二 荒神去りて
旭陽節第三旬八日。
第三旬に入ってから日を追うごとに弱まっていた風が止まり、宙を乱舞していた砂塵は久方振りに大地へと帰った。それに伴い、ゼル・セトラス大砂海域の空を覆っていた風塵の層が消えていき、光陽の眩い輝きと高く遠く広がる青が空に戻ってきた。
大砂海域に住まう民は約二旬振りの青空と日差しを受けて、重苦しい閉塞より開放されたことを実感し表情を緩める。
天高く輝く光陽はゼル・セトラスの常。例え、日を経るにつれて酷暑をもたらすことになっても、繰り返される日常を象徴する掛け替えのない存在なのだ。
砂塵纏う暴君が北へ去ったことで、エフタ市においても陰鬱な日々は終わりを告げた。人々はこの二旬の間に溜まった空気の淀みを払おうとするかのように街に繰り出す。
東の空より昇ってきた光陽の下、緑地帯や路地で子ども達がはしゃぐ声が響けば、東西通りでは家計を預かる奥様連と店主達の熾烈な値段交渉が行われる。大量に雇われた人足が最後の締めとばかりに、街路や屋根に積もり溜まった砂を回収していく。繁華街では市民が砂嵐の終焉を祝い、近日の出航を前に船員達が酒色に溺れる。都市の外周道を担う市壁循環道でも荷車が列を為し、砂嵐の間で作り溜められた諸製品や魔導船の需要品を次々に港湾地区の倉庫へと運んでいけば、溜まりに溜まった下水も郊外にある処理施設へと運搬されていく。
また、エフタ市軍の動きも慌ただしい。港湾警備で使用された陣地の撤収準備が為される一方で、機兵隊による市周辺域の巡回及び甲殻蟲の掃討が行われている。加えて、港湾地区の市軍港では砂嵐明けの定例となっている周辺開拓地や郷への巡察を行うべく、市軍艦隊のバルド級小型魔導船が出航準備に追われていた。
先日までとは比較にならない程に動きを見せるエフタ市。
その中心部にあたる中央地区は組合連合会本部でも、これから大砂海各地で始まる各種復興支援や関係機関との調整の為、従来より騒がしく動いている。
この喧騒は様々な部署が収まる下層階のみならず、幹部らが執務を行う上層階にも及んでおり、指示を出す声や人の出入りが頻繁に行われている。
とはいえ、それは全てに当て嵌まる訳ではない。青髪の麗人が領する執務室及びその周辺は普段と変わらず落ち着いた風情を醸し出していた。
「なんか、ここだけ別世界ね」
そう口を開いたのはミソラ。
魔導仕掛けの小人は部屋の主からの呼び出しを受けて、助手と共にここまでやってきたのだ。今は地下の翻訳書庫へ資料を漁りに向かった助手と別れ、一人で部屋の主と面している。
「初手で行うべきことは、前もって指示を出しておきましたから」
その言葉に部屋の主が応じる。小人は神妙な顔で口を開いた。
「やっぱり不測の事態に備える為?」
「そうですね。何分、突発的な出来事はその言葉が意味する通り、唐突に発生する物ですので」
「あー、もしかして」
「ええ、例えば、借り物の倉庫で床に大穴を開けるような事態などがわかりやすいでしょう」
「あは、あはは、そ、そーなんだー」
ミソラは視線を明後日の方向へと飛ばし、やっぱり今日の呼び出しは先の件の処分かと嘆く。
そして、できれば穏便に終わりますように、減俸が少なくて済みますようにと、天の光陽に祈った。
小人の態度からその内心に気付いているのかいないのか、部屋の主ことセレス・シュタールは表面的に微笑みながら淡々と続ける。
「ええ、何か問題が起きても直に対処できるように仕事を進めていましたから。市庁に出向いて関係部署や市長に謝罪して、数少ない休日が一日潰れた程度で話を付けることができましたので、ええ、後始末の一つや二つ位、どうというものではありません」
青髪の麗人が後始末した件とは、先日、魔導鉄槌の試験で起きた床面の粉砕事故のことである。
この事故での被害は大きく、床面に直径三リュート程の大穴を作り出し、大地を抉って直下にあった地下遺構まで貫通するという事態を引き起こしていた。
「あー、あー、その節は、ごめんなさい」
先の試験責任者であった小人は降参と言わんばかりに平伏した。それで溜飲を下げたという訳でもないだろうが、麗人はその感情のない微笑みをいつもの苦笑に変えて告げた。
「ふふ、冗談はこれ位にして」
「……その割には結構真に迫ってたんだけど」
「そうですか? ならば、私の演技も捨てた物ではないですね」
今のは本当に演技だったのか、とミソラは顔をあげながら心中で小首を傾げる。が、危険をおしてまで藪を突くのも馬鹿らしいと考えて、話を進めた。
「それで、件の処分は?」
「再発防止に努めて下さい。減俸四分の一、一旬です」
「……短くない?」
「長い方がよろしいですか?」
「う、よろしくないです」
小人はぶんぶんと首を大きく振って見せる。セレスは頷くことでこの話は仕舞いだと示すと次の話へと移った。
「開発室の移転は終わりましたか?」
