、クロウは整備が終わった自機を見上げる。

 懸架に支えられた機体はパンタル系列機の色、赤錆色の焼成材装甲で覆われている。常と変わらず、胴回りの太い鈍重な外観だ。しかし、その重量感は同時に力強さを生み出し、頼もしい雰囲気を漂わせている。

 もっとも、今はその背中一杯に金属製の大箱を背負っている為、重々しさが倍増している。加えて言えば、大箱が妙に生活臭を醸し出しており、いつも以上に見栄えが悪い。

 けれども、搭乗者たる少年はそういった見目を特に気にしていないのか、より重要だと考えている事を口に出した。


「機体の重心や均衡(バランス)に変化はある?」

「はい、背部重量の増加によって重心がやや高めの少し後方に移っています。それに伴って全体の均衡も変わっているはずですから、慣れるまで意識してくださいね」

「了解。慣らしをしてから外に出るようにするよ。……ああっと、代金の事なんだけど、格納装備の分だけは分けて領収書貰えるかな。もちろん、ティアの技術料と改造費込みで」

「ふふ、わかりました」


 エルティアはクロウの言葉に楽しげに頷くと、整備場の隅にある受付台へと領収書を作りに行った。その後ろ姿……なんとなく大きなお尻に視線をやって見送っていると……。


「へぇほぉふぅーん。なぁーんかさぁ、前より仲良さげねぇ」

「ぬほぉあぁーーー!」


 唐突に耳元で声を掛けられた。


 クロウは驚きのあまり奇声を上げて飛び上がる。それに続く形で、聞き馴染んだ声音による哄笑が響く。


「あははははははっ! クロウ、あんた、驚き過ぎぃ!」

「おまえなっ! 気配もなく、いきなり耳元で囁かれたら驚くに決まってるだろうがっ!」


 クロウが目を怒らせて振り返り、付き合いが深い小人を視界に捉える。


「そーですよねー。おどろきますよねー」


 前に、金髪の少女のどこか冷たい視線とぶつかり、急速に怒りが萎えた。

 

「えー、ええっと、シャノンさん、こんにちは。今日は風が弱い日で助かったね」

「ええ、こんにちは、クロウ君。確かに、風の吹き方が弱いので良かったです。今回もよろしくお願いしますね」


 量販品である赤錆色の外套をまとったシャノンがにこりといつもと同じように笑う。が、何故だか漂う雰囲気が怖い。クロウはシャノンの様子に戸惑い、直近のミソラに目を移す。小人の口元はニヤけていた。


 その様子に微かな不快感を抱きながら、これはいったい何事だと、少年が訳が分からずに困惑半分で考える。すると、怖い雰囲気をまき散らしていた当のシャノンが一つ大きく深呼吸。途端に圧迫感に似た何かが霧散した。


「それで、クロウ君、機体の準備は終わったんですか?」

「あ、うん。今から引き渡してもらう所で、領収書を書いてもらってるんだ」

「そうですか」


 魔導士の少女は言葉少なに応じると、奥に見える同年代の少女に目を移す。件の人物は騒音に紛れてミソラの笑い声が聞こえなかったのか、新たな来訪者に気付くことなく計算機を確認しながら領収書を書いていた。

 その後ろ姿を見て、シャノンは内心で溜め息をつく。自分と同世代の少女の、その繋ぎに包まれた肢体は女性らしい丸みと艶を感じさせる。少年と間違えられる程に線が細い彼女から見て、実に羨ましいと感じるに足る身体つきであった。


 胸に小さな嫉妬を抱えつつ、静かにエルティアを見つめるシャノン。


 これを良い機会と見た少年が極めて声音を絞り、自分の前に浮かぶ小人に問いかけた。


「なぁ、シャノンさん、もしかして旬毎の事情か?」

「……シャノンちゃんに、面と向かって聞かなかったことは褒めたげる」

「いや、そりゃ当たり前だろ。で、答えは?」

「さーてなんだろうかなー」

「おい」

「んふふぅ、おねーさんはいじわるでへんくつなので、教えませーん」


 クロウは微かに口元を引き攣らせ、細めた目で睨んで不満を表す。されど、小人はどこ吹く風。否、それどころか、楽しげな風情である。

 クロウとしては答えないという理由もだが、どこか優越感を漂わせる表情にも苛立ちを覚えるざるをえない。なにしろ、小人の顔は人の神経を逆なでする得意げな(どや)顔なのだ。

 そんな訳で、ここは一つ何かガツンと言ってやろうと少年が口を開きかける。だが、その前にエルティアが戻ってきた。見知った顔が増えているので、嬉しそうな声での挨拶付である。


