一 砂塵の内幕
青年は甘い香りと落ち着いた歌声に導かれるように、目を覚ました。
幼き頃より少し質が変わった女の柔らかい声。その声が緩やかな旋律で故郷を思う詩を歌っている。どこか哀愁を帯びた声音が懐旧の情を引き出し、いつの間にかされていた膝枕の温もりと相まって、再び眠りに堕ちたい心地よさと、それに倍する切なさを彼の胸に掻き立てる。
「やめてくれ」
そこに自分の惰弱を感じた青年は己が心を律するように、目を閉ざしたまま告げる。この青年の声に応じるように歌声は止まり、静やかな声が降りかかってきた。
「起きたの?」
「ああ」
彼は短く答えると、乾いた声で続ける。
「お前がその歌を好きなのは知っている。けど、俺がいる所で、その歌は止めてくれ」
「……そう」
女のどこか寂しそうな声に罪悪感が湧き起こってくるが、青年は努めて無視する。途端、身体の気怠さを自覚した。昨晩は一節振りの逢瀬という事もあって、眠りに落ちるまで互いに激しく貪りあった結果であった。
身体に篭った怠さを吐き出すように一つ大きく息をついて、青年はゆっくりと目を開ける。寝台の傍、小さな卓上に置かれた小型の魔導灯。それが宿す仄かな光だけが光源の薄暗い部屋。青白い陰影に映るのは、小さな窓と大きめの寝台、片隅に置かれた簡素な香炉と衣料箱、そして、小さな鏡台。
二人がいるのは男女の営みが生み出すにおいが染みついた娼館の一室。女の私室であり、仕事部屋でもあった。
「もうすぐ、朝ね」
「……ああ」
昨夜と変わらず、部屋の外では砂嵐が吹き荒れているのか、小さな窓を通して、時折の風切り音と延々と連なる細やかな衝突音が伝わってくる。
人の不安を誘う耳障りな音は大砂嵐が去るまで、昼夜を問わず、途切れることなく続く。けれども、ゼル・セトラス大砂海に生きる者にとっては旭陽節という時節を感じさせる風物詩であり、新たな年の到来を実感させるものでもあった。
青年はただ黙して外の音に耳を傾けながら、薄着を羽織った女の、翳り差す幼馴染の顔を見つめる。惚れた贔屓目で見ても、男の庇護欲をそそる美しい女であった。
自然と湧き上がってくる独占欲と肉欲を封じ込めるように、青年は目を閉ざして呟く。
「金の当てができた。……もう少しだ。もう少しだけ、待っていてくれ」
これまでになく、どこか張り詰めた感のある声。それに気付きながらも、女は喜びと悲しみが入り混じった顔で小さく頷き返す。そして、青年を労わるように、ただ優しく、そっと髪を撫でた。
* * *
エフタ市近郊にて起こった捜索騒動から一夜明けた、第一旬の十一日。
既に昼の盛りとなっているにもかかわらず、市の周辺域は先日までの蒼天が嘘であるかのように、赤黒い暗幕に覆われていた。街路沿いに並ぶ魔導灯が青白い輝きでもって抗い、足元を照らし出しているが、そこまでである。
己を守るのにやっとな頼りない光に照らされる街路を、フードつきの外套を纏った者達が鈍い足取りで往来する。やや俯き加減の彼らの顔には風と砂から目や呼吸器等を守る為、面覆い……ゴーグルやマスクといった防護具が着けられている。
なにしろ、赤黒い暗幕を構成する旧世紀の名残、或いは自然物で構成された砂塵は、一度吹き上げられたら最後、何らかの障害物に衝突して寄る辺を得るか、北方の吹奏者が飽きて吹き止めるかするまでの間、ずっと中空で舞い踊り続けるのだ。当然の如く、暗幕の下で住まう者達もまた、踊り狂う砂塵に付き合わされる事になる。
言うまでもないが、ゼル・セトラス域における旭陽節の常とはいえ、不便で不自由な生活を強いられる人々にとっては堪ったものではない。ないのだが、嫌だ嫌だと叫んでも、来るな来るなと念じても、決して避け得る事が出来ぬ自然現象である。そう、時に神にも擬される大いなる自然の御業である以上、儚き人の手ではどうのしようもないことである。
だから、人々は諦観と共にこの大砂嵐を受け入れ、溜息と怨嗟を漏らしながらも、砂嵐の神が北の地へと帰る日が来るのを待たざるを得ないのだ。
こうした具合に忍従の日々が始まったエフタ市。
最重要区画である中央地区には、中央広場を囲むように三つの重要施設がある。一つはエフタ市を治める市庁舎、もう一つは市を守る要となる市軍本部、最後の一つがゼル・セトラス大砂海域に大きな影響力を持つ農水産通商鉱魔工業組合連合会……組合連合会と通称される組織の本部だ。
どの施設も非常の際を想定している為か、頑強で重厚な造りである。もっとも、到来した大砂嵐の前には為す術もなく、吹き付ける風のままに砂塵を叩きつけられていた。
そんな建物の一つ、組合連合会本部の上層階はある一室にて、部屋の主が客を迎えていた。
「やー、昨日も思ったけど、酷い物ねー。ここに来るのも一苦労だわ」
そう口にしたのは部屋を訪れた来客。
風変りを通り越して、見る者が目を疑うような体躯、二十ガルトにも満たない身体の小人だ。その小人は美しく上塗りされた執務机の上に立ち、黄金に煌めく瞳で窓の外の砂嵐を眺めながら、どこか楽しそうな表情を浮かべている。
生きている人間をそのまま小さくしたようなこの小人、大凡半年前にちょっとした切っ掛けで人形として現在に甦った往代の魔術師で、名をミソラという。
