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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
4 手弱女は泡影に笑う
36/96

八 風塵の彼方

 静寂(しじま)に包まれた、重く昏い世界。

 古より綿々と口伝で伝わる冥府の如き世界で、男は何か目に見えぬモノで縛られたように独り佇む。

 手を動かして足掻くことも、声を出して助けを呼ぶこともできず、ただ昏い世界を見つめ続ける。どこにもない光明を探し求めるように……。


 男は既にこの場所が、己が見ている夢であることに気付いている。だが、何故か、そこから抜け出すことが、目覚めることができないのだ。


 己以外が存在しない、絶対の孤独。


 それが彼の心を苛む。


 ……不意に、音が聞こえた。


 それは微かな衣擦れの音。これを切っ掛けに静かな世界に少しずつ音が聞こえ始めた。吹き荒ぶ風の音、宙を舞いぶつかり合う砂の音、己の馴染みであり、決して離したくない大切な女の声。そして、いつか聞いた歌。


 風砂の音を伴奏とするかのような、哀切の歌。故郷を思いつつ、今を耐え忍ぶ苦しみを詠う歌だ。


 男は闇の中で女の歌声が聞こえる方向を探り、目を覚ました。

 魔導灯が作り出す薄明かりの中、虚ろに濁った目が彷徨い、隣に座る女の姿を捉えた。薄青の光に浮かび上がる姿は、どこか儚く淡い。故に、男は己が幻視を見ていないことを確かめるかのように、寝台に座る愛おしい女を見つめる。


 肉付きの薄い身体。白く滑らかな肌。背に流れる長く黒い髪。細い首筋。鼻筋の通った端麗な顔立ち。薄青の光を反射する瞳。静かに歌を紡ぎ出す唇。それら全てを男は横たわったまま、じっと見つめ続ける。


 しばらくして、女は満足したのか歌い終わる。そして、男がじっと自分を見つめている事に気が付いた。


「起きたの?」

「ああ」


 男は寝台から身体を起こす。

 朝から食糧の買い出しや金の引き出し、商会への顔出し等をして帰って来た後、一休みしようとしてそのまま寝入ってしまったのだ。女が共にいるという事実に、緊張がわずかに抜けた結果であった。

 隠しきれない疲労が男の表情に浮かんでいる。自然、女は心配そうな顔を見せた。


「顔色が悪いけど、大丈夫なの?」

「大丈夫だ。いや、そんなことよりも、お前こそ、市内を見て回らなくていいのか? 明日の朝にはここを出るんだぞ?」


 男の問いかけに女は静かに首を振って答えた。


「いいの。……この街に未練はないわ」


 寂しさと哀しさが入り混じった顔と声。思わず男は女を抱き寄せた。女は逆らわず、男の胸に顔をうずめた。


 風切り音と砂の弾ける音。

 その中で二人の静かな呼吸と落ち着いた鼓動が続く。


 何も語らず、何も思わず。

 肉欲に支配されて互いを貪ることもなく、ただ寄り添いあって互いの生を実感する。


 どれほどの時が流れたか。


 男がゆっくりと口を開いた。


「エフタを離れたら、二人でこれからのことを考えよう」


 抱かれた頭が縦に揺れた。男の顔にあった疲労は薄れ、堅さが抜けていく。


 だが、唐突に戸が打ち鳴らされたことで、解されかけた表情は一気に冷えた。


 男の心は恐慌と平静の間を行き来し、鼓動が跳ね上がる。女もまた突然の闖入に驚き、男の激しい動悸に戸惑う。その間も戸は打たれ続ける。


「でないの?」


 女の疑問にどう応じるか、男は悩む。だが、外から聞こえてきた声にその悩みは一部溶けた。


「おい、いねぇのか?」


 男は聞き知った声であることに安堵し、同時に警戒の度合いを高くする。


 何故、今この時、ここを訊ねてきたのかと。


 男は最悪を想定して、机の上に置かれたナイフへと視線を走らせる。だが、女がいる手前、手を伸ばすのは憚られた。


 その間も止まる気配のない打音。


 男は表情を険しくして寝台を降り、扉へと向かう。どう対応するべきかという思いが彼を支配する。だが、明確な打開案を見い出せぬまま、扉の前に至ってしまった。


「いい加減にしろ。戸が壊れる」

「おっ、やっぱりいやがったか」


 どこか安堵の色が窺える声。その他に人の気配は感じられなかった。そのことに男は少しほっとする。だが、肝心の理由がわからず、訝しげな声を上げた。


「……今日は所用があったんじゃなかったのか?」

「いや何、所用っつってもよ、あまりにも気が進まねぇ用件なもんだからよ。その前に気分転換って奴をしようと思って寄ったんだよ」


 普段と変わらぬ物言い。だが、その実、複雑に入り混じった感情が、言葉にしえぬ何かが込められていた。

 加えて発せられた言葉の内容から、男は自分が為した事の何かを目の前に立つ人影に知られたと判じ、どうするべきか考える。が、声の主は彼の思考を許さぬかのように捲し立てた。


「おいおい、こんなところで立ち話をさせんなって。家の前にいるんだからよ。せめて中に入れるくらいはして、鬱陶しいマスクを外させてくれ」

「……わかった」


 男は渋い表情を浮かべながら、戸を開いた。



 男が鍵を開けると、すぐさま声が飛んできた。


「ふぅ、邪魔するぜ」


 入り込んだ人影から最初に発せられた声は偽りのない響きであった。

 男が警戒を強めながら中に入れた人影を見つめていると、背後から声が飛んできた。


「ディオン、そちらは?」

「知り合いだ」


 油断なく人影を見据える男……ディオン・イスファンは寝台より立ち上がった女へ短く返す。人影もまた、マスクとゴーグルを外しながら肯定するように頷いて見せると、女に告げた。