「うん、昨日でやっと終わったわ。それで忙しくて、後始末のことを詳しく聞く暇がなかったんだけど、あの倉庫、結局どうすることになったの?」
「協議の結果、大穴を活かす方向に定まりました」
大穴を活かす方向というのが想像できず、ミソラは首を傾げる。
「具体的には?」
「大穴を拡張して、直下の遺構との連結路を建設。地下の空間を備蓄庫として使います」
「それって危なくないの? ほら、遺構から蟲が入ってきたりとか」
「幸い、あの遺構は過去の市域拡張の際して、市が既に調査して市外に繋がる通路を全て封鎖していたそうです」
「あ、そうなんだ。まぁ、手当てしないから大丈夫なんだろうとは思ってたけど、それを聞いて安心したわ」
ミソラは安堵の息を漏らす。セレスもまた同意を示す為に頷いた。
「そうですね。こればかりは運が良かったと思います。あぁ、このことに関連してなのですが、現地を調査した市軍務局の方から、この惨状を引き起こす魔導鉄槌とはいかなるものや、との問い合わせがありました」
「もしかして、危険だから開発中止しろって感じ?」
「いえ、見聞きした感触としては、興味七割、恐怖三割といった所でしょう。上手くいけば、軍卒の個人装備に採用されるかもしれません」
「そっか。なら、今回の損害への補填になりそうね」
小人は少しほっとした様子を見せた。その一方でセレスは表情を改めて、静かに問いを発した。
「それは今後の展開次第です。さて、私からも件の魔導鉄槌について、お尋ねしたいことが幾つかあります」
「うん、どうぞ」
「率直に……、頂いた報告書には使用した魔術式に問題があっての暴走としてありましたが、実際の所は何が原因で起きたのですか?」
この問いかけに対して、ミソラは腕組みをして沈黙。麗人の怜悧な眼から逃れるように目を逸らす。窓の外には青空が広がっている。空とぼけするミソラに、セレスは微かに片眉を上げると推測の一矢。
「彼の人の体質ですね?」
「あはは、やっぱりお見通しか」
「目を通した計画書の魔術式には、これといった不備はありませんでしたので」
「なら、そっちにも手を入れた方が良いわね」
小人は小さく呟くも、じっと見据えて答えを促す視線に負け、答えを返した。
「ご明察。セレスが言った通り、あれはクロウが一番の原因よ」
「……だいたいの想像はついているのですが、当事者の口から説明を受けたいので詳しくお願いします」
「はいはい。セレスも知っていることだけど、クロウの身体。どういう仕組みか、尋常でない程に魔力の吸収効率が良いから、そこら辺の魔術士が屁でもない位に魔力を貯め込んでいるでしょ」
麗人が覚えている事を首肯して示すと、ミソラは続ける。
「その魔力を有効利用できないものかと考えて、前にやった実験で魔力の契約を魔蓄器と結んだの。ま、さしづめ、自動魔力生成付生体魔力貯蔵庫の出先って所ね」
「それを今回の試作品に使われたのですね?」
「そう。それを使って魔力供給量を無制限にした結果、今回の事故につながったわ」
「ならば、普通の魔蓄器を使えば、魔導鉄槌自体に問題はないのですね?」
「それは大丈夫。一般的な魔蓄器を使用した場合だと、あそこまで絶対にいかないわ。仮に魔蓄器の魔力量を増やしてできたとしても、一撃で魔力が空っぽになるし、単発の必殺技って感じに落ち着くと思う」
セレスは口元を覆うように手を当てて、瞳を閉ざす。けれども、それはわずかな時間であった。
「わかりました。事故の原因については必要な部分の書き換えでもって隠蔽する事を認めましょう。ですが、通常仕様の魔導鉄槌については、私の方で開発を引き継ぎます」
「あらら、私、信用なくなっちゃった?」
「さて、どうでしょう」
元の姿勢に戻った麗人は口元を吊り上げて、秀麗な顔に笑みを刻む。
「うわー、その笑い方、こわーい」
「そうですか? 世話になっている方々の笑顔を参考にしているのですが」
セレスは常の平静さな表情のまま、不思議そうに首を捻る。実際の所、今し方に浮かんだ笑みは傍から見ても十分に怖いモノであった。
ミソラはクスクスと笑いながら告げる。
「男を寄せ付けたくなかったら今の笑顔でいいんじゃないかしら。肝が据わっていない奴だったら腰抜かすかも」
「なるほど、そういうことならば、ここぞという時に出しましょう」
麗人は気抜きの会話を冗談めいた言い方で締めると、再び表情を引き締めた。
「では、話を戻します。先に言った通常仕様の魔導鉄槌についてですが、これはエフタ市軍の協力を得て完成させる形にしたいと思います」
「今回の件の迷惑料ってとこ?」
「それもありますが、こうした方がそちらの開発が進みそうですから」
「おー、そういう考え方もできるか」
「ええ、ほぼ完成している物は外に任せて、新たな開発を進めて下さい」
上司が示した方針に対して、ミソラは腕組みして考える。
製品になるまで面倒を見るつもりだっただけに、中途半端に携わるのを終わってよいのかと。
三十秒程うんうんと唸った末、小人は妥協を見い出して答えた。