「酷いと言う割には、楽しそうに見えますが?」
澄ました表情を崩さぬまま、怜悧さを感じさせる落ち着いた声で応じたのは青髪の麗人。
組合連合会の幹部として、この部屋を占有するセレス・シュタールだ。艶やかな褐色肌を持つ麗人は微かに首を傾げる事で、己の執務机に立つ小人に答えを促す。すると、ミソラは翠色の短い髪を軽く掻きながら、少し照れたように口を開いた。
「いや、そのねー、昔からなんだけどさ、嵐とか来ると、こう、血が騒ぐっていうか、無性に気が昂るのよ」
「昂りますか」
「うん。もうね、こう、両手を挙げて、もっとだっ! まだまだ足りないっ! もっともっともっとっ、激しく荒れ狂えぇっっ! って感じになるのよ」
小人がどこからともなく太鼓の乱打が聞こえてきそうな動きを実際に演じて見せると、セレスが微かな笑みを浮かべて告げた。
「ふふ、私としては、そうなってもらっては困りますね」
「ま、そりゃそうよねー。私もわかってはいるんだけど、どうしても、こう、抑えられない所があるのよ」
「誰も見ていない所で、お独りでやられる分には構いませんが?」
「むー、それはそれで痛々しいじゃない」
「確かに、余人に知られては困ってしまいますね」
「ええ、見た人もどう反応していいか困るでしょうしね」
そう応じたミソラの脳裏に露骨に呆れた表情を見せる人物が二人ほど思い浮かぶ。思わず口元が緩みそうになるが、あまり間抜けた顔を見せるのも如何なものかという意識が働き、頭と表情を引き締める。
そんな彼女に対し、今度はセレスが話を切り出してきた。
「話を変えますが、先日は大変でしたね」
「あらら、もう伝わってるの?」
「ええ、こう見えて、私の耳は良く聞こえますから」
「あら怖い。下手なこと言えないわね」
セレスの冗談めかした言葉に、ミソラも軽く笑って返す。それから、頬を掻きながら笑みを苦笑に変えて続けた。
「それならわかってると思うけど、クロウも無事だったし、遭難者も無事に救助できたわ」
「何よりの事です」
「うん、それは良かったんだけど、クロウの仕事道具が結構壊れてねぇ」
「損傷が酷いのですか?」
小人は大きく頷くと、表情をそのままに指を折りながら、損傷箇所を上げていく。
「右腕の肘から先と胴体前面部はぶった切られたし、殆どの箇所で表面装甲が壊れてたわ。それに立て続けに衝撃を喰らって影響で腕の操縦系に不具合とか、上半身の骨格にも歪みとか出てるかもしれないってことも言ってた」
「……よく無事でしたね」
「ほんとよねー。とは言っても、骨格の耐久性が目に見えて落ちてないなら修理と交換でなんとかなるみたいだし、きっと多分大丈夫よ。あ、そうそう、クロウに提供した斥力盾だけど、それなりに役立ってたわよ。しっかりと自分の目で確かめることができたわ。うん、あれだと、現場でも受け入れてもらえるんじゃないかな」
一人満足げに頷くミソラに、セレスは少々呆れた声を出す。
「災難に逢っても、なにかしら得て帰ってきますね」
「それ位の精神じゃないと、こんな形で生きてられないわ」
そう言って不敵に笑って見せた後、ミソラは表情を改めて、今日ここに来た本題を声に乗せた。
「さて、そろそろ今日訊ねた用件に移りたいんだけど」
「伺いましょう」
「うん。えーと、ほら、半年前に言ってた、供与する予定の本の事」
「残りの半分の事ですね」
「そうそう。あれ、提供するのは良いんだけど、ちょっとばかり扱いに困る物があるのよ」
小人が扱いに困る物というのを俄かに想像できず、セレスは幾度か瞬く。と同時に沈着な彼女にしては珍しく、好奇心が僅かばかりに芽吹いた。そういった自分の状態に気付きながらも、セレスは特に抑えることもせず、目で続きを促した。
ミソラは頷き返すと、真面目な表情のまま話し出す。
「ごく簡単に言えば、禁書。中でも特に、魔法関連の禁じられた魔術……、禁呪よ」
「禁呪……、そのような物があるのですか?」
「ええ、前に調べた時、パッと見で禁書が幾つもあったから、禁呪が書かれた魔術書も紛れ込んでいると考えた方がいいわ。なんせ、魔法の大家マグナウスが遺したモノですもの」
小人は生真面目な顔で話しつつも、内心では溜め息をつく。
私個人としては、できれば禁呪関連の方は一緒に持ち去るなり燃やしておくなりしておいてほしい所なんだけど、あのメモを見る限りだと選別したり廃棄したりする余裕があったとは思えないし、そもそも魔術師の性っていうか、どんな本でも集めたら絶対に残しておきたくなるから、期待薄よねぇ。
そんな諦めに似た思いを抱きながら、ミソラは更に続けた。
「で、この禁書関連についてなんだけど、公に禁書にされた物に関しては、まぁ、酷いのでも精々読む人の精神をおかしくしたり、考え方が過激化っていうか、思想を先鋭化させたりするくらいだと思うから、社会や世界に与える直接的な影響は少ないわ」
「その言い方だと、間接的には何らかの影響を与えることはあるということですね」
「そりゃあるでしょう。実際、そういった影響が怖いから、時の権力機構が禁書に指定したんでしょうしね。でも、時代の移り変わりで社会の常識や規範って変遷するし、一概に悪い物ばかりとは言い切れないとは思うわ。だから、厳重な管理下で読み手を選ぶなりしたら、影響は抑えられるじゃないかしら」