「ああ、こいつの知り合いだ。すまねぇな、しつこく叩いちまって」


 安堵の色を浮かべた女は小さく首を振って応じた。


「いえ、こちらの方こそ、直に出れなくてすいませんでした」

「何、気にしなくていいさ。っと、紹介が遅れたな。俺はバレット・ロウだ」

「初めまして、私はフィリス・マールティです」


 一見して和やかな空気。だが、イスファンがフィリスを守るかのように立って、ロウをじっと見据えている。その様子に困った表情を浮かべながら、ロウは告げた。


「おい、俺には他人(ひと)の女に手を出すなんて悪趣味はねぇぞ」

「わかっている」


 イスファンはそう答えるも気を緩ませる様子はない。ロウもまた後ろ髪を掻き毟ると、イスファンに合わせるかのように表情を真剣なものへと改めた。


 両者は二リュート程の間を取って向かい合い、沈黙して睨み合う。


 元より緊張していた空気が更に張り詰める。


 イスファンの後ろに控える女、フィリスが困惑の色を露わにし始めた所で、彼女の情人が口を開いた。


「それで、ここに来た理由は?」

「ああ、別にまどろっこしい事はしねぇよ。……率直に聞く。今回の事件、売人を殺して、麻薬を流していたのは、お前だな?」


 ロウが確認するように告げた内容を理解し、フィリスが息を呑む。それを背にした男は確信が込められた言葉と底光りする眼を前に言い逃れは出来ぬと感じて、静かに首肯した。


「……ああ、俺がした」


 乾き切った声であった。


 差向い合う男の肯定に、ロウは瞳を閉ざし眉間に皺を寄せる。深く深く刻み込まれる皺が、青年の感情を雄弁に表していた。


 数度の呼吸。


 瞳を閉ざしていたロウが小さく問いかける。


「何故だ?」


 幾分かの間の後、かっと目が開かれる。同時に青年の表情は急速に激し、その口より裂帛の詰が飛んだ。


「何故あんな馬鹿な事をしたっ!」


 音声の衝撃にフィリスは立ち竦む。そんな女を庇うようにイスファンは前に出て、渇いた虚ろな声で淡々と答えた。


「嫌になったからだ」


 それから唐突に微笑み、真正面に立って難詰するかつての仲間に曇った目を向けた。


「そうだ。本当に、何もかもが嫌になったんだ。いつ何時、何が起きるかわからない砂海に出て、暑さと渇きに苦しみながら、自分の金にもならない遺物を拾う。飯も金も碌に出さない糞みたいな店の為に。ああ、嫌だった。あんな人を人と、孤児を人と思わない店の為に生きるのは……」


 イスファンは顔を歪ませて、箍が外れたように声を紡ぐ。孤児として生きる内に生まれ、常に心を燻らせていた感情を露わにして。


「ああ、でも、お前なら言うかもしれない。それでも生きていけるだけでマシだって。そうだろうさ。実際、何の生きる術を持たない孤児が生き残る為には、相応の代価を差し出すしかない。それがたまたま命に過ぎないって事だろう。そして、生きる為に遺物を拾い、運が悪いと死ぬ。一緒に拾われた連中は熱に倒れ蟲に喰われ、残ってるのは俺一人だ」


 ふっと、男の表情が緩む。


「そう考えると、俺はまだ運が良かったんだろうな。俺にグランサーの仕事を教えた先達は腕が良かった。そのお陰で、なんとか一人でも生きられる力を付けることができた。そして余裕ができて周りを見渡せば、後ろには俺と同じ境遇で耐え忍ぶ奴らがいた。連中の苦しみは俺も辿った道だ。自分が先達からしてもらったように面倒を見るのは特に苦でもなかったし、ジラシット団で活動するのもそう悪い気分でもなかった」


 だが、次の瞬間、イスファンの表情がごっそりと抜け落ちた。


「なぁ、ロウ。お前に聞きたい。……俺達の幸せってなんだ? ただその日を生きる事が幸せなのか?」


 険しい顔のまま静かに聞いていたロウに対して、イスファンは言葉を重ねて問いかける。


「生きることが精一杯の俺達はただ生きている事を、生き残る事を無上の幸せにして、それ以上のモノを追い求めたらいけないのか? 孤児だからって、それ以上の幸せを追い求めたらいけないのか?」

「……んなわけねぇだろ」

「ああ、そうだろう。生きる為に生きる。それじゃあ獣だ。人間じゃない」


 イスファンは断言する。否定することなくロウも頷く。そして、目の前に立つ男の、その背後に立つ女へと微かに意識を向けて言った。


「で、お前にとっての幸せは……、今、お前の後ろにいる人か」

「……ああ。俺が生きる為に欠かせない、大切な存在だ」

「そして、それを取り戻す為に金が要った、か……」


 自身の言葉に続けて述べられた言から、イスファンはある程度自分の事情を見透かされている事を知った。一方のロウは大きく息を吐き出すと、一つ首を振って問いかける。


「だとしても、何故、人を殺して、麻薬なんてもんに手を出した? 大切な存在を知るお前が、人を殺して誰かにとっての大切な存在を奪って、麻薬の所為で他の誰かが不幸になるかもしれねぇのに」