「先の試験結果を踏まえて、設計図に少し修正を入れたいので、それを待ってほしいのが一つ」
「認めます」
「後は、引き続いての開発で何か問題が起きた時はこっちに伝えてほしい事と、何らかの事故が起きた場合はうちの開発室に戻して原因を調べたいって所かな」
「前の分は無条件で、後の分は原因究明作業に市軍側の担当者が参加できるのならば、認めます」
「わかった、それでお願い」
双方の落とし所を見い出して、魔導鉄槌に関する話は終わった。
ミソラとしては先の事故の後始末が明確に終わり一安心といった所であったが、セレス・シュタールにとってはここからが本番であった。
青髪の麗人が小人を招いた本当の理由、それは赤髪の少年の扱いに関してである。
本来ならば、彼女が口出しするような事でもないのだが、今回の試験を経て、気に掛けなければならない程の価値が少年に生じてしまった結果だ。
セレスはふっと息を吐いた後、小さな魔術師に問いかける。
「それにしても、何故このようなことを為さったのですか?」
「……それは、クロウのこと?」
「ええ、彼の人の体質を有効利用したいと言われたのは事実でしょう。ですが、それは利用できるようにすることは、彼の人にとって諸刃になるように思われます」
今回の試験で示されたように、条件さえ整えれば、クロウは力尽きるまで魔導器を無制限に操り、強力な力を振るうことができる。上手く扱えれば、非常に有用なのは間違いない。
けれども、強大な力は時に周囲からの嫉視や恐怖を呼び込むこともあるし、内包する魔性によって惑わせ驕慢に陥らせることもありうる。その結果、迫害されたり追討の対象になることも。
力に付随してくる諸々と上手く付き合えなければ、行き着く所は滅び。これは昔から変わることのない真理の一つなのだ。
いや、そもそもの話、クロウが持つ高い魔力吸収力と蓄積能力は類い稀な才である。この事実が内々で収まっている間は良いが、仮に公になった場合、少年の生活は間違いなく一変することになってしまうだろう。
魔術士の家系から見れば、魔術を扱う才は無くとも、その血……種は十二分に争奪の対象となり得るものなのだから。
麗人は以前より懸念していたことを思い浮かべ、微かに表情を曇らせて続けた。
「相応の装備があれば、彼の人の有する力は跳ね上がる。事実、私も無視しえない力を持ったと見ています。今、こうして話をしているように」
「あー、やっぱり注目しちゃうか」
「ええ、以前、あなたが私を嗾けたように、使い方次第で有用な駒となりますから、これまでとは違う目で見ましょう。……ですが、あなたはそれでよろしいのですか?」
小人は答えない。セレスは答えを促すように更なる言葉を重ねる。
「彼の人が力を振るうことで内包する性質が公になれば、今の生活は確実に崩れるでしょう。それなのに、何故あえて?」
「あら、クロウの事、心配してくれるんだ」
煙に巻こうとするような揶揄に対して、セレスは微塵も表情を動かさぬまま冷静に切り返す。
「時の状況によって振り回される。その姿は他人事とは思えませんので」
「あれー、ちょっと期待した惚れた腫れたは?」
「絵空事でしょう」
セレスは戯言を戯言と切って捨てると話を続けた。
「あなたは口でこそ色々と言っていますが、動く時は彼の人に益があるように動いています。ですが、今回の件は不利益も大きい。その点が気になるのです」
「だから、その理由が知りたいと?」
「ええ、これより先、私は彼の人を一個の有力な駒として考えます。ですが、彼の人を上手く扱えなければ、あなたからの信用や協力を失ってしまうことに繋がりましょう。故に、私は知らねばなりません。彼の人の最大の助力者たるあなたの、その根底にある彼の人に対する思いを」
麗人の直截すぎる物言いに、ミソラは些か気分を害した様に渋い顔を見せる。
「それはまた、現実的な理由で人の心に突っ込んでくるわねぇ」
「目を逸らしても現実は変わりませんし、為さねばならぬなら嫌われても為すと決めていますから」
「なんとまぁ、損な性分。下手に言い繕わないで面と向かって言う分は好感は持てるけど、私生活で良い人を見つけるのは大変そう」
「血と家は兄が紡いでくれるでしょうから、構いません」
「イキオクレの覚悟完了済みとなっ? おぅ、納得! それは確かに怖いもんなしだわ、うん、怖い怖い」
小人は厭らしい笑みを浮かべながら身体を引いて、わざとらしく身体を抱きしめた。だが麗人は表情を緩めず、ミソラを見つめ続けた。そのまま一分近い時が流れ、ミソラは根負けした様に溜め息をついた。
「もうちょっとくらい突っ込んでよ」
「いい加減で止めておかなければ、うやむやに誤魔化されますので」
「そりゃあ、口先あっての魔術師ですので」
「それは詐欺師や講談師の類でしょう。さて、教えていただけますか?」
「はいはい。今回の件をやったのは、やっぱりクロウに死んでほしくないから、かな」