セレスが頷くことで理解を示すと、ミソラが続ける。
「次に、肝心の禁呪……、魔法関係の禁書だけど、これははっきり言って、とても恐ろしい物よ」
そう言い切った小人の顔に余裕はない。そこから読み取れることを考えて、セレスは口を開いた。
「一つお尋ねします」
「どうぞ」
「仮に禁呪を使用した際、最悪、どのような事が起きますか?」
「私が存在を知っているのだと、下手したら、この星が破壊されるかもしれない」
見つめ合う二人を目に見えない沈黙の霧が覆い尽くす。
両者共に黙ったまま一分程経って、セレスが腰かけた椅子の背もたれに身を預けた。そして、目頭を揉みながら、魔導灯の光が灯る天井を見上げる。己を厳しく律している彼女にしては珍しい行動であった。
とはいえ、この行動には一定の効果があったようで、麗人は微かに首を振った後、元の姿勢に戻り、少し疲れた声で話し出す。
「それは確かに、禁呪扱いされますね」
「でしょう。けどけど、禁呪扱いされてる魔術って、どんなものであれ、効果っていうか、周囲への影響は絶大よ」
「それで自分達まで滅んでいては意味がありません」
「ですよねー」
あはは、とミソラが乾いた笑みを浮かべて見せるも、直に笑みを消し、再び真剣な表情で言葉を紡ぐ。
「でもね、真面目な話、禁呪は上手く運用できれば効果的で、強力無比な物で有用な物ばかりなのは厳然たる事実よ。実際、今、私が言った奴でも、何かを殲滅するとかには指折り付だし……、例えば、漲溢だっけ? 甲殻蟲が溢れて出てくるのって」
セレスが頷きを持って応じると、ミソラもまた頷いて続ける。
「うん、そういった非常時に使えれば、とても心強いでしょうね」
「確かに、非常の際は使えると思います」
「でしょう。……でも、平時はどうかしら?」
そう問いかけるミソラの目は鋭い。話の流れから先に続く大凡の見当を付けたセレスであったが、特に逆らうことなく、ミソラの疑問の声に応えた。
「高い確率で、周辺の都市や、そこに住まう者達から脅威の目で見られるでしょう」
「ええ、持ち得ぬ者にとっては脅威よ。だって、都市の一つくらいなら簡単に吹き飛ばして、でっかい大穴に変えることができるんですもの」
セレスの答えを肯定するように大きく頷いた後、小人は腕組みをして眉間に皺を寄せながら続ける。
「そういったことを踏まえて考えた時にね、禁呪を組織に委ねても大丈夫なのかなぁって、思っちゃったのよ」
小人は表情をそのままに、現在の魔術士をじっと見据える。対する麗人は表情を崩すことなく、古き時代の魔術師から目を逸らさず、しっかりと見つめ返して口を開いた。
「それらの取り扱いについて、組合連合会を信用できないと?」
「まぁね。前回は私の判断で、比較的初級っていうか、今の世の中で直に使えそうな基本的な物ばかり選んだから、そういったことを気にする必要は無かったんだけど……、残り全部を渡すとなると躊躇しちゃうわ」
ミソラは一度語を切って、その視線に力を込めてから言い切った。
「セレス個人には信用も置けるし信頼もしてるけど、他の意思が、より多くの欲望や様々な思想が含まれる組織には、禁呪を委ねることはできない」
セレスはミソラの直截な言葉を受け、少し苦味を感じさせる表情を浮かべる。だが、彼女が口に出したのは翻意を促す言葉でも話が違うと非難する言葉でもなく、賛同する言葉であった。
「それは、賢明な判断だと思います」
この答えを聞いたミソラは腕組みを解くと、先程までとは打って変わり、にこやかな笑みを浮かべて一つ頷く。
「うん。だから、組織人としてのセレスではなくて、魔術士としてのセレスに対して、これらの物の取り扱いについて……、残すか燃やすか、残すならどう扱うか、その判断を委ねるわ」
セレスは禁呪関連の書物は譲渡はしないという意味の言葉が続くと思っていただけに、この小人の声に戸惑う。自然とセレスの口が動き、その思いが言葉になる。
「それで、よろしいのですか?」
「ええ、いいわ。言ったでしょ、私はあなたを信用するし、信頼しているって」
「ですが……、何故、そこまで言えるのですか? 私とて人間です。己の望むままに、組織人として、禁呪を弄ぶかもしれませんよ?」
「ふふ、でも、あなたは組織というモノを盲目的に信じていないし、今言ったみたいに己を顧みることができるっていうか、自分を客観視できるわ、っていうのが理由じゃ駄目かしら?」
「今一です。時を経て、人は変わっていきますから」
「ええ、変わっていくでしょう。でも、その人が持つ本質は中々に変えられないわ」
更に反駁しようとしたセレスを遮るように、ミソラが続ける。
「今に伝えられてるかはわからないけど、魔力の色ってね、個々人の性質だけじゃなくて、その人が生きてきた道筋っていうか、育んできた精神性も映し出すわ」
「初耳です」
「そう? なら教えておくとね、純粋ならより透明に、不純なら淀みが混じるの。でもって、あなたの魔力は、ひたむきに、誠実に、芯を曲げることなく己の思いを貫いてきたってことを教えてくれるわ。そういった精神性がわかれば、後はその人の方向性を見定めるだけよ」
「そのような……、たったそれだけの理由で、人を信じると?」