 この問いを嘲笑うように、イスファンは顔を歪めて答えた。


「ははっ、他人(ひと)を犠牲にして何が悪い! 今、俺達がっ、身寄りも後ろ盾もない孤児が、商会の連中からやられていることをやって、何が悪いっ!」

「だからお前は馬鹿野郎なんだっ! なんでそこで連中と同列に堕ちる!」


 声を荒げかけたロウだが、もう一人の存在を慮り声量を落とす。だが、内の怒りは収まっていないようで、眦を決してイスファンに詰問する。


「本当に、何故、こんなことをしでかした。何故、馬鹿をする前に俺達に相談しなかった? お前は相互扶助って、団の方針を……、ジラシットの教えを忘れたのか?」

「……相談なんて、できるわけがないだろう。団の誰もが、今の暮らしから逃れることを望んでいるのに、言えるわけがないだろう」

「はっ、手前が勝手に団の限界を決めんじゃねぇよ。だいたい、相談なんてもんは、できるできねぇで決めるもんじゃねぇだろうが」


 イスファンはロウの口から放たれた言葉に頬を更に歪ませる。


「は……、はは、万事慎重で、粗探しが得意なお前らしくもない言い分だな」

「ありゃあな、人に相談もせず、独善的な計画を出してくる方が悪いんだよ。今回、お前がやっちまったように、誰にも頼らずに独りで悩んで、独りで勝手に暴走しちまったようにな」


 ロウの裏表のない真っ直ぐな言葉に、イスファンは顔の歪みを普段の苦笑いに似たものに変えて告げた。


「お前のそういう直截で厭味な所、嫌いだったよ」

「そりゃ結構だ。俺もお前の性分は好かねぇからな」


 ロウは肩を竦めて応じると、再び表情を硬くする。


「で、お前、これからどうするつもりだ? 大方、大人しく捕まるとは思わねぇが……」

「ここから出る」

「どこへ? あてはあるのか?」

「あてなんてないさ。ただ、伝手を探したら、エル・ダルークに向かう船に乗れることになった」

「そうか」


 ロウは短く応じると無言のまま目の前に立つ男女に目を向ける。二人はじっと見つめてくるだけで、何か言い出す様子はない。ただロウが見るに、仲間だった男は何らかの覚悟を、その背後の女は明らかな懇願をその目に宿していた。


 しばし、砂風の音だけが場を満たす。


 俄かに己の髪を掻き毟った後、ロウはこれまでにない大きな溜め息をついた。


「はぁ。……仲間だった誼だ。明日の昼までに、どこへでも行きやがれ」

「見逃すって、言うのか?」

「ああ、明日の昼、市軍のおっさんとの定期連絡までは黙っておいてやる」

「……本当か?」

「はっ、信じる信じねぇはてめぇの勝手だ」


 そう言い放ったロウだが、鋭い視線をイスファンへと向ける。


「だが、言わねぇでもわかってるだろうが、残った麻薬はこの家に置いていけ。おっさんへの詫びに使う」

「わかった。どのみち持って行けそうにない物だから構わない」

「それと、お前が麻薬の事を知った経緯や経路も何かに書いとけ。それを使って、何とか追手を出さないよう、おっさんに頼んでやる」


 イスファンが困惑と期待、猜疑をない交ぜにした表情で頷いた。それを見届けると、ロウは首にかけていたゴーグルとマスクを身に着ける。そして、この場より辞する為、背を向けた。

 刹那、イスファンは自分の犯した罪を知り、気分一つで全てを破滅させることができる男へと襲いかかりたい誘惑に駆られる。けれども、背中から伝わる温もりが、服を握りしめる手がそれを許さなかった。


 そして、ロウは扉を開ける寸前に肩越しに振り返って告げた。


「はは、殴りかかってきたら、振り向きざまに思いっ切りぶん殴ってやろうと思ってたのにな」


 軽い口調だが冗談の欠片のない声音で言った後、ロウは少しばかり逡巡してから続けた。


「……二人で、達者にやれ」



 ロウが立ち去った後、イスファンは両の足を支える力を失ったようにふらつく。正面切っての対話は、彼の心身を著しく消耗させていたのだ。慌ててフィリスが駆け寄り、その身体を支えた。


「ディオン」

「大丈夫だ」


 心配するフィリスの声に、イスファンは精一杯の強がりで返す。だが、その強がりに効果は無かったようでフィリスの表情が見る間に暗くなっていく。イスファンは愛おしい女のそんな表情を見ていられなくなり、胸の内に収める。そして、続けた。


「大丈夫だ、フィリス。お前は何も心配しなくていい」


 お前に罪はない。自分勝手に罪を為し、背負ったのは俺だ。だから、心配しなくていい。


 心中で独語した男はより強く女を抱きしめた。



  * * *



 静かな休日が終わり、日付が切り替わった夜更け。

 組合本部の上層にある執務室にて、青髪の麗人は砂海各地より送られてきた報告書を読み込んでいた。

 北部域で蟲の動きが活発化し始めていること、東部域のアーウェルで市門が封鎖されたこと、南部域全体で麻薬密売組織が一斉に摘発されたこと、西部域で一隻の船が遭難したこと。これら全てを頭に刻み込み情報を更新、時に関連を見い出しては複合的に絡みあわせていく。


 一人黙々と仕事を続ける麗人。ふと空気の流れを感じて、顔を上げた。


 執務机の前に、黒装束の女が跪いていた。


「ご報告します。指示を受けましたエフタ市内における不自然な金の流れについて当たりました所、二三該当する対象を発見しました。今現在、それぞれに人員を付け監視を行っております。明日の朝までに更なる情報を取捨し、絞り込む予定です」

「わかりました」


 昨夕、部屋を訪れた小人を通じて受けた協力要請に恙なく応えることができそうだと、部屋の主たるセレス・シュタールは一つ頷く。それから灰色の瞳を黒装束の女に向けて訊ねた。


「他に何か変わった事は?」

「はい。指示を受けた件の調査中に、港湾の小石から無視しえぬ情報が上がってきました」


 小石……セレス・シュタールとその配下である暗部がエフタ市のみならず、大砂海各地に配している密偵のことである。彼らは手に職を以て日々の暮らしを立てつつ、周囲で起きた変事や気にかかった情報を集めてくる末端だ。日常に根差す彼らが集めてくる情報はそのほとんどが特に意味のないものや単独では意味を為さない一欠片である。だが、時に無視しえないものを大きな物を拾ってくることもあったりする。