「フィールズさん、ミソラさん、こんにちは!」

「こんにちは、ラファンさん」

「はーい、こんにちは、あなたも元気そうね」

「はい! 私、身体が頑丈なのが取り柄ですから!」

「それはいいことね。……って、まだ機体の引き渡しの途中なんでしょ? 私達との話は後にして、まずはクロウとの話を進めてくれるかしら」

「わかりました!」


 同世代の女子に会えたということもあってか、エルティアの声はいつもより弾んでいた。



 代金の支払いと機体の受け取り、おまけにちょっとした雑談を終えると、クロウ達は機兵長屋の脇にある空き地へとやってきた。この空き地は元々長屋の敷地として確保されているのだが、住みつく機兵が一定人数以上に増えない為、家屋の建設が先送りされる場所だ。

 とはいえ、これはこれで使いようがある。居住する機兵達が鍛錬したり、パンタルの慣らしをしたりといった具合に利用しているのだ。


 今もミソラ達三人が見守る中、クロウが機体の慣らしを始めた。

 真剣な面持ちで足と制御籠手を動かし、背中に感じる重みと諸動作に付随する違和感を確認していく。基本的な動作から移動、警戒態勢、攻撃姿勢、攻撃に係る一連の運動、咄嗟の回避行動。このクロウの動きに応え、パンタルは動き続ける。


「おー、間近でみると、これはなかなか」

「ええ、迫力がありますね」


 ミソラとシャノンが直近で見る魔導機の力感に感嘆の声を漏らす。

 残りのもう一人、実際に機体の動きを見聞きして調子を確かめて来いと、お節介な整備主任から追い出されたエルティアは機体の動きに目を配り、そこから発せられる様々な音に耳を傾ける。


 関節が静音を発して曲がり、油圧が微かな音と共に動きを為す力を与える。生み出された力強い動作を骨格が支えて軋む。装甲が微かに擦れ合う短い擦過音。踏み込んだ脚が地を響かせ、振り抜いた大鉄槌が低い音を立てて風を切る。機体内で生じ、復魔器で処理しきれなかった熱が腰部排気口より吐き出され、周辺の空気が揺らめく。


 それから五分。傍から見ていて、あまり変わり映えしない動きが続く。


 けれども、機体の様子をじっと注視していたエルティアには、クロウの動きが少しずつ修正されていくのがわかった。

 重心の把握から始まり、均衡の保ち方、足の運び方、腕の動かし方、武器の振るい方、流れるような連続攻撃、全てを使った咄嗟運動。順を追って一つずつ丁寧に、機体を自身に馴染ませるように、或いは自身を機体に馴染ませるように、繰り返し繰り返し。


 この慣熟作業を見ている内に、エルティアは自分を指導してくれた老整備士達が指導する傍らで語った言葉を思い出した。


 機体は決して嘘をつかない。

 日常の整備を怠っていれば、間接部材の摩耗が早くなる。為すがままに楽を求めれば、操縦系に癖が出る。無理な動きを重ねれば、装甲が削れて骨格に歪みが起きる。荒々しい乗り方をすれば、油圧系は漏れ出た油に塗れる。

 全ての結果に理由があり、全ての理由に原因がある。整備士は機体の状態を丁寧に見取っていく事が出来れば、時々の状況や機兵の乗り方を把握できるようになる。いや、機兵の乗り方どころか、人柄や思考、更にはその本質も見通せるのだ、と。


 老整備士達が笑いながら言ったこと、それはエルティアには未だ遠い境地である。だけれども、今、彼女はそこに繋がる一端を、クロウの粗削りな演武に垣間見ている気がした。


 クロウの中から違和感がなくなるまで、更に十分程。エルティアは一時も目を離すことなく、最後まで見届けたのだった。



 仕事に戻るエルティアと別れると、クロウ達三人はその足で市外へと向かう。

 言うまでもないことであるが、遊びに出る訳ではない。クロウとミソラが邂逅した場所、十九番遺構に潜る為である。

 では、何故、再び遺構に潜るのかということになるのだが、これは半年程前にミソラが組合連合会に持ちかけた取引……約定が関係する。


 当時、魔導人形として新たな生を得たミソラは自身の所縁を失った状況であった。

 これを踏まえた上で、自分が旧文明期を知る魔術師であることや身体に使われている素体の希少性から、ミソラは自らの身が狙われる危険性が高いと考えるに至った。

 ならばということで、ミソラは己の自由を確保すべく、先手を打って相応に権力を有する組織の庇護を欲し、結果、ゼル・セトラス域で広範な影響力を持つ組合連合会にその役を見い出した。

