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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
4 手弱女は泡影に笑う
33/96

五 凶惑の誘い

 旬に一度の定例会合を終え、自宅に戻った青年は暗がりの中で苦く笑った。

 十年以上の時を共に過ごしてきた仲間達に対して不義理を働く。そんな気分が内々に蔓延していた為だ。


 この罪悪感にも似た感情は彼が外套を脱ぐ段になっても消えることなく、心中で燻り続ける。結果、青年の表情から無理無理に作った笑みが消えていき、ただの渋面だけが残った。


 いつまでも残って己を苛む情念から逃れるように、青年は眉間に皺を寄せて目を閉ざす。そして、この期に及んで何を無駄な事を考えているのかと、自身を叱咤する。


 自分は幼馴染を取り戻し、この地を離れたどこかで共に生きていく。それだけを得る事が全てであると、そう決めたのだ、と……。


 だが、その思いとは裏腹に、青年の脳裏には、苦楽を共にした仲間達や自分を慕ってくれた年少の者達の顔が浮かんでは消えていく。彼は次々に思い出される顔を追い払うように、大きく(かぶり)を振った。


 今日の会合に出たのは、あくまでもかつての仲間達に不審を持たれず、己が疑われない為の行動に過ぎない。目標とする金額まで後少しになった今、慎重に事を運ぶ必要があるからこそ、普段通りの自分を演じていただけのこと。


 そもそも、己は既に人を害してしまっている。最早、引き返すことなどできはしない。


 自分は、共に苦労してきた仲間ではなく、幼馴染を一番に選んだ。何を失っても欲し、守りたい存在があって、それを選んだだけの、ただ、それだけの話だ。


 男は歯を噛みしめながら、未だに残る仲間達への思いを断ち切るべく、あるいは、自分自身の行動を正当化する為に、何度も自分自身に言い聞かせる。

 そうすることで、彼は長年に渡って培われてきた繋がりが断ち切られる事への恐怖を紛らわし、心揺らいで弱気になっていた心に喝を入れた。


 青年は眉間の皺をそのままに目を開ける。それから、部屋の明かりを点した。魔導灯の青白い光の下、小さな机の上に無造作に置かれた物に目を向ける。それは当初あった量よりも半分以上は減っていた。


 じっとそれを見つめていた男の口元が、不意に、全てを嘲るかのように歪む。


 後悔など今更の話だ。

 それよりも、保安隊の手が迫って来る前に全ての事を為し、この地を離れなければならない。保安隊は世間が思っているほど無能ではない。着実に、こっちに近づいてきているはずだ。


 そう、失敗して捕まってしまえば、広場で吊るされる身に堕ちているのだ。感傷に浸っている余裕など、どこにもない。


 前に進むしか生きる道がないことを明確に自覚し、男の目が静かに据わる。

 そして、金の種となる物を懐に収め、再び外出するべく、黒色の外套や防塵装備を身に着け始めた。



  * * *



「やれやれ、どうにも見えてこないもんだねぇ」


 寝ぼけ眼の中年男、ゴウト・リューディスは無機質な天井を見上げ、独り呟いた。


 港湾地区で殺人が起きてから九日……、半旬が迫ろうとしていた。

 彼が属する保安隊第一小隊は犯人を捕らえるべく、市内は元より市外の貧民街をも歩き回って、事件や犯人に繋がる情報を地道に収集している。

 しかしながら、元より目撃者が皆無に等しく、現場に残されていた証拠の類も極僅かということもあって、いまだその影にも届いていない。

 とはいえ、先に述べたように犯人に繋がる手掛かりが少ない為、捜査も暗夜を光源なしに行くが如き状態である。そう簡単に犯人を見い出すことなど、できはしない。

 できない以上は、仕方がないといえば仕方がないことである。ではあるのだが、市の秩序を保ち、犯罪者を追捕する者は、それでは済まされない。同様の犯行が行われる危険性が消えていない以上、何らかの成果を、否、容疑者に繋がる情報を見つけ出し、必ず犯罪者を捕える必要があるのだ。


 リューディスはふと上司の顔を思い出す。

 犯人に繋がるような情報が得られない中、元より神経質そうな細面は日に日に厳しい色が濃くなる一方で、眉間や目元の皺もより深く刻まれていた。結果、当人の顔立ちもあってか、どことなく陰険さを醸し出してしまっていた。

 実際の所、彼の上司は今回の捜査が容易ではない事を理解している為、決して理不尽に怒鳴り散らす事もないし、部下に嫌味を言って八つ当たりするような事もない。むしろ、軽食等を用意して、捜査で疲れた部下達を労わっていたりする。

 が、現実は無情な物で、その表情が故に、上司を良く知らぬ新人隊員は委縮していたりする。


 中年男は緊張して青い顔になった新人を思い出しながら、あれは睨まれるよりも来るからねぇ、と心中で笑う。

 そして、緩慢な動作で胸の物入れ(ポケット)より、金属製の煙草入れと小型点火器(ライター)を取り出した。手の内に収まった傷だらけの細長い小箱を揺らす。端に空いた小穴より紙煙草が一本飛び出た。それを咥えると、慣れた手つきで火を点した。


 リューディスが今いる場所はエフタ市軍本部一階の一画。

 出入り口からも各小隊詰所からも遠く、不便極まりない奥まった位置にある喫煙所だ。

 五人も入れば一杯になる部屋には、出入口の反対側に申し訳程度の小窓が設けられ、その近くで古臭い換気扇が唸りをあげて回っている。また、昔から使われている証左なのか、天井や壁面はやにがこびり付き、うっすらと黄ばんでいた。