 当然、密偵組織の長である黒装束の女はそれを心得ているし、セレスもまた承知している。それだけに今現在、直に報告するのであれば、相応の代物なのだろうと、麗人は頷きを以て先を促した。


「一昨日入港したアーウェル船籍の船員が入れ替わっている可能性があります」


 セレスは微かに目を細める。


「それは確かですか?」

「はい。顔は似せていますが、小石が行った会話中の質疑による探りで誤答が多数。また他の船員にも麻薬関連の情報を探るという不審な動きがありました」

「船の種類は?」

「ビアーデン級貨物船です」

「積んできた船荷は?」

「主に小麦、香辛料といった食料品です」

「そうですか。……十中八九、黒でしょう。船籍が船籍ですし、もしかすると、アーウェルに禍をもたらした輩か、それを幇助する者達かもしれません」


 賛同するように黒装束の女も頷いた。セレスは短い沈思の後、手にしていた報告書を机に置いて続けた。


「目的はなんだと考えますか?」

「成果の確認と浸透によるかく乱でしょう」

「その船の出港は?」

「明日朝、目的地はエル・ダルークになっています」

「エル・ダルーク、ですか。……それはおもしろくないですね」


 ゼル・セトラス域において北部は人類の生存圏の拡大を図り、宿敵たる甲殻蟲と鎬を削る最前線に当たる。中でも防塁都市として域外にも名が知られているエル・ダルークは地域の中心拠点であると同時に、多重の防壁によって要塞化された要衝として、また組合の武装組織たる旅団や傭兵団に機兵団といった徒党の根拠地としても機能している。

 つまり、対甲殻蟲戦における重要拠点なのだ。言うまでもなく、この都市の機能低下は北部域のみならず、ゼル・セトラス域全体に危険を及ぼしかねない。それだけに、麻薬による禍患をもたらす訳にはいかなかった。


 セレスは怜悧な表情を崩さぬまま、普段と変わらぬ声で命を下す。


「控えの一組を即時対応に当ててください。まずは船内の調査と目的の把握を。その結果、麻薬や申告されている荷以外の物を発見した場合は然るべき対処を。隠密を第一としますが、時と場合によっては強襲も許可します。船を沈めても構いません」


 暗に解決の為には相手の生死は問わないと言い切った麗人は更に告げる。


「それと東方域の混乱の件に関連してですが、ゼル・ルディーラ(大砂塵嵐)が明ける頃には領邦域へ手出しする黙認を帝国から得られそうです。即座に動く為にも、どこの手の者が東方航路を脅かし、この砂海域に禍をまき散らしているのか、より詳しい情報が必要です。もし叶うならば、そういった情報の引き出しもお願いします」

「了解しました」


 密偵組織の長は慇懃に頭を下げる。


「この他には?」

「喫緊のものはございません」

「わかりました。あなた達にはいつも苦労をかけますが、よろしく頼みます」

「我らについてはお気になさらず。……それよりも御身の事です」


 いつものように静かに立ち去るとばかり思っていただけに、セレスは急の指摘に虚を衝かれて両目を見開く。ついで首を傾げた。


「私の事、ですか?」

「はい。この所、碌な休みを設けず、日夜仕事に明け暮れていると我が娘より聞いております。御身は代わりの利かぬもの。くれぐれもご自愛ください」


 女の言葉は表面こそ丁寧であったが、仕事漬けになっているセレスの生活を咎める色が滲み出ていた。セレスは思いもよらなかった諌めに困惑する。対する黒装束の女は真剣な表情を浮かべて重ねて言う。


「このゼル・セトラス域を憂いているのはわかっております。ですが、何者であれ人は人。生き物である以上は限界がございます。責の全てを独りで背負う等、到底不可能なこと」

「それはそうですが……」

「気負うのは構いませんが、気負い過ぎてはいけません。無理の積み重ねは後に響き、大きな過ちを引き起こすことに繋がりましょう。特に大局を見る必要がある者ならば……」


 セレスは反論を試みようとするが、かつては自身の母代りを務めた相手の、厳しくも優しい目を見てしまうとできなくなってしまった。そして、彼女は悟る。おそらく自分の秘書が目の前の人物に手を回したのだろう、と。


 してやられた青髪の麗人はせめてもの抵抗として溜め息をついて見せると、苦笑を浮かべて応じた。


「わかりました。今日はここまでにしておきます」

「出過ぎた事を申しました」

「いえ、あなたの諫言、ありがたく受けておきます」


 そう、諫言とは第一に相手の事を思っているからこそ出てくるものなのだから。


 本当に、自分は恵まれている。


 そんなことを思いながら、セレスは執務席から立ち上がったのだった。



  * * *



 夜が明けて第二旬十一日。

 休み明けのクロウも世人と同じく仕事の為、灯台下の防御陣地へと赴く。

 彼の仕事は当初と変わらず朝から晩までほぼ自機の内で待機すること。後は時折、観測班が拾い上げる音を元に、周辺の警戒に出撃するといった所だ。

 陣地が設けられて以降、幸いにしてまだ甲殻蟲が襲来したことはない。精々、風に煽られて転がっていく石や港湾を出入りする魔導船を近くで見送るくらいである。

 これでいいのかと思わなくもなかったが、クロウも好き好んで危険な目にあいたいわけではない。よって、平穏無事ならばそれに越したことはないのだと、何もしない事で心に生じる後ろめたさを打ち消していた。