 そして、ミソラと組合連合会との間で話し合いの場が設けられ、先に述べた約定……ミソラは組合連合会からの庇護を得る、その代価として、ミソラが所有権を持つ旧時代の書物を組合連合会に譲る、という合意が交わされることになる。

 とはいえ、この約が交わされた頃は、ミソラと組合連合会、それぞれが相手に対する信用がない状態であった。

 その為、双方共に相互の信用を醸成する期間が必要だろうという結論に至り、書物の譲渡を二回に分けるとされた。一回目は無条件で蔵書の半分を、残りの半分はミソラが組合連合会を信用できると判断できれば、という条件付きである。


 それから半年を経た今。

 ミソラが今の世を見て取って、旧時代の知識の必要性を認め、また今現在に生を受けた者達との会話や問答を重ねて、組合連合会に一定の信を置いたことから、まだ遺構に残されている書物を引き揚げることになった次第である。


 話を戻して。

 クロウ達が港湾開口部より市外に出ようとすると、灯台の足元で防御陣地の撤去が進められているのが見えた。作業用魔導機ラストルが簡易防壁を引っ張り倒して、中に詰まった砂を大地に返し、陣地から取り外された資材を運搬用の荷車に乗せている。


 そんな工事現場を傍目に、クロウのパンタルが先導する形で市壁沿いに北へと向かう。その後にゴーグルを着けたシャノン。彼女の肩に座っていたミソラが今し方目にした光景に感心しながら呟く。


「さっきの現場でも働いていたけど、結構、魔導機って使われているわねぇ」

「専用の建機には負けますけど、汎用建機として考えると使い勝手は良いですから」

「場合によっては、俺もああやって働いてたかもなぁ」


 シャノンにクロウ、それぞれがミソラの言に感想を返した。そして、ミソラが口を開くよりも早く、少年が続けた。


「そうそう、今更かもしれないけど、予定を狂わせて悪かったな、ミソラ」

「それって、今日の事?」

「ああ」


 伝声管越しに、クロウの神妙な声。

 実の所、当初の予定では大砂嵐(ゼル・ルディーラ)が去った直後に本を回収しに行く計画だったのだ。けれども、クロウが周辺開拓地を行き来する輸送船の護衛で忙しかったこともあり、ずれこんで今日、第三旬の最終日(二十日)に延期されていた。


 ミソラは軽く肩を竦めると、遠くにある地平線を眺めながら、特に気にした風もなく答えた。


「そんなの別に気にしなくてもいいわよ。私の方は緊急性がないし。というか、クロウは駆け出しで名前を売り出し始めたばかりなんだし、一度仕事を受けた相手からご指名で仕事を頼まれたとなると、断るなんてできないでしょう?」

「正直、今後を考えると断れなかった」

「でしょ。ま、新人であるあんたの立場が弱いことはわかってるから、その辺はこっちが引いたげる。あ、でも、また開発室の方でお願い事がある時は、絶対に、受けてちょうだいね」


 小人はパンタルを見つめながら、絶対という言葉に力を込める。クロウはそこから貴重な実験台は逃さないとの意を汲み取って、大いに顔を顰めた。結構な割合で酷い目に合っている彼の本音としては、実験に参加するのはもう勘弁、である。


 その心情が表層に上がってきたのか、応じた少年の声は渋い。


「それは、絶対に、か?」

「ええ、絶対に、お願い」


 お願いと口にするが、冠に絶対が付く段階でおかしい。けれど、言った小人は晴れやかな顔での断言である。


 勢い押されているクロウであるが、それでも尚、抵抗を試みる。


「……なぁ、それ以外のさ、別の形でってのは?」

「まさかっ! 私が困ってる時に助けてくれないなんてっ! おねーさんが知ってるクロウなら、そんな薄情はしないわよねぇ?」


 言葉の裏に、私は助けてあげてるのになぁ、と仄めかす。恩がある事を思い出させることで、相手を縛る。律義な面がある少年を逃さない為の戦略であった。

 事実、クロウはミソラに助けてもらっている事実を思い出し、言葉に詰まる。なんとか反論を試みようと頭を回すも、不義理な真似はできないとの思いが湧き起こり、結果、これ以上の抵抗は不可能だと諦めた。


「くっ、わかったよ」

「うふふー、クロウならそう言ってくれるって信じてたわぁ」

「ったく、どの口で言いやがる」

「ぬふふ、このくちぃ」


 相手への気安さからか、思わずクロウの口調が乱れる。もっとも、ミソラもそう変わりはない。そんな二人のやり取りを羨み半分呆れ半分で聞いていた少女が口を挟んだ。


「あのー、ところで、ですね。今は、一応、市壁の外にいるんですから、もう少し緊張感をですね」

「う、ごめん。護衛としてついてきてるのに」

「あ、いえ、これはクロウ君だけに言っているわけではなくて、その……」

「まま、シャノンちゃん、あまり堅苦しい事は言わない言わない。ほら、三日四日前に、市軍が周辺を巡回して駆除したって言ってたじゃない」


 ミソラが言った通り、四日前にエフタ市軍の機兵隊が市周辺域を巡って、うろついていたラティアを駆除している。その為か、周辺の荒野や廃墟群、その遠景の中にグランサーらしき影が目立って多い。小人にもそれが見えているのだろう、少しばかり悪ぶった声で嘯いた。