 そんな室内で、リューディスは往時の弾力を失った長椅子の背にもたれ、紙煙草を燻らせる。

 現状、甲殻蟲という外敵が存在する事に加え、環境が環境である。使える農地は限られているし、その農地も穀物や野菜、生活必需品関連の植物が優先されている。当然のことながら、嗜好品である煙草の生産量は少なく、市場に出る価格は決して安い物ではない。

 中年男は寝惚けた眼でゆらゆらと立ち上る紫煙を追いながら、ゆっくりと煙草を吸う。彼にとっては仕事の終わりに行う贅沢であり、くつろぎの時であった。


 こうして彼は、しばし無為の時を過ごす。


 何も考えず、ただただ、ぼんやりと。


 そして、小さな灯火は可燃部の大部分を焼き尽くし、気分転換の一時は終りを迎えた。


 リューディスは目の前に置かれた灰皿に吸殻を押し付ける。それから、頭の後ろで手を組んで再び天井を見上げ、頭の中にある情報を時系列順に並べ直して再確認し始めた。


 事が起きたのは、第一旬十五日の夕刻。

 現場は港湾地区、港湾門近くにある三叉路付近。当時の周辺状況は砂嵐(ゼル・ルディーラ)が到来中という事もあって視界不良だった。

 そんな中で、犯行が発覚した切っ掛けは通報者が現れたこと。現場付近で叫び声……、被害者が今際に発した絶叫を聞いた者達が不審に感じて、門近くの詰所に通報してきたことが始まりだった。


 もっとも、当初、門衛はそれを風切音の誤聴か空耳の類と考えて、対応に動かなかった。


 これは職務怠慢と言えば怠慢。

 本来なら、複数人から通報を受けた時点で現場を確認しに行くべきだった。

 けど、動き回れる警備隊と違って、門衛は門の管理防衛こそが第一のお勤めであるから、そう簡単に門から離れるなんてことをできないのは事実。下手に数を減らして、|何らかの問題《市井に紛れた賊党の襲撃等々》が起きるなんてことがあっては困る。


 つまりは、相手の言を信用するかしないか、というよりは、それだけの危険を冒せるか否かって所が問題だったんだろうねぇ。実際、上層部もその辺りを考慮したみたいで、処分があったのは当時の現場責任者だけだし、懲戒もけん責のみだったしって、これは置いておいて……。


 お役目第一ってなこともあって、対応に動かない門衛と通報者達が一悶着している所に、機兵を伴った新たな通報者が現れた。これで場の流れが一変した。腰が重かった門衛もさすがに機兵の存在は無視しえず、また同時に通報の現実味が増したと感じたんだろう。で、対応を開始。


 できることならば、この時点で門を封鎖ないし検問でもしていれば、事件解決の面だけを考えればよかったんだろうけど……、さすがにこれは現実的じゃあない。

 その時点では何が起こっているのか、まったくわかっていなかった状況だったから、検問を実施できる法的な理由がない。というか、市軍といえども法や規則で縛られている以上、明快な根拠なく門を封鎖する事は不可能だ。

 そもそもの話、門を封鎖、検問すること自体、ほとんどないんだし、門扉を閉ざすなんて事になると極めて稀な事だ。それこそ賊党や蟲の襲撃があったとか、どこぞの都市と戦争したり漲溢が起きたりして、市が囲まれない限り、そういったことは為されない。逆に言うと、門を閉ざすって事は、市民に特級の非常事態が起きてるって、宣言してるのに等しいって事だ。

 うん、もし仮に下手に動いて事を大きくしていたら、市内に混乱が生まれて、場に乗じたお調子者が馬鹿騒ぎ(騒乱)を起こしていた可能性もなきにしもあらず……、とまでは、さすがに行かないだろうけど、市民の間で不安を煽ることにはなってしまうからねぇ。

 でもまぁ、現場を確認しに行く前に、近くの屯所に応援や機兵隊の出動要請を寄こしているから、当初の対応以外は非常時の手順を踏まえてしっかりと動けている方でしょ。


 中年男は独り腕組みして何度も頷いた後、俄かに動きを止めて、その後の事を思い返した。


 その後、現場付近の捜索に出た分隊が事切れた被害者を発見。

 即座に港湾門と警備隊司令部に連絡を入れて、検問及び初動捜査を開始した。が、結果は残念無念なことに空振り。実施された検問に不審な者は引っ掛からなかったし、夜通し行った港湾地区内の捜索も実りがなかった。


 そして翌日の十六日。

 警備隊より保安隊に捜査引き継ぎ要請が入る事になり、うちの小隊、保安隊第一小隊が動き出した。


 捜査開始初日は現場の確認や被害者の身元調査、警備隊が行った初動捜査報告の確認、凶器となったナイフの鑑識といった事を中心に情報収集。その結果、わかったことは、それなりの収穫といっても良い物だった。

 まず、現場の確認で犯人は船舶用出入口から逃げていない事がわかった。これと港湾地区内を綿密に捜査した警備隊の初動報告や門衛の証言等と合わせて考えると、十中八九、通報があった時点より検問が実施されるまでの間に、港湾門から市内に入ったと判断できる。

 次に被害者の身元調査だが、これは作成された似顔絵が効力を発揮したようで、聞き込みを行った商店街で顔を覚えていた者を幾人か見つけることができた。

 その者達、商店主達から得られた証言によると、被害者を見かけるようになったのは、去年の盛陽節あたりとのこと。食料品や日用品、更には飲料用の水といった物を定期的に購入していたことが判明した。