「あら、魔術師にとっては十分よ。その人が持つ魔力は嘘を付かないもの」
そう、だからこそ、私はクロウを、澄んだ魔力を持つ初対面の少年を信じた。
小人は内々で半年前の類い稀に幸運な出会いに感謝しつつ笑う。どこか泰然とした小人の様子に、セレスは困惑の色を顕わにする。そして、せめてもの抵抗を行うかのように問いかけた。
「本当によろしいのですか? ……必ずしも、あなたが考えているように、取り扱うかはわかりませんよ?」
「構わないわ。委ねると決めた以上、私の考えは気にしないでちょうだい。だってさ、本来なら、私は存在しないはずの、うん、古い時代の残滓なんだからね」
普通の声でありながらも、どこか儚さを感じさせる言葉に、セレスは自然と口を開く。
「別に自身を卑下なさることは……」
「ありがとう。でもね、私は思うのよ。本来、再発見された過去の遺物をどうするのか、それを決めるのは、私ではなくて、この時代に生まれ育った人の方が良いんじゃないかってね」
小人は自身の思いを再確認するように、言葉を紡ぎ出す。
「確かに、私の中には禁呪はとても危ない物という認識がある。禁呪が書かれた魔術書が見つからない方が良いという思いもある。でも、それを理由にして、禁呪とは何なのか、誰にも教えずに燃やして葬り去るのは今の時代を知らない者の身勝手っていうか、傲慢じゃないかなって思った。さっきも言ったけど、私は、その大本は過去に生まれた存在。今の時代に生まれ育ってきたわけじゃないから、現在の厳しい環境の中で生きることを、この世界で生きていく辛さや苦しみを真に理解できないもの。だから、私はあなたに、今の時代で生まれ育ってきたあなたに、今の世界で禁呪をどう扱うか、何らかの方法で活かす為に禁呪を紐解くか否か、その判断を委ねたいのよ」
青髪の麗人はミソラが重大な責を委ねようとしている事を理解して、大きく溜め息をついて言った。
「つまり、私の一存で、人の世にこの上ない恩恵をもたらすこともあれば、世界を破滅へと導く火種ともなりうる存在をどう扱うかを決めろと? ……重い責を課されるのですね」
「それが今を生きる者の責っていうか、過去を生きた者から現在に生きる者への引継ぎみたいなものね」
そう告げたミソラであったが、委ねられた責にセレスが顔を曇らせたのを見ると、柔らかく表情を崩して続けた。
「ま、私だって、今を生きることになるんだし、全部を全部、投げっぱなしになんてしないわよ。いきなり後の事は任せたってだけじゃ、あまりにも無責任すぎるしね」
「何らかの形で協力すると?」
「ええ。もし、禁呪関連の書物が見つかったら、私が知り得る限り、それがどういう禁呪なのか、できるだけ正確に伝えるようにするわ。どんな判断には正しい知識や情報が必要でしょう?」
「無論です」
セレスはしっかりと頷いて応じる。それを認めると、ミソラは表情を引き締めて告げる。
「それでどうする? 私の話っていうか、お願いを受けてくれるかしら?」
返答を求められたセレスは眉根を寄せながら瞑目し、己の内にある確固たる柱、信念とも言うべき物に、禁呪が、ゼル・セトラス地域の、引いては、人類社会の発展に寄与するか否かという基準に照らし合わせて考える。
例えば、小人が先に述べた禁呪の場合、甲殻蟲の大攻勢……漲溢に対抗できるだけの力は戦力的にも魅力的であり、人同士の戦争を抑止できるだけの存在感を持つのは間違いない。
けれども、それは同時に、世界を破壊することも可能な力であり、人の疑心を生み出して対立を生めば、人同士の争いの中で使用され、決定的な破滅を引き起こす可能性も十二分に起こしえる。
つまり、扱い方一つで、人類に興隆をもたらすこともあれば、破滅をもたらすこともあるという、極端な二面性を持つ、非常に厄介な存在なのだ。
そして、先の話し振りから語られていない他の禁呪も似たような性質……方向性はどうあれ、社会への直接的な影響が大きな存在……、含有する力が強大過ぎるが故に、世界に与える影響もまた良くも悪くも大きいのだろう。
だからこそ、面前の小人は、時と共にその色を変えていく組織にではなく、今この時、自分自身が為人を知る者にどのように扱うかという選択を委ねようと考えたのかもしれない。
セレスは思考を進めると共に小人の心中を推し量る。その一方で、酷い難問を突き付けてくれたものだと苦渋する。なんとなれば、先に彼女自身が言っていたように、いくら強靭な自律心を持っていても、彼女もまた一個の人であるからだ。
細い身体の内に、ゼル・セトラス大砂海域の発展という目的の為に強い力を求める貪欲な心が目覚めれば、未知の魔術、しかも禁呪という類を見ない魔術に対する魔術士としての知識欲や好奇心も生じてくるのは自然と言えよう。
それは抗いがたい誘惑。
けれども、為したいがままに為せと唆す欲望を、彼女の中に組み込まれた理性という名の制御機構が許さない。
育まれた理性が無意識の内に働き、自分自身が禁呪を扱い切れるのか、強大な力の誘惑に抗い続けることができるのかと不安を引き起こせば、自身の選択が後の世に大きな影響を与えるかもしれない、滅びの切っ掛けを生み出すかもしれないと恐れを湧き立たせるのだ。
