三 十九番遺構
夜明け前。
街の主であると同時に、都市という擬似生命体を動かす血流とも呼べる人々が動き出し、夜闇の中で浅い眠りについていたエフタ市が再び目覚めた。静かなざわめきに満たされる、不思議な時分だ。
グランサーや粘土採掘者、家畜飼育員といった者達が市街へと出ていけば、門前に広がる貧民街から人足や路上清掃といった日雇い仕事を求める者達が市内に入ってくる。
クロウもまた市外に出る者達に紛れて、ちょっとした混雑が発生している南大市門をくぐり抜ける。それから、昨夕にマッコールへと告げた通りに、十八番から二十番までの地下遺構が点在する北東へと足を向けた。
払暁だけに、未だに夜の色が色濃く残っている。けれど、東の彼方より広がり始めた光明が夜闇を追い払いつつある。昼と異なり、冷たさすら感じさせる風の中、クロウは歩く。その足は遺構内探索に必要な大量の荷物を背負っている為、いつもより遅い。
それでも黙々と歩を進める内、エフタ市を守る防壁より離れて、土製建材の製作所や糞尿等の堆肥化施設といった郊外施設の間を抜けていく。その間に周囲にあった人影も徐々に減っていき、旧文明の残滓が広がる荒野に至る頃には、その影もなくなっている。
瓦礫と砂塵の荒野に出てからは、できる限り危険を避けようと見通しの良い場所を選びながら進んでいく。廃墟の陰や瓦礫が生んだ起伏に甲殻蟲が潜んでいることがある為だ。
そうやって、クロウが物陰へと注意を向けながら目的地に向かうこと、おおよそ三時間。光陽が東の空に姿を現して輝き始めた頃、彼は目指していた場所、十九番遺構の出入り口に辿り着いた。
大地が大きく口を開けてるようにも見える出入口。周辺には、その存在を覆い隠すように廃墟が残っている。
この廃墟を構成する人工石造りの残骸が、遺構への砂塵の侵入をある程度は防いでいた。しかしながら、ある程度と付くように、完全に防ぐことはできず、地下出入り口に至るまで続く斜面は、半分の高さまで砂塵で埋まってしまっている。
クロウは装着していた二眼ゴーグルと防塵マスクを外して首にかけると、地下の暗がりまで続く斜面の前に立つ。
そして、幾度か見る角度を変えながら、表面を覆い尽くす赤銅色の砂地に、新しい足跡がないかを調べ始める。しかし、砂面には風紋が残るのみで、人や甲殻蟲が通った事を示すような痕跡を見つけることはできなかった。
風に流されたか、と少年は胸中で独語して、背負っていた背負子を降ろす。
その際に、彼の口から意図せず吐息が漏れたのは、普段の三倍以上の荷物を抱えていた為であろう。
肩を回すことで加重で滞っていた血流の回復を図りながら、クロウは遺構内に潜行する準備を始める。遺構は地下にあるだけに、基本的に光が届かない暗闇である。視界を確保する装備がなければ、歩く事すらままならないのだ。
さて準備だと、廃墟の壁を背にすると外衣を脱ぎ、上着にズボンという動きやすい姿になる。
それから持ってきた荷物を解いて、頑丈な布袋より額当てを取り出す。手の平より若干大きい額当ては魔刻板と焼成器を組み合わせて作られた照明器で、高級品である暗視装置と異なり、クロウでも手に入れることができる魔導機器である。
これを頭部に巻きつけると、普段は腰に据える革バッグを左腰部に回し、代わりに鞘に収めた刃渡り十八ガルトの多目的ナイフを装着する。
次に、罠や警戒線等で使う鋼糸線を落ちないように革バッグの留め金に引っ掛けた。一度二度飛び、外れないかを確認。その後、非常の際に目晦ましとして使用する閃光弾を三発、照明器の魔力源として使用する|簡易型魔力蓄積器……筒状であることから魔蓄筒と呼ばれる物を二本、罠等の設置に使用する十数本のねじ釘と工具、気休め程度に急所を守る陶製装甲板を衣嚢に収めた胴衣を身に着けた。
装着した道具が不用意に外れないか確かめた後は、再び背負子を背負い、動きに制限が生まれたりしないかを調べる。
考えられる一通りの動きを試して、若干の位置修正や再固定を行うと、今度は照明器の脇に付けられた光量調整装置を操作して、投光量が調節できるかを確かめる。
照明器が十全に作動している事を確認し終えると、クロウは緊張を少しでも解そうと一つ大きく息を吐き出した。しかし、危険が潜んでいる可能性が高い地下遺構の出入口を前にしては、身体に入り込んだ緊張は容易に抜けることはない。
それはやがて心にも影響し、臆病な風が吹き込んでくる。
そうなってくると、ただの出入り口のはずが、全てを飲み干す怪物が大口を開けているようにも見える。なんて錯覚を抱きそうになるほどに、腹の底で不安が湧き起こり、胸の奥もざわめいてしまうというもの。
このままで恐怖に負けて、中に入る事ができなくなる。
そう感じたクロウは、喉奥より這い出してきそうな不安を押し込めるように、下腹に力を入れ、歯を噛みしめた。
「っし、行こう」
恐怖に負けぬよう自らを鼓舞する為に、彼はこれから行う事を声に出す。
それから、まなじりを決して、出入り口へと歩き始めた。
クロウは静かに斜面を下りながら、内部から物音が、特にラティアが動く際に発する金属が擦れ合うような耳障りな音が聞こえないか、意識して聞き耳を立てる。
今の所、彼の耳に入るのは、自らの足が砂を蹴る音と外で生じている風音、早鐘の如きテンポで刻まれている胸の鼓動だけである。
その鼓動を少しでも遅くする為、昨夜、夕食と携帯食を買う為に赴いた食料品店、そこの主人に収まっている元グランサーから伝聞として聞き出した内容を思い出す。
二年物の堅パン三個の対価として得た情報では、十九番遺構の地下一階は奥行きが大凡で百リュート、幅が五十リュート程の広大な空間で、入口より降りれば見通せるだろうというものだった。
その情報が本当であることを祈りながら、彼は足を動かし続ける。
それにつれて人工石造りの天井は高くなり、彼の身長の倍を超えようとしている。
何か変化はないかと周囲を見渡せば、砂塵で赤みがかった壁面に砂に半ば埋もれる形で、旧文明の文字らしきモノが描かれたプレートが見えた。
世間一般に使用している共通文字と、どこか似ているようで何かが違う旧文明の文字に気を取られかける。が、頭を振って、興味からしがみ付こうとする好奇心を追い払う。
