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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
1 魔導人形は夢を見る
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二 泡沫の夜想

 光陽が地平線の彼方へと沈み、空に数多の星光が煌めく夜。

 エフタ市街は夕刻の喧騒が嘘であったかのように静かな時を迎えている。もっとも、街路に出ている者が少ないだけであって、盛り場にある酒場での飲み食いや色町にある娼館での営み、公衆浴場での入浴、個々人の自宅での団欒やくつろぎといった具合に、まだまだ人々は屋内で活動している。


 エフタ市の中心部に位置する市庁舎、その内部にある迎賓ホールにおいても同様で、室内では立食の宴が催されていた。白壁や天井に据えられている灯火が惜しみなく灯され、部屋は夜である事を忘れさせる程に光で満ちている。

 また、会場に幾つか置かれているテーブルには、大砂海域では貴重な生野菜を始め、ニニュの香草焼きやコドルの燻製、各種乳製品、焼き立ての白パン、東方産の柑橘、西方産の葡萄といった食べ物が大皿に盛られ、ルーシ酒や果実酒が入った陶器瓶が大量に置かれており、人が夜闇に抗する為に生み出した輝きを浴びて、宴に彩りを添えている。


 この宴の席に参加しているのは、裾の長い上衣やゆったりとした長衣を着た男達と艶やかなドレスを着込んだ女達だ。彼らはおのおの酒が入った陶杯や食べ物が乗った取り皿を手に歓談している。

 その者達の中にあって、数人の取り巻きに囲まれながら話をする二人の男がいる。一人は赤いドレスで着飾った肉感的な女を脇に侍らせた肥満とも呼べる恰幅をした男。もう一人は骨と皮だけと言っても過言ではない痩躯の男だ。

 この内の一方、自らが蓄えた肉で上衣の腹部分を押し上げた男が手に持っていた酒杯を干すと、白い衣が引っ掛かった枯れ木のような男に甲高い声で話し掛けた。


「いやはや、我が調査団に対して、このような歓迎の宴を開いて頂けるとは、真にありがたいことです」

「何を仰いますか。帝国魔導技術院と言えば、帝国の魔導技術を引っ張る存在ではありませんか。帝国からもたらされる魔導技術の恩恵を受けている我々からすれば、これ位は当然の事です」


 低い声音で答えた痩身の男は浅黒い頬に笑みを形作り、話し相手当人を持ち上げるような口振りで帝国への賛辞を贈る。だが、よくよく見れば、言葉とは裏腹に、その瞳には油断のない光が湛えられている。そのことに気付けぬまま、自身の太鼓腹を撫でた中年男は更に気を良くした風に言葉をつなぐ。


「おお、嬉しい事を仰ってくれる。我が調査団はあなた方のご厚意を決して忘れないでしょう。ええ、どのようなことでも構いません、もしもお困りのことがありましたら、我々にご相談ください。我が調査団は即座に本国に連絡を入れ、お助けいたしますぞ」

「もったいないお言葉です。ですが、たかが一辺境に住む我々に対して、人類社会の要たる帝国の皆様に貴重な時間と労力をお使い頂く訳にはまいりません。そのご厚意、ご厚情だけで十分でございます」

「然様ですか。ですが、何かお困りのことが起きた際には、帝国を御頼り下さいますよう」

「ええ、ええ、その際には、大いに頼りにさせて頂きますとも」


 表面的には嬉しそうにして見せた痩せ男、エフタ市長は自身の側近へと目で合図を送り、話し相手たる帝国魔導技術院エフタ遺構調査団長の杯に程よく冷えた酒を注がせた。



 このトップ同士の会談の様子を少し離れた所から窺う者達がいた。白い長衣や淡い色合いが多い上衣の中にあって、異彩を放っている黒い詰襟を身に着けた体格の良い男達だ。

 その男達の中にあって、一際不機嫌そうに、調査団長とエフタ市長の姿を見つめている若い男がいる。容姿は整っているのだが、負の感情を表に出している為、台無しになっている。その事に気付けない若者は近くに立つ厳つい顔の中年男に対して、長い金髪を掻き上げながら小声で不満を口に出した。


「ったく、同盟と戦争が始まるかもしれないって時期に、女を侍らせて発掘調査だなんて、呑気なもんですね、パドリックさん」

「言うな。俺達は調査団付の護衛隊だ。遺構で発掘調査を行う調査団を守り、調査が終わった後は無事に帝国まで戻すことが任務だ。今はそれだけを考えていれば良い」

「ですがね、機士ならば、調査団の護衛なんかより、戦場に出たいと思うのが自然でしょう?」


 秀麗な眉目を持つ十歳以上年下の同僚から同意を求められた中年男ことパドリックは、その言葉の中に若年特有の虚栄心が含まれている事に気付いた。

 機士の一人として、若い機士の心得違いと安易で幼稚な考えを叩き潰す為に、また、上司命令でエフタ市に到着するまで、目前の若者の面倒を見る破目になった上、不本意にも面白くもない酒宴に付き合わされた鬱憤を晴らす為にも、彼は綺麗に剃り上げられた顎を撫でながら、先程よりも重い声で応じてみせた。