 そんな訳で、クロウは市軍の機兵達が隈の目立つ顔で笑いながら言う、機兵有閑大変結構、無駄飯喰いの給料泥棒、砂に埋もれた虫除け人形、暴風相手に不遇を歌う、との諧謔(自己暗示)を支えに、熱い機内でじっと即応待機し続ける苦行に耐えていた。


 そして、今日も欠伸交じりに朝を過ごし、眠気襲い来る昼を耐え、疲れた身体で宵を迎える。


「ご苦労さん。引き継ぐわ」

「お願いします。日中は特に問題はありませんでした」

「了解」


 二十七時。

 クロウは交代の機兵と引き継ぎというにはおこがましいやり取りを行う。それからパンタルを動かして待機場所を譲り、知らず入っていた肩の力を抜いた。

 そんな少年の機体に近づく影が一つ。市軍機兵大尉であるブルック・エルマルクだ。責任者として防御陣地に詰めている事が多い為か、身に着けている機兵服もどことなくくたびれている。もっとも、当人はまだ余裕があるようで、足取りや挙動に乱れはなかった。


「エンフリード、帰る前に少しいいか?」

「あ、はい」


 クロウが正面装甲を開放させると、右頬に傷を持つ壮年機兵が顔を覗かせた。何事だろうかとクロウが待っていると、エルマルクが微かに左の眉根を上げ、砕けた調子で口を開く。


「暑いな。万全を保ちたいなら、空調は良いのを入れた方が良いぞ」

「金が貯まったら買い換えようと思ってます。それで?」

「ああ、昨日の休み、街に出たか?」

「ええ、行きました」


 エルマルクは少し目を細めて訊ねた。


「どうだ、街中の様子は少しはマシになっていたか?」

「いえ、それほどは。まだ皆警戒しているみたいで人通りは少なかったですし、あちこちに魔導機も出てました」

「そうか。まだ駄目か」


 エルマルクは大いに眉を顰めて溜め息をつく。クロウはこの壮年機兵が負の感情を表に出す姿を見た事がなかっただけに、大いに戸惑う。


「エルマルク隊長。何か問題が?」

「問題って言えば問題だ。今、例の事件で治安維持の動員が掛かってるだろう? ここから中に戻っても俺達に休みがないんだ」

「あー、なるほど。それは確かにきつい」


 防御陣地に寝泊まりできる設備があっても、心安らかに眠れるものではない。やはりゆっくりと休めるのは市壁の中にある自分達の本拠であり、家である。それだけに貴重な休みが潰れるの頂けない、ということだ。


「捜査が難しいのはわかっちゃいるが、できるだけ早く始末をつけて欲しいもんだ」

「今度、リューディス大尉に会う用事がありますから、会った時にでも何か伝えておきましょうか?」

「そうだな。……どうせあいつは聞き流すだろうから、苦境にあるエフタ市軍機兵隊の存亡はお前の双肩に懸かってる、って、大仰に言っておいてくれ」

「あはは、わかりました。伝えておきます」


 クロウは苦笑と共に了解すると、挨拶をして防御陣地を後にした。



 元より砂嵐で薄暗いが日没後となると更に暗くなる。

 そんな中、クロウは灯光器の光を頼みに歩いていく。ゼル・ルディーラの風も盛りを過ぎたこともあって、一時の勢いはない。とはいえ、魔導機をも揺るがす突風も吹き付けることがあるから油断はできない。砂塵の先を見据え、一歩一歩しっかりと大地に足跡を刻み、機兵長屋を目指して歩く。

 少しずつ緊張を抜く為に、港湾の開口部を渡って一息、市壁沿いを歩き岸壁の緩やかな坂を上がった所で一息。そうした具合に進んでいき、機兵長屋だ。

 クロウは長屋を見て帰って来たと実感し、安堵の息を漏らす。そして、家に至る道に折れた所で、自宅の前に一つ人影があるのに気が付いた。

 誰だろうと首を傾げながら近づいていくと、砂塵に塗れた使い込まれた外套が浮かび上がる。魔導機用出入口の扉に背を預ける人影は少し猫背気味の体格で、どこか気だるそうな雰囲気を漂わせていた。

 自身の記憶にある外観と目の前の人影とを照らし合わせて行き、該当する存在に思い当たる。


 奇しくも直前に話題の対象となっていた、ゴウト・リューディスだ。


 クロウは組合からの情報を急かしに来たのだろうかと考えながら、己の推測を確信に変えるべく声を掛けた。


「リューディス大尉、ですか?」

「うん、そう。……エンフリード君、ちょっとばかり話したいことがあるんだけど、今からいいかな?」


 マスク越しでくぐもっていたものの、会う度に耳にしてきた飄々とした声が返ってくる。だが、今日はいつもより声に力がないように感じられた。


「え? ええ、構いませんけど」


 また何か厄介事でも起きたのだろうか。自然、クロウの心中に面倒を厭う気持ちが湧き起こってくる。だが、厄介事への忌避感とは別に、知らないモノを知りたいという人の本能的な欲求……好奇心が疼いてもいた。

 とはいえ、砂塵嵐が人にとっては厳しい環境であるだけに、この場で話を聞くのも如何なものかと判断。少年はリューディスを家に招き入れた。



 クロウがパンタルを駐機させて降りると、早速リューディスが話しかけてきた。


「エンフリード君、良い所に住んでるねぇ」

「ええ、グランサーをやってた時じゃ考えられない贅沢をさせてもらってます。……市壁の外ですけどね」

「はは、市壁の外って言っても、実質は壁の中じゃない」


 中年男は駐機場へと寝ぼけ眼を巡らせながら続けた。


「ここの奥に居住区画があるんでしょ。ほんと広いし静かだよねぇ。俺は官舎暮らしだから、こういう閑静な環境には憧れるよ」

「商店街も遠いし、閑静っていうよりも場末って感が強いですよ。ところで、官舎ってうるさいんですか?」

「ほら、集合住宅ってさ、外は頑丈でも内は意外と安普請だし、子供がいる世帯はどうしても騒がしいし、独身連中も女の子を連れ込んでお楽しみってことがあるからね」


 嬌声と壁を叩く音が伝わって来るんだよ、なんてことを言いながら肩を竦めた。クロウは機兵服の首元を緩めながら笑う。


「あはは、どこも一緒なんですね。前に住んでたところも夜はそんな感じでした」

「ま、人間、突き詰めれば、食う寝るヤルだからねぇ」 


 リューディスは片頬だけを吊り上げて品のない顔をして見せる。クロウは微笑みを苦笑に変えた。それから作業用に使っている折り畳み椅子を出して来て、来訪者に座るよう促した。