傍から見れば独り芝居のような動きをしている間にも、足元の傾斜は徐々に緩くなっていき、気が付けば、彼は地下一階に降り立っていた。
地下一階は事前に聞いていた情報の通り、何もない広大な空間であった。
奥の方に地上と繋がる箇所でもあるのか、僅かな光が漏れており、それを通して全体の陰影が見えたのだ。
歯が立つかわからない堅パン分の価値はあった。
クロウは情報が正しかったことに安堵しながら、奥からの光と後背からの明かり、更には身に着けた照明器の光を頼りに探索を始める。
虱潰しとまではいかないが、一定の間隔で左端から右端まで往復する。舗装された床面や砂溜りの上に何らかの痕跡が、極端に言えば、かつては人であった残滓や幸いにも蹂躙を免れて遺された品がないかを調べるのだ。
色濃い闇に目を慣らしながら、クロウはできる限り音を出さず、ゆっくりと歩を進めていく。
地下一階を見聞した彼の耳目は、この階には甲殻蟲はいないと判断している。だが、何事にも絶対ということはない為、慎重を期しているのだ。
地道で根気のいる作業を続ける内に、入口から四分の一程を通過。ついで闇色が濃い中央部も過ぎるが、痕跡を見つけることができない。それどころか、一つ二つは落ちていそうな旧世紀の遺物すら見当たらない。
この厳しい現実に、クロウが少しばかりの切なさを感じていると、左端の壁面にぽっかりと開いた出入り口と、両開きと思われる扉があることに気が付いた。
即座に息をつめて光量を絞る。
彼はまずは五人程が一度に通れそうな出入り口に近寄る。
そして、半ば身を隠す形で慎重に中の様子を窺う。
深い闇の先には階下へと続く大型階段があった。
この降り階段を見た瞬間、クロウはこのまま下に降りるべきかと考える。けれど、地下一階の全てを調べる方が先だと思い直す。先に進む前に、一階の安全を確保するべきだと。
とはいえ、この出入り口は下層部に続くと思しき場所だけに、放置はできない。
そこで彼は鋼糸線が引っ張られると閃光弾が作動するという簡単な警戒線を作ることにした。
仕掛ける場所は、階段と地下一階を結ぶ出入り口。簡単なモノであっても、これを設置しておけば、何かしかの脅威が引っ掛かった場合、眩い閃光によって、その存在を知ることができるし、少しばかりの時間稼ぎもできる。要は、脅威から隠れるなり逃げ出すなりの初動がしやすくなるのだ。他にも、設置したという事実が心に余裕を生み出すといったことも期待できる。
地道な前準備こそが重要という先達の薫陶と、孤児院での工作技能の習得に感謝しながら、クロウは作業を開始する。
もっとも、設置はすんなりとはいかなかった。
ワイヤーを引っ掛けるのに都合の良い突端がなかった為、硬い壁面にねじ釘をねじ込む必要があったのだ。
あまりにも硬すぎる壁面に設置を諦めようとする心と戦いながら、穴開けに奮戦することしばし……、工具を握る握力がなくなりかけるという労苦の末、彼は人の膝上程の高さに警戒線を設置して終えた。疲労して厳しかった顔に、ちょっとした達成感と安堵が混じった笑みが零れる。
危険だと思われる下層部に繋がる出入り口。その一つを押さえたことで、肩の力が少し抜けたクロウは、ついでにその隣にある扉に付いても調べる。
しかし、両開きの扉は重く固く閉ざされており、鉄梃のような道具があったとしても、彼の力では手の付けようもなかった。扉の内部を窺い知れなかったことを残念に思う気持ちが生じる。
それを抑えるべく、開かない以上はその先に捜索対象がいる可能性は低いと言い聞かせる。それでなんとか踏ん切りをつけると、地下一階の探索へと戻ることにした。
クロウは光量を増やし、再び地下一階の広い床に視線を落として歩き始める。
が、十歩も歩かない内に、流れる風を頬に感じて足を止めた。頬に受けた感覚を頼りに、風が流れてきた方向、最奥の光が差し込む箇所へと目を向ける。
そこの天井と壁面が崩落していた。
崩落で生じた瓦礫。その重なりの中に、僅かながらも地上と繋がる隙間ができた結果、光が差し込んでいるようだった。
暗闇に差し込んだ陽光の中に、馴染みのある赤い砂塵が広がっているのが彼の目に映る。普段は忌々しく思っている砂塵を目にして安堵するという、自身の心境に面白みを感じる程の余裕を持っていたクロウであったが……。
「ぇヴぁあぇっ?」
次の瞬間にはその余裕が一気に吹き飛び、悲鳴にもならない声がクロウの口から弾け出る。
光が差し込む場所。
かつては昇り階段であった事を窺わせる場の右隣に、先の出入り口以上の大きな穴が……、それも数匹もの甲殻蟲が同時に往来できそうな大穴が、天井に至る高さまで口を開けていたのだ。
この突然の発見に、クロウは大いに動揺する。
と同時に、心臓を冷たい手できゅっと掴まれたような感覚を覚えた。見る間に、彼の表情から血の気が引いていく。
もっとも、動揺で停止してしまった思考とは裏腹に、彼の身体は自然と反応して、足音を立てぬ程度の小走りで大穴の脇まで走り、壁面に張り付いていた。
緊張から冷や汗が浮かび上がり、落ち着いていた心臓もまた強く激しく動き出す。
こうして当座の対応を取った後になっても、クロウの頭は突発的な事態から立ち直れない。
それどころか、自身を救ったはずの身体の生理反応に流されるままで、千々に乱れる思考は纏まらない。
焦燥の中、ただ、冷静になれと、必死に彼は自分へ言い聞かせる。
しかし、周囲の押し包む暗さや身体の反応に引き摺られた事もあって、中々上手くいかず、逆に本能から恐怖という感情が暴走し始めた。
クロウの脳裏に最悪の想像が、ラティアが光の届かぬ中で、一息でかじれる距離まで彼が近づくのを待っている、という想像が駆け抜ける。
この想像が真実であるように感じられるようになるにつれ、呼吸は浅くなり、喉も急激に渇いていく。
根源的な恐怖。
死を連想させる想像に対抗する為、はたまた、迎合する為か、クロウは思わず叫び出したくなる。
そこをすんでの所で、今にも途切れそうな理性が押し止めた。
その間にも彼の時間の感覚は狂い、一秒が長大な時間であるかのように感じられ始める。
十秒か、はたまた、一分か。
恐慌に飲み込まれる寸前のまま、何度か唾液を飲み干したところで、クロウは顔から噴き出た汗が顎から滴り落ちる感触に気付いた。
