六 少女の終陽日
シャノン・フィールズは少々不機嫌であった。
今日が光明神を信仰する者にとって忌日であるということもあれば、任されている仕事が上手く進んでいなかったり、昼夜の温度差が激しくなって体調が優れなかったり、峠を越えたとはいえ、まだ経水の痛みが身体に残っていたりといった具合に、彼女の心身を煩わせている事情は多々ある。
とはいえ、それらは不機嫌を倍加増幅させるものであって、主たる原因ではない。
「シャノンちゃん、なんか機嫌悪くない?」
「え、そんなことないですよ」
「うーん、でも、こう、なんていうか……、表面は均されて平坦なんだけど、内側ではめろめろと燃えている感じっていうか、そんな風に見えるのよねぇ」
「あはは、何を言ってるんですか。僕はいたって普通ですし、ミソラさんの気のせいですよ」
「むー」
彼女が不機嫌になった理由。
それはごく最近になって、彼女の胸の内に小さく芽生えたばかりの或る感情に由来する物。未だ当人が己の抱いた情念を自覚し切れていない為に、明確な形を与えられず、もやもやとした得体の知れぬ存在。それが心中にわだかまりとなって、彼女を苛んでいるのだ。
内々にへばり付くような、捉えどころのない負の感情に気を取られている事もあって、シャノンはすれ違う者から向けられる好奇や好色の視線にも気付かず、ただ黙々と歩み続ける。
そんな彼女の左肩に立つミソラは、家を出る前よりほとんど変わらない中性的な顔を横目に見ながら、何が原因か少し探ってみようと考えて、小さな口を開いた。
「念押しに言っておくけど、もし身体の調子が悪いなら、ちゃんと言ってね? 今はこんな形だけど、私も女だから、あの痛みの苦しみはわかるから」
「ええ、ありがとうございます。でも、痛みの方はだいぶ引いてきているので、大丈夫です」
「ならいいんだけど」
ミソラはシャノンの反応が至って普通であると見て取ると、不機嫌の理由から生理痛の線を消して続けた。
「なら、研究の方はどう? 作業している様子を見る限り、魔術式の短縮化で行き詰っているみたいだけど?」
「ええ、後少しといった感じなのですが、その詰めがなかなか上手くいかなかくて、足踏みしています」
「そう。まぁ、シャノンちゃんに任せたのは先を見越した研究だから、慌てずにじっくりと取り組んでちょうだい。あまり気を詰め過ぎたら、逆に効率も悪くなっちゃうしね」
「はい、それはわかっているつもりです。けど、やっぱり、術式の短縮化は魔導銃の性能向上だけではなくて、他の魔導機器を小型化するのにも応用できる技術ですから、早く自分のモノにしたいんです」
「真面目ねぇ。まぁ、本当なら短縮化の法則とかも、私が教えた方が早いんだろうけど、私は私で連射機構の改良や新しい魔力蓄積器の開発で忙しいしなぁ。せめて指標になりそうな物があればって、そういえば、持って帰ってきた本の中に、参考になりそうなのがあったような気がしないでもないんだけど、うーむー、思い出せないー」
「では、思い出した時にでも教えてください」
頭を抱える小人に、シャノンは表情を微かに緩める。この様子を横目で見て、これも違うと判断すると、ミソラは今に至るまでの観察で己が本命だと感じている話題を出した。
「了解。それにしても、クロウと会うのも久しぶりね」
「……そうですね」
瞬間、少女の反応が遅れた事で、ミソラは自分の考えが当たっていたことを悟った。しかし、考えが当たったとはいえ、例の実験の後始末以来、少年と関わっていない為、その原因には思い至らない。
とりあえずは後でクロウを締め上げればわかるか等と、実に物騒な事を考えながら、小人は会話の流れに逆らわず、成り行きに任せて話し続ける。
「一旬半位は顔見てないけど、元気にしてるかしら」
「ええ、クロウ君のことですから、間違いなく、元気にしてますよ」
シャノンの語気が少し強くなった事で、ミソラはクロウ関連が不機嫌の源にあると断じた。