「そう思う事自体、俺には理解できんな」

「え?」

「というか、お前、機士たる者の役割すら覚えておらんのか?」

「は? それくらい、ちゃんと知ってますよ」

「なら、どうして、そんな妄言を吐ける?」

「その妄言ってどういうことですか? 僕は妄言なんて言ってませんよ。パドリックさんこそ、何を言ってるんです?」


 若い機士の半ば馬鹿にするような物言いを聞くと、パドリックは失望から大きく溜め息を付いた。そして、心底から侮蔑する風に顔を作ると口元に嘲笑を浮かべ、彼本来の口調で話し出す。


「やれやれ……、お前のような阿呆を抜かす輩がどうして機士になることができたのか、俺には不思議でならん。お前、機士になる為に親の金でも積んだのか? それとも、試験担当官に尻でも貸したのか?」

「なッ!」

「ん? 一回言っただけじゃ、理解できない頭しかねぇみてぇだから、特別に繰り返してやろう。てめぇなんぞがどうして機士を名乗れるのか、不思議だってんだ」

「ぼ、僕を、ぶ、侮辱するのかっ!」

「侮辱するのか? おお、おお、こりゃすまんね、てめぇみてぇな心得違いの安いプライドなんて、俺にとっちゃあ、そこら辺の道端に落ちてるコドルの糞よりも価値がないからよ、つい、蹴飛ばしちまった」

「ぎ、ぎさまっ」

「おやおや、ここまで言われて手の一つも出せないのかい、お坊ちゃん。お前が修養所で学んできたのは上手い女の転がし方か? それとも尻の穴の程良い引き締め方か? んんっ?」


 流れるような暴言で挑発した後、パドリックは全身から不要な力を抜き、口元の嘲笑を猛獣の笑みに切り替える。これに対して若い男は最早我慢の限界だと言わんばかりに整った顔を大きく歪ませて、金髪を振り乱しながら拳を振りかぶった。


 若い男の拳が繰り出される、その寸前、一人の男が間に割って入った。


「止めよっ。この場は宴の席であって、我らが住まう無粋な屯所ではない」


 割って入った男は年若い男とそう歳が変わらぬ黒髪の青年であった。彼は威圧を含めた暗緑色の瞳で両者を交互に見据え、それぞれの動きを制する。青年の切れ長の目に射止められた若い男は、殴りかかろうとした姿勢のままで動きを止めると、様々な感情から顔色を赤や青に変化させた後、ようやくの事で言葉を口にする。


「さ……、酒が回りすぎたようですので、僕はもう、席を外させて頂きます」

「……わかった、許可しよう。貴様は船に戻れ」


 二人を引き離した青年が静かに答えると、若い男は今更ながらに乱れた髪を整えて取り繕うと、黒髪の青年に対して頭を下げる。そして、顔を上げた一瞬だけ、パドリックをきつく睨みつけた後、逃げるように会場を出て行った。この一連の様子を他人事のように見ていた中年男は睨まれた事など、どこ吹く風といった風情で不器用に口笛を吹いて見せる。


「流石ですな、隊長殿。実戦を経験していない若造とはいえ、一睨みで退散させるとは……、いやはや、その若さで機士長に選ばれるだけのことはありますな」

「そのような言で惑わされるか、馬鹿者。只でさえ感情の抑制ができぬ新人を悪戯に刺激するなと言っておいただろう」

「何、これも新人のガス抜きって奴ですよ」

「私には貴様自身の鬱憤晴らしのように見えたが?」

「ま、そっちの方が大きいですね。ええ、認めますよ」


 パドリックがまったく反省の態度を見せない為、青年は眉根を跳ね上げる。次いで、飄々と肩を竦めて見せている部下を猛禽のような目で物理的な圧迫すら感じさせる程に鋭く睨んだ。

 だが、それも一瞬だけで、何事かと視線を向けてくる周囲の人々に、短めの髪が軽く揺れる程度に頭を下げた。それに倣って、パドリックも周囲に頭を下げると、それで興味を失ったのであろう、周囲の者達もそれぞれの話に戻っていく。

 宴の場が元の状態になったことを見届けると、黒尽くめの若者は眉間にできた皺を揉み解しながら、年長のベテラン機士に問い質す。


「それで、何が原因だ?」

「何、機士の心得を忘れている若者に、心優しくも言葉だけで、心得違いを指摘しただけですよ」

「む……」


 それだけでパドリックが云わんとする事に気付いた帝国調査団護衛長アルベール・アルタスは揉み解していた眉間に新たな皺を生み出した。その皺の深さを見たパドリックは、何度か実戦を共にした事がある年下の上司が問題を理解した事を察し、更に言葉を崩して続ける。


「その様子なら、隊長殿には言わなくても良い事かもしりゃあせんが……、ここ最近、心得違いしている機士が増えているようで」

「それは極一部に過ぎん」

「確かに、我ら帝国機士の中でも心得違いしているのは極一部に過ぎんでしょうさ。でも、その極一部であったとしても、機士として、いや、機兵として、最も大切な第一要件を忘れているのは忌々しき事ですぜ?」