こうして欲望と理性とが互いにせめぎ合い、心が荒れ狂うのを自覚して、セレスは眉間の皺を深くする。そのまま、五分近い沈思の時を経て、麗人は難しい顔のまま、ゆっくりと口を開いた。
「判断の件、お受けします」
「そう。なら、セレス・シュタール。次の引き揚げ作業で禁呪が発見されたら、それをどう扱うか、あなたに委ねるわ。一応、慣例として言っておくけど、魔性の力に呑まれないようにね」
「わかりました。肝に銘じておきます」
先達である往代の魔術師の言葉に、現代の魔術士はしっかりと頷いて見せた。
* * *
所変わり、市域南西部に位置する港湾地区。
舞い散る砂塵の中、立ち並ぶ大型の倉庫群に紛れ込むように、エフタ市が運営する総合支援施設があった。
この施設は隣に立つ組合連合会の駐機施設と同じく、エフタ市や寄港する魔導船が搭載する魔導機の整備や修理を行っている。また、それと併せて、魔導機パンタルや民生用簡易魔導機ラストルといった本体を始め、魔導機用の各種部品や装備品、武防具、機兵用装備といった品々の販売もしており、エフタ市のみならず、近隣に拓かれた開拓地の需要をも賄っている。それだけに、組合支部や娼館と並んで、エフタ市に立ち寄った機兵が必ず一度は顔を出す場所と言われている。
冠した名に恥じぬ施設、その最奥にある魔導機整備場。
大砂嵐が到来したことで建設や土木作業、港湾での荷役といった仕事が減少している事もあってか、作業用魔導機の整備依頼が多く舞い込み、八つある整備用懸架はすべて埋まっている。そして、それぞれの懸架の周囲には一人二人と整備士達が作業しており、ちょっとした喧騒を生み出していた。
賑やかさを見せる整備用懸架の中でも特に重整備や分解整備に使用される懸架に、一機のパンタルが保持されていた。幾分か作業が進んでいるのか、その機体からは右腕と前面装甲、更に表層を形成する大部分の装甲が丸ごと取り外されており、機体を形作り、剛性を与えている骨格や魔力導管、油圧機構といった内部が剥き出しになっている。
そんなパンタルを、黒縁眼鏡をかけた少女が一人、真剣な表情で見上げていた。
少女の名はエルティア・ラファン。この魔導機整備場の整備士だ。彼女が纏う薄赤色の繋ぎは、黒色の機械油や赤黒い砂塵で汚れており、一仕事を終えた感があった。
「おぅ、取り外しは終わったか?」
「あ、はい。終わりました」
じっと機体に見入っていたエルティアに声を掛けたのは、下あごまで延びる長い揉み上げが目立つ青年。この整備場で主任を務めるダーレン・ブルーゾであった。
彼は別の懸架で作業している整備士に二、三指示を出すと、エルティアの隣にやってきて、パンタルの近くに並べられた物に目をやる。それらはパンタルより取り外された装甲や部品であった。ほぼ全ての装甲に大なり小なりの傷が刻まれ、砂塵や暗緑の斑点がこびり付いていれば、部品も機械油に塗れ、蟲の甲殻らしき物が食い込んでいる。また、その周囲には取り外しの際に零れ落ちたと思しき焼成材装甲の破片が集められていた。
新人の真面目な仕事ぶりに満足しつつ、ブルーゾが口を開いた。
「どうだった。一戦やった後の魔導機に触ってみて」
「その、何て言えばいいのか……」
エルティアは内々の思いを振るいにかけるかのように一つ首を振る。自然、肩まで伸びた黒髪が微かに揺れる。それが収まると同時に、少女は残った思いを確かめるように、ゆっくりと声に出し始めた。
「これが現実なんだって……、何か一つでも間違えれば死んでしまう。機兵が生きている世界はそういう世界なんだって、そう思い知らされました」
「そうか」
「はい。前に……、教習所でエンフリードさんが最終試験を受けた時に損傷した機体を見ましたけど、今回はその時以上に、肌身に感じてます」
「ああ、ディーンの野郎が言ってた不運の一撃を喰らった奴か」
「はい」
青年は油で汚れた作業手袋を外すと、色濃い茶褐色の髪を一撫でする。それから、頬の揉み上げを擦りながら話し出した。
「なら、あんまり言う必要はないと思うが、機兵ってのは俺達が想像している以上に、死に近い場所にいる。一つの判断で生死を分けるなんてこともざらにあるだろうさ」
ブルーゾは取り外された機体の右腕、そこに食い込んだままの甲殻を眺めながら続ける。
「それでも、連中は特になんでもないように日常に戻って来る。そう在るように鍛えられているからな。けど、だからって、それがあの人達にとっての普通なんだなんて、絶対に思うんじゃないぞ? 前線で蟲と相対するっていうか、命を張る現場……、ああ、生死の狭間って言ったらいいもんかね……、そういう場所で生きるってのは、当人にも気付かない負担が掛かってるもんだ」
青年は過去を思い出しているのか、その瞳はどこか遠くを眺めているようにも見える。けれど、それも束の間。ブルーゾは視線を隣に立つ後輩整備士に移し、少しばかり真面目な顔で言った。
「そういった自覚のない負担を機兵に気付かせるのも、日常に、いや、安全な場所に帰ってきたって実感させるのも、魔導機整備士の大切な仕事だ。覚えておくようにな」
「はいっ!」
エルティアの力強い声に頷く事で応えると、ブルーゾは骨格に歪み等が出ていないか入念に調べるように指示して去って行った。
残された少女は、改めて機体を見つめる。