ミソラは一度語を切ると、自分の内にある想いをゆっくりと確かめるように声に乗せていく。
「クロウはね、今の私を真正面から受け入れてくれた最初の人であり、見返りなしに拠り所になってくれた希少な存在。そして、今の荒涼とした世界でも人が人として生きている事を行動で示してくれた人なの。……ま、簡単に言えば、今を生きるのも悪くないって思わせてくれたのよ」
件の少年を思い浮かべ、クスリと笑う。
「だってさ、碌な報酬も約束されていないのに、危険地帯に入り込んで行方不明者を探そうとするなんて、そんなお人好し、そうそういないわ。しかも、目の前で蟲に襲われそうな人を咄嗟に動いて助けたり、こんな形の、得体の知れない存在である私を信じたりするし、……ほんと馬鹿」
そんな言葉とは裏腹に、小人の表情はどこまでも柔らかい。だが、それも静かに沈んでいく。
「本当に、馬鹿よ。あの環境に、あの装備で、よく無事でいられたものだわ。もし私と会う前に運悪く蟲と鉢合わせなんてしていたら、高い確率で死んでいたでしょうね」
小人はなんとか表情を作って繕おうとするも、無駄なことだと諦めたのか、表情自体を消した。
「人が暮らすには厳しい環境に加えて、甲殻蟲なんて天敵が跋扈しているからか、今の時代の方がかつて私が生きていた時代よりも死の危険が格段に多い。言葉を飾らずに言えば、命が安いって所かしら」
そして、残ったのは透徹な目。
「まぁ、文明が一度滅びたんだから仕方がないと言えば仕方がないわ。人の命に代替できる便利な物が消えてなくなったんだもの。だから、今の世界は死がより身近にある。それが当たり前の、当たり前になった世界。今日は生きていても、明日には死んでいるかもしれない、そんな世界」
感情の色がなくなった顔は整い過ぎた容姿を浮き彫りにし、小人が造られたモノであることを明瞭にする。
「無論、死ぬこと自体は決して避けえないことだし、遅いか早いかの差があるだけで、生まれた命は尽きるのが定め。私みたいに人の範疇から外れてしまわない限り、何人も逆らうことができない自然の摂理である以上、こればかりは生きとし生けるモノ、全てが受け入れるしかない」
人ならざる者は寂しげな声で淡々と言の葉を紡いだ。セレスは声音から小人の隠し切れない孤独感を感じ取るが、黙して続く声に耳を傾ける。
「でも、いえ、だからこそ、その限られた生の中で、少しでも長く生きてもらいたい。どんな困難に打ち当たっても負けないで生き残れる可能性をあげたい。この厳しい世界の中で、自分の願いを、クロウがやりたいことを叶えさせてあげたい。その為の力を、私はクロウに与えたいと思ったの」
セレスは聞き取った内容を吟味するように時を置いた後、改めて反問する。
「ですが、その与えた力が彼の人の滅びを生む。そんな本末転倒な事態を引き起こすかもしれません」
「あははは、うん、確かにそうなることもゼロではないわね。けど、そんなことで萎縮や躊躇をしていたら、どんなこともできやしないわ」
先程までの無機質さが一変。小人は生の息吹を吹き込まれたように活き活きと笑い、告げられた懸念など知った事かと言わんばかりに言い切る。
ミソラはセレスを見上げると、不敵な笑みを浮かべて続けた。
「ええ、面倒な事が起きるかもしれない。与えた力が問題を生むかもしれない。でも、それがどうしたっていうの? 人の目や他人の事を気にしてたら、なーんもできやしないわ。私は私がしたい事を為し、その結果が私にとって不本意な物になりそうならば、それを本意な方向に捻じ曲げじゃない、正すわ」
「その言い分、呆れてしまう程に傲慢ですね」
「傲慢結構よ。……私はクロウに力を与える者として、その事から引き起こされる事態に対して、介入する権利と後始末をつける義務を以て、結果への責任を負うわ」
ミソラは不敵な表情を変えぬまま、小さな体で精一杯胸を張る。一方の麗人は珍しく呆れの色を見せながら評した。
「大言ですね」
「傲慢な女ですから」
「そこまでの覚悟があるならば、私からもう何も言うことはありません。彼の人に関することはあなたの存念のままに」
セレスからの黙認ないし信任を受けると、今更ながらにミソラの中で照れが生まれてきた。なにしろ胸の内にある想いを長々と告げたのだ。身悶えしそうになる気恥ずかしさが心から満ち溢れてしまい、ミソラは自然と照れ隠しの言を述べた。
「あー、なーんか、今になって恥ずかしくなってきたっていうか、えーと、その、ちょっとばかり過保護だったかしら?」
「そういった加減は私には答えられない事ですね。ですが、時々自称されている、おねーさんとしてはよろしいのではないでしょうか。……さしずめ、独り立ちをした弟を常々気に掛けている姉か、弟の不始末を困った顔で笑いながら後始末してまわる姉、といった観ですね」
「あはは、うん、そうね、そう思うことにするわ」
表情を緩めたセレスの冗談交じりの言葉に、ミソラは陰のない笑みで答えた。