 最後に、唯一現場に残されていた物証……、凶器となったナイフの鑑識結果だが、残念なことに指紋等の類はまったく残されていなかった。付け加えるならば、刀身の根元、(なかご)に刻印されている製造番号も器用に削り取られていた為、どこで購入したかも追うことはできなかった。

 なんとも用意周到というべきか、抜け目がないというべきか……、とにかく、この凶器の扱い方で、突発的にやった線よりも計画的に行動を起こした線の方が大きいと判断することはできる。

 後、この他に使えそうだなと思えた情報は、犠牲者の背に刺されたナイフの、刃の向きや侵入角度を考えると九割方は右利きであろうという、鑑識班が出した見解ってところかな。


 リューディスはいつみても顔色の悪い鑑識班長の顔を思い出しながら、首を右に左に傾げた。首や肩の骨から小さな音が鳴り響く。それに心地よさを感じつつ、彼は更に情報の整理を進めた。


 二日目。

 朝一の報告会でそれらを知った上司は、被害者の線から調べを進めるように指示を出した。

 手掛かりがないに等しい犯人を捜して回るよりも、被害者周辺から探った方がまだ犯人に繋がる可能性があるだろうと踏んだのだろう。実際、俺が同じ立場だったとしても、同様の指示を出すだろうねぇ。

 で、この上司の指示を受けて、第一小隊は引き続き商店街や繁華街で聞き込みを行いつつ、被害者の住まい、というよりも生活圏を探すことになった。

 これの成果は半々。聞き込みは空振りに終わってしまったが、住居探しは当たりを引いた。

 購入品の中に飲料用水があったことから、上水のない市外……貧民街を中心に探して歩いた所、幸いにも被害者を知る者を見つけることができたのだ。

 その者に幾ばくかの協力対価(安酒)を提供して聞き出した話によると、被害者の名前はジャンド。貧民街でも比較的外れの方にある簡素な、いや、言葉偽らずに言えば、突風が吹けば崩れそうなあばら屋に住む男だった。

 それでもって、ジャンドの自宅とされたあばら屋にまで行って、周辺に住まう者達から話を聞いて回った結果、殺人があった当日夜より姿を見ていないこと、主に港で日雇いの仕事をして生計を立てていたといったことが判明した。

 現場と状況の合致もあって、ジャンドが被害者とほぼ認定できた段階で、二日目の捜査が終わった。


 リューディスは軽く(おとがい)を上げ、寝ぼけ眼を窓の外へと向ける。

 強風に飛ばされてきた砂粒が不規則に大きくなったり小さくなったりと気紛れな音を刻んでいた。

 この音から彼は三日目から始まった本格的な聞き込み捜査を思い出し、こんな環境じゃなきゃ、毎日毎日、砂塵と汗に塗れて歩き回る必要もないし、もうちょっと楽なんだけどねぇと、片頬だけを上げて薄く笑った。


 三日目。

 ジャンドなる被害者と思しき男が浮かび上がった事から、日雇いの斡旋を行う口入れ屋を当たって、先の情報の裏付けを行うこととなった。

 この聞き込みは比較的容易に進み、ジャンドがよく利用していた口入れ屋もすぐに見つかった。そこで似顔絵を見せて確認した所、被害者がジャンドで間違いないとの証言も得られた。それと同時に、当日の動きや被害者の為人(ひととなり)といったことも。

 事件当日は前日に入港した魔導船の荷役の口を得ようと、朝から口入れ屋に顔を出していたようだ。その際は別段と変わった様子もなく、普段通りであったという。また、夕刻、現場近くで日当を受け取った際も特に変わりはなかったらしい。

 そして、被害者の為人であるが、これも口入れ屋からある程度聞く事ができた。


 話を聞くに、被害者の働きぶりは過不足なく、やる気もそれなり。雇われない程に怠惰でもなければ、注目を浴びる程の勤勉でもない。人との付き合いはそれなりで、特定の誰かと深く付き合っている様子は見えなかった。が、同じ日雇い仲間に呑みに誘われた時は応じて参加していたようだ。時に漏れ聞こえた話から、一人暮らしで女遊びもしたようだが、執心するような相手はいないということもわかった。


 ……良くも悪くも目立たない、極普通の男って感じだよねぇ。


 リューディスは被害者を聞き知るにつれて、積もり重なっていった違和感を胸中で弄びながら、その後の流れを思い出す。


 そして、四日目から今日まで。

 当日の被害者の様子を調べ、不審な者がいないかを確かめる為、被害者を知る者達や事件当日に荷役に就いていた者達を訪ね歩いた。また、被害者の為人をより詳しく知り、交友関係等を把握する為に、住んでいた住宅内も調べた。

 被害者の為人などは口入れ屋から聞き出した話以上のものはなく、平々凡々な姿形が組み上げられて補強されるだけだった。住宅の内部も特に変わった物はなく、極普通の生活用品等が置かれているだけ。

 けれど、一方で着目すべき情報もあった。それは、当日の朝、被害者が身に着けていた鞄が失われていたという事実。これは、荷役に参加していた人足に口入れ屋、周辺住民と、立場が異なる複数人より出てきたものだから、信憑性が高い情報だろう。


 一通り、情報の整理を終えた中年男は白い物が混じる黒髪を撫で上げながら、寝ぼけ眼を細める。その半ば閉じられた目には、ただ冷たい光だけが浮かんでいる。どこまでも冷質な眼差しと同様に、リューディスの思考も冷たく働く。


 今回の事件、犯人云々以前に、被害者がどことなく臭う。

 この世の中、色々な人間がいるが、この被害者はあまりにも顔や性格に特徴がなさ過ぎる。というか、為人が薄っぺらいっていうか、あまりにも癖がなさ過ぎて、どうにも胡散臭く感じるんだよねぇ。


 ……うん、そうだな、目立たないように作られたって感じだ。


 リューディスは微かに右の眉根を顰め、天井の魔導灯を見上げた。常と変わらず、魔刻板より青白い光が放たれている。彼は黙して光源を見るともなく見ながら、思考を続ける。


 だいたい、極普通の男が、何故、殺されるんだろう?