 そう言い切ったパドリックは手にしていた杯に口を付けた。


 人類が甲殻蟲に対抗する為、魔導を用いて作り出したモノの一つに、魔導機と呼ばれる存在がある。


 魔導機とは魔力を動力源とする強化外骨格装甲……、至極簡単に言えば、補助動力付きの重装甲冑である。この魔導仕掛けの甲冑を着込むことで生物としての非力を補い、最前線で甲殻蟲と戦うのが、パドリックが口にした機兵と呼ばれる者達である。

 この機兵が登場したことで、それまでは拠点に拠って戦っていた対甲殻蟲の戦闘形式に大きな変化が起き、その結果、人類は甲殻蟲と真っ向から相対できるようになったのだ。

 そんな機兵の中より選抜され、より厳しい訓練とより高度な教育を経た者達に、或いは、機兵として対甲殻蟲戦に参加し、勲功を上げた者達に与えられるのが、帝国における機士という称号である。


 アルベールは宴の様子を観察しながら、ちびりちびりとルーシ酒を舐めるように飲んでいる中年機士にだけ聞こえるよう、声量を更に落として囁く。


「貴様の懸念もわかっている。だが、建国より二百年を経た帝国の領域は更に広がり、帝都やその周辺で生まれた者達の中には、甲殻蟲の姿を直に見たことがない者も増えているのだ。そういった者達の間では、機兵の精神も言葉だけが先行した、ただのお題目になりつつあるのも仕方があるまい」

「俺にゃ、仕方がないで済む問題ではないと思いますけどね」


 黙して応えないアルベールに対して、パドリックが更に言い募る。


「俺達機士は、いや、機兵は人を守る為に生まれたんであって、人と争う為の駒として生まれたんじゃない。なのに、さっきの阿呆は賊退治でもないのに、対人戦争に参加したいなんて抜かしやがる。……なぁ、隊長殿。機士資格の要件に、対甲殻蟲戦を経た者、って文言を付け加えりゃ良いんじゃねぇですか? その一文だけで機士から心得違いを無くすことができるでしょうし、自身の役割を……、機兵や機士は人類の盾だってことを嫌でも思い出すでしょうさ」


 パドリックの少し毒が込められた言葉にアルベールも眉間の皺を再び揉み解しながら頷くが、口から出てきたのは口にした本人にとっても愉快ではない言葉であった。


「無論、既にそう上申しているし、他の隊長格も以前から、それに近い意見を上層部に上げている」

「なのに、動かないってこたぁ、機士団上層部……、いや、同盟と係争を抱えてる都市が元老院で潰しているって感じですかい?」

「……かもしれぬ」


 パドリックは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻息を荒く噴き出すと、杯に残っていた酒を飲み干した。


 彼らが所属する国家、ただ帝国と呼ばれている。

 ゼル・セトラス大砂海の南境界であるノルグラッド山脈の更に南側で、急速に再構築されつつある人類社会において、五十近い都市とその周辺域を領域とする一大国家だ。その国力は帝国とほぼ同時期に誕生した西の五都市同盟や統一すらままならない東の領邦国家群を大きく引き離している。


 元は数個の都市による小さな連合国家に過ぎなかった帝国を一大強国へと押し上げたのは、帝国の代表者たる皇帝と帝国に属する各都市の代表者で構成される元老院だ。


 帝国の代表者たる皇帝は国政を担う統治者だ。

 長期的な国家戦略を構築すると共に、外交や通商の交渉、技術開発や内政運営の責任者である。

 それだけに有する権限が多い為、権力の腐敗や血縁継承による独裁を防ぐ名目で皇帝の世襲は禁止されている。そして、任期満了や三十年の任期の間に何らかの理由で執務が不可能になった場合、先帝や元老院長経験者から成る選帝機関より選ばれた者が皇帝として即位することになっている。


 一方、元老院は諸都市の代表者から成る、一期六年の任期制常設議会だ。

 帝国内で発生している諸問題を吸い上げて議題にし、問題解決の道筋を立てたり、法律を制定したりして、皇帝に施行や対策を求めることが、果たすべき役割とされている。

 しかし、この元老院が果たす一番の役目は皇帝が独裁に走らぬように監視することにある。それ故に、帝国の最たる権力である兵権を握っているし、三年毎に半数ずつ入れ替えることで議会の空白期をなくしている。

 また同時に、元老院自体が権力腐敗に陥ったり独裁の温床になったりせぬよう、同一人物の多選は禁止されていたりする。


 この両者……権力を制限された皇帝と権力を監視する元老院という両輪でもって、帝国は建国より二百年以上に渡り、致命的な破綻を起こすことなく運営されてきたのだ。


 しかしながら、人が作る以上、完璧な制度であるはずがなく、ここ最近、今より遡って十年程という僅かな期間で、元老院での腐敗……元老同士の度が過ぎた癒着や各都市実力者による元老選出者の傀儡化が深刻になり、一部の者による恣意的運営が行われるようになってきている。


 帝国の現状を思い返していたアルベールは酒杯で喉を潤すと、苦味を帯びた低音質の声で小さく呟く。


「今年の軍事委員会に選出された委員も去年一昨年から引き続き、同盟と境界を接する西部の都市が多い。おそらく、裏で何らかの取引があったのだろう」

「ま、都市間で何らかの便宜が行われるか、大金が動いたんでしょうさ」

「貴様の言葉は憶測だ、と言い切れぬが辛いな。……後、帝都を出る寸前に聞いた話だが、軍事委員会周辺の動きがきな臭いそうだ。もしやすると、中央機士団に動員が掛かるかもしれぬ」