「こりゃどうも。いや、疲れてるでしょうに悪いねぇ」

「気にしなくていいですよ。機兵隊の人達に比べれば楽をさせてもらってますから」

「……機兵隊の連中、やっぱり疲れてる?」

「できるだけ表には出さないようにしてますけど、休みが欲しいのは切実な願いみたいですよ」


 こう前置いて、クロウはエルマルクからの伝言を伝えた。静聴していたリューディスはばつの悪そうな表情を浮かべて髪を撫で上げた。


「あー、やっぱりこっち(保安警防団)の失態で迷惑かけてたからねぇ」


 クロウは頷きで応じる。それと同時に、リューディスの言葉に微かな違和感を覚えた。それが何なのか、微かに首を傾げて考えていると、おっとりとした風情でリューディスは口を開いた。


「ねぇ、エンフリード君。今からでも保安隊に入らない?」

「へ?」

「今、俺が言った事に違和感を感じたんでしょ」

「ええ、まぁ」

「うん、そういった感覚が必要なのよ。捜査官にはさ」


 訳が分からずクロウが困惑の色を深めていると、寝ぼけ眼の中年はにやりと笑って引いた。


「ま、気が向いたら内の隊に入る事も考えてちょうだいってことさ」

「は、はぁ」

「さて、あまり長居すると迷惑になるし、そろそろ本題に入らせてもらおうか」


 リューディスは表情と姿勢を改めて話し出す。


「エンフリード君に調査を頼んでた事件なんだけど、今日ね、事態に大きな進展があったんだ」

「あ、そうなんですか。それは良かったです」

「うん、良かったよ。……けどね。このままだとちょっと中途半端に終わっちゃいそうなのよ」

「中途半端?」

「うん。麻薬関連については事態収拾に目処が立ったんだけど、犯人には逃げられちゃったんだ」


 リューディスは軽く息を吐いた後、寝ぼけ眼をクロウに向ける。残念さを醸し出す声音とは裏腹に目に翳りはなかった。その事を訝しく思いながら、クロウは訊ねた。


「逃げたっていうのは市内にですか? それとも市外ですか?」

「エフタの外。魔導船に乗って逃げちゃった」


 そう言いながら、中年の捜査官はジラシット団の若者達と向かいあった昼間の事を思い返す。


 あれは今日の昼過ぎの事。

 ジラシット団から情報を得る為に組合支部の酒場で待っていた所、いつもの代表者だけなく他の幹部達も押しかけて来た。皆一律に厳しい表情を浮かべていたことから、情報収集の過程で何事かあったのだろうと考えていたのだが、告げられた内容には困惑を強いられてしまった。

 彼ら曰く、ジラシット団の幹部で自分達の仲間の一人が今回の事件の犯人であった。犯人である元仲間は自分の女を身請けするのが目的で麻薬密売に手を出した。今現在は麻薬や入手の経緯といった物を家に置き去りにして、既に市外へと逃走してしまった。自分達が今回の捜査に協力した対価はいらないから、なんとか逃げた元の仲間を追わないでほしい。と、こういったことを口々に告げ、犯人を見逃すことを嘆願してきたのだ。

 その場に共にいた新人は展開についていけずに驚きを露わに戸惑っていたが、自分も人の事を笑えない。自分にとっても、本当にまさかの急展開である。その為、答えの先送りというか、全ての話は裏付けをとってからということで明日に返事を持ち越した。

 そして、持ち込まれた情報の真偽の判定を行うべく、第一小隊は走り回った。その結果、実際に彼らが言う元仲間で犯人のディオン・イスファンの自宅より、麻薬と麻薬の話を入手した経路を記した紙が見つかった。また、ディオン・イスファンが西望楼なる娼館より女を身請けした事実も。つまり、ジラシット団の話はほぼ全てが本当だということがわかったのだ。

 とにもかくも、一番の懸念となっていた麻薬を確保し、犯人を特定できたことで、これ以上の麻薬禍の広がりを抑止できることになった。今しばらくは様子見をする必要があるだろうが、社会不安の拡大防止という点においては及第点には至っと言える。なので、市軍は最低限の面子を保てるだろう。


 後は、ディオン・イスファンを追捕するか否かだ。

 ジラシット団からの嘆願もあるし、個人的にも借りを返したいから考慮したい所だが、自分が社会体制の守護者である以上、流石に放免という訳にはいかない。できて、減刑の口添えである。


 だが、正直、それも今の状況では難しい。

 というのも、ディオン・イスファンが逃げてしまったからだ。


 減刑に一番使える可能性があった功を以て罪を贖うという線も、当人がいなければ話にならない。いや、それ以前に、自首せずに逃亡した時点で罪を贖う意思がないと見られてしまう。

 もし大人しく出頭して捕まっていれば、減刑も考慮されただろう。そこに上層部に確かに罪はあったが他勢力の計略も未然に潰したとでも言い含めたら、短期の鉱山送り位で収められた。が、時すでに遅しだ。逃亡した以上は、本当にどうにもならない。無期の鉱山送りだ。