 偶然が噛み合って起きた、通り魔?


 偶然、あの時に、偶然、被害者が道から外れて、偶然、あの場所に行って、偶然、現れた犯人に殺された?


 偶然、あの時に、偶然、犯人が街外れに出てきて、偶然、あの場所に至って、偶然、そこにいた被害者を殺した?


 確かに偶然の積み重ねってこともありえるけど……、躊躇のない一撃で致命傷を負わせたり、凶器の出所をわからなくしていたり、鞄がなくなっていたり、上手く逃げおおせていたりってことを合わせて考えると、必然って気がするんだよねぇ。


 というよりも、犯人の本命は、どっちだ?


 命か? それとも鞄か?


 命ならば、通り魔に加えて、怨恨による暴発や利害による暗殺といったあたりか。


 通り魔の線は偶然の要素が多いから一先ず置いて、まずは怨恨の線だ。

 これは可能性としてありうるといった所だろう。が、仮に恨みが動機であるならば、相手を殺したい程の恨みを晴らす為にも、一撃ではなく滅多刺しにしていてもおかしくはないはずだ。……まぁ、これも加害者や場合にもよるので、一概には言えないので、絶対とは言えない。


 けど、たった一撃で殺して、相手の死に執着することなく逃げ出しているから、感触としては違うように感じられる。


 次に暗殺の線だけど、殺し方だけを見た場合だと、考えられなくもない。

 もっとも、市の権力を握る上層や大きな商会の主といった者ならばともかく、被害者の社会的な立ち位置を考えると、その線は薄いように思われる。


 ……被害者が裏で何かをしていない限りだが。


 唐突に、リューディスの口元に皮肉気な笑みが形作られる。今更ながら、犯人を見い出す為に被害者を疑う自分自身の思考を笑ったのだ。けれど、彼の思考は止まることなく進む。


 もう一方の、物が目的の場合。

 単純な話、強盗ってことになるんだが……、市外の場末に住んでる男から、殺してまで奪い取る物ってのは何だろう?


 直接的に、金、っていうのは、ちょっと考えられない。

 そんな金があるならば、市内に住んでいるのが普通だ。いや、普通でない奴も中にはいるかもしれないが、今回は被害者の家も調べたから、金がないことはわかっている。

 無論、少額の金欲しさで殺しをする可能性もあるにはあるが、そこまで刹那に生きなければならない程、エフタは荒れていない。働き口はそれなりにあるし、真面目に働けば、相応の暮らしもできる。

 そもそも、金が欲しいから殺してでも奪う、っていうような、そんな短絡的な考え方をするような犯人ならば、ナイフの製造番号を削り取るような面倒な真似ができるとは思えない。むしろ、もっと単純に、金持ちを狙って行動を起こしている方が自然に思える。


 ……やっぱり、物が目当ての可能性が高い、かな。


 リューディスの目が自然と鋭くなる。


 と、その時、部屋の空気が動いたのを感じ取って、中年男は音が続いて聞こえてきた方向、出入口に目を向ける。

 そこには彼とそう歳が変わらない知り合い達がいた。銃火器や薬物を取り締まり組織犯罪に対処する第五小隊と外事防諜を担う第六小隊に属する男達だ。


 二人の男はリューディスの目を見て、それぞれに口元を吊り上げる。


「これはまた、こわい目だな、リューディス」

「まったくだ。けど、その様子だと、色々と行き当たってるみたいだな」

「まぁ、それなりにねぇ。それで、二人お揃いでどうしたの?」

「息抜きの一服さ」


 固太りした五小隊の男と眼鏡をかけた六小隊の男はリューディスの向かい側の椅子に座ると、それぞれ大事そうに煙草をくわえ、火を点した。

 リューディスも他人のくつろぎの一時を邪魔するような真似はせず、目を元の寝ぼけ眼に戻して、凝った肩を解すべく軽く首を回す。先と同じように筋骨が音を立てる中、固太りした男が口を開いた。


「で、どうよ、捜査の方は」

「あー、犯人の影は見当たらない代わりに、被害者がとっても臭うんだわ」

「ほうほう、被害者が臭うか。……こいつは、やっぱり、こっちと繋がってるかもしれんなぁ」


 固太りの男が呟くと、眼鏡の男もまた頷く。それに興味を引かれたリューディスは目で続きを促した。応じて、五小隊の男が話し出す。


「ここ最近、市外で麻薬が流れているようでな」

「あら、そうなの? ……どの程度の規模で?」

「短期間で、こっちの耳に自然と届くほどの規模で」


 これを聞いた途端、リューディスの脳裏で、奪われた物と麻薬とが繋がった。そして、今現在、麻薬を流している者が犯人である可能性が高いと。


 そんなことをリューディスが内々で考えていると、今度は六小隊の男が声を上げた。


「その情報っていうか、お前さんが今想定しているモノを裏付ける話として付け加えるなら、例の事件の前日、入港していた二隻の船は、それぞれアーウェルとルヴィラから来たものだ」