他方、シャノンはミソラの言葉から一旬ほど前に偶然見かけた光景を、命の恩人であり、年下の友人でもある少年が黒い短髪の少女と親しげに話している姿を思い出す。
自然、心底に潜む不定形な情が微かに蠢き、苦味と錯覚するような不快が湧き起こってくる。結果、少女の形良い眉根が僅かに動いた。
時は斜陽節第四旬の二十日。
暦においては一年を締め括る日ということもあって、終陽日と特別な名を与えられ、国や地域を問わずに休日とされている。
この終陽日は光陽の日照時間が最も短くなる冬至に当たる為、光明神の信仰が篤い地域や影響力がある都市では神の光が弱まる忌日とされて、静かに過ごす日とされていたりするのだが、常日頃から光陽の暑さに辟易としているゼル・セトラス域ではそういった風習は見られない。
というよりも、ゼル・セトラス域においては光明神の信者も少なく、また五の倍数日が休日とされている事もあってか、然程に重要視されてもいなければ、静かに過ごすといった空気でもなく、普段の休日とあまり変わらない。
むしろ、翌日の祝日で、一年の始まりを告げる初陽日に備えて、特別市が立ったり、商店が安売りをしたりと賑やかさを増している。
砂海の厳しい環境が住まう人々を実利的にしたのか、砂海に埋まる金の匂いに釣られて打算的な者達が集まってきた結果なのかのはわからないが、とにかく、こういった地域柄なのだ。
昼下がりにミソラと共に港湾地区に向かって街路を歩いているシャノンも、常の休日と変わらない、否、少し賑やかな市街に目を向けている。そこには彼女が知る終陽日の落ち着いた風情はない。
昼の暑さを物ともせず、特別市が開かれている中央広場に向かって商品を乗せた荷車が走って行けば、自分よりも年下と思われる少女が何かの出店の前で悩む風情を見せている。また、子どもが店先で駄々をこねて親を困らせていれば、恋仲と思しき若い男女が緑地帯で肩を寄せ合いながら座って語らっていたりするし、繁華街の中ではとある酒場の前で多くの男達が参加した大乱闘が起こっていたりと、実に様々な様相が繰り広げられていた。
だが、そんな賑やか光景が、ここが自分が生まれ育ってきた街ではなく、異郷の地であることを、少女の心に改めて認識させていた。
己が異邦人であることを否応にも実感させられて、シャノンの内から不機嫌さが消え、代わって寂寥と孤独感が浮かんでくる。ミソラも少女の雰囲気が変化した事に気付き、静かな声で話しかけた。
「街、賑やかね」
「そうですね」
「こういうの見ていると、昔も今も人の生活っていうか、暮らしの質は違っても、人そのものはそう変わりがないのがわかるわ」
「変わらない、ですか?」
「ええ、私が覚えている旧世紀時代と変わらないわ。商機を感じ取った商人は商売に血眼になる姿も、親が子に手を焼いてたり、子が親に振り回せれている姿も、あれが良いかこれが良いかなんて風に吟味する姿も、人目憚らずに恋人同士で自分達の世界を作ってる姿も、馬鹿みたいな騒ぎを起こしている姿も、みーんな同じ。シャノンちゃんが暮らしていた帝都はどうなの?」
問いかけられたシャノンは改めて周囲を見渡して、記憶の中にある帝都の姿と比較する。街並みや気候は異なるし、街行く人の姿恰好も違うが、普通の休日としてみた場合、人々の行いに大差は見られない。そのことに気付いた少女は落ち着いた声音で答えた。
「そうですね、言われてみれば、やっていることはあまり変わらないです」
「でしょう。時代や地域の差で生活の様式は変わっても、人が人である為の、本質的な所はそう変わらないってこと。というかね、途中で見かけた、仲良さそうにいちゃいちゃしてた奴らには、もう少し人目を気にしろと私は言いたい! まったく! あらあら、今夜だけじゃなくて今からお楽しみの予定ですか、なんて風に、大声で聞いてやりたかったわ!」
「あはは」
器用にも背中に炎を模した魔力を背負って力説するミソラの姿に、シャノンは苦笑するしかなかった。
机や椅子を並べただけの露天酒場が賑わう港湾門前広場を抜けて港湾地区に出ると、人の流れと賑やかさは著しく減じる。しかしながら、港湾泊地に留まっている魔導船の数はこれまでになく多い為、それ程に寂しさは感じられない。