これが切っ掛けになったのか、彼は幾ばくかの理性を取り戻し、今に至る原因は何か、何故自分がここまで狼狽えているのか、これからどう対処するか、といったことに意識を割り振る。
今に至る原因は、単純な見落とし……、光の加減で大穴の存在を見落としてしまっていたことが原因だ。大穴という脅威が潜む可能性が高い場所を発見できず、無警戒かつ無策のままに不用意に近づいてしまった為、酷く狼狽えてしまっている。
なら、どうすればいいか? 決まっている、実際に脅威があるかを調べればいい。いきなり未知と出くわして、それに脅威があるかどうかがわからないからこそ、過ぎた恐怖が生まれてきているのだ。そう、何もわからないことから生まれる恐怖よりも、現実的な恐怖の方が対処できるはず。
こうして思考が現状把握と問題解決に向けて動き始めると、クロウの早打ちしていた鼓動が少しずつ遅くなり、その目にも冷静な色が生まれてくれば、沸騰していた頭も冷えてくる。
目的を定める事で半ば強制的に頭を冷やすと、これからの動きに対応できる状態になろうと、浅くなっていた息を元に戻すべく、大きな深呼吸を繰り返す。
それから緊張で凝固した筋肉を解し、身体が正常に機能しているかを知る為に、軽く四肢や体幹を動かす。固まっていた身体がほぐれるにつれて、恐怖で萎縮していた心もほぐれ始める。
心身が落ち着きを取戻し始めた所で、クロウは目を閉ざし、耳を澄ます。
……耳障りな音は、聞こえない。
彼の中で、大穴に甲殻蟲が潜んでいるという可能性が下がる。
次に胴衣の衣嚢よりねじ釘を一本取出して、穴の中に放り込む。ナイフの柄に手を添えて待つこと数秒、硬い地面に落ちた金属が甲高い音を立て、それが地下空間に響き渡った。
何度か跳ねて、転がる音。
……反応する音は、聞こえない。
彼の心を攻め立てた恐怖が更に減り、活力が戻ってくる。しかし、地下一階に入った当初よりは弱い。
こういう時に緊張や恐怖を解せるような会話ができる相手が欲しいと、軽いようでいて切実な思いを抱きながら、クロウは腹を据えた。
息を呑み込み、そっと穴の中を窺う。額の照明器が暗闇に光を投げかける。
……動き出す音は、聞こえない。
十秒ほど、そのままの姿勢を保ち、それでも動きがない事を確認して、ようやくクロウは詰めていた息を吐き出した。
そして、慎重に足を忍ばせ、暗闇の中へと入り込んでいき、その奥へと目を向ける。
……彼の両足から、力が抜けた。
急に足の力を失った事で前のめりに倒れ込みそうになる。それを避けようと何とか踏ん張ろうとする。が、脱力してしまった身体は言うことを聞かず、今度は背の荷物に引かれるままに後ろへと倒れ込んだ。
彼が勇気を振り絞って入った大穴。
その先は階下へと続きそうな降り斜面になっていた。なっていたのだが、その中程で壁が崩れ、通路を塞いでいたのだ。
この拍子抜けともいえる事実を受けて、彼が心身に込めていた力が一気に抜けてしまい、先の状態に陥った訳である。
仰向けに倒れたクロウは、脱力した表情で天井を見上げる。
そして次の瞬間には、不安と恐怖から解放された安堵と喜び、これまで自身が示した反応の滑稽さ、更にはその反応を生み出した己の臆病さ、そして何よりも、問題を前にして、即座に、冷静に、対処できなかった不甲斐無い自分への口惜しさといった物が吹き出し、その全てが入り混じる。
結果、大いに高まった感情はある一線を越え、彼の両目から熱いものが次々に零れ落ちた。
しばしの時、クロウは弱った心と身体を元に戻すべく、闇の中で独り、弱気の虫を流し出すのだった。
* * *
クロウが様々な思いを胸に、十九番遺構で涙している頃。
エフタ市の港湾地区では帝国調査団をこの地まで運んできた船、ルシャール二世号が岸壁に接岸し、調査地で必要となる様々な物資の補給を受けていた。
蒼天の下、船尾の斜路を降ろし、臨時雇いの人足達が水樽や食料箱、防寒や防塵用の装備品を運び入れていれば、船の動力源となる魔力を充填する為、魔力供給装置から延びた端末が甲板上にある充魔器に接続されている。
また、船の両舷側にある長さ三リュート程の主翼下、魔導式推進器を点検すべく、移動式作業台が設置され、数人の魔導技師が内部に手を入れている。
魔力を回転力に置換する魔導原動機……魔刻板製回転円盤やそれに魔力を供給し、同時に回転力をプロペラに伝える伝達軸、伝達軸と船内の魔力蓄積器とを繋ぐ魔力供給線、回転で発生する熱を抑える冷却配管、船体へと続く触媒管、それらの中間にある熱交換器、更には砂塵等が入り込まないようにする防塵装置といった部品に不具合がないかを調べているのだ。
こういった具合に発進準備が着々と進められる様子を、紺の外套を纏った少年シャノン・フィールズは作業する者達の邪魔にならない場所……ルシャール二世号の船首から眺めている。
魔導技術院の研究員であり魔術士でもあるシャノンは、発掘場所である四十一番遺構に入ってからが本番である為、準備作業を免除されているのだ。付け加えれば、他にも免除されている者がいて、その一人がシャノンに声をかけてきた。
「よう、嬢ちゃん、暇そうだな」
「手伝おうにも魔導機や魔導機関については専門外ですから、下手に触れませんし、暇と言えば暇ですね。……後、僕は嬢ちゃんではありません」
「こりゃ失礼、嬢ちゃん」
声をかけてきたのは大男。黒の襟詰を着た帝国機士パドリックだ。
シャノンはパドリックが嬢ちゃん呼ばわりをやめる気がないと見て取ると、これ見よがしに大きく溜め息をついて見せた。だが、中年男に疎んじる振る舞いは通じなかったようで、口元に軽い笑みを浮かべるだけで流されてしまう。
「で、嬢ちゃんの上役は、まだお迎えから帰ってこないのかい?」
「だから、嬢ちゃんではありません。サラサウス先生なら、そろそろ……、あー、丁度今、帰ってきたみたいですね」
シャノンが指差した先、エフタ市内と港湾地区を繋ぐ港湾門より、一台の送迎車が近づいてきた。客席には乗り込んでいるのは、シャノンと同じく紺色の外套を纏ったソーン・サラサウス一人だけである。
「なぁ、嬢ちゃんよ……、団長様と色っぽい姉ちゃんが乗ってないように見えるんだがね」