「だいたいさ、もしも蟲が出てきたらさ、すぐわかるわよ。周りにある人影がばっと散って逃げ回るんだから」

「おまえ、それは笑えん冗句だ。俺もあの中の一人だったんだぞ」

「そうですよ、不謹慎です」


 確かな事実ではあるが、クロウにとっては笑えない話である。彼も機兵になる前はグランサーをしていただけに、生身で蟲に遭遇した時の恐ろしさは身に染みているのだ。それだけに、クロウの苦言は続いた。


「グランサーってのはな、蟲がいつ何時出るかわからないから、一時も気が抜けないんだ。しかも、全身が沸騰するような暑さ。売れそうな遺物を探すのが一苦労なら、瓦礫の中から掘り出すのは重労働。冗談抜きで稼ぐのは命懸け。頼むから簡単に蟲が出るとか言ってくれるなって」

「むぅ、けど、本当の事じゃない」


 本当のことを言って何が悪いと言わんばかりに、拗ねたような小人の声。少年は露骨な溜め息をつくことで呆れを示すと、シャノンに告げた。


「まぁでも、市軍が巡回駆除したのは確かだから、地上の蟲の数は間違いなく減ってるよ」

「でも、減った分だけ、別の地域からの侵入すると聞いた覚えがあります」

「この時期は特別。他の地域っていうか、周辺の開拓地とかにも市軍の船が回って駆除に務めるから、それ程は入って来ないんだ。むしろ、地下に潜り込んでいた奴らが出てくるかもしれないから、遺構の出入り口付近が一番危ないかもしれない」

「なるほど」


 この三人の中で一番エフタ暮らしが長いだけに、クロウの解説には説得力があった。



 そうこうする内に傍らにあった市壁が途切れ、人の営みが視界から消えた。

 所々に人工石の壁、積み重なる瓦礫、埋め尽くす砂塵と、崩れ去った文明の跡が広がる。今も生きている人為的なものといえば、遺物発掘に勤しむグランサー達と遠方に見えるエフタに向かうと思しき魔導船が生み出す砂煙くらいだ。


 その中を目指すは十九番遺構がある北東。三人は道なき道を黙々と進み続ける。


 時は昼過ぎということもあって、蒼天の光陽は存在を誇示するように強く輝く。少し前まで嵐が居座っていたとは思えぬ程に風は弱い。高熱を帯びた地表から大気への輻射が起き、大地に陽炎がゆらゆらと立つ。

 こういった環境だけに、空調が効いた機内にいるクロウはともかく、外套だけで身を守る少女の消耗は激しい。当然の帰結というべきか、一時間程して、シャノンの足が遅れ始めた。


 それに気が付いた小人が先を歩く少年に注意を呼びかける。


「クロウ、止まって。シャノンちゃんが疲れてる。少し休憩しましょう」

「すいません」


 言葉少なの謝罪。シャノンに大丈夫だと強がりを言う余裕はない。慣れない荒地での歩行と半端ない昼の暑さに加え、以前、同じ場所に赴いた時よりも速歩だったこともあって、少女の疲労は大きかった。


「了解、少し休もう」


 ミソラからの要望を受けたクロウは脚を止め、前面装甲を開く。跳ね上がった装甲部がシャノンを守るように日陰を作り出す。厳しい熱射から逃れたシャノンは日除けフードを取り、ゴーグルも外す。パンタル中から漏れ出た冷気が熱くなった少女の肌を冷やしていく。それで一息ついたシャノンは手拭いを取り出して、顔から噴き出た汗をぬぐった。


「クロウ君、ありがとう。だいぶ楽になりました」

「いや、気にしなくていいよ。元を考えれば、俺の速度配分が悪かった事もあるし」


 そう応じながらクロウは制御籠手を外し、機内に収められていた歪な形の水筒を少女に手渡した。


「はい、これ調整水」

「助かります」


 自分の物がある、といった下手な遠慮はせず、シャノンは素直に水筒を受け取る。妙に捻じれた形に疑問を感じつつも、蓋を開けてゆっくり呷る。一口二口と含み、喉を伝う冷たさと仄かな甘みに癒された。