ミソラは普段は閑散とした場所の賑わいぶりを見て、感心するように呟いた。
「へぇ、こんなに船があったのね」
「年末年始は帝都の港湾でもこんな感じですよ」
「そうなの?」
「ええ、年末年始は最寄りの街に寄港して、年始を祝うのが習わしだって聞いた覚えがありますから、寄港している船が多いんだと思います」
「ふふ、運航を止めてまで年始を祝うか。形骸化した昔とは違うのね」
シャノンの言葉に微笑みながら応じると、小人は埠頭や停泊する魔導船へと目を向ける。
岸壁近くには親子連れと思しき人影が幾つかあって、楽しげに鎮座する魔導船群を眺めている。一方の魔導船にもほんの僅かながら人影があり、こちらもまたエフタ市を眺めていた。
ミソラはシャノンの肩で揺られながら、船に残っている人はどんな顔をしているのかと、ちょっとした興味から視力を上げて見てみると、どの顔もぶう垂れた表情であった。
そりゃあ、こんな時に留守番とか、嫌な話よねぇ。
ミソラは留守番組に同情しつつ、視線を目的地である機兵長屋へと向けた。流石に歩く人影もなく、彼の場所が場末であることを知らしめている。もっとも、ミソラの表情はこれから如何にクロウを締め上げようかとの思いで生き生きとしており、実に楽しげな様子だ。
「さーて、クロウは何をしているかしら」
「マディスさんの話だと、最近は仕事で遅かったみたいですから、まだ寝ているんじゃないですか?」
「いやいや、午後には顔を出すってことは伝えておいてもらったから、流石に起きてるとは思うけどねぇ」
既に道を覚えている事もあって惑いなく進んでいき、クロウの部屋がある西第三棟に近づく。クロウの部屋となる三号室は魔導機用の扉が半ば開かれており、最低でも一度は起きていることを窺わせた。
「どれどれ、抜き打ちと行きましょうか。案外、男の子の性欲事情が見られるかもしれないしね」
「えーと、こういった場合、僕にどう応えて欲しいんですか?」
「露骨に恥じらうのも良し、照れ隠しで怒るのも良し、シャノンちゃんがしたいようにしてちょうだい」
「なら、溜め息をついて呆れておきますね」
「そんな、ひどい」
二人が寸劇めいたやり取りをしながら扉に近づいていくと、中からは呻き声に似た苦しそうなクロウの吐息が聞こえてきた。先の会話もあった事から、シャノンの動きが目に見えて固まり、ミソラの顔が好奇心から大いに輝く。
「こ、これはっ! シャノンちゃんっ、貴重なモノが見れるかもっ!」
「あ、あはは、まさかー、僕達が来ることを知ってるのに、そんなことを……」
二人が言葉を交わす間にも、クロウの呻きを伴った吐息は一層熱を帯びたものになっていく。
どちらのものとは知れず、つばを飲み込む音が響く。そして、交わされる言葉も低く小さなものへと変じた。
「ねぇ、シャノンちゃん。こういう時はさ、後学の為に、ちょーとばかり、覗いてみるのがいいんじゃないかな?」
「い、いえ、やはり、そういうことはしないで、普通に声を掛けるべきだと思うんですけど」
「でもでもっ、こういう男の子の事情って、興味あるじゃない」
「う……」
ミソラの言う通り、シャノンも年頃だけに異性の性欲事情に興味は無くはないのだが、少年との今後の関係を考えるとやめるべきだという意識が強い。
そんな少女の心情を見抜いているかのように、ミソラは小悪魔の如く不敵に笑って囁く。
「大丈夫、気付かなかった振りをして入ればいいだけのことよ。昔から、過ちは一度だけなら許されるって言うでしょ」
「うぅ、そ、そんな言葉は知りませんよっ」
「なら、よいではないかよいではないかって精神で行きましょう!」
「だから、そんな精神もないですし、駄目ですってばっ」
「むむ、ならばもう誘いません! 私は独りで行きます!」
「ちょっと、ミソラさんっ!」