「そうですね、確かに乗ってないです。それと、僕は嬢ちゃんではありません」
コドルに曳かれた送迎車は、列をなす人足達の近くまで来ると徐々に速度を落とし始め、ルシャール二世号の乗降口近くでゆっくりと停まった。それと同時に、ここまで送迎車を引いてきた四足獣が吐き出す荒々しい鼻息が聞こえてくる。
ふてぶてしさすらある姿に、コドルはどこの地域でもかわらないんだな、といった感想をシャノンが抱いていると、一仕事終えたコドルに負けず劣らずに、不機嫌そうな顔をしたソーンが地面に降り立った。
「あの顔見ろよ、嬢ちゃん。こりゃ絶対に何かあったぞ」
「だーかーらー、僕は嬢ちゃんではないですって。……でも、何かあった事には同意しておきます」
シャノンとパドリックが顔を合わせてからというもの、言葉を交わす度に行われるやり取りを繰り返す間にも、表面的には取り繕ったソーンが御者に礼を述べて送迎車を返していた。それを見た中年機士は年少の魔術士に問いかける。
「嬢ちゃん、あの兄ちゃんの出迎えに行かなくていいのか?」
「そういうパドリックさんこそ、何か用事があるんですよね?」
「いや、俺はわざわざ煮えたぎっている湯に勇んで手を突っ込むような馬鹿じゃない」
「僕もそうですよ。それと、そろそろ、嬢ちゃん呼ばわりは止めませんか?」
パドリックは再度為されたシャノンの訴えを船上から見える大砂海の風景を眺めることで見事に受け流す。が、不意にその頬を歪ませた。
「何か変なものでも見えましたか?」
「いや、特にこれといったものは見えんな」
ならどうして、そんな皮肉めいた笑みを浮かべるのかと、シャノンは首を傾げる。すると、シャノンの疑問に応じるかのように、パドリックが口を開いた。
「あー、なんというかな、嬢ちゃん、団長様と姉ちゃんが来ない理由がなんとなく思い浮かんだっていうかよ。……ほれ、この街は異国情緒あふれる場所というか、帝都とはまた違った風情がある。その上に、昨日の晩、帰る時に見た夜景は中々に見応えがあっただろ?」
「確かに、見応えはありましたね」
「そうだろ? で、それらの影響で、団長様かお付の姉ちゃんかに火がついて、寝る前にお盛んになったからじゃないか、って思ってな」
「はは、まさか……」
大いにありえるなぁ、と続く言葉をシャノンは封じ込めた。
魔導技術院とは無関係であるパドリックが、団長とその秘書役とが男女の仲にあるのを知っていることに違和感すら覚えず、乾いた笑みを浮かべるのみだ。
「そうか? 俺の予想、当たってる確率は高いと思うがなぁ」
「さすがに、発掘初日から出てこない、なんてことはないと思うんですが」
「はは、若いねぇ、嬢ちゃん。この帝国、いや、世の中の偉いさんにはな、地位と責任の意味をはき違えている輩ってのは結構いるもんなんだよ」
「う、技術院の先生方の普段を考えると、否定できないかも……」
「ほれ、あり得るって思えるだろ? それにしても、団長様もいい歳になってるはずなのに、お盛んだよなぁ。……どうだい、嬢ちゃん、団長様を見習って、今夜でも俺と一緒に」
「え、えーと、何度も言いますけど、僕、嬢ちゃんじゃないんですけど……、そ、その、パドリックさんって、そちらの気があるんですか?」
「お、おいおい、普通、ここでまともに受け取るか?」
「そりゃ、僕のことをずっと嬢ちゃん呼ばわりしてることも含めて考えると、そうなりますよ。僕自身は一般的な嗜好を持っているつもりですので、その、かなり引いたというか……」
シャノンはパドリックの言葉が冗談である事を理解していながらも、腰が引ける演技をしつつ、嬢ちゃん呼ばわりを止めさせる為の反撃を開始する。
「む……、いや、これはこれで……、なかなか、……いける、かも?」
「ひっ!」
が、厳つい中年男が真剣な顔でぼそりと呟いた不穏な言葉。それに加えて、全身を嘗め回すような目で見られてしまい、シャノンの演技は本物へと変わり、思わず数歩が後ずさる。その途端、パドリックは哄笑する。
「わはは、もちろん冗談だ。まだまだ、俺をやり込めるには早いな、お嬢ちゃん」
「むぐぐ……」
相手の方が上手であることを認めざるを得なくなり、シャノンが悔しそうに唸っていると、ソーンが船体中央にある船橋より姿を現した。その顔は先程と変わらず、明らかに機嫌が悪そうだ。
「フィールズ君! いるかねっ!」
「は、はいっ、ここにいます!」
慌てて返事をしたシャノンが上司の元に向かおうとした所、その上司自身が光陽の光を眼鏡で反射させながら、足音荒くに近づいてきた。そして、部下の隣に帝国機士がいるにもかかわらず、目に見える程に不平不満を顕わにして、鼻息荒く話し始めた。
「ベルザール先生とダッツェル女史は、長旅の疲れが出たらしく、疲れが取れるまではっ、宿でっ、ゆっくりと! なさるそうだっ!」
「……え? ベルザール先生、来ないんですか?」
「ああ! 発掘調査の指揮は全て君に任せる、だそうだよっ!」
ソーンが憤懣やるかたないといった風情で、彼の上司から言われたままの言葉を吐き捨てるように繰り返す。
その言葉を聞きながら、隣の中年男が述べた話が真実に限りなく近いな、とシャノンが考えていると、先に推測を述べていた当人がソーンに向かって持論を述べた。
「副団長殿、それは昨晩の異国情緒あふれる光景に刺激されて、団長様が大いに張り切り、夜の戦に奮戦した、と受け取ってもよろしいので?」
「よろしいさ、パドリック殿が言った想像であっているだろうよ。まったく、あの二人はっ、精々が、慰安旅行のつもりなんだから困る!」
怒りがぶり返してきたのか、ソーンは再び声を荒げる。その上司に対し、シャノンは今後について尋ねる。
「それで、どうするんですか?」
「どうもこうもないさっ、僕が現地の責任者として発掘調査を進めるよ! ……はぁ、これで、もしも事が起きたら、身代りに僕の首が飛びそうだ」
「ご、ご愁傷様ですね」
「何を言ってるんだ、君は……、私の研究室に属している以上、私が切られる時は君も放逐されるぞ、多分」
「ええっ、そんなっ!」
魔導技術院に入る事が出来て、ようやく実家に顔向けができるのに、と心中で嘆きながら、シャノンは肩を落とす。もっとも、それはあくまでもシャノン個人の心情である以上、表に出すべきことではなかった。特に、上司が目の前にいる場合は。