* * *
唐突に鼻の中がむず痒くなり、赤髪の少年は盛大にくしゃみをした。
「あの、エンフリードさん、大丈夫ですか?」
「うん、ごめん、大丈夫」
幸いにして並んで座っている相手とは反対側を向く事ができたので、飛沫が降りかかることは無かった。だが、不作法であることは変わりはない。クロウは話し相手である眼鏡の少女、エルティア・ラファンに軽く謝ると話に戻った。
「やっぱり、ファルザモラ工房の十二年式が一番の候補かなぁ」
「ですが性能面を考えると、最新の物の方が品質は良いですし、故障も少なくて安定して稼働しますよ?」
「なら、ラファンさんのお勧めは?」
「私が勧めるなら……、これですね、バルケン魔導重工が今年の頭に出した十六年型。さっきも言いましたけど、魔導器製造大手が作っているだけあって品質が良いです。耐性実験では多少の衝撃を受けても壊れないという結果も出ていますし、安定感は抜群だと思います」
「むぅ、でもバルケンか。正直、今使ってる五年式の効きの悪さを考えるとちょっと信用できない」
「それなら、エンフリードさんが言っていたファルザモラが去年の中頃に出した最新式はどうですか? ここのは元から熱交換効率が良いですけど、十五年式では復魔器により上手く絡めることに成功したらしく、魔力の回収率がこれまで以上に高いです。間違いなく魔導機の稼働時間延長にも繋がります」
「うん、そこは気にはなったんだけど、五万だしなぁ。正直、そこまで出せる余裕はないよ」
クロウとエルティアが話をしている場所は総合支援施設の魔導機整備場、その傍らに設けられた休憩室だ。
そこで二人は机の上にパンタルが搭載できる空調機器の型録を広げて話をしている。なんとなれば、クロウが空調機器の買い替えについて相談した為である。
先日終了した港湾口警備の仕事で、空調の質は士気にかかわると身をもって体感したことに加えて、これからゼル・セトラス域が暑い季節になっていくことを踏まえて、クロウは替え時だと判断したのだ。
一方、相談を受けた整備場であるが、揉み上げの長い整備主任の一声でエルティアが担当である。
これはエルティアが整備場で一番付き合いが長く、またクロウに信用されていることを踏まえた結果だ。更に付け加えるならば、彼女に顧客対応をさせることで、更なる成長を促そうという狙いと、まだまだ他人行儀なクロウとエルティアの関係をより近づけて、より良い信頼関係を築かせようとするお節介もあったりする。
こういった年長者の思惑はともかくとして、仕事を任せられたエルティアは一所懸命だ。彼女はクロウの求めを聞くと、まずはと先の型録を出して来て、今現在出回っている空調機器の性能や見聞きした現場の評判、耐用試験の結果といったことを一通り説明し、今現在の状況に至っている。
「ぬぅぅぅう」
「ええっと、お茶、淹れますね」
クロウは渋い顔で型録を見つめながら生返事。
その煮詰まった様子から少し間を置こうと考えたエルティアは席を立って、片隅にある炊事場へと向かった。繁忙期ともなれば、泊まり込みでの整備作業もある為、相応に設備が整えられているのだ。
いや、実の所、繁忙期ではなくとも泊まり込む整備員が多々いる。よって、揃っていない物がない程に生活用品が置かれ、実に生活臭に溢れている。エルティアが入った当初など、奥の人目の付かない所に下着が堂々と干されていた程だ。その光景を目の当たりにした時、一部の先輩整備士が悲鳴を上げたので、彼女の記憶に強く残っている。
あれはないですよねぇ、と内心で苦笑い。
その間にも食品棚に目をやって、普段飲んでいる青茶に手を伸ばす。けれども、ここはより高価な紅茶にするべきだと考え直した。紅茶の入った袋を取り出して、急須に数匙。それから、薬缶に水を入れて魔導式の加熱台に乗せた。調節用の摘みを回して作動させると、発熱の術式が発動し薬缶の下にある部分が赤くなる。それを確認して、クロウと自身が使う茶碗を用意し始めた。
一通りの準備を終えると、少女はちらりと赤髪の少年の様子を窺う。
眼鏡越しに見える姿は先と変わらず、結構な厚さを持つ型録をめくりながら唸っている。いつも彼女が目にしてきた凛々しい少年とは異なり、悩む様子はどこか幼い。自然、エルティアの中で少し可愛いと思う感情が生まれてくる。が、ぶんぶんと頭を振って、その思いを弾き飛ばした。特に理由はないのだが、なんだかいけないような気がしたのだ。
もっとも、人が禁忌を恐れつつも手を伸ばす生き物である以上、抑制は一時だけである。彼女はお湯が沸くまでの間、ちらりと少年を見ては首を振ると言う一連の動作を繰り返した。
お湯が沸く音で先のせんなき循環から抜け出すと、エルティアは丁寧に紅茶を淹れ、整備士の顔で少年のもとに戻る。紅茶を零さぬようゆっくりと配して、声を掛けた。
「どうですか?」
「どれもこれも高いね」
エルティアからの問いかけに、眉尻を下げた少年は肩を竦める。