「あー、なるほど、そのどちらからか、麻薬が入り込んだって辺り?」

「ああ、東のアーウェルはここ最近、麻薬の広がりが著しいし、ルヴィラにも結構入ってるみたいだからな。うち(六小隊)ではそう考えている。でもって、うちに回ってきた被害者の情報を見るに、エフタに入り込んでいた、余所の密偵……、っていうよりも、工作員って辺りじゃないかって話だ」


 リューディスは納得する前に、自然と以前貧民街で発生した凄惨な殺人事件を思い出した。捜査を開始してから数日後、上層から捜査中止を言い渡された事件だ。彼は無意識に顎を撫でながら、眼鏡の男に訊ねる。


「もしかして、今回のって、組合の暗部が?」

「探りを入れてみたが、今回は白だ。連中、余程じゃないと基本的に動かないからな」

「それは多分、こっちの面子を立ててくれてるんでしょ」

「そういうこったろう。……けど、その猶予も終わりだ」


 リューディスの眉根がピクリと反応する。彼にもある予想がついたのだ。それを確認する為にも、彼は続きを促した。


「終わりってことは?」

「ああ、どうも麻薬が大々的に流れてる件がシュタールの姫君に届いたみたいなんだわ」

「……あちゃー、お姫さんに知られちゃったか、これは不味いね」

「不味いさ。あの姫君、麻薬だけは社会の活力を削ぐって、容赦しないからな」

「俺も対処法として効果的なのは認める。でも、できれば、うち(五小隊)の仕事を取らないで欲しいもんだ」


 中年男達に嘆息交じりで口々に零す。が、その声に嫌悪の念はない。

 三人共、日々の平穏を守るには、綺麗事で全て済ませられるほど甘くない事を知っている為だ。むしろ、自分達よりも若い者にその裏側を背負わせている申し訳なさが、胸の内にあった。


 リューディスは眉根に皺を寄せながらゆっくりと立ち上がる。そして、後頭部を掻きながら言った。


「今の話、うち(一小隊)の中で回しておくから、正式に伝達して頂戴な」

「ああ、わかった。明日にでも伝えるようにする」

「よろしく。……できれば、犯人はうちらで捕まえたいもんだねぇ」


 部屋に残る二人もそれぞれの表情で小さく頷いて見せた。



  * * *



 旭陽節第二旬最初の休日。

 クロウ・エンフリードは朝から商会通りの東側、様々な店舗が立ち並ぶ商店街の一画に赴いていた。というのも、食料品や日用品の買い出し等を行う為だ。


 もっとも、行きつけの店を巡り歩く前に行く場所があった。


 それは、洗濯屋である。


 クロウも孤児院で指導を受けている事から、自分で洗濯することもできないこともない。ないのだが、やはり手間がかかる上、汚れも綺麗に落ちない。これに加えて、大砂海域という土地柄、節水の意識を叩きこまれている為、下手な仕事で水を無駄にすることには二の足を踏んでしまったりする。


 そんな訳で、クロウは溜め込んだ汚れ物を古ぼけた布袋に詰め込んで、彼がグランサーになる以前、孤児院時代から付き合いのある洗濯屋へと向かう。

 彼が懇意にしている洗濯屋は、商会通りからかなり外れた場所。以前、クロウが住んでいた集合住宅や生活用品等を作ったりする工房地区に近い所にある三階建ての建物だ。

 建物自体は長年に渡り日射や風塵に晒され続けて、外壁や看板が摩耗してしまっており、お世辞にも繁盛している風情はない。が、提供する仕事は丁寧で質が高い割に値段が安い事もあって、家計防衛に努める主婦層や実入りの少ない孤児達に重宝されていた。


 クロウが五日分の衣服を持って訪れた時分は、丁度、朝一の客が引けた時間帯であったようで、受付台の奥で店番をする三十台前半の女がおぶった子どもをあやしていた。

 店番の女はクロウが店に入ると微かに身構えるも、面を覆うゴーグルやマスクを取った途端に緊張を解いた。


「あら、クロウじゃない。今日はいつもより早いわね」

「ええ、今日は昼から用事があって」

「へぇ、用事、って、もしかして、噂にあった女の子の事?」


 クロウは肩に掛けていた布袋を降ろしながら、訝しげな表情を見せた。


「なんですか、その噂って」

「あんたが女の子を引っ掛けたって話、商店街の店主連中(おっさんども)が話してたわよ」

「へ、いつ頃位からですか?」

「半旬か、一旬くらい前かしらねぇ」

「あ、確かに、その辺りから、オジサン方が妙にニヤケてました」


 少年は呆れた顔を隠さずに応じると、女は興味深そうに尋ねる。


「で、実際の所は?」

「眼鏡をかけた人なら魔導機整備士をやってる人で、魔導機の整備でお世話になってる人。機兵の教習を受けてた時からの付き合い」

「ふーん。なら、眼鏡をかけてない方は? 砂嵐(ゼル・ルディーラ)が来る前に、一緒に買い物して歩いてた方」

「そっちは組合で魔導士をやってる人。帝国から来た人なんだけど、縁あって友達づきあいさせてもらってる」

「なーんだ、惚れた腫れたの話じゃないのかい」


 クロウは自然と苦笑しながら、手首を幾度も返して往復させた。その平静な様子から本当にそういった類の話ではないとわかったらしく、女は面白くなさそうな顔で応じた。


「あらら、本当みたいね。なら、後半旬もすれば自然と消えるでしょ」

「いや、俺から言わせてもらうと、人を娯楽の種にしないでほしい所なんですけど。あ、これ、いつものでお願いします」

「はいはい、いつものね。……よいしょっと、これに汚れ物を入れとくれ」


 クロウは札が付いた網袋を渡される。それに持ってきた汚れ物を放り込むと返した。


「はい、確かに。これが引き換え札ね。今からだと、今日の昼過ぎ……、そうねぇ、二十一時位には仕上がるよ」

「そうですか。なら、また取りに来ます」

「あら、もう帰るつもりなの? 少しは話でもして、私の無聊を慰めていきなさいな」


 クロウは壁掛けの時計を見て、頭の中で時間の計算をする。一昨日の夜、ミソラ達と交わした約束の時間までは十二分にあった。なので、彼は肩を竦めて見せた後、受付台に肘をついた。