シャノンの小声でありながら語気強い反対を振り切り、ミソラは少女の肩口より飛び立って、屋内へと突入していく。自然、その後を追う形でシャノンも屋内に入ってしまう。しまった思うがもう遅く、せめてとばかりに彼女は視線を床へと落とした。
「はーいっ! クロウ、元気にしてたー」
「な、なんだっ」
突然響き渡ったミソラの威勢の良い声に、クロウは目を丸くして振り返る。
そこで見た物は、好奇心と期待で満ち溢れた小人の顔と何故か固くなって俯いている少女の姿であった。常と異なる二人の姿に、クロウが首を傾げながら、地面に降り立つ。
一方、期待していたモノがどこにもないことを見て取ったミソラの表情に疑問の色が浮かび始めた。
「あれ、なにをしてたんじゃなかったの?」
「ミソラの言う、なにってのが何なのかは知らないが、俺は鍛錬していただけだぞ」
クロウは鉄骨梁を利用して懸垂をしていたのだ。
この答えを聞いて、ミソラは露骨にがっかりとして見せると、不満を表すかのように口を尖らせた。
「なんだ、面白くないわねぇ」
「いきなり飛び込んで来て、面白くないって言われても困る。っていうか、試しに聞くが、何をしていれば面白いんだ?」
「性欲を持て余し過ぎて、魔導機の臀部にしがみ付いて腰を振る」
思わずといった風情で、クロウは頭を抱える。それから、おもむろに言った。
「なぁ、お前から見て、俺はさ、そんなことをする変態なのか?」
「うふふ、冗談よ、冗談。精々、全裸で部屋の真ん中に屹立して、仰け反りながら独りで慰めてるくらい」
「それはそれで嫌過ぎる」
クロウは実に嫌そうに表情を歪めて見せた後、何かに気が付いたような顔でミソラに問い掛けた。
「ところで、ミソラ、今の具体的な例ってさ、もしかして自分の経験か?」
「し、失敬な! 淑女たる私がそんなことするわけないじゃないの!」
クロウは小人の下品な物言いに一矢報いると、爽やかさを感じさせる笑顔で顔の汗を拭きとる。
一方、シャノンは二人の会話から先の想定のようなことはないと安堵しながら顔を上げた。と同時に、再び固まってしまう。
というのも、鍛錬をしていたと言う少年は上半身に何も着ていなかった為だ。
いや、これだけならばシャノンも固まってしまう事ではないのだが、汗にまみれた薄褐色の肌が屋内灯の光を浴びて艶めかしいてかりを帯びており、そこはかとない色気めいたものを醸し出していた為に、つい見入ってしまったのだ。
半ば呆けたように少年の身体を見つめるシャノンを余所に、ミソラとクロウの話は続く。
「まぁ、今の話はもう終わりにして……、クロウ」
「ん?」
「生で見るのは初めてだけどさ、あんた、結構、良い身体してるじゃないの」
ミソラの感心して何度も頷く様子に、クロウも汗を拭きとる動きを止めて答えた。
「自分じゃわかりにくいんだが、きっとそうなんだろうな」
「うん、無駄な筋肉もなく絞られてていい感じよ」
「そりゃどうも。こうして身体を作る事が出来たのも、どこかのおねーさんが機会を与えてくれたお陰です」
「ふふん、その人には感謝しておくようにね」
クロウは頷くと、その目を出入り口付近で動きを見せないシャノンへと転じる。
「ところで、シャノンさんがさっきから動かないんだが、大丈夫なのか?」
「お年頃特有の事情よ。クロウが戻って来るまでに元に戻しておくから、汗を流してきなさい」
「了解。部屋に上がって休んでてくれ」
クロウはシャノンの様子を気にしながらも、手拭い片手に奥の住居へ入っていく。ミソラはクロウの後姿が消えてからシャノンの傍らまで飛んで行き、軽い思案の後、自身の鼻を押さえて言った。
「シャノンちゃん、鼻血、鼻血」
小人の囁きにシャノンははっと我に返り、鼻を押さえる。が、特有の鉄臭さも伝う感触もなかった。
この様子を見ていたミソラは、自分の状態がわからない位に動揺していたみたいだから、私の想像よりも初心なのかもしれないと、シャノンへの認識を改めつつ告げた。
「ふふ、嘘よ。でも、その様子だと、クロウの裸はちょっと刺激が強かったみたいね」
「い、いえ、その……」