「これ、おいしいですね」

「作ってる店のオッチャン曰く、一子相伝の秘伝らしいよ」

「あはは、そうなんですか」


 少年少女の気を抜いたやり取り。その最中、少女の肩口に立つ小人は腕組みをして魔導機を見やる。右手には大鉄槌が握られ、左手には腕に斥力盾が装着されていた。


「ねぇ、クロウ」

「どうした? 晩飯にはまだ早いぞ」

「ばん……、あんた、私をどういう風に……、いえ、それは後にしましょう」


 クロウの揶揄に瞬間目を剥いたミソラであったが、一呼吸する事で反論を呑み込む。それから、改めた調子で口を開いた。


「クロウ、シャノンちゃんをパンタルに乗せられない?」

「あー、見ての通りだし、中に乗せろってのはちょっと無理かな」

「うん、中は無理だろうけど、ほら、手に乗せるとか抱え上げるとか」

「ああ、それならできなくもない」


 と答えたクロウは、以前、同期から聞いたことを思い出しながら続けた。


「ただ、かなり揺れるから酔うかもしれない。前っていうか……教習所の最終試験の時に、同期が人を抱えて運んだことがあったんだけど、その時は抱えられてた人が吐いたって聞いてる」

「そうなんだ。……まーでも、この暑さで倒れる危険に比べれば、それくらいなら許容範囲でしょ」

「え、えーと、ミソラさん?」


 気になる異性の前で吐く。

 それは少女にとって、否、そもそも乙女の尊厳的に認められない醜態である。そう、そんな危険性がある以上、シャノンには受け入れがたい提案なのだ。故に反対の声をあげようとした。だが、彼女の上司はそれを無視して話を進めた。


「はいっ、もう決めました! 決定です! これに関しましては、シャノンちゃんの意見は聞きません! 上司命令です!」

「そんな横暴なっ」


 当人の意見すら求めず決めてしまった上司に、シャノンは抗議の声を上げる。けれど、小人の中では既に決まってしまったのか、その抗議を一顧だにせず、気楽な声でクロウへと指示した。


「はいはい、クロウ、やっちゃって」

「了解」


 熱射の危険性を知っているクロウとしては、ミソラの言に賛同できるものがあった。その為、クロウはシャノンの抵抗を努めて無視し、装甲部を閉ざす。


「いやいやいや、二人とも待ってください。僕は了解していませっ」

「シャノンさん、じっとしててね」

「え、うわわっ、クロウ君、いや、ま、待ってください!」


 パンタルの左手が少女に延びる。大いに動揺し、後ずさるシャノン。クロウは掌で腰から尻をなぞるかのように触れると、少女の逃げ腰を上手く利用し、そのまま身体を掬い上げた。そして、落ちないように胴体へと寄せて固定する。この流れるような動きは、魔導機の武骨な外観に似合わぬ優しいものであった。


 もっとも、人の悪い小人は厭らしい笑みを浮かべ、少年の動きに茶々を入れる。


「あらまぁ、クロウったら、断りもなく女の子のお尻に触るなんて、いやぁらしいんだぁ」

「お前な……」

「うふふ、役得って奴ね」

「はぁ、もう好きに言ってろ。シャノンさん、どっか挟まったりとかしてない?」

「あ、はい、大丈夫です」


 元より驚き戸惑っていた所に、余計な小人の言葉。間接的とはいえ、触れた事実を認識。はたと意識してしまい、少女の鼓動は速まる。けれども、こうなった以上はとの開き直りから、機体の腕を掴んで身体を安定させた。


「よしよし、それじゃ休憩は終り。例の遺構まで頑張って歩きましょう」


 この言葉を合図に、クロウは再び歩き出した。

 今度は抱えている少女を気遣ってか、その行き足はゆっくりだ。シャノンとしても暑さは先と変わらないままであっても、自らの足で歩かなくてよくなった分だけ身体の負担は軽い。当初は気恥ずかしさで頭がいっぱいであったが、時が経つにつれ、周囲の景観に目を向ける余裕が出てきた。

 青い空と赤い荒野。その間で、グランサーと思しき影は集団を作って作業していたり、個々別に歩き回ったりと様々だ。この風景を見ている内に、クロウ君はどんな風にしていたんだろうとの思いが、少女の内に芽生えてくる。