「ご主人ほどにはうまくできないのはわかってますが、お相手させていただきます」

「あはは、あんたも言うようになったねぇ」


 女は声を上げて楽しげに笑って続けた。


「やっぱり機兵になったのが大きいのかい?」

「どうなんだろ。でも、確かに身体は鍛えられたし、物の見方もちょっと変わった気がするけど、他は特に変わった気はしないなぁ」

「そうかい? でも、実際、機兵になって、定期的に洗いに出すようになったじゃない」

「あー、いや、その辺はほら、グランサーやってた時は、運と勢いに乗ってる時じゃないと実入りが安定しなくてさ」


 クロウはきまり悪そうに眼を逸らす。

 年季の入っているのは外観だけではなく、室内の壁や窓も相応に古めかしい。けれども、清掃が行き届いているのか、壁に汚れはないし窓にも曇りはなかった。

 額縁に入れられた営業許可証より視線を戻すと、女の肩越しに覗き込む幼子と目が合った。なんとなく軽く笑みを見せると、幼子もまたにこりと笑う。クロウの様子から己が娘の反応を感じ取りながら、女が話し出した。


「まぁ、そういうのもあるってのはわかるんだけど……、やっぱり着る物は綺麗にしていないとねぇ」

「そう言えば、姐さん、昔からいつも言ってましたね。ぼろはぼろなりに、でしたっけ?」

「そうよ。たとえ着古した物でも清潔にしていれば、それなりに見れる物なの。逆を言えば、いくら見目が良くても不潔さを感じたらなら、女は靡かないわ。だから、注意なさい。あんたも、うちの人にはかなわないけど、それなりの顔なんだから」

「はは、ごちそうさまです」


 背中の幼子はクロウに興味を示したようで、しきりに小さな手を伸ばしている。


「そういえば、お子さん、何歳でしたっけ?」

「一歳と半年よ。三つくらいになったら、昼の間は孤児院で見てもらおうかなって思ってるの。あそこは託児もやってくれるし、教育も結構しっかりしてるから」

「そうですか」


 女が見せる柔らかな表情に、少年が僅かながらに残る母の面影を見い出していると、当の女が目を細めて懐かしそうに笑った。


「それにしても、ほんとうにまぁ、裏路地を走り回ってた坊やが、まさか機兵になるなんてねぇ」

「その時期なら、洗濯屋の綺麗なお姉さんが結婚して、当時の年長組や若い先生がすごく嘆いてたことが印象に残ってますね」

「あら、懐かしいこと言ってくれるわね。でも、そんな私にも無事に子供が生まれて……、はぁ、私も歳を取ったわねぇ」


 店番をする女はそう言って、嘆く真似をして見せる。


「いや、歳を取るって……、そんなことないって、姐さんはまだ若いよ」

「お世辞は良いわよ。この子を産んでから腰回りにお肉が付いてきちゃったし、顔にも皺が目立つようになっちゃったし」

「でも、心が若いと身体も若くなるって聞くし、姐さんみたいに元気な人だと、同年代の人よりも絶対若く見えるよ」

「……そーかい?」


 クロウが首を縦に振ると、女は笑みを浮かべた。事実、クロウの言は世辞の類ではなく、女の顔は若作りで黒い髪に白い物は見当たらない。また、身体も豊満と呼ぶべき肉付きで、焦げ茶色の肌にもしっとりとした感があった。


「本当本当。姐さんみたいな人と一緒になるんだから、ご主人も幸せ者だよね」

「ふふ、それは、どうだかねぇ」


 女が後ろを見やると、上手い具合に、額に汗を浮かべた男が奥に繋がる出入口より出てくる所であった。

 現れた男、洗濯屋の主人は三十代後半の男で、痩身ではあるがひ弱といった観はない。彼は綺麗に手入れされた口髭を触りつつ、口を開いた。


「やぁ、クロウ君か、いらっしゃい。今日は洗濯かい?」

「ええ、やっぱり綺麗にしようと思ったら、ここが一番ですから」

「らしいわよ。で、これが、今日の分よ」

「了解、女将さん」


 男は苦笑しながら網袋を受け取る。そして、思い出したように柔らかい低音で年少の客に話し掛けた。


「ああ、そう言えば、知ってるかい? ちょっと前に、港湾地区で殺しがあったの」

「……ええ、まぁ」

「ならいいんだけど、くれぐれも気をつけるようにね。昔から、この時期は変な輩が出やすくなるから」

「あはは、大丈夫よ。この子も機兵なんだし、そういった荒事があっても、きっと上手く収めるわ」

「ということらしいので、おそらく大丈夫だと思います」


 洗濯屋の主人はクロウの少し困った表情と茶化した物言いの不釣り合いさに軽く噴き出した後、労わるような視線を送ったのだった。



  * * *



 しばし歓談の時を過ごした後、クロウは洗濯屋を出た。当初の大目的であった買い出しを行うべく、各種商店が揃う商会通りを目指す。まだ約束の時間までには余裕があるものの、店主連中にからかわれかねないと、その行き足は速い。