それから再び、型録内で並ぶ数字に目を向けた。基本、先頭の数字が変わるだけでゼロが四つ並んでいる。稀にあるゼロ三つを見れば、今クロウが使っている物と同じか同等の物しかない。
どう見ても変わらない現実に一つ溜め息をついて、背もたれに身を預ける。そのまま天井を見上げて盛大にぼやいた。
「本当に、高い。これ一つ買い替えるだけで稼ぎが吹っ飛ぶ」
クロウの嘆きに近い声音に対し、再び隣に座ったエルティアは困った顔で応じた。
「確かに高いと言えば高いですけど、相応の性能はあります」
「うん、それはわかってはいるんだけど……、あ、お茶、ありがとう」
「いえ、上手く淹れられているといいんですが」
「あはは、俺が入れるよりも絶対に美味しいよ」
クロウはそう前置いてから紅茶を一啜り。笑顔で頷いた。少女も安堵と共に微笑みを浮かべる。それから、両手でカップを持つとそっと口付け、柔らかく傾けた。
歳相応な笑みと仕草から薫る女の色、肩口で揺れる艶のある黒髪に繋ぎの下からでも存在を主張する豊かな胸。
今更ながらに意識して、少年は異性の色に少し気を取られる。けれど、努めて頭より追い出し、話の続きを口に出した。
「どうしても俺みたいな駆け出しは予算に限度があるし、ね」
「すいません。私がもっと上手く相談に応じられたらよかったんですけど」
「いやいや、その辺は大丈夫。実際、俺一人じゃどれがいいのかとかの判別は難しかったし、説明がなかったらもっと難儀していたよ」
本当に助かってると、少年の苦笑交じりの言葉。
だが、上司に仕事を任された上、恩人でもある少年から頼みにされているエルティアとしてはこのままでは終われない。彼女は自身の記憶にある先達……父の姿を思い出す。こういった相談を受けた時、同じく整備士であった自分の父はどういう風に話を進めていただろうかと。
しばらくの回想の後、エルティアが改めた様子で話し出す。
「エンフリードさん、提案なんですけど」
「うん」
「まずは最低限欲しい機能を見い出して、購入の基準を作りましょう。そこから予算と相談しながら、あれば良さげな機能を求めるとか、費用と効果の比較をするとか、そういった風に進めてみませんか?」
「なるほど、基準がないから適当になる。だから、あれこれと惑わされてしまうってことか」
「はい」
ならばと、気を持ち直したクロウが型録に向かおうとした所で、整備場と繋がる扉が開いて整備主任ことダーレン・ブルーゾが顔を覗かせた。
「あー、相談中に悪いが、エンフリード、お前に会いたいって奴が来てるんだが、どうする?」
「へ?」
盛り上がってきた勢いをいきなり削がれ、クロウの口から思わず気の抜けた声が漏れた。
クロウはエルティアに一言断ってから、ブルーゾと共に休憩室を出る。その途端、彼の耳に魔導機整備に係る喧噪が、鼻には機械油と粉塵の臭いが入り込んでくる。整備場特有の空気だ。
騒音と臭いに釣られて作業用懸架を見れば、外からの陽光と魔導灯の灯りの下、複数のラストルが簡易装甲を外され、内部の骨格や油圧管を晒していた。
ラストルは作業用の魔導機だけに、パンタルほどの重厚感はない。けれども、建機や重労働用として使われているだけあって、油圧管は太くて大きいし骨格の質感も頑丈で頼もしい。
そんなラストル全てに繋ぎ姿の整備士達が取り付いて、様々な作業をしている。
油圧で使われる機械油の汚れを点検する一方で、油圧円筒管からの油漏れが起きていないか調べていれば、簡易装甲にできた傷を補修材で埋める横で、骨格の歪みや魔力伝達管の断裂、操縦系配線の断線といった異常がないか一つ一つ見て回っている。また別の場所では、関節を動かす魔導器が故障していないか動かして検査したり、動きが悪い指先の部品を交換したりしている。
相談に来た当初とあまり変わらない光景に、クロウは表情を軽く緩めて言った。
「今日も盛況ですね」
「建設関連は次の休み明けからが本格稼働だからな。事前整備の依頼が多いんだよ」
「あはは、すいません、貴重な戦力を取っちゃって」
「まったくだ。で、どうよ、少しはラファンと仲良くなったか?」
「へ?」
年少の機兵が示した反応に、ブルーゾはなっちゃいないと天を仰いで嘆く。
「まったく……、お前も機兵なら、こういったことにかこつけて口説く位しろよ」
「いやいやいやいや、どうしてそうなるんですか!」
「そりゃお前、機兵と言ったら女が付きもんだろう。ほれ、例えば、ディーンだ。あいつなんざ、現役時代、女をとっかえひっかえだったぞ。……いや、あいつみたいになれとは言わんが、そういった女遊びもしてだな、生きている悦びをもっと実感して、生きることに執着心を持つようにしろ」
「は、はぁ」
急に始まった講義に、クロウは引き攣った顔だ。そんな少年の様子も頓着せず、ブルーゾは一番言いたかったことを口に出した。その証拠に目が据わっている。