「なぁ、フィールズ君、その反応はさ、何か起きて、発掘が失敗に終わる、って言いたいのかい?」
そう、ソーンから見れば、未だにそうなると確定した訳でもないのに、早くも失敗が既定の物だと言わんばかりに、目前で部下に落ち込まれてしまうのは、実に腹立たしいものなのだ。たとえ、自分から話を振ったものだとしても。
表面的にはにこやかに、けれども、眼鏡の奥にある目は全然笑っていない上司の姿に、シャノンは必死になって言い繕い始める。
「あ、ま……、い、いやー、あはは、まさかー、そんなこと、起きるわけないじゃないですかー。ええ、きっと、何もかもが無事に、そう、発掘調査はちゃんと成果を上げて終わる事ができますよ、ええ」
「本当に、そう、思うかい?」
「お、思いますよー、はい」
「本当にー?」
ずずい、と黒髪の上司に据わった目のままで顔を寄せられた為、シャノンは身体を仰け反らせる。だが、ソーンの半ば狂気が混じったような目からは逃れられず、背中で冷や汗を流す破目になった。
そんなシャノンの姿を見兼ねたのか、はたまた、矛先が別の方向に向いている内に、と考えたのか、厳つい顔の機士が横から言葉を挟んだ。
「そういや、副団長殿。今回の調査は急に決まったって聞いたんですが、これは本当ですかね?」
「ん?」
この不意の横槍に、多分に含まれていた毒気を抜かれたのか、ソーンは表情を元に戻した。そして眼鏡を押し上げながら、パドリックへと顔を向ける。
一方、精神的な圧力から解放されたシャノンは、傍目でわかるかわからないか程度に、胸を撫で下ろしていた。
シャノンが一人安堵している間にも、眼鏡男と中年男の会話は進む。
「ああ、その通りだよ、パドリック殿。今回の調査は急に決まったのは本当だ。なんでも技術院が求めていた追加予算を元老院が認めたらしくてね、技術院じゃ、色んな所にお金が回ってるよ。今回の発掘調査団の派遣も、その中の一つって奴さ」
「……なるほど、そうですか。あぁ、それと、個人的な疑問なんですが、副団長殿に聞きたいことがあるんですが」
「聞きたい事というと?」
「はい、今回の遺構調査団が派遣された理由、っていいますかね。気を悪くするかもしれませんが……、もしも、旧世紀の遺物を収集するのが目的なら、こうして大人数を動かして発掘するよりも、目的の物を買い取った方が安く済むんじゃないかって、疑問に思ってたんですよ」
ソーンは間を置かず、一見、学がなさそうな厳つい男の疑問に答え始めた。
「んー、パドリック殿の言う通り、実際、技術院も旧世紀の遺物が欲しけりゃ買えばいいって考え方が主流だし、遺物だけが必要なら、それで正解だよ」
「では、別の理由があるってことですか?」
「一応、まぁ、簡単な理由というか……、そもそもの話、遺構そのものが大きな旧世紀の遺物だからだよ」
「つまり、実物を見て得られるものがある、と?」
「そういうことだよ。現物を自らの目で見ることで、色んな再発見をしたり、新しい発想を得られたりってこともあるってことさ」
ここで語を切ったソーンは嘆息を一つ入れてから、更に続ける。
「でも、実際に遺構発掘に行くとなると、これが中々に難しい。何しろ、行ったはいいが空振りでしたってことも多いからね、半ば賭けに近い。そうなると当然、成果が期待できないって言われて、予算も下りにくくなる。僕から言わせてもらえば、今回みたいにポンとお金を出してくれるなんて事は滅多にない事だし、国外に出て、現地で発掘調査ができる機会なんて、それこそ非常に稀な事なのさ。だからこそ、ベルザール先生にはもう少しちゃんとして欲しいのに、はしゃぎ過ぎで本業を疎かにするなんて、研究者失格としか言いようがないよ。それに、ほら、ここ最近、同盟と色々と軋轢が起きていて、不穏な状況なのに、君達、機士にも護衛に来てもらってるんだし……」
「……あー、いや、護衛や同盟云々に関しては、別段に気にする必要はないです」
帝国と同盟の係争に、というよりも、ここ最近の帝国のやり方に思う所があるパドリックは、少々歯切れ悪く応じる。そして、半分は誤魔化しを兼ねて、咳払いを一つした後、再び話し始めた。
「じゃあ、今回の発掘が成功した場合、魔導技術が一気に進歩するかもしれないって話は嘘ってことで?」
「全てが嘘って訳ではないんだけど、まぁ、予算を貰う為の方便ってのは認めるよ。ある程度は吹かないと話すら聞いてもらえない世界だからね」
「世知辛いことですな。……しかし、全てが嘘じゃない、ってことは、何か、期待できる物があると?」
「うん、まぁ、一応ね。僕達、魔術士の間でずっと伝わっている話にね、この辺り……、ゼル・セトラス地方の、特にエフタ市近くの遺構には多数の魔術書が秘匿されている、って話があるんだよ。フィールズ君、君も魔術士なら、この話は聞いたことがあるよね?」
「はい、僕も聞いたことがあります。このエフタ市自体、元々はそれらの魔術書を探す為の拠点として、魔術士達によって構築されたのが始まりという話もあります」
「そう、昨晩、顔を合わせた、あのお美しいお方もその魔術士達の流れを汲むかもしれない。あぁ、今度はゆっくりとお話しがしたいです、セレス殿……」
シャノンは自分の上司の妄言を流すよう、パドリックに目配せして、話を先に進める。
「秘匿されていると伝えられている魔術書ですが、僕が聞く限りでは、旧世紀由来のものらしいので、今では失伝している魔術も中には書かれているはずです。もしも、それを見つけて、知ることができれば……」
「魔術刻印に使用できる新しい術式の再発見や開発に繋がり、魔導技術の向上にも繋がる、ってこともあるかもしれない、ということなのですよ、パドリック殿」
言葉を尻つぼみにしたシャノンの後を受けて、ソーンが言葉を締めくくる。聴者であるパドリックは大袈裟とも言える程に何度も大きく頷き、口を開いた。
「なるほど、納得しました。そのような話があるのなら、副団長殿がこの発掘調査に真剣になるのもわかりますし、今回の調査自体が貴重なことを考えると、職務を全うしない団長様に不満を持つなというのが無理な話ですな」
「うんうん、わかってくれて嬉しいよ」