 道中、砂嵐の勢いは依然として強く、時折、吹き抜ける風もまた強い。乱舞する砂塵もまた、常の残酷なまでに青い空を覆い隠し、ただ乾いた熱だけをもたらしている。

 気紛れに吹き付けた突風に、被ったフードを飛ばされないように、少年は慌てて押さえた。いくら慣れているとはいえ、髪が砂塵塗れになるのは真っ平ごめんなのだ。


 クロウは荒ぶる神の児戯に眉を顰めながら、人通りのない薄暗い路地を抜けて商会通りに出た。


 少し立ち止まり、周辺に目を配る。


 休日という事もあってか、風砂の薄幕の中に見える人影もそれなりにある。けれども、クロウが見るに、その数は普段の同じ時期と比べれば、七、八割といった具合だ。特に子どもの影が皆無と言ってよい程に見えない。


 この事実に、クロウが先の殺人事件が解決していない影響を感じていると、その耳が何かを拾った。



 それは、微かな悲鳴。


 高低を問わぬ叫びを支えるように、不揃いながらも群なす足音も聞こえた気がした。



 昔のクロウならば、悲鳴が聞こえた方向、トラスウェル広場がある方向に危険があると察して、即座に踵を返していたであろう。


 しかしながら、今の彼は機兵であった。


 人を甲殻蟲から守る存在であり、ひいては脅威から守る防人であった。


 戦う術を知る、力ある者の一人であった。


 力を振るうべき時を誤らぬよう、先達に教えを受けた男であった。


 自然と足が反応して、少年は駆け出していた。


 視界が狭い中、悲鳴を聞きつけた人々が立ち止まり、或いは、何かが起こった場所より距離を置こうと離れ始める中を、人にぶつからぬように注意しながら走る。


 その間にも彼の耳は様々な音を拾い続けていた。


「なにがあった?」

「さぁ、わからん」


 店から顔を出した店主と客の前を走り抜け。


「これは、広場の方か?」

「おい、なんか、変な奴が出たみたいだぞ」


 立ち止まり首を傾げる人々を横目に。


「なぁ、どうしたんだ?」

「いや、突然、訳のわからんことを叫んで、暴れだしやがった」


 逃げてきた者に話を聞く者の脇をすり抜け。


「おいっ、警備隊はどこにいるっ!」

「た、多分、れ、連絡は行ってるだろうけどよ」

「くそったれ共がっ! こういう時に限っていやがらねぇ!」

「なら、今すぐに連絡に走れ!」

「お? おぅさ!」


 広場の方向を気にしながら警備隊を罵った男に指示を出し。


「おい、怪我人が出てるぞっ! 急いで、医者か救命隊を呼んで来いっ!」

「いや、それよりも用心棒だっ! 棍棒を持って来い! 囲んで袋にしちまえっ!」

「馬鹿野郎っ! 相手は刃物持ちだっ! てめぇみてぇなへっぴり腰に何ができるってんだっ!」

「なにをぅっ! 言いやがったなこの野郎!」

「馬鹿なことやってんじゃないよっ! そんなこと言ってる暇あったら、怪我人を助けに行きなっ!」


 外縁で騒ぎ立てる人々の合間を抜けて、トラスウェル広場に入った。



 普段は人通りが絶えない広場は往来の人が途絶え、空疎な空間が広がっていた。外の寂れた世界が現出したかの光景に、クロウは思わず眉を顰めた。


 そんな広場の中央、数人の人影が倒れ伏す中、狂乱し哄笑する男がいた。


 力に酔うように、低音と高音の間を定まらぬ声音で、ひたすらに笑い続けている。時折、男は笑いを止め、ナイフを持つ右手を振るって、何かを切る仕草をする。そして、再び笑う。


 いつ何時、倒れ伏す被害者達に凶刃が振るわれるかわからない上、その容態も知ることもできない状況であった。



 クロウは状況の悪さに面覆いの下の表情を険しくする。そして、何とかこの状況を打破すべく、周囲の人々へと注意を向けた。


 三人四人と、彼と同じような動きをする者達がいた。


 誰かが狂人の注意を引けば、状況が動く。そんな状態だとクロウは判断すると、すぐ傍に転がっていた果物、シャリカを拾い上げて、耳障りな笑いを続ける男に迷うことなく投げ付けた。


 狂った王者に、挑戦状を叩き付けるかのごとく、思い切り。


「……ぁが?」


 クロウとしては頭を狙ったのだが、残念なことに追い風によって目算が狂い、上腕に当たる。だが、それで十分に効果があったようで、狂人は反応して、進み出てきたクロウへと向き直った。


 近くによるにつれて、狂人の姿形がはっきりと見えてくる。


 クロウよりも少しだけ大きい体格。ぼさぼさの脂ぎった黒髪。手入れされていない汚れたゴーグル。半分外れかけたマスク。順手に持ったナイフは血糊が付着している。血飛沫の黒い染みが付着した汚れ放題の外套。ゴーグルの中に見える血走った目。マスクからはみ出た口の端、その歪な吊り上がり。


 マスクが外れかけているのに、よく呼吸ができるなと感心して、クロウは一度立ち止まる。周囲に視線を走らせると、彼の動きに応じるように複数人が動き始めていた。そのことに安堵した後、余計な問答はせず、新たな獲物に襲い掛かろうと動き始めた狂人に対して、無造作に踏み込んで仕掛けた。