 ところが、彼女がそれを口に出す前に、少年と小人の話が始まってしまった。


「そういえば、十九番遺構の地下二階と五階、閉ざされてるよな。あそこって何があるんだ?」

「あそこ? ええっと、私が案内板とかで見て取った限りだけど、確か、二階が兵器庫で、五階が動力室とかだったはずよ」

「兵器庫に動力室」


 クロウが告げられた単語を呟き、思案顔になる。その間にもミソラの説明は続く。


「今でこそ、十九番遺構って呼んでるけど、昔は軍隊の施設だった場所よ。地下一階が格納庫、三階と四階が居住空間ってところかしら」

「そうか、旧時代の軍隊ね」

「そそ、っていうか、この辺りの遺構は全部そうだと思うわ。ほら、他の場所に繋がる通路があったでしょ」

「ああ」


 会話の内容から連鎖的に自らが経験した惨劇を思い出し、少女は眉を顰めた。だが、話をする二人は気付かぬまま続けた。


「あれは施設間を結ぶ連絡路よ。全体の利便性を考えると、おそらく網の目のように広がってるはずよ」

「なるほど、だから、ラティアがあんなに」

「そうね。どこかしかの出入り口から入り込んで、縄張りにでもしているんでしょう」


 クロウは神妙な顔で頷きながら、気になったことを挙げる。


「なら、閉ざされた地下二階とか五階に、なにか珍しいモノが残っている可能性はあるか?」

「あらら、宝探しがしたいの?」

「否定はしない」


 とここで、シャノンが話に参加するべく口を開いた。


「なんていうか、男の人って、そういう話が好きですよね。僕の前の上司もそんな感じでした」


 嫌な思い出を吹き飛ばそうとするかのように、その声量はいつもより少し強めだ。場に唯一の男であるクロウはこの言葉に苦笑する。


「はは、かもしれない」

「僕としては危険な賭けをせず、堅実に生きた方がいいと思うんですが」

「多分、それが一番正しいんだろうけど……、俺も一攫千金を狙うグランサーだったからさ、気になるんだ」


 シャノンにそう言った後、少年は小人に答えを求めた。


「で、どうなんだ、ミソラ」

「むー、あってもおかしくはないって所かな。地下二階に繋がる斜路や階段の踊り場、あの辺の崩れ方が妙に綺麗だったから、多分、残した装備品を封印する為に、軍の関係者が逃げ出す時に爆破したんだと思う」

「そっか、可能性があるのか」


 ミソラの話を聞いて、クロウの胸の内にとある考えが湧き起こってくる。けれど、口に出しては遥か遠方に見えたものを告げるにとどめた。


「さて、十九番が見えてきたな」

「みたいね。ま、今回も蟲に出会わないように祈りましょう」

「そうですね」


 三人はそれぞれ目的地の遺構に目を向けて、自分なりに気を引き締めた。



  * * *



 クロウ達が十九番遺構に到着した頃。

 エフタ市の中央に位置する組合連合会本部にて、セレス・シュタールが届けられた手簡に目を通していた。

 手簡の差出人は彼女の兄、ラルフ・シュタール。ラルフは旅団という組合連合会が有する私兵組織の一員で、第三遊撃船隊なる武装魔導船部隊の長を務めている。今現在は砂海域東部の要衝であるアーウェル市に赴いて、魔導船航路や周辺地域の巡回の任についていた。


 その兄が手ずから綴り送ってきた内容。

 それは肉親に近況を報告するようなものではなく、アーウェルとその周辺域の状況……市壁の外で暮らす移民、特に東方からの移民とアーウェル市民との対立が一段と激化して、治安が悪化していることを知らせるものであった。

 具体的に記されたものを列挙していくと、慣れぬ異郷での暮らしで東方移民の間で不満や鬱憤が溜まっていること。移民による犯罪が増加していたこと。移民の間で組織化の動きが見られること。移民による犯罪の多さに対処するべく、市側が市門を閉ざしたのに対して、移民側が港湾封鎖に動いていること。一部で門を破壊しようとする過激な動きがみられること。その全てに対立を煽っている存在が見え隠れすること。

 こうした事案への対処に神経をすり減らしたことで、アーウェル市軍の士気低下が著しいこと。険悪な空気が膨らんでいる為、市軍が市を離れらないこと。結果、周辺域の開拓地等への巡察ができないこと。その間隙をついて、東方から賊党が侵入したという情報が入っていること。東方への航路にて商船が一隻沈められたという未確認情報があること。