理解者を得た為か、ソーンの不機嫌な色は明らかに減少している。そんなソーンに対して、中年機士は当初の目的を切り出した。
「では、副団長殿、早速ですが、うちの上司や船長、それに案内役も交えて、これからの打ち合わせを行いたいので、団長様の代わりとして、御足労頂けますかな?」
「はぁ、仕方がないですね。ベルザール先生の仮病の所為で、それが主な仕事になってしまいましたし……、フィールズ君、君にも手伝ってもらうから、一緒に来なさい」
「わかりました」
シャノンが頷いている間にも、年長者の二人は早くも船橋に向かって歩き出していた。シャノンもまた、それに遅れないよう、後ろに付いて歩き始める。
「今回の件、副団長殿にとっては災難でしょうが、団長様を相手にしていた時よりもすんなりと事が運べそうですし、我々から言わせてもらえば、ありがたいですよ」
「え、それって、結局、僕一人が不幸になれば、全てが上手く回るってことかい?」
「かもしれません。いや、案外、団長様はそれを見越して仮病になったのかもしれませんな」
「ないないっ、それは絶対にないよ! 大体の予想だけど、苦労と責任は僕に押し付け、名声と功績は自分が貰う、って感じだろうさ」
「くくっ、そりゃあ、なんとも酷い世界ですなぁ」
「まったくだよ」
二人の話に余計な口は挟まず、それでいて耳だけはしっかりと働かせているシャノンであったが、突如として吹き付けた熱風をまともに受けてしまう。自然、女と言っても十二分に通じる顔を苦いものにして、砂海へと目を向ける。
その目に映し出された赤錆びて枯れ果てた光景は、帝都周辺に広がる草原や農場といった物がいかに貴重な物かを雄弁に教えていた。
ここで暮らすのは大変なんだろうなと考えるが、船橋が近づいてきたことで視線を元に戻したこともあり、それ以上は膨らまずに消えていった。
三つの人影が船内に消えた後。
推進器の点検を行っていた技師達が整備の締めとして、動力部に入り込んだ砂塵を加圧式空気洗浄機で吹き飛ばし始めた。
彼らの出発する時が近づいている。
* * *
再び第十九番遺構。
暗闇の中で、独り寂しく泣いていたクロウであったが、涙を流すことで様々な重圧に負けて裂けてしまった心を繕い、甘味や塩が含まれた調整水を飲むことで水分を失い疲労した身体を癒すと、めげることなく行動を開始していた。
手始めに階段前の警戒線を撤去した後、忍び込んでくる恐怖心と戦いながら、階段をゆっくりと下り始める。
照明器で照らし出された階段はその途中に踊り場があり、そこで折り返す形で続いていた。
一段一段と降るにつれて、後ろから届く陽の光が弱くなる。闇が色濃くなるにつれて、彼の内に潜む不安が強くなる。
先と同じく、自身を蝕み始めた恐怖を紛らわせようと、人が火を生み出すはずだと、半ば関係ない事を考えながら踊り場に降り立つ。
そして、その先の階下に続く階段に目を向けた所で、思わず顔を顰めた。
奮起して進み始めたことを嘲笑うかのように、あるいは、その折れそうな心を試すかのように、踊り場より見下ろす先、地下二階と階段部とを繋ぐ床面が完全に崩落していたのだ。
少年の中で迷いが、進むべきか退くべきかという葛藤が生まれてくる。
進むべきだ、自らが決めたことは最後までやり通せ。
……いや、ここは大人しく退くべきだ。階段が途中で途切れて無理だったと言えば、マッコールさんもわかってくれる。
けど、あの子の涙を見た時、お前はどう感じた。
……そんなものは感傷、感情に流された一時の気の迷いだ。己の命に勝るものはない。
確かに、感傷や同情で安請け合いしたかもしれないが、ここで安易に折れてしまうようでは、自らの望みを達成できる訳がない。
……命があってこそ望みをつなぐことができるし、可能性が生まれてくる。
違う、やり遂げる意志こそが重要なんだ、ここで逃げてしまうようでは、故郷を復活させるなんて大きなことができるはずがない。
……しかし、死んでしまっては終わりだ。死者は何も為せない、そこで終わりなんだ。
両極端な考えが彼の心中で次々に囁かれる。
その間にも、彼は階段の周囲に照明を当て、情報を収集する。そう、両端に対立する意見を乗せた天秤が、どちらかに傾くような情報を見い出すために。
クロウが最初に目を向けたのは崩落部。
階段部より地下二階の出入り口までの距離は、彼の目算では大凡五リュート。その間にある大きく底抜けした箇所を照明器で照らすも、その光を容易に呑み込む程に深い。
目を転じて、出入り口に視線を向ける。
人が立てそうな足場がない為、飛び移るような真似は難しい。仮に出入り口側に行けたとしても、出入り口自体が頑丈そうな金属扉で閉められており、それが開くかどうかも定かではない。
事実上、地下二階への侵入は不可能であり、この先に件の人物はいない、と彼は結論を出してから、階段脇の壁面を見やる。
灰色の壁は地下二階出入り口前の踊り場部分が抉れていた。人工石造りの壁面を抉る程の力が解放された結果、床が落ちたことを窺わせる。
更に顔を動かして観察を続けると、壁の反対側、階段に備えられた手摺り部分に、エフタ市で市販されている強化ロープが結ばれていた。比較的に新しさを感じさせる赤色のロープは、地下二階と地下三階とを結ぶ階段部まで垂れ下がっている。
クロウは目当てのグランサーはこのロープを使って降りて行ったのだろうと推測し、心中の天秤を捜索続行へと傾けた。道が途絶えていない以上、進める所まで進むべきだと決断したのだ。
断を下してからは早かった。
背の荷物から強化ロープを取出すと、先に結ばれているロープに程近い場所に結び付ける。これはクロウ自身が単独で行動している事を踏まえての、いわば念には念を入れての措置というもの。一方が切れても上がれるようにする為の保険である。その他にも、彼が背負っている荷物を降ろす為という現実的な理由もある。
垂れ下がっているロープと新たに結びつけたロープ、その両方を背負子に結び付けて、ゆっくりと降ろした後、今度は彼自身も降りていく。
「……ん?」
その途上、照明に照らされた壁面の一部が僅かに燐光を放ったように見えた。