「ああ、無理に言葉にしなくてもいいわ。今まで散々煽っといてなんだけど、あまり意識し過ぎると余計にぎくしゃくしちゃうから、別の事を考えたり、話題に出した方がいいかもね」
「うぅ、気を付けます」
自身がこうなった原因のほとんどがミソラに帰することにも気付けず、シャノンは肩を落とした。
* * *
汗を落としたクロウが普段着に着替えて浴室から出てくると、外套を脱いだシャノンが上り口近くの床に所在なく座り、ミソラは飛び回って室内を探検していた。
「ミソラ、引っ掻き回すなよ」
「子どもじゃないんだから、そんなことするわけないでしょ」
「どーだか」
衣服を仕舞った行李を覗き込むミソラを軽く牽制した後、クロウは濡れた髪を大き目のタオルで拭きながら、白いシャツ姿のシャノンに声を掛ける。
「シャノンさん、昼食は食べた?」
「はい、食べてきました」
クロウはシャノンの声が少し固い事を不思議に思いながらも頷き返し、足を調理台へと向けて昼食の準備を始める。とはいっても、手の込んだ代物ではなく、ナイフで買い置きの黒パンを数枚に切り分け、深皿に粉乳を熱湯で溶かし、丸く黄色い柑橘を一個用意するだけである。
手早く用意する少年の頭の上にはいつの間にかミソラがへばり付いており、ちょっとした注意を口に出した。
「クロウ、健康で居たかったら、野菜も食べなさいよ?」
「買い置きができないのには手が伸びないんだよ」
「本当に? 嫌いなだけじゃないの?」
「嫌いなものもあるのは認めるけど、外食の時は意識して食べてるって」
口煩く突っ込むミソラと口答えするようにいなすクロウのやり取りは、両者の姿形こそ異なれど、どこか仲の良い姉弟のそれを思わせる。
あの二人、やっぱり仲がいいなぁ、等とシャノンが少しばかりの羨ましさを感じながら見ていると、昼食の準備が終わったのか、窓辺近くに置かれた食卓へと移動し始めた。
「シャノンちゃん、そんなところにいないで、こっちに来なさいよ。何もなくても冷水位は出させるから」
「事実だけど酷い言われようだ」
「なら、保存食ばかりじゃなくて、お菓子の一つでも用意しておきなさい」
「んー、なら妥協して、干し果物でも用意しとくよ」
ミソラの意見に答えた後、クロウは黒パンを粉乳に浸し、少し柔らかくなった所を齧る。あまり見目良い物ではないが、硬くなった黒パンを手早く柔らかくするには一番楽な方法なのだ。
一口二口と黒パンを食べた所で、少年は机の上に降り立つや否やだらしなく寝そべったミソラに訊ねた。
「ミソラ、前に実験した魔導銃って、まだ完成しそうにないのか?」
「んー、連射時の制御機構に難があって、改良中」
「なら、単発式でもいいから出せないのか?」
この言葉にミソラは伸びをする動きが停めて、真剣な顔でクロウの顔を見つめる。
「欲しいの?」
「あれが使えると、仕事での危険がだいぶ減るからな。正直、喉から手が出るほどに欲しい」
「むー、現場から見れば、一刻も早く欲しいって所かー」
ミソラは上半身を起こして胡坐をかく。それから、しばし腕組みをして考えてから答えた。
「確約はできないけど、善処するわ」
「ああ、頼む」
と、そこに近づいてきたシャノンが机に四脚ある椅子の一つに座って口を開いた。
「何の話ですか?」
「魔導銃の話。後でシャノンちゃんにも話すわ」
「わかりました」
シャノンは上司から後で話すと言われた事で納得すると、クロウに目を向けて話を続ける。
「ところで、クロウ君。マディスさんに伝言を頼んだんですが、聞いてくれていますか?」
「ああ、簡単には聞いてるよ。防塵用装備を一式揃えたいから、店を紹介して欲しいんだよね?」
「はい、砂嵐の季節になるから最低でもゴーグルとマスクは準備した方が良いと言われまして」
「確かに、ゼル・ルディーラが来たら、装備が無いと外に出られなくなるからなぁ」
「そんなに酷いんですか?」
「酷いよ。視界が極端に悪くなるし、髪に砂が入り込んで不快だし、何よりも暑いしで、碌なもんじゃないよ」
クロウは体感したことを思い出したのか、辟易とした表情を見せる。本気で嫌そうな顔を見つめながら、シャノンも同調するように応じた。