「それとな、いい加減、ラファンを名前で呼んでやれ。本当に信頼や信用して自分の機体を預けているなら、それ位できるだろ」
「え、ええ。でも、いいんですかね?」
「……傍から見ればな、いつまでも他人行儀の方が問題だ」
「うぐ」
「今回、空調を買い替えるのも一つの機会だ。今日明日にでも、名前で呼び合えるようになれ」
有無を言わさぬ雰囲気に、わ、わかりましたと言葉を詰まらせて応じた後、少年は別の話題へと転換を図るべく口を開いた。
「ええと、それで、話を戻しますけど、なんで俺に会いに来たんでしょうね」
「さてな、と言いたい所だが、ま、仕事がらみだろうさ。お前も見知ってる奴なんだろ?」
「はぁ、なんか縁があって」
「なら話くらい聞いてやればいい。俺が見た所、そう悪い面じゃないからな、変なことは言い出さんだろ」
ブルーゾは軽い調子で言うと足を止め、クロウに来客を指し示した。出入り口近くに大柄の男が立っている。
クロウはブルーゾに礼を言って、見知りの男に近づく。市井に普及している赤黒い外套をまとい、顔だけを晒している。日に焼けた浅黒い肌と少し茶色掛かった黒髪。顔の彫は深く、引き締まった口元や真っ直ぐな目は芯の固さを感じさせた。
クロウは軽く腹に力を入れ、目の前の人物と記憶にある名前の照合を行うべく訊ねた。
「バッツさん、でしたね?」
「ああ、覚えていてくれたか」
「名前だけを言われた時は、咄嗟には思い出せませんでしたけど」
「それは仕方がない。これまで付き合いがあったわけじゃないからな。……改めて名乗ろう、俺はヴィンス・バッツだ」
クロウを訊ねてきた男、それは大砂嵐がエフタ市に居座っていた頃、市中で起きた傷害事件で知り合った青年グランサーであった。クロウは頷いて、自身も名乗る。
「クロウ・エンフリードです。……それで、今日は?」
「ああ、相談したいことがあるので、少し話を聞いてもらえないだろうか」
付き合いも浅いのに、この突然の言葉。そこから様々な疑問がクロウの中で生まれ、自然と首を傾げる。それを認めて、バッツは少し言葉に迷うように口を数回開閉させた後、続けた。
「エンフリード殿、俺がジラシット団という組織にいること、知っているだろうか?」
「ええ、その事はリューディス大尉から少し聞きました。孤児の互助組織だと」
「正確には、商会に拾われてグランサーをしている孤児の互助組織、だな」
なるほど、こういった組織があれば、組合運営の孤児院出身でグランサーをしていた自分とは縁が生まれなかったはずだと、クロウは内心で納得する。
少年がグランサー時代を思い出して複雑な思いに駆られていると、バッツが少し表情を曇らせて告げた。
「実は、これの存続が少し危うい状況になっている」
「はぁ、存続が」
元より縁がないだけに、クロウにはそれがどれほど不都合なのかわからない。また自身の経験も影響して、そう好意的でもない為、どうしても気のない返事が出てしまう。こういった言動が相手に与える影響……ちょっとした機微に配慮するに至れないのが、クロウの若さといえよう。
とはいえ、彼も相応に苦労してきているから、互助組織が無くなると困る人が出てくることを理解できる。そもそもの話、人の不幸を喜ぶような腐った性根でもないので、同情心も生まれてくる。そして、どうしてそうなったのか知りたいという好奇心も。
クロウは中から溢れ出た疑問の声に押されて、口を開いた。
「でも、どうして、そんな状況に?」
バッツは眉間に深く皺を刻んで沈黙する。そのただならぬ様子から、空気が重くなる。しばらく経ち、クロウが不味い事を聞いたかと思い始めた頃になって、ようやく口を開いた。
「先の事件、犯人はうちの団に所属していた奴だった」
クロウは告げられた内容を理解し、先のバッツと似た顔に変じた。この事が切っ掛けとなり、どこからか解散せよとの圧力が掛かったのだと、大方の事情を察したのだ。事実、続いた言葉はクロウの推測を肯定するものであった。
「結果、そいつが所属していた商会から、うちの団の存在が悪いという声が上がってな。他の商会も巻き込んで、ちょっとした争議になっている」
「なるほど」
「幸い、市軍の伝手……リューディス大尉が出張って、うちの存在が孤児による犯罪を減らしていると擁護してくれているから、即刻潰されるようなことはないだろうが、今後、状況はどう動くかはわからない」
クロウは腕組みをして唸る。また先のような犯罪者を生み出せば、潰される可能性が大いに高まるのは間違いない。
「なら、相談というのは、ジラシット団の後ろ盾?」
「いや、そこまでは求めないし、自分達以外に求めてはいけない事だと考えている。相談したいのは、俺達が護衛の依頼を出した時、受けてくれるかということだ」
クロウは以前似た事を聞かれたことを思い出しながら頷く。
「それは、時々によるかな。それしかないなら間違いなく受けるけど、依頼が複数あったりするとわからない」
「そうか。……なら、機兵になるには、どうすればいい?」