その為、クロウは地下二階と地下三階とを繋ぐ階段に降りると、何か反射する物でもあったかと再確認する。けれども、彼が光ったと思った踊り場の壁面には、他となんら変わらない人工石の壁が広がるだけである。
それでも彼は首を捻りつつ目を向けるのだが、どう見ても異常な点は見当たらない。なので、暗闇と恐怖で心身が鋭敏になり過ぎた所為で勘違いでもしたのだと、自身を半ば強引に納得させた。
クロウは頭の片隅に違和感を残しながらも、地下三階へと続く階段の先へ光を送る。
今にも闇に負けそうな光の中に、かつては地下二階部の床面であり、地下三階部の天井であった瓦礫が積み重なっていた。そして、その瓦礫の奥には、人一人が辛うじて通れそうな地下三階へと繋がる出入り口が微かに見えた。
クロウは背負子を手に持って階段の半ば、無秩序に広がる瓦礫の前まで進み、その周辺に求め人の手掛かりはないか、周囲を一通り見回す。
瓦礫の中には人工石に使用されていたと思しき金属が見える、が、人が使うような品はこれといって見つからなかった。その代わりにとは言わないが、瓦礫に積もった塵埃に、複数の足跡らしきものが残されていた。
崩落時に発生したと思しき塵埃に残された足跡は、幾つかは地下三階へ、また、幾つかは更に階下へと続いている。
瞬間、どちらに行こうかと、彼は迷うが、特に手掛かりが見当たらないのだからと、順当に地下三階に入ろうとした。
……しかし、何故か、足が進まない。
クロウの本能、あるいは、不可解な感覚というべきものが、そっちではないと訴えているかのように、動かそうとする足を引き止める。
普段の彼ならば、根拠がないと断じて自分で決めた通りに動いている所だが、今日は地下一階での失敗もあって慎重に動こうと考えている為、迷いが生じているのだ。
とはいえ、迷いの中でじっと足跡を見つめているだけでは、いつまでも動けない。
ある種の自縄自縛に陥った少年は先達の教えや経験談を思い出して、新たな判断材料にすることにした。
グランサーが遺構に潜るのは旧世紀の遺物を求めてのこと。
けれども、遺構には甲殻蟲が待ち受けている可能性が高く、危険が大きい。当然、危険を少しでも減らす為に、すぐに地上へと逃げられるよう、比較的に浅い場所で探すことが多い。
だが、これの逆に考えれば……、深い場所に足が延びないという事は、そこには価値のある遺物が残っている可能性が高いとも取れることになる。実際、そのように考えて、より深く潜る者達がいると以前に聞いている。となれば、地下三階よりも地下四階へと降りた可能性も十分に考えられるはずだ。
このようにクロウの脳内で推測が展開されたのだが、前提条件を冷静に捉えれば、浅い場所で作業するのが普通であるならば、探している人物も地下三階に入ったと考えて、素直に地下三階を探すのが筋である。
けれども、彼はあえて逆を取った。
何ということもない、クロウは地下三階に入らない理由を欲していただけなのだ。
その事を自覚できないままに、彼は背負子を背負うと、塵埃に残されている足跡を通って瓦礫を乗り越えた。そして、地下四階へと降りるべく、地下三階の出入り口に背を向けた。
上階崩落時に転がり落ちたと思しき瓦礫を避けながら、クロウはゆっくりと階段を降りていく。その途上、彼自身も錯覚だとわかっているのだが、一歩一歩と降るにつれて、周囲の闇が色濃くなっていく感覚に襲われる。
この如何ともしがたい恐怖と不安を胸に抱えながら、それでも降りていき、上階と同じく踊り場に到達する。
そこから更に下の様子を覗き見ると、地下四階に繋がる出入り口があった。地下二階のような扉はなく、開放されている。更に階段自体もまだ階下へと続いているのがわかった。
どちらに進むか、クロウは一瞬だけ迷う。
だが先に考えた推論もあり、更に下へと進むことにした。
階上と共通した構造を持つ階段を静かに降り、これまでと同様に踊り場に至る。
そして、先程までの手順と同じように、そこから階下の様子を窺う。
地下五階の扉は閉ざされ、階段もそこで終わっていた。
クロウは息を吐き出して、肩の力を抜く。
階段の終点に至った事と階段部に脅威が存在していない事がわかり、少しばかり安堵したのだ。
僅かに気を抜いた彼は、床が落ちていた地下二階と違って扉に近づけることもあり、閉ざされている扉に歩み寄る。
巨大な金属製のそれはしっかりと扉に密着している上、取っ手のようなものもない。また重量もある為か、腰を落として踏ん張りを作って押してもビクともしなかった。
人の手には負えない扉を前にして、彼の中で、捜しているグランサーが地下五階に入り込んだ可能性が消える。
「となると、三階か、四階か……」
意識せず、そう口に出して呟くと、クロウは階段を昇り始めた。
何事もなく地下四階の出入り口まで戻ってくると、彼は光を弱め、例の如く耳を澄ませた。
現状において、階段部に脅威がないとわかっている為、彼の心はこれまでよりもずっと落ち着いている。
それが功を奏したのか、痛覚に似た物を感じるまでに敏感になった聴覚は、彼自身の息遣い、鼓動、関節や筋肉が動く音といったものから、地下の時が静止したような空気を伝わってくる音……、階上から極々僅かに聞こえる風音、時に砂塵が擦れ合う細い摩擦音といった様々な音を拾い上げていく。
だが、音の中に、彼以外の生物が奏でる音はまったく聞こえてこない。
そして、それが意味することは、二つ。
向かう先に甲殻蟲が存在する可能性が低いという事と、捜している人物が生存してない可能性が高いという事。
この事実を認識した少年の感情に悲喜が入り混じるが、それもほんの一時だけ。クロウは湧き起こった感傷を振り払うと、再び照明器の光量を増やして、地下四階に足を踏み入れた。
階段の出入り口から地下四階に入ると、すぐに階段より一直線に延びる通路とそれと同じ幅の通路が交差して、十字路を形成していた。
クロウは取り敢えず、選択できる三つの中から、出入り口より真っ直ぐに続いている通路を進むことにした。照明器で照らしながら、大凡で二リュートから三リュート幅の通路をゆっくりと歩いていく。
光の中に浮かび上がった通路の壁面はこれまでの人工石造りといった感はない。淡い黄色を帯びた灰白色の上塗りが為されており、無機質さを減じさせている。