大部分の装甲を外された事もあって、魔導機の重厚感は減じている。だが、それでも鋼鉄製の骨格や関節部の駆動機関、制御系導線、油圧機構の円筒や油圧ポンプ、蓄油器に蓄圧器、更には冷却系や魔力伝達用の配管といった物が、互いに絡み合いながらも一個の機体を形成し、無機の存在感を醸し出していた。
教習所にいた頃ならば、力強さを感じていた姿。
だが、今となっては、この機体をもっても甲殻蟲を圧倒できない現実を実感したが故に、その思いは薄い。その代わりに、彼女の胸中に湧き起こってきたのは、より安全でより性能の良い機体を恩人でもある機兵に提供できない、もどかしさである。
エルティアは胸の内で膨らんできた思いと、それに伴って生まれた熱を逃すように、一つ息を吐き出す。それから、今は私ができる事をするのが役目だと、口元を引き締めて作業に取り掛かった。
懸架で作業する整備士達の間を一頻り渡り歩いて、ブルーゾが元いた場所に戻って来ると、見知った顔が一つ、彼の帰りを待っていた。
「よぅ、いつも通り繁盛してるな」
そう挨拶してきたのは男。彫の深い顔に艶めいた栗色の髪、人目で上等品とわかるマスクやゴーグル、更には仕立ての良い黒色の外套を纏っている事も相まって、色町を住み家にするような色男めいた雰囲気を醸し出しており、この場に来るには少々不釣り合いに見える。
「とは言っても、この時期だけさ」
ブルーゾは顔馴染みの声に肩を竦めて答えると、日焼けした色男の隣に立ち、胡乱気な目を向けて口を開いた。
「で、どうした、ディーン、前みたいに、ルシアへの偽証でも頼みに来たのか?」
「おいおい、何言ってんだよ。俺がいつ、そんな事を頼んだよ」
「旅団時代、お前が娼館で一晩遊びに遊んで帰って来る度にだ」
「はは、最近、物忘れが激しくなってなぁ。なんのことか、さっぱりだわ」
「なら、グラディさんに一発殴ってもらえ、それで思い出すだろ」
「いやいや、事ある度に、しょっちゅう殴られたから、忘れっぽくなったんだよ」
互いに気安い相手だけに最早習性のように軽口を叩き合う。この挨拶めいた応酬の中、色男ことディーン・レイリークは無精ひげを撫でつつ、視線を懸架の一つを占めるパンタルに向ける事で用件を示す。
ブルーゾもまた視線の先にある物を見て、ディーンの用件について、ある程度の予想を立てる。が、口では話の流れのままに適当に切り返した。
「なんだ、今度はラファンでも狙ってるのか?」
「うーん、あの年頃にしては中々イイ身体をしてるけど、まだ俺が手を伸ばす程には熟れてないなぁ」
「はっ、昔と変わらず、好みがうるさい奴だ。でも、ラファンだけはやめとけ。うちの連中にとっちゃ、貴重な癒しだからな」
自分達の声が聞こえたと思しき整備士達がこわい目を向けてきているのを視界の隅に収め、ブルーゾはにやりと笑う。その隣に立つディーンも同じく視線を感じ取り、口元に苦笑を刻みながらも大げさに頷いて見せると、少し声量を上げて答えた。
「ま、人様の癒しを手折るほど、俺は無粋じゃないからな、そうしとくよ」
「ああ、そうしとけそうしとけ、こっちに後始末が回ってくるのは勘弁だ」
自分達に注意を向けていた者達が再び作業に戻ったのを確認し、ブルーゾがようやく本題について触れた。
「で、実際の目当ては機体か?」
「ああ、昨日の騒動がおやじ殿の耳に入ってな。蟲共にやられた部品を教材として使いたいから手に入れて来いってさ」
ブルーゾもディーンが口にしたおやじ殿の為人を知るだけに、軽く笑みを浮かべて応じる。
「そいつはご苦労なこった」
「もう慣れたさ。でまぁ、そんな訳で、ぶった切られた前面装甲とあの右腕を貰いたいんだが、いけるか?」
「いけるかって聞かれればいける。交換した部品は形としてはうちが下取りすることになるからな。……幾ら出す?」
「あー、その辺は、ほれ、俺とお前の仲じゃない。処理代が浮くって事で、タダにしといてくれよ」
「おいおい、最近はな、廃品でも資源回収の連中が買ってくんだぜ? タダじゃ無理ってなもんよ」
ブルーゾが浮かべた笑みに黒い物を混ぜて言うと、ディーンは降参とばかりに苦笑いを浮かべ、声を落として答えた。
「わかったよ。次回の分、パンタルの武装調達で、少しばかり割り当てを増やしとく」
「おぅ、毎度あり」
用件に伴う裏取引めいた話が済むと、魔導機教習所の青年教官は視線を鋭くして、懸架されたパンタルの左腕に装着された装備品をじっと見つめる。彼が記憶している魔導機用装備にはない代物であったことから、一見した時から気になっていたのだ。
「ところで、左腕のアレはなんだ?」
「ああ、あれに気付いたのか」
「記憶にないからな」
「物忘れ、酷いんじゃないのか?」
「何かの拍子で、時々、配線が繋がるんだよ」
「なんとも便利な頭だ」
ブルーゾは苦笑を浮かべると、付き合いの長い機兵の視線に促されるままに答える。
「あれはな、マディスさん所の開発室で作った新型の盾だそうだ」
「へぇ、新型ねぇ」
自分で確かめない事には信用しない気質のディーンはどこか胡散臭そうな声を上げる。そんな青年の声に応えるように背後から野太い声が響く。
「おぅ、これまでにない新型って奴だ」