「あちゃー、さっきの新人が平気に口にする程に情報が流れてることも考えると、元老院の連中、動かす気満々ですな」


 やってられんと云わんばかりに天井を仰いだ後、パドリックは近くのテーブルより陶器瓶を手に取り、アルベールの杯と自身の杯に新たな酒を注ぐ。そして、一口飲んだ後、目を据わらせて口を開いた。


「いっその事、漲溢でも起きりゃいい。蟲共の大行進を喰らったら、戦争どころじゃなくなって、連中もちったぁまともになりましょう」

「冗談でも滅多なことを言うな。それで被害を受けるのは民だ」

「こりゃ失礼。……ですがね、それ位の事が起きねぇと今の流れは止まらんでしょうよ。でなけりゃ、帝国って国が暴走し始めるかもしれませんぜ?」

「……かもしれぬ、な」


 そう応じた後、アルベールは口を閉ざした。



 二人の帝国機士がこれからの祖国を思って憂いている一方で、会場では和やかな歓談が続いている。その場の一つに、他の者達と同じく裾の長い上衣や白い長衣を纏う三人の男女がいた。

 一人は艶やかな褐色の肌と腰まで伸びる青髪が目を引く、ほっそりとした女。一人は肩まで伸びた黒髪を後頭で一纏めに縛った眼鏡の青年。最後の一人は先の二人よりも背が低く、櫛通りが良さそうな金髪を短く切り揃えた女顔の少年である。

 この三人の間で交わされている会話は、眼鏡の青年と青髪の女が主に話すという形で進んでいるようで、今も酒杯を手にした男が白衣によって肌の色気が際立っている女へと話し掛けている。


「いやぁ、国内での遺構調査は何度かしたことがあるんですが、国外での本格的な調査は今回が初めてでして、少しばかり緊張しているんです」

「確かに、慣れぬ地ではご苦労が多くなりましょうね」

「はい、正直に申しまして、副団長という肩書もありますから、安全に調査が行えるかどうか、調査期間中に問題が起きないかどうかと、与えられた責の重さを実感している所です」


 二人の間で会話を見聞きしていた少年には、自身の上司の眼鏡が灯火を反射した訳でもないのに、一瞬、煌めいたように見えた。


「ですので、ここは一つ、帝都ではまずお目に掛かれない、貴女のような麗しいご婦人に、私こと、帝国魔導技術院準導師のソーン・サラサウスに、この地で遺構を調査する際の注意点をご教授頂けませんか?」

「そうですね……、まず、水と防寒装備を当初の想定よりもできるだけ多く持っていく方が良いと思います。このゼル・セトラスの昼は熱く、人から容易に水分を奪いますし、夜は夜で冷え込みが厳しく、下手をすれば寒さのあまり、命を落とす危険もありますから……、あの、どうか致しましたか?」

「……あ、いえ、なんでもありません」


 女が涼音のような声を途中で切り、小さな顔を軽く傾げながら問いかけると、曇った眼鏡を押し上げながら、若干、気落ちした風情でソーンが答えた。


 会話に参加せず、第三者として二人の様子を見ていた少年は、自らの肩書がまったく通じなかったことに、上司が衝撃を受けている事がよく分かった。そんな肩書、帝都ならともかく、異郷の地で簡単に通じるわけがないのにと、心なしか着込んだ上衣の色までくすんで見える上司を生暖かい目で見つめる。その呆れが多分に含まれた少年の視線に気づいたのか、ソーンは一つ咳払いして、自身の部下へと話を振る。


「んんっ、ど、どうしたのかね、フィールズ君。何か質問かい?」

「サラサウス先生、僕は別にし……、あ、いえ、ここでお話をするのも良いと思いますけど、ベルザール先生の所には行かなくてもいいんですか?」

「あ、それは気にしなくていい。私もエフタ市長殿への挨拶はもう済んでいるからね、後はダッツェル女史に任せておけば問題ないさ。ベルザール先生もその方が嬉しいだろう」


 少年ことシャノン・フィールズは直属の上司の声、その奥に潜んでいるベルザールとダッツェルへの侮蔑の色を敏感に感じ取る。それと同時に前に耳にしたこと、ダッツェルがベルザール研究室の研究員であると同時にベルザールの情婦でもあるという話を思い出し、その辺りが関係しているのだろうと、勝手に見当を付けた。それよりもと、先程からソーンが必死になって関心を引こうとしている女性、セレス・シュタールを観察する。


 その小顔に配されている眉目や鼻梁、口唇は、そのどれもが感嘆の溜め息をつきたくなる程に見事な作りで、しかも、それら一つ一つが自己主張することで他を貶めることなく、見事な調和を魅せている。

 白衣に包まれた褐色の身体には無駄な贅はなく、他の女性と比しても明らかに細い。だが、しっかりと性を感じさせるだけの膨らみがある為か、貧相といった感はなく、女であることを周囲に知らしめている。