 ナイフを振り上げ、隙だらけに大きく開いた腹部に、体重を乗せた右掌を一撃。


 遅れて振り降ろされた相手の右肘を、空いた左手で押さえ。


「ぐっ!」


 思っていた以上に強かった膂力に応じて、両脚と背中に力を込める。その間にも鍛えた握力で肘を砕かんとばかりに握りしめた。


「ぎゃ、ぁああぐぇあっ!」


 相手の雄叫びや振り上げられた左腕を痛みを誤魔化す為の虚勢と断じ、脚の力をも使って、右掌を下方より相手の顎へと打ち上げた。


 途端、狂人の足から力が抜け、身体が倒れ込んでくる。

 クロウは凶器を持つ手を確保しながら避けた。そして、俯せになった男の右腕を動かせないように関節を固めて制圧。握りしめた指を一本ずつ折る勢いで外して、ナイフを奪い取り、ようやく詰めていた息を吐き出した。


 状況が改善した事を知ったのか、俄かに周囲がざわめき、安堵の吐息と歓声が上がった。


 暴威を持つ狂人とはいえ、人は人。

 機兵の彼にとっては甲殻蟲の方が何倍も怖く、またそれ以上にどうやっても勝てないと思った教習所の教官達の方が恐ろしい。

 そう、たかだかナイフを振り回して悦に浸る相手など、大剣を思うままに振り回し、戦斧を小枝のように操って、着実に詰めてくる化け物達に比べれば、大した脅威ではないのだ。


 実戦と理で練り上げられた武技の数々を受けた教練を思い出し、少年が身体を震わせていると、近くから声が聞こえ始めた。


「ああっ、どうしようっ、血がっ、血が止まらないっ!」

「慌てるな! 傷口にしっかりと布を当てて、しっかりと押さえろ!」

「止血はここだ! ここをきつく縛れ!」

「おい、もう少し頑張れ! 救命隊が直に着く!」


 クロウが声が聞こえた方向に目を向けると、怪我人それぞれの場所に複数人が集まり、応急手当をしている所であった。命に関わらないといいがと、クロウは自然と眉を曇らせた。


 と、その時、固めた腕に動きを感じた。彼が眼下の狂人を見やると、まだ諦めていないのか、呻きながらも身体を動かそうとしていた。

 はた迷惑な事の元凶の反抗、或いは、往生際の悪さを不愉快に感じた事に加え、怪我人にしても己であったり知人であったりする可能性がなきにしもあらずという事もあって、少年はさりげなく背中に片膝を乗せて、殺意を込めて圧力をかけ始めた。


 結果、呻き声は悲鳴に変わった。


「う、がぁえっ、ああぃあいばっ!」

「……おとなしくしてろ。次、妙な真似をしたら、このまま砕いて潰すぞ」


 常の少年からは考えられない程に(こわ)い声であった。狂人も少年の声に秘められた本気を感じ取ったのか、はたまた、逆らっては不味いと動物的な勘が働いたのか、動きを止めた。

 

 一方、クロウはしたくもない脅しを、というよりは、自分の中にあった殺意を直視したことで、著しく気分を害していた。珍しくもやさぐれ気味な雰囲気を漂わせ始めた少年に声を掛ける者がいた。


「怖い声だな」


 クロウが顔をあげると、二十代から三十代位と思しき男が立っていた。クロウの記憶が覚えていた、動こうとしていた者の一人であった。

 とはいえ、見知らぬ男からの不躾な物言いには、温厚な少年とて反発心を抱く。だが、今日に至るまでに培われた忍耐がそれを面に出すことを許さない。ただ淡々と、思ったままの事を答えるに止めさせた。


「……かもしれない。けど、こういった輩には、これ位の方でいいと思う。それで、怪我人はどうなりました?」

「二人は大丈夫のようだが、一人はぎりぎりといった所だ」

「そう、ですか。なら、警備隊は?」

「どうやら、今、来たみたいだな」


 男の言葉に導かれて視線を移動させると、広場を囲む人々から冷たい視線を向けられる中、身を小さくして警備隊が近づいて来るところであった。


 その内の数人がクロウの下にやってくる。そして、隊の長らしき警備隊員が敬礼をして声を上げた。


「ほ、捕縛への協力、感謝しますっ! 被疑者を引き取らせていただきます!」

「お願いします。まだ暴れるかもしれませんので、十分に注意してください。それと、凶器はこれです」

「はっ!」


 隊長が短く応じると、三人の隊員達がクロウと入れ替わり、狂人の後ろ手に手枷を嵌めた。自由になったクロウが凶器のナイフを渡してから身体を起こした。すると、先の警備隊員が申し訳なさそうな声で話しかけてくる。


「あの、本件につきまして、どういったことがあって、どう対処したのかを詳しく知りたいので、話を聞かせていただけないでしょうか」


 クロウが承諾の返事をするよりも早く、横から声が入った。それは少年も聞いた覚えのある声、しばらく前に聞いた声であった。


「あー、保安一小隊のリューディス大尉なんだが、この人と、そっちの彼への聴き取りは俺がしておくよ。隊長さんは、現場の保全と野次馬の整理、怪我人の救命に努めなさいな」

「え、ですが……」

「安心なさいって、こういった事件が起きた時はね、所属のいがみ合いなんてもの二の次なの。ちゃんと調書を作ってそっちに渡すさ。……それにね、多分、この人、俺が知ってる人だと思うんだよねぇ」


 クロウは横から口出ししてきた男の名乗りと話しぶりから、どこか癖のある寝ぼけ眼の中年男を思い出した。それと同時に、何故だか、午後の予定が潰れるような気がしてしまい、少年は溜息をついた。

13/05/26 誤字及び一部表現を修正。

13/07/05 一部表現にルビ。

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