聞き知った声に導かれ、ブルーノとディーンが同時に振り返る。赤い外套を着た体格の良い男がゴーグルとマスクを外しながら、近づいて来るところであった。
「ああ、マディスさん、どうも」
「おぅ、昨日はいきなり押し込んで悪かったな」
「はは、あの時はまだ飛び入り仕事歓迎でしたから、気にしないでください。それよりも、昨日はお疲れ様でした」
「おぅ、ありがとよ、つっても俺は大して動いてねぇからな、疲れなんてねぇさ」
ブルーゾの挨拶に返事をした後、巌のような赤毛の男、ウディ・マディスはディーンの隣に立ち、横目で見やりながら続けた。
「で、ディーンよ、あの盾だがぁ、最近、量産型が完成したもんでなぁ、エンフリードの奴に使わせて、市軍に売り込みをかけてみようって所さ」
「へぇ、そうなんですか。ちなみに、どういった代物で?」
「あの円状盾の外側に斥力場……相手の攻撃を逸らす力場を作るって代物だ。見ての通り、エンフリードに提供してるのは腕用だがぁ、他に脚用もあるぞ」
マディスの説明は簡潔であったが、機兵としての十年近い経験を持つディーンの興味を引くには十分であった。
「おっと、そいつは中々に面白そうな感じですね。実際の使用感はどうなんです」
「相手からの攻撃を軽減したり、逸らす分には申し分ねぇ。だがぁ、効率的な使い方ってなるとぉ、また別の話にならぁな」
「ま、その辺は使い慣れてからわかってくるもんですしねぇ」
マディスとディーン、それぞれが思惑を内に収め、互いに不敵な笑みを浮かべながら話を続ける。
「そういうこったな。仮にそういった方法を確立できりゃあ、売り込みも楽になるってもんだが、俺も次の開発で忙しくてよぅ」
「へぇ、大変ですねぇ。それで、今は何を?」
「前に開発した魔導銃の改良だ」
「はは、そりゃまた、現場が欲しがりそうなもんを」
「ったりめぇだろう。おめぇ、現場がいらねぇもんを作ってどうすんでぇ」
「ごもっとも」
ディーンが苦笑と共に馬鹿な質問をしたと目で謝って見せると、マディスはわざとらしく荒い鼻息を一つ吹き出す。それから、太い腕を組んで、エルティアが点検作業するパンタルに目を向けながら話し出した。
「とはいってもよぅ、そいつを出す前に、さっき言った斥力盾が現場で認められるかどうかが問題にならぁな」
「自信はあるんでしょう?」
「ある。だがぁ、現場を納得させるには、もう一押しが足りねぇ」
「そりゃ、ある程度の扱い方ってか、運用方法を添えないと、現場の連中は触りたがらないでしょうね」
「ああ、そういうこった。できりゃあ、運用法でも構築したい所なんだがぁ、俺も忙しい。どこぞに実戦の経験があって、戦術や戦闘法を構築できる頭もあって、武具の取り扱いに慣れた暇な奴がいねぇもんかねぇ」
「あー、エル・ダルークならともかく、エフタだとそういう奴って、中々いませんもんねぇ」
両者の白々しいやり取りを傍で見ていたブルーゾは呆れた顔を見せる。けれども、余計な口は挟まずに少し距離を置き、整備作業の監督に意識を戻した。それを見たマディスが、表情を改めてぼそりと一言。
「使ってみねぇか?」
「タダなら使ってみてもいいですよ?」
待っていたと言わんばかりの即答である。マディスはディーンの爽やかな笑みを努めて無視して、重々しく頷く。
「タダで構わねぇ。だがぁ、効果的な運用法と教習法の確立と提供、それに実用での不具合ってか、問題点の洗い出しと指摘辺りはしてもらいてぇな」
「了解。それで手を打ちましょう。ちなみに、腕だけですか?」
「脚も頼まぁ。足を刈られて、すっ転んだ後の立て直しが中々に難しいんでな」
ディーンはマディスが語った内容から状況を想像し、幾つかの対処法を思い浮かべる。だが、それで出た結論は芳しい物ではなく、難しい顔で答えた。
「さすがに、そいつは厳しいですね。足を刈られた段階で詰みっていいますか、転んだら最後だって、教えてますから」
「ああ、そいつはわかってらぁな。だからこそ、おめぇさんに、そういった時にどうやって復帰したらいいか、考えてもらいてぇのよ」
「いや正直、その辺はもう、機体側で対処してもらいたいんですけど」
青年教官は困り顔で頬を掻く。マディスは後輩機兵の言葉に一理あると認めて、少しばかり不機嫌かつ不本意そうな顔を露わにして応じた。
「わかっとる。けどぉ、今のパンタルやラストルで満足して、頭が凝り固まっちまってる二室の連中にゃあ、対処はできねぇだろうなぁ」
ディーンは先達の憂い交じりの声に記憶を刺激され、十年前の大規模改修以降、新型機の開発や改修による仕様変更といった話が伝わって来ていない事実を思い出す。
「いや、それって、ちょっと不味くないですか?」
「ちょっとどころかぁ、かなり不味いわい。俺が二室に入った当時……、もう二年前になるか。そん時にゃあ、もう、企画として出てくるのは場繋ぎ的な小規模改修案ばかりで、俺が今の開発室に移るまで、新型の開発どころか設計自体ほとんど進んでねぇ」
「それ、本当ですか?」
「ああ、本当だ」
ディーンはマディスの険しい表情から事実だと判断し、呆れ声を上げる。
「あらら、もうちょっとばかり、頑張ってもらえないもんですね」
「俺もそう思う。だがぁ、俺も古巣の悪口を言いたかねぇが、今の二室にゃあ、事なかれ主義が蔓延しとるからなぁ、あまり期待しねぇ方がいいだろう」