 ……。


 それにしても、団の名を汚した者であっても助ける、か。なんとも泣かせる話だ。


 リューディスは誰の儘にもならないのが世の中かと、心中で呟きながら米神を一掻き。それから、必死に懇願していた若者達の顔から面前の少年へと意識を戻した。咳払いして話を続ける。


「ま、そんな訳でね。逃走に使った船を探すことになったんだけど、犯人はエフタに市民登録していないから乗船簿に登録されなくてね、どの船に乗ったかはわからないんだよ」

「なるほど、それを伝手で調べられないか、って事ですか」

「まぁね。どうだろう、お願いできるかな?」

「わかりました。今からでも……」


 と少年が言いかけた所で、数回のノックの後、戸口が開かれた。砂風と共に声が入り込む。


「うわ、ちょっ、ミソラさん!」

「はー、窮屈だった! クロウー! 私だけど帰ってるーって、あら、お客さん?」


 緑に輝く光羽を背に、勢いよく入ってきた小人はリューディスを認めると中空に急停止し、首を傾げる。その後からシャノンがマスクなどを取りながらやってきた。

 人知を越えた存在を見て驚いているのではないかと、クロウはちらりと傍らを見やる。リューディスは寝ぼけ眼に興味の色を湛えて、面白そうにミソラを眺めていた。対する小人は中年男の無遠慮な視線にもひるまず、いつも通りの声で口を開いた。


「クロウクロウ、この人ってさ、前にあんたが言ってた市軍の人?」

「ああ、ゴート・リューディス大尉」

「そうなんだ。初めまして、大尉さん。私はミソラよ」

「こりゃどうも、ゴート・リューディス大尉です。市軍保安隊第一小隊に所属してまして、先に起きた事件の捜査に関して、エンフリード君には助けてもらってます」

「うん、聞いてる。クロウにもいい経験になるから、上手く使ってやって」


 ミソラは朗らかな顔で言い放つと、後ろの少女を振り返る。心得ていると言わんばかりにシャノンはフードを取り払うと自己紹介し始めた。


「初めまして、リューディス大尉。僕はシャノン・フィールズです。組合連合会でミソラさんの助手をしています。お見知りおきを」

「こちらこそよろしく、フィールズさん」


 シャノンの挨拶にリューディスも会釈を返す。そして、金髪の少女が抱えた布袋に目をやる。布袋は様々な物が入っているようで歪に膨れていた。中年男はその形状から、おそらくは夕食の材料だろうと当たりを付け、微かに口元を綻ばせる。そして、椅子から立ち上がると赤髪の少年に告げた。


「エンフリード君、用件はこれくらいだから、今日はこれで帰らせてもらうよ」

「え?」


 あれいきなりどうしてと不思議がる少年を余所に、リューディスは先にお願いした件はくれぐれもよろしくと話を切り上げる様子を見せる。そこに待ったをかけたのはクロウではなくミソラであった。


「ああ、待って待って。大尉さんがここに来てたって事は例の件でしょ。シャノンちゃん、預かったあれを渡してあげて」

「わかりました」


 シャノンは頷き、懐から一通の封筒を取り出した。口を封蝋で固められた封書であった。シャノンは笑みを消したリューディスに手渡す。手に持って返す返す封書の表裏を見ていたリューディスだったが、おもむろにミソラへと寝ぼけ眼を向けた。


「開けても?」

「ええ、あなた宛よ」


 ミソラの返事を受け、リューディスは封を破る。中から出てきたのは一枚の紙。それを広げると丁寧な字で文章が綴られていた。素早く目を通していく。視線が下がっていく内に、少しずつ彼の表情が曇っていく。そして、最後まで読み切ると小さく呟いた。


「あーあ、砂嵐の神様に連れてかれちゃったか」


 その響きにはどことなく遣る瀬無さが込められていた。



  * * *



「凄い風」

「そうだな」


 イスファンとフィリスは船底に近い船室で寄り添い、据えられた窓より外を見つめている。

 吹き荒ぶ風は時に船が煽られて揺れる程に強く激しい。強い風は大地の砂礫を舞い上げ、都市近くに押し寄せる風砂は児戯と言わんばかりに厚い砂塵の層を作り出していた。


 早朝、船に乗って半日。

 二人が乗る船は北の地の要衝、エル・ダルークを目指す。その旅程は通常ならば四日程度、ゼル・ルディーラ到来中の今は遭難の危険性を少しでも減らす為、速度を落とすことから大凡六日である。


 不意に、フィリスがイスファンに訊ねた。


「ねぇ、ディオン、向こうに着いたらどうするの?」

「エル・ダルークに着いたら、開拓民の募集がないか探そうと思ってる」

「開拓民に?」

「ああ、自分の土地を貰って、そこで生きて死ぬ。……嫌か?」

「いいえ、構わないわ。あなたと一緒なら……、それに娼館で生きる為に生きているより、ずっといい」


 並んで寄り添う二人は微かに笑い、互いの体温を感じ合う。二人にとっては掛け替えのない一時。だが、そんな時を邪魔するかのように、部屋の戸が叩かれた。


「お客人、船長が夕食を一緒にどうかっていってますが、どうします?」


 イスファンが確認するようにフィリスを見る。彼女は首を横に振った。


「悪いが遠慮しておく」

「……そうかい、船長には伝えておく」


 船員らしき男の声が応じると、足音共に去って行った。それが聞こえなくなってから、イスファンが口を開く。


「別に食事位は出ても良かったんじゃないか?」

「うん。……でもね、あの人達の目がどうしても好きになれないの」


 フィリスは船員達の値踏みするように自分を見ていた目を思い出す。娼館に居た頃、さんざんに見た目だった。イスファンはフィリスの様子から過去に関連しての事だろうと悟り、話題を転じるべく口を開らこうとした、その時であった。