 そのすらっとした姿形と、美しく括れた腰まで真っ直ぐに伸びた美しい青髪とが相まって、その当人にしかない、不思議な色香が醸し出されている。


 宴冒頭の自己紹介で、この青髪の美女がゼル・セトラス組合連合会の幹部であり、調査団が滞在する間は組合側の窓口役を担当すると聞かされた際、自身よりも若干年齢が上程度にしか見えないのにと、シャノンは驚かされた。

 けれども、それは最初の極僅かな時間だけであり、今では十二分に納得していた。というのも、件の人物が並みの魔術士では考えられない量の魔力を内包しているからだ。シャノン自身も魔術士の端くれであるだけに、それが稀有な資質だということを知っているし、例え、実務能力が低かったとしても、組織の幹部であったとしても可笑しくないと得心できたという訳である。


 じっと見つめているシャノンに気づいていたらしく、ソーンから視線を切ったセレスが柔らかな微笑みを浮かべながら、年下の少年に目を向ける。


「どうかなさいましたか? フィールズさん」

「あの、滞ざ……、いえ、なんでもありません。その、ただ、シュタール女史に見惚れていただけです」

「ふふ、ありがとうございます。フィールズさんにそう言ってもらえると、お世辞でも嬉しいです」

「お世辞ではありません。比較対象は好まれないと思いますが、僕が今まで見てきた女性の中でも、シュタール女史程の方は少ないです」

「まぁ、お上手ですね」


 軽く照れている妙齢の美女の背後に、ぎりぎり、と歯ぎしりが聞こえてきそうな顔があった。これ以上、自分が話すと明日から始まる調査に影響するかもしれないと考えたシャノンは、上司を立てるように会話の主導権を譲る事にした。


「本当です。若輩の僕なんかより、様々な場に出て、第一線で活躍しているサラサウス先生だって、そう思っているはずです。……ですよね、先生」


 この振りに対して、ソーンが出来の良い息子を手放しで褒めるように表情をだらしなく崩すが、セレスの顔が向けられる直前には、一切の弛みがない顔付きに変じていた。その凄まじい表情の変遷にシャノンは吹き出しそうになるが、場の流れを崩さぬよう必死に耐える。


「ええ、そうですとも。私も帝都の社交界に顔を出すことがありますけど、貴女程の方は、まずお目に掛かれません」

「サラサウス先生まで、そんなご冗談を……、本気にしてしまいますよ?」

「本気にしていただいて構いません。私は今日という日を……、今日、貴女のような麗しいお方に出会えた幸運を、運命を司る三女神に感謝したい」


 再び上司の眼鏡が光ったように感じたが、もう無視することに決めたシャノンは手にしていた陶杯を傾けた。果実酒よりも甘いから飲みやすいと、口元を弛ませつつ、年上の美女を……、正確にはその身体から薄っすらと発せられている青い魔力光を、魔導機器を介さずに自身の手で魔力を扱える者、魔術士にだけ見る事ができる不可視の光を見つめる。

 簡単な話、シャノンはセレスが纏う青に、帝都では見たことがない澄み切った色に魅了されているのだ。そう、セレスが肩に乗った髪を軽く払った際に、宙を舞った青い燐光を目で追ってしまう程に……。


 シャノンが空気に溶けていく燐光を眺めている間にも、一組の男女は話し続けている。


「サラサウス先生は魔導工学が専門と聞いていますが、主にどういった方向を?」

「私は魔力伝達経路の構築を専門としていまして、帝国の次期主力魔導機の開発にも関わっていたりします」

「え、新しい魔導機の開発に参加されてるなんて、凄いですね」

「い、いやぁ、そ、それほどでも、あはは」

「私、組合での立場上、魔導機にも興味があるんです。……少し、お話を伺ってもいいですか?」

「ええ、貴女になら喜んで話をさせてもらいますよ」


 極度に弛み切り、取り繕ったのが無駄になる程に崩れているサラサウスの顔には、魔導技術院で並み居る研究員を押し退けて、準導師の地位を得た新鋭魔導師としての顔は一欠けらも見つけることができない。

 この様子だと、一つ二つは機密漏洩するんじゃないかなと、シャノンが醒めた目で上司の醜態を見ていると、視界の隅にあったセレスの、その口元に浮かんだ笑みが一瞬だけ質を変えたように見えた。

 ただそれだけで、自分の上司は間違いなく情報を抜かれるだろうと予想できたのだが、下手に話に入ると双方から恨まれ、結果、何らかの制裁が行われる可能性が高いとも予測できた為、魔導技術院に入って、一番最初に身に付いた技能、見て見ぬ振りを決め込んだのであった。



  * * *



 明日から調査が開始される事もあって、帝国調査団を歓迎する宴は夜が更ける前に終わった。

 宴に招かれた客達は主催者たるエフタ市長が市庁舎の玄関で見送る中、コドルが曳く送迎車によって、予め確保されている上級宿や彼らをこの地まで運んできた乗船へと帰されていく。