「僕も髪に砂が入るのは嫌ですね」
「女の人はみんなそう言うよ。だから、髪の毛に入り込まないようにすっぽりと覆う頭巾を使うんだ」
「なるほど」
シャノンの頭の中で、頭巾が新たな買い物として加わる。
「他に必要な物はありませんか?」
「うーん、他にあるとすれば、靴と外套だろうね」
「靴?」
「うん、正確にはサンダル。普通の靴だといつも以上に蒸れるし、砂が入り込んで鬱陶しいんだ」
「なら、サンダルも買わないと駄目ですね。でも、外套はあれじゃ駄目なんですか?」
シャノンは上り口付近に置かれた紺色の外套を指し示て尋ねると、クロウは軽く首を振ってから答えた。
「別に駄目じゃないんだけど、冗談抜きで風で砂が吹き付けられるから砂塵塗れになるし、どうしても生地が痛むのが早いんだ。だから、上等な仕立てならお勧めしない」
「よ、よっぽどなんですね」
「うん、今、シャノンさんが来てるシャツで、一日歩いたら赤黒い染みが満遍なくついちゃう位」
シャノンはクロウの視線を胸のあたりに感じた気がして、ちょっとした気恥ずかしさを感じる。もっとも、気のせいかもしれないとの思いから見咎める言葉を出すことは無く、ただ不安な思いを口に出した。
「なんだか聞く限りだと、物凄く酷い砂嵐みたいなんですが、僕、耐えられるんでしょうか」
「うーん、防塵装備をちゃんと着けてれば、死ぬことはないと思う」
「……それって、暗に着けなかったら死ぬって言ってませんか?」
「まぁ、毎年、酔っぱらった奴や外に出て惑った奴が死んでるから、そういう風に取れなくもないかなぁ」
半分冗談で言ったつもりが真面目に返されてしまい、シャノンは言葉に詰まってしまった。俄かに場に沈黙が訪れ、静かな時が流れる。この沈黙の時に、シャノンは何となく気まずさを感じるが、クロウは特に気にしていないようで、再開したパンの咀嚼に忙しい。
少女がこれからどう話を続けようかと考え始めた所で、唐突に救いの手が差し出された。
「うぁっ、なにこれっ、すっぱぁっ!」
「さっきから静かだと思ってたら、摘まみ食いですか、おねーさん」
「ぬぐぐ、く、口が、口の中が、大量の酸味に満たされて、どこまでもすっぱい果肉と液が腹の中で暴れて、また口の中にまで戻って来てる!」
器用にも皮が剥かれた柑橘の傍ら、小さな歯形が残る一房の近くで、ミソラがびたんびたんと四肢と身体をのた打ち回らせていた。この上司の奇行にシャノンは頬を引き攣らせつつ、落ち着いた様子のクロウに原因を訊ねた。
「え、えーと、クロウ君、これはいったい?」
「あれ、シャノンさんは、この果物を見るの初めて?」
「ええ、何度か果物を買いに商店街に行ってますけど、これは初めて見たような?」
「まぁ、これは店によっては置いてないからなぁ」
クロウはしみじみとした様子で言って一房摘まみあげるが、食する気配はない。少女は内々で好奇心が湧き起こるのを感じながら、更に問う。
「名前はなんていうんですか?」
「シャリカっていう、砂海でも育つ貴重な果物。乾燥にも熱にも強いんだけど、欠点が一つだけあって、今、ミソラが食べたみたいに物凄く酸っぱいの。だから、基本的に果汁を水で薄めて飲んだり、料理の味を調えるのに使ったり、肉料理にかけたりするんだ」
「へぇ、……あれ、でも、ならどうして、これを食べようと?」
「いや、この前に開拓地を往復する船の護衛を引き受けた時にさ、同乗した気の良いおばちゃんが品種改良が進んで酸味が減った奴だから持ってけって言ってくれたんだ。実際、酸味が抑えられて甘さがあったから食べられたんだけど」
「でも、酸味が減ってなかった奴もあったということですか」
「そうみたいだ。ちなみに、三個貰った内の最後の一つ」
じたばたともがき続けるミソラを見て、シャノンは苦笑を漏らす。
「三分の一の確率だと、まだ改良の道半ばって感じですね」
「あはは、そうかも。ああ、でも、水で薄めたら結構おいしいから、飲んでみる?」
「はい、お願いします」