 廊下から複数の足音が近づいてくる。


 嫌な予感を抱き、イスファンはフィリスを窓際に寄せ、鞄にしまっておいたナイフに手を伸ばす。短くて頼りないが護身用には十分である。だが、イスファンの心から不安は消えなかった。


 足音は二人の部屋の前で止まった。そして、唐突に、戸が蹴り破られる。

 フィリスが小さく悲鳴を上げ、イスファンは身構えた。そんな二人の前に、悠々と現れたのは小太りの男。船長として紹介された中年の男であった。


「お客人、せっかくの招待、受けてもらわねぇと困りますなぁ」

「……どういうつもりだ?」

「どういうつもり? はは、若いの、面白いことを言うな」

「何?」

「おめぇさんに殺された部下の仇って奴さ」


 中年の男はそう言った後、懐から拳銃を取出す。そして、自然な動作で目を見開いたイスファンの太腿を撃った。苦痛の叫びを短く上げ、イスファンは崩れ落ちる。


「ディオンっ!」

「おっと動くんじゃねぇぞ、お嬢さん。あんたも自分の良い人を殺したくねぇだろ?」

「ふぃ」


 再び発砲。右肩から血が弾け、周囲に飛び散る。床に倒れた男の口から苦痛の唸りが上がった。


「やめて!」


 中年男は若い男女の悲鳴を心地よくとばかりに、締りのない下卑た笑みを浮かべた。


「はは、お嬢さん。あんたにゃ、エル・ダルークに着くまで、俺の部下達の相手をしてもらいてぇんだよ。ほれ、そいつを助けたかったら、大人しくこっちに来な」


 フィリスは湧きあがってきた涙と中年男の声を無視して、イスファンの傍らにしゃがみ込む。

 彼女の情人は痛みを誤魔化す為、歯を食いしばりながらも、左手で落ちたナイフを掴もうとしていた。そう、彼は傷ついても尚、女を守ろうと痛みと迫り来る死に抗っていた。


 フィリスは静かに涙を流しながら想い人の上体を抱き起す。そして、後ろから抱きしめて、耳元で小さく囁く。

 イスファンは充血した目を見開き、ゆっくりと首を振る。だが、再度の囁きの後は、がっくりと頭を垂れた。


「お嬢さん、話は終わったか? ほれ、早くしねぇと、良い人が死んじ……」

「ふふ、うふふ。……あはは、あははははっ」


 フィリスは中年男の言葉を遮るように大きな声で笑った。そして、イスファンのナイフを手に立ち上がると、涙を流しながらも鬼気迫る顔で自分達の生殺与奪を握る男を睨み返し、心の底からの思いを叫び声に乗せた。


「あんた達みたいな男のクズの相手なんて、死んでもごめんよ!」


 フィリスは両手でナイフを握りしめ、中年男に向ける。


「私の心は、この人のものよ! 無様な男に媚びて生かされるくらいなら、私はこの人と一緒に死ぬわ!」


 そして、浅はかな男を嘲笑する。


「だいたい、あんた達みたいな輩が、ディオンを生かそうなんて考え、持つわけがないじゃない」


 中年男は見透かした物言いに不愉快そうに顔を歪めた。


「ふふ、図星みたいね。……精々、私の抜け殻でも弄びなさいな」


 フィリスは静かに微笑み、手にしたナイフを己の胸に躊躇なく突き刺す。イスファンに重なるように崩れ落ちた。


「けっ、粋がりやがって」


 中年男は面白くなさそうに唾を吐く。それから、不愉快な思いを少しでも解消しようと、外に控える部下に声を掛けた。


「おい、こいつらのぉっ」


 唐突に、中年男の首に黒い腕が回り圧迫。一息に失神させた。



 黒装束の男は失神させた男を廊下へと引き摺り出す。

 部屋の前には首を捻じ折られた死体と首にナイフが突き立った死体が一つずつ倒れていた。男はそれらに頓着することなく、中年男の口に轡を嵌め、両腕を後に回し拘束する。慣れた様子で作業を終わらせた頃、同じく黒装束を着た男が足音もなく近づいてきた。


「組頭、船の制圧、終了しました」

「わかった。こいつから情報を抜く。運んでくれ」

「了解です」


 組頭と呼ばれた黒装束の男は中年男が肩に担がれて運ばれていったことを見届けると、黙したまま部屋に入る。赤く染まった床に、一組の男女が倒れていた。女の胸にはナイフが突き立ち、男の口からは血が漏れ出ている。二人とも明らかに事切れていた。


 捕縛対象となっていた男は死に、その情人も死亡。


 組頭は心中で呟くと、二人の手を見やる。決して離すまいと、しっかりと結ばれていた。冷め切った男の瞳が微かな感情の色を宿す。だが、何も言わず、ただ首を一度振ると、新たにやってきた部下達に指示を出した。 


「我らの郷に運んで、共に埋めてやれ」

「はっ」


 黒尽くめの男達は二人の手を解くことなく器用に担ぎ上げると、一礼して去って行く。最後に残った組頭は死んだ女の顔に浮かんでいた微笑みを思い出し、小さく独語した。


「……死もまた一つの救いか」


 暗部の男は自らの言葉に眉を顰めた後、らしくないとばかりに息を吐き出す。そして、その場より足音もなく去って行った。


 誰もいなくなった部屋。窓の外では豪風が荒れ狂い、砂塵を巻き上げていた。


 先と変わらずに、何も変わらずに……。



 4 手弱女は泡影に笑う 了

 あとがき

 うぅ、自分で広げた風呂敷の畳み方がわからなくなっていたでござる。

 だから、つぎはげんてん(?)にもどって、てつとちとあせとなみだとわらいとまっどをかきたいす。

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