 こうして恙なく全員を見送った後、エフタ市長ルティアス・レンドールは、同じく見送りの為に傍らで立ち会っていたセレス・シュタールに声をかけた。


「やれやれ、帝国の客を相手するのは、普段以上に神経を使う所為か、老骨には応える」

「ふふ、またご冗談を。ルティアス小父さまの年齢ならば、まだまだ老骨とは言えないでしょう」

「何、若い頃に、お主の父親に苦労させられたからな。それが今になって出てきておるのだ。ほれ、身体が悲鳴をあげとる」


 おどけた風にそう言ったルティアスが今にも折れてしまいそうな四肢の関節を曲げると、ポキポキとセレスにも聞こえる程の大きさで音が鳴っている。その音を聞いたセレスは苦笑を浮かべて、今は亡き自身の父と同年齢の市長に意見する。


「ならば、執務の肩代わりができる者を、副市長や職務代理者に任命されては如何です?」

「それが中々、これという奴がおらんでなぁ。お主の兄程の男ならば、副市長どころか市長でも、安心して任せることができるんだが……」

「それは……、私としては身内が評価されるのは嬉しいのですが、たとえ小父様からの話であったとしても、兄は受けないでしょう。あの人はシュタールの男として、旅団に全てを捧げていますから」

「親譲りの血か、はたまた、生まれた場所だからかな? まぁ、旅団が巡回して、域内航路の蟲や賊を掃除しとるからこそ、儂らの暮らしも回っとることからの。あ奴の選んだ道も間違いではないのだろう。……だが、惜しい」


 市の最高権力を握る男が最後に漏らした一言には、この場にいない者への執着が込められている。セレスもそれに気付いていたが、先の言葉以上に言えることがない。その為、黙ったまま玄関口より見えるエフタ市内を眺めつつ、ルティアスが次の話題へと話を移すのを待つことにした。


 セレスの視線の先には、今立つエフタ市庁舎とエフタ市軍基地、ゼル・セトラス組合連合会本部とが面する中央広場と、そこから南大市門へと続く南大通りがある。外界と市の中心地区を真っ直ぐに繋ぐ主要街路沿いには街灯が並び立ち、圧倒的な闇夜に少しでも抗おうとする人を象徴するように、照明用に加工された魔刻板より発せられる青白い光が輝いている。昼と違い人気が少ないこともあって、別世界のように見えるが、これもまた、エフタという都市が持つ別の表情と言えるだろう。


 けれども彼女は、時に夢幻夜想とも泡沫の灯とも称される、この光景があまり好きではない。確かに美しいと思うのだが、それと同時に、この夜闇に必死に抗う姿から、人類の……、正確にはこの地、ゼル・セトラス大砂海域に住まい、必死に生きている者達の姿を連想してしまうからだ。

 今もまた、昨日、各都市にある組合支部から届いた情報を、先節……盛陽節間に発生した事件や事故、傷病者や死因別死亡者の数等を思い出す。


 現在、組合の影響力が及ぶ都市において、屋内農場や域内流通網の整備、更には他地域との交易で食料の供給体制が整った為に餓死者は減っている。だが、傷病者に対して医療機関数が少ない為に治療がままならず、軽い症状でも重篤化して死に至ったり、甲殻蟲や賊党による襲撃で新たに設けられた入植地が壊滅したり、領邦国家群からの難民が増加するに伴って様々な軋轢が発生したりと、まだまだ課題が山積している状態だ。


 セレスはそういった大砂海域が抱える問題を脳裏に浮かべつつ、この調査団の案件が片付いたら、本格的に取り組まなければ、と腹と背に力を入れた。



 醒めた顔で目前に広がる夜景を眺めているセレスを横目で認めながら、ルティアスは心中で溜め息をつく。

 生まれた頃より知る彼女が今日に至るまで歪むことなく成長して、二十歳を過ぎたばかりという若さでありながら、組合という大砂海域に根を張る大組織で幹部を担っている事は、彼としても誇らしく思っている。また、与えられた重責から目を背けずに、当たり前のように全力で職務を全うしようとする姿には感心すらしている。

 だが、そういった気持ちと同じ分だけ思うことがある。あまりにも真っ直ぐに歪むことなく成長してしまったが故に、女としての、人としての幸せが奪われているではないかと……。

 何しろ、誰もが視線を送らずにはいられない程の器量を有していながら、周囲に浮いた話の一つも上がらなければ、瀟洒に着飾るような贅沢もしないのだ。

 セレス本人は余計なお世話だと言うだろうが、人が羨む美貌を有していながら浮名の一つも流れない状態は、年頃の女として、一個の人として、寂しい事ではないかと思うし、手にした権限に溺れている一部の幹部達とまでは行かなくても、もう少し己の立場を利用しても罰は当たるまいと、親代わりを自任する初老の男は感じてしまうのだ。


 仕事の虜になりすぎている娘を心配する親に似た感情を抱きながら、ルティアスは今日の宴の席で目撃した事を口に出す。


「そう言えば、今宵の宴で、主にえらく熱心に話し掛けておった男がおったの」

「サラサウス氏ですね。なんでも、魔導技術院で準導師を勤め、魔導工廠では魔導機の設計に携わっているとか。それなりに興味深いお話を聞かせて頂きました」

「あー、いやいや、そうではなくてだな」


 他に何があるのでしょう、と本気で不思議そうな顔をするセレスに、ルティアスは、これは壁が厚すぎるなと、早くも諦めに近い心持ちで話し続ける。


「ほれ、男としてどうだったかと……」

「そうですね。……あまり、好きではありません」


 彼の人が身に纏う魔力はどこか濁りがありましたから、と後に続く評価は口に出さず、セレスは胸の内に収める。この好きではないという文言は、ルティアスが彼女に交友関係の話を振る度に、常に返される言葉だったので、彼は然程気にすることなく語を繋ぐ。