二人のほのぼのとした会話の下で、ミソラが助けを求めるように天へと伸ばした手は、不意に力を失い崩れ落ちていった。
* * *
「ゴーグルにマスク、頭巾、外套、サンダル、念の為の手袋。これで一通りは揃ったかな?」
「はい、揃ったはずです」
シャノンは人通りが多い街路を歩きつつ、隣を歩くクロウの問いかけに微笑みながら頷いて続けた。
「でも、頭巾やマスクに色々と種類があったのは驚きました」
「頭巾に関しては、女性陣の好みや求めに応じていたら、柄や染色の種類が増えたって話だよ」
「あはは、それはわかる気がしますね」
そう言って、少女は笑みを深くする。
三人はクロウの家で午睡を取った後、彼の案内で商会通りに立ち並ぶ店を幾つも回って目的の品を買って回った。
この際、クロウは顔見知りの商店主達からシャノンとの仲を冷やかされたが、少女を友人としか見ていない少年は、実に簡単な調子で、仲の良い友達だよ、といった言葉で、軽くいなしてかわしていた。
シャノンもまた表面上はクロウに同意していたが、その内心は、自分だけ意識しているのはなんだか悔しい、でも、気になるのは確かだし、クロウ君は私の事を意識していないのかな、けど、今の関係も結構気楽だし、無理に変える必要はないような気もするし、といった具合に、色々と複雑である。
そんなこんなで、商会通りを東西に歩き回って、必要な品を買い揃えた頃には、光陽が西の空へと傾き始めていた。
「さて、買い物も終わったし、ちょっと支部の食堂で休憩してから帰ろうか」
「そうですね」
自然な風体で会話する二人に、クロウの家を出てから今に至るまで、クロウの頭上でずっとへたり込んでいたミソラが口を挟んだ。
「ぬー、楽しそうにお買い物をして、大変結構ですねー。まったく、私がぐったりしてるのに、大丈夫かの一言もないなんて、二人とも酷いんだから」
「いや、あれは人の食い物に手を出すからだ」
「僕も自業自得だと思います」
「うぅ、二人して、私に冷たい」
小人は口を尖らせると、腹いせとばかりにクロウの赤い髪を引っ張る。
「おい、禿げたくないから、抜いてくれるなよ?」
「そこまではしないわよ、痛みを感じさせたいだけ」
「そ、それはそれでどうなんでしょう」
シャノンが苦笑いを浮かべて一言口を挟んだところで、トラスウェル広場の北東に位置する支部に辿り着いた。休日にもかかわらず、人の出入りは多い。三人は人の流れに乗って支部に入ると、併設された酒場へと足を向ける。
酒場は賑やかな喧噪で満ちており、あちらこちらで楽しげな笑い声や囃し声が響けば、奏者達がバンコで重低音で小気味良い拍子を刻み、ギューテで明るい曲を奏でていた。
クロウ達は出入り口付近で待機していたふくよかな身体をした中年の女給仕に、奥の厨房に近い位置にある机へと案内された。
「今日はマリーさん、お休みみたいね」
「多分、明日が本番だから、今日は休んでいるだろうな」
ミソラの呟きにクロウが応じた所で、彼は後ろから軽く肩を叩かれる。
「クロウ」
「あれ、マッコールさん?」
クロウの肩を叩き、呼び掛けてきたのは少し腹が出た中年男。組合の中堅職員でクロウも世話になっているマッコールであった。マッコールはちらりとシャノンとミソラへと視線を向けると、眉根を下げて非常に申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「今、ちょっとした問題があってな、少しお前の力が借りたいんだが……」
「俺の?」
「ああ、機兵の立場が必要となる話だ」
普段から何かと目をかけて貰っている人物からの頼みだけに、クロウは受けようと考えて二人に目を向ける。すると、二人はそれぞれに頷いて見せて、口々に答えた。
「僕の用事自体は終わりましたから、別に構いませんよ」
「うん、私達はここでゆっくりしているから、いってらっしゃい」
「なら、ちょっと行ってくるよ」
「二人とも申し訳ない、クロウを少し借りさせてもらうよ」