そう言ったマディス自身、技術的な限界で制限があるとはいえ、新規機体の設計や既存機体の大改修、新規企画の策定といった挑戦をせず、内々の派閥争いに熱を上げるばかりで、現場からの意見や要望を汲み取ろうともしなくなった二室に見切りをつけて出てきた口である。
マディスが自分の話した内容で、二室こと第二魔導技術開発室で自分の考えを形にしようと意気込んで入り、一旬も経たない内に二室の内実を把握して大いに失望したことを思い出して、墓穴を掘るような形で心を荒ませていると、ディーンが何気ない様子で言い放った。
「なら、マディスさん所の開発室で新しいのを作ってみたらどうです。確か、好き勝手できるんでしょう?」
厳つい男は虚を衝かれたかのように動きを止める。だが、一つ首を振って応えた。
「できねぇこたぁねぇが、俺は俺でしてぇことがあるのよ」
「そりゃ残念。マディスさんなら、痒い所に手が届きそうなの作ってくれそうな気がしたんですけど」
「ばっか、煽ててもやんねぇぞ」
とは言った物の、開発現場の現状を知るだけに、マディスは気難しそうな表情で続けた。
「けどまぁ、俺の作りてぇもんがある程度形になった時に、まだ新しい機体ができてねぇなら、室長と掛け合って考えてみらぁ」
「そうなると、二室とマディスさん、どっちが早く新型を作るかで賭けの一つでもできそうですね」
「はっ、碌でもねぇ賭けだな」
マディスは吐き捨てるように言うと荒々しく鼻息を吹き出して、不機嫌顔をますます深くする。直感からこれ以上の刺激は不味いと判断して、ディーンは素知らぬ顔で話題を変えた。
「そういえば、エンフリードの奴が朝方から出てったみたいですけど、どこ行ったか知ってます?」
「市軍から請け負った仕事だな。今日から始まるそうだ」
「ああ、さっき言ってた奴ですね」
「おぅ、この時期にいつもやっとる、例の港湾口警備だ」
「あれですか」
マディスの答えにディーンが頷くのと同期するように、整備作業に目を配っていたブルーゾが振り返り、口を挟んだ。
「とは言っても、奴の機体はあの通りだからな、今日から予定してる修理終了日の十五日まで、うちから代替機を貸し出してる」
「はは、昨日の今日で仕事ってか」
「ああ、流石に疲れた顔してたよ」
どういった状態か分かるディーンは片頬だけを上げて笑うと、ブルーゾもまた苦笑を口元に浮かべる。唯一同調しなかったマディスであるが、この巌の如き男もまた、その表情に何とも表現し難いもどかしさのようなものを見せて口を開いた。
「だがぁ、エンフリードの奴、この短期間でよく危なねぇ目にあっとるなぁ」
「そう言われてみれば、そうですね」
ブルーゾがマディスの言に同意して首肯する。それに乗る形でディーンが一つ一つと事例を挙げ始めた。
「初陣直後にあった蟲の襲撃で誤射の余波を喰らって、機体損傷。独立して最初に請けた仕事では事故が起きて、機体損壊。で、今回の遭難者捜索でも蟲の襲撃受けて、機体中破。あいつ、教習所出てから一節位しか経ってないのに、よくぞまぁこんだけやって生きてるわ」
「その内の一件に深く関わってる立場としちゃあ、あんまり言えた義理じゃねぇんだが、確かに多いわなぁ」
「そうですね、独立して三年程度の経歴なら納得できますけど、機兵になって半年も経ってないんですよね。っていうか、冗談抜きに、短期間で打撃や損傷が多すぎて、機体の耐久性が既に不味いかもしれん」
ディーンに続く形でマディスが同意し、ブルーゾが懸念を口に出した。それを受けて、再び青年教官が話し出す。
「いやはや、あいつも運が良いのか悪いのか」
「いや、普通に悪いんじゃないか? 前線のエル・ダルークじゃなくて、エフタでやってること考えると」
「やっぱそうだよなぁ。まぁ、おやじ殿なら戦運があるって喜びそうだが、普通に考えると、嬉しくないよなぁ。……あいつ、厄でも憑いてんじゃねぇか?」
ディーンが言った厄という言葉を耳にした瞬間、マディスの脳裏に、何故か、自身の開発室で室長を務める小人がけらけらと笑う姿が浮かぶ。が、彼は咳払いでもって、その想像を打ち消すと、至極真っ当な事を言い放つ。
「本当に厄が憑いとるなら、とっくに死んどる」
これを聞いた二人もまた、確かにその通りだと頷き、口々に続けた。
「確かに厄に憑かれてるなら、命が助かったとしても、もっと悲惨でしょうね。修理の払いがルベルザードじゃなくて、自分持ちとか」
「なら、昔話に出てくる悪戯好きの女神に振り回されてるって感じかねぇ」
ディーンは自分が声に乗せた内容から赤髪の少年がげっそりとした顔で右往左往している様を思い浮かべ、人の悪い顔でニヤリと笑う。
「それだと奴は苦労しそうだが、傍から見てる分には面白そうだ」
人の不幸は蜜の味と言わんばかりの言葉に、ブルーゾは苦笑で、マディスもまた口元を片方吊り上げることで応じた。
その後も三人の男達は雑談交じりに情報交換を行い、それぞれが自分だけでは知り得ぬ情報を仕入れると、ディーンは砂塵の中を魔導機教習所へ、ブルーゾは整備の監督作業に、マディスは斥力盾の点検を、といった具合に各々散っていくのだった。
13/02/24 誤字修正。