 第三遊撃船隊が市軍の代わりに周辺開拓地を巡回していること。今のままでは打てる手に限りがあるので、できれば増援を送ってほしいこと。

 そして、最後の締めには、どこからか武器が移民側に流れた場合、流血の惨事が起きて、更なる混乱が発生する可能性が高いことが示唆されていた。


 青髪の麗人は一通り読み終えると、小さく呟く。


「アーウェルの状況、芳しくないようですね」


 手簡を持ってきた長い黒髪の秘書がセレスの声に答えた。


「配した小石からも同様の報告が上がって来ています。即急に移民側の中核を把握し、扇動者を排除する必要があるかと」

「そちらへの対処はあなた方(暗部)に一任します。後はアーウェルへの増援ですが、これに関しては難しい所ですね」


 セレスは職務中の常である怜悧な表情を崩さぬまま、砂海域の状況を思考に乗せる。


 現状、ゼル・セトラス域は先の大砂嵐(ゼル・ルディーラ)で受けた被害への対処が進められている。

 幸いにして、彼女の所に開拓地が砂に埋もれたといった酷い被害報告は上がって来ていない。また、復興資材の輸送や都市間を結ぶ商船の行き来も活発化していることから、東部以外は後一旬程で対応が終了するだろうと予測されている。


 だがしかし、この予測はあくまでも自然環境や外敵といった要因が加わらなければという条件である。


 現実はこの外的要因、ゼル・セトラス域では特に甲殻蟲の動きが大きく影響する。

 事実、三日程前に北部の中心都市であるエル・ダルークより、北方からラティアの流入量増大、周辺域で活性化の兆し有りとの報告が届いている。それだけに、同地に駐留する旅団から戦力を割ける余裕はなかった。


「本来であれば旅団より増援を送ることが一番良いのですが、北部の状況を考えると難しい所です」

「では、傭兵団なり機兵団を?」

「信を置くに足り、賊党に対抗できる戦力を有する所は、全てエル・ダルークとその周辺域です。彼らの手がなければ、他の地域への蟲の流入が増えるでしょう」


 そして、浸透した蟲による被害が砂海全域で増大する。これで生じる人的・経済的な損失を思うと、エル・ダルークの戦力は動かしたくない。


 そう考えたセレスは苦悩の色を隠すべく、灰色の瞳を閉ざす。


「各市の市軍は自分達の管轄域で手一杯でしょうし……、やはり手が足りませんね」

「旅団の遊撃戦力、新設を提案しますか?」

「今後の事を考えると、必要だとは思います。ですが、これは予算との兼ね合いがありますから、早期の実現は難しいでしょう」


 そう告げてから、麗人は記憶にある甲殻蟲以外の要因、主に域外の情報を整理する。


 大砂海域の南方、人類の一大勢力である帝国ではいまだ動揺が収まっていない。

 先に起きた人同士の紛争より端を発した機士や機兵の反発は、これまで帝国における戦力の中核をなしていた帝国機士団を割り、組織自体を崩壊させた。後に残ったのは、皇帝の指揮下で帝国内の治安維持に務める郷土防衛隊と元老院直轄の帝国軍だ。

 この戦力改編によって混乱が収束するかに思われたのだが、今度は新たに生まれた両者の管轄や指揮権といった事に関して、意見の対立が発生してしまった。

 当然、対立を収める為、皇帝と元老院との間で折衝が行われている。がしかし、これが中々にまとまらない。なにしろ、帝国の二大権力……内政を司る皇帝と軍事を掌握する元老院は元より水面下で相争う仲である。そう簡単に話がまとまるはずがない。

 そんな上層部の事情が影響して、郷土防衛隊と帝国軍も根が同じ組織であったとは思えぬ程に仲が悪くなっている。この両組織の確執は現場にも波及してしまい、その結果、帝国内の治安維持や対甲殻蟲戦といった活動に影を落とし、日常生活に負の影響を及ぼしている。


 また、この帝国の戦力再編の動きは外から見ると大きな脅威に映る。なにしろ、帝国の武力が防衛戦力と機動戦力……より直截に言えば、外征戦力に分けられたのだから。


 事実、これを問題にする勢力がある。帝国や大砂海域の西隣に位置する五都市同盟だ。

 同盟では先の紛争でドルケライト鉱脈の権益を帝国に奪われたこともあって、対帝国強硬論が伸張している。その中での情報である。

 人同士で戦うよりも甲殻蟲を駆除して領域を広げるべきだ、とする穏健派の勢力が削がれ、武力をもって帝国との係争地を取り返すべきだ、とする強硬派に賛同する意見が増えてきている。このまま鎮静化に向けた材料がなく、強硬派の勢いが強まっていけば、帝国と再び戦火を交える可能性は高い。


 一方、帝国の東側、都市国が乱立する東方領邦でも軋轢が増えている。

 これまでは帝国の武威に従う形だった領邦が、帝国内の混乱による影響力低下からそれぞれの思惑で動き始めたのだ。特に交易や資源開発、開拓地等での水利権といったことで対立が目立っており、小さな諍いが拡大して、戦力を繰り出しての睨み合い(話し合い)も生じている。