「そうか? 儂から見れば、結構、良い感じであったが?」

「そのように見えたかもしれませんが、心を許す事と同じではないはずです。今日の小父様がなさっていたように」

「む、それを言われると言葉を返せんな」

「ふふ、生意気を言って申し訳ありません。ですが、今の所、そういった事を考える余裕はないのです」


 予想通りの返事に少しばかり気落ちしつつ、彼は応じる。


「……いらぬ気遣い、という奴だったか」

「あ、いえ、小父様が私を心配なさってくれている、そのお気持ちは十分に伝わっております」

「ああ、いい、いい。気にするな。主に話を振ったのも年寄りの冷や水という奴だ。それに、人の縁というものは、気付かぬ内に結ばれている事もあるからの、儂はそれを楽しみにしていよう」


 そうセレスに告げると、ルティアスはこれまでの温かみに満ちた雰囲気を消し去り、ゼル・セトラス大砂海に根付いた人類社会で、中心的役割を担う一大都市の長としての顔へと一変させる。


「さて、そろそろ情報交換を行うとするか」

「ええ、そう致しましょう。少し探りましたが、手の者以外に人の気配は感じられません」


 そう応じるセレスの顔も宴の席で見せていた表情からは想像ができない程に冷たく、発せられる声は硬質だ。けれども、ルティアスは当然といった風情で別段と気にすることはない。


「此度の仕儀で、調査団の団長と周囲を注意深く観察したが、特に裏は見えなんだな」

「ええ、私が話をした方々からも特に不審を抱くことはありませんでした。……ただ」

「ただ?」

「はい、途中、帝国機士の方々がちょっとした諍いを起こされました事を覚えておいででしょうか?」

「ああ、覚えているぞ。あの後、話をしていた団長が形相を変えて、礼儀を弁えない野蛮人め、と小声で口汚く罵りおったからの」


 何とも言えない顔でルティアスがそう口に出すと、セレスも小首を傾げて応じる。


「あれ位なら、別段、気にする必要はないと思いますが……」

「儂もそう思うが……、我らと帝国では、無礼の許容範囲が違うだけだろう。して、帝国機士はどのような事を漏らしておった?」

「同盟と係争を抱える西部都市、その出身の元老に動きがあり、戦争が起きるかもしれぬと」

「仮に帝国と同盟が戦争するとなると……、四年程前、国境沿いに見つかったドルケライト鉱脈関連だろう」

「私もそう思います」


 ドルケライトとは別名で偽銀とも呼ばれる高い魔力伝達性を有する金属で、魔導機器の基礎となる魔刻板に使用されている。今現在、興隆しつつある文明にとっては、高い魔力蓄積性を持つミスラティンなる金属と並び、なくてはならない存在である。


「ドルケライトは自分達で使う以外に、交易や外交の駆け引きでも使えるからの。為政者としての立場で見れば、押さえたくなる気持ちはわかるし、その為に手を打つことも間違ってはおらん」


 帝国の動きを言葉では肯定しつつも、ルティアスの表情は苦いものが浮かんでいる。


「だが、だからと言って……、いや、これは言っても詮無きことだな」

「ええ、あまり納得はしたくない所ですが、手っ取り早い方法で動く事も効果的な時はあるでしょう」

「その結果、高い確率で両国の間に後々までしこりが残る事になろうがな。まぁ、どうやっても双方が納得しない限り、怨恨は残るも……」


 とここまで言った所で、はたと何かに気が付いたのか、自嘲するように皺が刻まれた顔を歪めた。


「ふん、そもそも儂自体、人様のことをとやかく言える程、立派ではなかったな。……しかし、戦争が拡大した場合、帝国や同盟からの食糧調達が滞る可能性があるやもしれぬ」

「はい、私も次の定例会議でこの件を報告し、屋内農場での増産と食料の早期買い付け、それに東方領邦で新たな調達先の選定を行うよう、提言しておきます」

「ああ、それで頼む。戦争で迂回交易が活発になったとしても、飢えて死んでは意味がないからの」

「そうですね」


 齢五十過ぎに至るまでの間に数度の飢餓を味わった男の言葉に、セレスはしっかりと頷いて見せた。



  * * *



 ルティアスとの情報交換を終えたセレスはゼル・セトラス組合連合会の本部、その内部にある自身の執務室に戻った。この頃には夜もすっかり更けており、旧文明からの流れを汲む十二時間時計は三周目を回り終えて、新たな一日が始まっている。


 壁掛けの灯火が灯された室内には、幹部に任じられてこの部屋を与えられた際、唯一、彼女自身の好みで手に入れた、紋様が織り込まれた琥珀色の絨毯が敷き詰められている。その絨毯の上に、彼女が今座っている執務席や応接用の机や長椅子、大量の書物が収められた書棚、観賞用の植木といった家具が置かれている。