また、その柔らかい色をした壁面には、一定の間隔で扉が設けられていた。それを見たクロウは、自身が住む集合住宅を連想する。
もしかしたら、ここは居住空間なのかもしれないと考えながら、通路を進んでいく。グランサーとしての習性というべきか、彼は並んでいる扉一つ一つに触れては、開くかどうかを確かめる。しかし、金属製の扉はそのどれもが固く閉ざされていて、中に入る事は叶わなかった。
少しばかりの役得すらままならない現実に、少年は嘆息する。
次に、ここに来る機会があれば、絶対に鉄梃を持って来ようとクロウが決意を固めていると、その行く先に十字路が現れた。念の為の措置として、それぞれの方向に視線を向け、特に異常がないと判断すると、引き続き真っ直ぐに進む。
すると再び、両側の壁面に扉の列が現れた。諦めを知らないというべきか、クロウはその全てに手を出して、開くかどうかを確かめる。
だが、無情にも、そのどれもが開かない。
今日は運がないと、先程よりも重い溜め息をついていると、また十字路に出くわす。気を入れ直したクロウは、ここでも三方向へと警戒の目を送る。特に注意を引くものがないと見ると、先と同様に真っ直ぐ歩き始めた。
そして、進んだ通路の両側には、これまでと同じく扉が並んでいて……、結局は、全てが開かなかった。
少年はがっかりと肩を落として項垂れる。
いくら旧世紀の遺物が目当てではないとはいえ、目にする機会すらないとなると、落ち込むなという方が厳しい話である。
怖い思いをしてここまで来たのに、少しぐらいはと、若干、やさぐれるクロウ。
しかし、前方に広がる光が通路の終点に至ったことを示す壁面を映し出すと、表情を引き締めた。辿り着いた通路の片端は、別の通路と交差する三叉路であった。
「……ぇ?」
突然、クロウの口から驚きの声が漏れ出る。
一瞬だけ、光を受けていた壁が淡い燐光を放ったように見えたのだ。彼は目を瞬かせながら壁に近づき、燐光が見えた辺りを注視する。けれど、見た目には特に変化はない。
とはいえ、二回も似た現象を目撃したこともあって、何かあるのではないかと、少年は不審を抱いた。
そこで、燐光が見えたと思った部分を削り取れないか、試してみようと考え、腰のナイフを引き抜こうとその柄に手を添える。
その途端、こんな馬鹿馬鹿しい真似をするよりも、早く先に進んで捜索をした方が良い、との思いが急に湧き起こってきた。
俄かに沸き起こった思いを吟味しつつ、ナイフの柄に手を添えること数秒……。
今日は慣れない事をしてるから、普段以上に疲れている見間違えたんだろうと、クロウは結論付け、ナイフより手を放した。
それでも、そこはかとない不快感を感じつつ、彼は分かれ道のどちらに行くべきか、それぞれの方向へと視線を向ける。
通路には外側にだけ扉が並んでおり、それが光の届かない先まで続いているようだ。
選ぶことができる二つの選択肢を交互に眺める内に、クロウは歩いてきた通路から見て、左側の方向に気を取られ始めた。
何故か、その方向に顔を向けると、どこかで聞いた覚えがあるような懐かしさを覚える声が、彼を呼んでいるような感覚に陥るのだ。
その感覚に導かれるように、あるいは誘惑されるように、クロウは通路の一方向へと歩を進め始める。
一歩また一歩と歩むうちに、彼の意識に霞がかかっていく。幾つか開いている扉を前にしても、それらに意識を取られることもない。つい先程まで目についた扉全てを一つ一つ触っていたにもかかわらずである。
少年は何かに魅入られたかのように、ただ前だけを見て歩いていく。
そして、通路の行き止まりにまで到着すると、どこか虚ろな目で最奥にある閉ざされた扉に手を触れた。
彼が手を触れた扉、その表面に紋様が浮かび上がり、それをなぞるように赤い燐光が放たれる。
しかし、クロウは、その燐光が先程まで気にしていた光と似ているというのに、また光が収まった後で勝手に扉が開いたというのに、まったく気にする素振りを見せず、何かに操られるように、室内へと入っていく。
照明器が照らし出した室内は、壁面を覆うように幾つもの書棚が並んでいた。
また部屋の各所には、工具と思しき道具類が幾つも転がる大きな作業台や炉に似た何か、無造作に置かれている同型の箱が数個、鈍い光を返す金属塊、大型の箱型機械、図面が引けそうな製図台といった物が配されており、書斎と工房を足して割ったような空間であった。
この職人か技師の部屋と呼べそうな空間にあって、一つだけ異彩を放つものがあった。
それは床に大きく描かれた複雑な大紋様だ。
その大紋様は大枠となる大円の中に様々な幾何学模様が描かれており、また、それらに調和するように文字らしきものがびっしりと刻み込まれている。
そんな大紋様にふらふらと引き寄せられた少年は、焦点の合わない目でその中心に立ったかと思うと、腰のナイフを引き抜き、自らの左手に押し当てて……。
「ぃつぅ!」
クロウは唐突に感じた痛みで覚醒した。
先程まで何をしていたのか思い出せず、また今、何が起こっているのかも理解できず、ただ意味をなさない言葉だけがその口から溢れ出る。
「え? こ? ど? え? お、れ、なに、を?」
少年の左手と右手のナイフから滴り落ちた血。
微かな粘性を持った赤い液体は、大紋様に吸い込まれていく。
次の瞬間。
紋様に沿って、赤い燐光が一息に広がった。
クロウは混乱したまま、それを見つめるのみである。
「こ、れ……、って、止血!」
それでも左手の痛みと流れ落ちる血、自分が握っているナイフから自傷した事に気付き、ナイフを放り投げた。ついで、腰バッグより布を取り出し、掌の傷口に当てて、しっかりと縛り付ける。
その間にも赤い燐光は輝きを増していく。
現状を理解していなくても、何かがとてつもなく拙いと悟ったクロウは、大紋様から離れようとする。
「ぇっ? ち、ち、から、ぬ……け……」
が、身体の中より何かが急激に抜けていくのを感じたかと思うと、最後まで言葉を発する事すらできないまま、眩い光を放ち始めた大紋様の中へゆっくりと倒れ込む。
もはや、考えは像を結ばず。
静かに、その意識を手放していった。
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