 この他にも、一部領邦で硬直した政治や富の寡占に嫌気を覚えた者達が、他の領邦や地域に移民として流れ出る動きが加速している。

 移民というものは少人数である内はそれほど問題ではないのだが、移動した先で故地を同じくする者が増えた場合、故郷の主義思想や文化風習といった物を縁に集団を形成することが多い。

 この集団はだいたいが新天地での相互扶助を目的に生まれるのだが、結果的にそれが一つの社会を作り上げてしまう。そして、この移民による社会が元よりある現地社会との間で摩擦を生み、様々な問題を引き起こすのだ。

 現にアーウェルの移民も元は領邦に不満を持って出て来た者達であり、今に至る問題が起き始めたのも人が増え始めてからである。


 総じてみれば、域外勢力によるゼル・セトラス域への直接的な脅威は少ない。けれど、勢力間或いは内部でのごたつきが続くことによって、交易や物流の途絶といった間接的な不利益が生じかねない。そんな状況であった。


 セレスはゼル・セトラス域を取り巻く情勢を再確認し、小さく息を吐き出した。そうすることで少し気分を切り替えると、今日予定されている重要案件について、己の秘書に問いかけた。


「ペラド・ソラール市の使節団が今日にでも到着するはずです。歓待の準備の方はどうなっていますか?」

「渉外部長がぬかりなく進めています」

「出席者は?」

「関係部署の組合幹部の他、エフタ市長と主要市の駐在使が出席するとのことです」

「そうですか」


 今宵、行われる宴席は来訪者の為人を知り、翌日より始まる交渉を円滑に進める為の大切な儀式だ。

 特にペラド・ソラール市は古くから友邦で、ゼル・セトラス域全体の塩水供給源である。それだけに歓迎の手を抜けないし、相手側の求める物が何なのかを把握しなければならない。


 セレスも今夜の宴に出席する予定である。故に、事前に渉外担当者からの情報を聞き、自前の情報網を使ってペラド・ソラールの形態や現状を調べていた。


 麗人は部屋の時計に目を向ける。次の予定まで、まだ少し時間があった。


 ならばと、友邦について今一度確認するべく、机上に置かれた書類より関連資料を抜き出し、視線を走らせた。


 ペラド・ソラール市。

 東方領邦で一番北東にある都市で、大陸東の大海、大東洋に浮かぶ島嶼、アドロス諸島にある。

 都市の主たる統治機構は島嶼の中で最も大きな島、三千リュート近いペラド山がそびえ立つアドロス島に置かれており、そこから周辺の島々に拓いた開拓地を統括している。

 政治形態は貴族による寡頭制。貴族による議会を持ち、行政首班や閣僚を互選により定めている。貴族は代々の世襲貴族は市の創設に大きく貢献した家以外にはなく、大部分が市になんらかの貢献して、議会より叙勲された一代貴族である。その為、身分の別は厳しいものではなく、貴族の他は軍務に当たる機士階層とそれ以外の市民階層のみである。

 主たる産業はペラド山がもたらす豊富な水資源を使った農業と植林による林業、沿海での漁業、製塩、食品加工、木工が挙げられる。

 交易では立地の関係上、大陸の中継地と良好な関係を保つように努めていたが、法外な通行税を課されたり取引で足元を見られたりすることが多々あり、大陸側に独自拠点を新設する動きが始まっている。

 対外関係は、帝国とは本領から距離がある為か受ける影響が弱く、どちらかといえば疎遠。周辺領邦とは先の理由もあって、微妙なものになりつつある。ゼル・セトラス域とは塩水輸出で古くから付き合いがあり、友好的な関係が続いている。

 付近に出没する甲殻蟲は水上移動型のアルバーと水生型のバルガー。両者共に似た外観であるが、アルバーは水上を移動する為かより細く軽く、バルガ―は水圧に耐える為かより大きく頑丈な甲殻を持っている。

 これら水辺の脅威に対応する為、市の戦力は水上船や小型魔導船が多く、魔導機は少なめである。


 セレスは資料の中で気になった点を再び記憶し直すと、黙して控える秘書に視線を向けた。


「兄への返信は今宵の宴が終わった後に認めます。それまでにアーウェルに関連する情報を集めておいてください」

「わかりました」


 秘書の言葉に頷いた後、麗人は不意に微笑を零した。


「ああ、それと、兄の事ですからアレイアにも手紙を送っている事でしょう。もし返事を送るなら、私の分と一緒に送ります。そう、彼女に伝えておいてください」

「あまり甘やかすのもどうかと思いますが……、いえ、ご配慮に感謝します」


 硬質の表情をほんの僅かに崩して、秘書は礼を述べた。


 礼を受けたセレスは、秘書の言葉にあった甘やかすの対象がどちらなのかを考えて、笑みを深くしたのだった。

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