 当然と言うべきか、書物の類が床に散らばる事も、机上が書類に埋まっている事もなく、全てが綺麗に整頓されている。が、逆を言えば、生活感を感じさせず、殺風景であると言えるかもしれない。


 そんな室内にあって、主たるセレスは複雑な意匠が施された筆記具を手に、定例会に向けての書類を作成している。常ならば、彼女も明日に備えて自宅に帰るか、執務室に隣接する仮眠部屋に入るかして、眠りについている所なのだが、今夜は最後の仕事がまだ終わっていない為に、こうして執務室に詰めているのだ。


 彼女は書類に文字を綴りながら、帝国と同盟の戦争が起きた場合、大砂海域域にどのような影響があるか、幾つかの可能性について考えている。


 戦争が早期に終結した場合は、特に今の状況と変わる事はなく、気にする必要はない。一節(※一年の四分の一)に及ぶならば、双方との取引に何らかの影響が出てくるだろうが許容範囲内である。それよりも更に長期化する場合は、迂回による交易こそ伸長するだろうが、食料の調達に大きな影響が出るのは間違いないが、手を打ち始めている。

 それよりも最悪の想定……、両国が落とし所を見い出せず、慢性的な戦争状態に陥った場合である。両者共に味方を増やすべく、大砂海域の都市に手を伸ばす可能性が高く、確実に飛び火するだろう。特に地理的にも経済的にも近い西部と南部の都市がそれぞれに取り込まれ、砂海域内で対立を引き起こす可能性が生まれてくる。

 これに抗する為には……。


 とまで、思考を推し進めた所で、筆記具を動かしていたセレスの手が不意に止まる。それと同時に、部屋と廊下とを繋ぐ扉が開く音が響き渡った。


 音の導かれるままに彼女が顔を上げると、覆面で顔を隠し、黒装束を纏った女が部屋の中央……、執務机の前で片膝をついていた。その女はセレスの視線を受けると、感情の色を含まない平静な声で話し出す。


「ご報告します。帰路についた帝国調査団ですが、途中退出した者を含めて、周辺に不審な影は見受けられませんでした。また、港に停留中の帝国船に乗り込む者も確認されておりません」

「では、調査団の方々に動きは?」

「はい、こちらも船や宿に入ってから、誰一人として動きはありません。念の為に、周辺に手の者を配しておりますので、何かあればご報告します」


 黒装束の女、シュタール家が抱える密偵組織の頭領に頷いて応じると、セレスは気にしていた点を尋ねる。


「帝国船が入った後、市内の要警戒対象と注意対象に動きは見られましたか?」

「若干名が港付近や商会通り周辺で帝国船の動向を探りに動いております。今の所、泳がせておりますが、ご指示があらば……」

「いえ、その者達は放置で構いません。砂海域の住民が害されない限り、彼の者達の暗闘に介入しない方針ですから。ですが、大事に繋がりそうだと現場が判断した場合はその限りではありません。エフタ市長には既に話を通してありますので、臨機応変に、存分にやってください。その結果として、何らかの問題が起きた場合は、私が責を持って後始末します」

「わかりました」


 頭領の返事に頷き返しながら、彼女は手にしていた筆記具を机に置くと、今度は別の問題を口に出した。


「次に、東部についてです。東方から流入する難民との軋轢が発生しているとの報告が回ってきたのですが……、また、麻薬が再流入している気配はありませんか?」

「我が手の者の報告によると、東部の諸都市では難民に紛れて不審な者が入ってきているようです。これを踏まえると、再流入が始まっていると考えた方が良いでしょう」

「エフタ市や東部以外の都市では?」

「エフタ市と周辺都市については、以前、派手に行った警告(売人元締めの惨殺)が生きているようで、今の所、問題はありません。また、西部と北部に関しても平穏です。ですが、南部では中毒症状に似た者が見受けられたそうですので、若干、流れている可能性があります」

「そう、ですか。……元が絶てないのがもどかしいですね」


 そう言ったセレスの顔に陰りが浮かぶ。だが、影のような女は容赦なく現実を指摘する。


「お気持ちはわかりますが、我らの手も限られております」

「……自分達の力量を弁えず、無理を行うのは以ての外、でしたね」

「御意にございます。今はまず、調査団の件を問題なく終えることが重要です。東方の件に付きましては、此度の調査団の件が終わり次第、動きますので」


 しばらくは堪えてくれ、という頭領からの無言の訴えを確かに受け取ったセレスは、弱音を口にする程に焦れてしまった心に喝を入れた。そして、自身の求めに何とか応えようとしてくれる配下の労をねぎらう。


「いえ、私の方こそ、あなた達には苦労を掛けます」

「構いません。シュタール家は故地を追われた我ら一族を拾い上げた上、今日に至るまで、意義と働き甲斐がある仕事を任せて下さっているのですから。……他にご質問は?」

「今の所はありません。今日はご苦労様でした」


 女頭領は自らの主人に対して深く頭を下げた後、動く気配を感じさせぬまま、部屋を出て行った。


 扉が閉まる音が響いた後、再び静まり返った部屋には、セレスの小さな息遣いと筆記具が紙上で再び滑り始めた音だけが残った。

12/04/21 レイアウト調整。

13/10/06 使用語句訂正。

15/12/30 本文一部改訂。

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