この問い掛けに対して、クロウは悩ましく眉根を寄せる。軽い逡巡の後、誤魔化しはいけないと考え、厳しい現実を告げた。
「三十万の教習料を持って、組合支部で申し込めば、訓練を受けることができます」
「さ、三じゅ……ま、ん? は、はは、それは、孤児には、厳しい、な」
「厳しいです。俺がなれたのは運が良かった、といってもいいのかな」
「運が良かった、というのは?」
「俺は地下に潜りました。途中で紆余曲折はありましたけど、その結果、今があります」
「地下か」
青年は昏い顔で俯き、何事かを考える仕草を見せる。そのただならぬ様子から、クロウはこのままでは拙いことになると感じて、地下遺構の怖さを語ることにした。
「地下は遺物が残っている可能性が高いから、稼げる可能性も高いです。でも、準備をしないで潜れるような場所ではないです。いや、準備を万全にしていっても危険なことは変わりない。どこまでも真っ暗で持って行く光だけが頼りになる。けど、その光は蟲を寄せ付ける。だから、どんな物音一つにも、自分の動きにすら過敏になって、とことん消耗します」
それこそ一つ一つの動作に命が懸かる状況だけに、生半可な覚悟では望めない。否、覚悟があろうが、装備がなければ無駄死にするだけである。つまり、単独で挑んだ過去の自分は無謀であり、考えの甘い大いなる馬鹿であった。それがクロウが経験から得た結論である。
クロウは険しい表情を浮かべて、話し続ける。
「そんな状態で蟲に遭遇する。逃げ場の限られた空間ですから、まず死ぬでしょう。実際、さっき言った地下に潜った時に、俺もラティアの群に遭遇しました」
息継ぎを兼ねた溜め息を一つ。
「その時は偶然、帝国の機士が遺構調査の為に地下に潜っていて、ぎりぎりの所で助けてもらえましたが、あんな幸運、まずありえないです」
「そう、か……」
バッツはそう呟いてからはっと何かに気が付いて、期待するようにクロウを見た。クロウも相手が言わんとすることを察する。けれども、その想定はクロウにとっても厳しいものであり、はっきりと首を振って答えた。
「さっきの護衛依頼で地下にと思ったんでしょうけど、俺としては地下は避けたいです。それこそ、支援してくれる魔術士がいるか、いざという時に援護してくれる機兵がいるかでないと、行きたいとは思いません」
経験者の口より今のジラシット団には不可能とも呼べる条件を出され、今度こそ諦めがついたのか、バッツは無念そうに無言で頷いた。
バッツは別れの言葉と共に、依頼を出した時はよろしく頼むと再度述べると、肩を落として帰っていく。
外に出て見送っていたクロウは青年の後ろ姿が見えなくなると、胸の中に生じたなんとも遣る瀬無い感情に頭を掻き毟った。俄かに芽生えたこの感情は、かつてグランサーであった頃によく心を重くしていた感情……他の孤児グランサー達への負い目に似ていた。
それは自分が恵まれているという事と他の孤児達との差異は僅かである事、そして、それらを知っている事から来る後ろめたさだ。
クロウは心に置かれた重石から目を背けようとするかの空を見上げる。重苦しい砂の層は消え、明るい蒼穹が広がっていた。けれど、彼の心は晴れない。
不意に、いつの日にか耳にした言葉が脳裏に甦る。
元より、人は生まれや育ちを選べない。ただ命を得たということだけが平等であって、それ以外は不平等なもの。これはどうあっても変えようのない事実であり、その上で人は生きていかなければならないのだ、と。
どこで誰から聞いたものだったかと、少年は思い出そうとするが思い出せない。孤児院に入る前に聞いたはずだが、どうにも記憶に靄があって、誰なのかはわからないのだ。ただ、その努力は別の形で返ってくる。その後に続いた言葉を思い出したのだ。
けれども、人は、いや、意思を得た人ならば、生まれや育ちに関係なく、当人が生き方を決めることができる。それこそ、今の生活を保つ為に生きることもできれば、自身の今を変えようと生きることもできる。
「その意思を助けるのが人と人の繋がりであり、人が集まって形成する社会だ、だったか」
クロウは知らず呟く。
漠然としていて、耳にした時はよくわからなかった言葉だが、どうしてか覚えている物だと、クロウは苦笑した。それから、内にある重い物を今度こそ吐き出すように大きく深呼吸。気分一新とまでは行かないが、幾分かは気が楽なる。
自分はどう動くのか、いや、どう動きたいのか、胸の内に問いかける。
もう少し自分に余裕ができたら、なんらかの手助けをしたい。さほど間を置かず、そういう答えが出た。
すると、おねーさんを自称する小人が、このお人好しめ、と笑った気がした。
手前勝手な想像であるにもかかわらず、それは実に真に迫っていた。そのことがなんとなく気恥ずかしくなり、頬を一掻き。少年は少しだけ赤くなった頬を手で仰いで覚ましながら、中へと戻って行った。
13/12/15 一部表現修正。