マッコールはシャノンとミソラにしっかりと頭を下げて礼を言うと、クロウを連れて歩き出す。その行き先は建物の二階。クロウも何度か利用している会議室であった。
マッコールに続いてクロウが会議室に入ると、見知った顔が二つ、席について待っていた。
一人は魔導機教習所で知り合った人相の悪い整備教官、もう一人は彼が教習所で自分の機体を預けていた少女であった。整備教官は悪相を更に厳しくして腕組みをしており、黒縁眼鏡の少女は俯いて沈んだ表情だ。
「あれ、ボルト教官に、ラファンさん?」
「よう、久しいな、エンフリード」
「……エンフリードさん」
ボルトと呼ばれた整備教官は少し表情を和らげるが、ラファンの顔や声は今にも泣き出しそうな位に弱々しい。
いったいどういう事情かわからないクロウは、マッコールに促されるままに隣に座って説明を待っていると、ボルトが口を開いた。
「マッコールさん、エンフリードへの説明は?」
「まだです」
「なら、俺から説明をさせてもらおうか」
そう前置いて、ボルトは顎の無精ひげを撫でながら、説明を始める。その内容は隣に座る少女、エルティア・ラファンに関わるものであった。
エルティアは今日、魔導機教習所の整備課程を無事に修了し終え、晴れて魔導機整備士免許を取得することとなった。これ自体は特に問題もなく、実の目出度い事なのだが、その先にある進路でケチがついた。
というのも、彼女の就職先で帰る場所でもあった実家、東方の城塞都市アーウェルにある魔導機整備所が取引先の倒産が相次いだことで債権を回収できず、半旬程前に潰れてしまった、との連絡が昨日届いたのだ。
幸いというべきか、この連絡の中で、魔導機整備士をしている彼女の父親が周辺の開拓地を巡る整備士の仕事にありつくことができた為、一家離散という事態には陥らなかったことはわかった。
しかしながら、この近況報告と共に、仕事の口がなく困窮した難民による犯罪が増えて、治安が悪化し続けているアーウェル市の現状について触れられて、不穏な空気に満ちた市の状況が改善するか、どこかで会社を再建するまでは、エフタ市に留まって仕事を探した方が良いとも書かれていたのだ。
こういった事情をボルトは簡潔に話し終えると、現状に至る経緯を付け加えた。
「それで、ラファンからどうすればいいだろうって相談された俺が、付き合いのあるマッコールさんに話を持ち込んだって所だ」
「なるほど。……マッコールさん、付き合い広いね」
「なに、この仕事をしているとな、自然と顔が広がるんだよ」
感心した様子のクロウに、薄い髪を撫でながらマッコールが少しばかり照れくさそうに笑って答える。もっとも、それも一時だけで、直に表情を引き締めて話し出した。
「まぁ、そんな訳で今日の昼頃に、ボルト教官から話を持ち込まれたんだが、途中でお前とラファンさんに付き合いがあったって話を聞いたから、少し手伝ってもらおうと思ったんだよ。で、使いを出そうと下に降りたら、丁度、お前が酒場に居たんで来てもらったんだ」
「なるほど、そうなことがあったんですか。うん、ラファンさんには教習所で世話になったし、俺に出来る事ならなんでも手伝うよ」
クロウが即断で請け負うと、エルティアの目に涙が浮かび上がってくる。そんな少女の頭を、ボルトが大きな目を細めつつ、力強く撫でてから口を開いた。
「エンフリード、ラファンがこの調子だからな、代わりに礼を言っとく。ありがとうよ」
「気にしないでください。俺もいろんな人から助けてもらってるし、今度は自分がそうするだけのことですから」
クロウの気取らぬ物言いに、二人の大人はそれぞれに嬉しそうな笑みを垣間見せた。
エルティアが少し落ち着きを取り戻したと見ると、マッコールは改めた調子で話し始めた。
「さて、魔導機整備士の資格を活かせる仕事についてなんだが、俺が知る限り、正直、そう多くはない。エフタ市だと、組合の保管施設か市の複合支援施設、それに市軍といった所だろう。でもって、この中で一番入れる可能性が高いのは、市軍だろうな」
「うん、技術職は歓迎されるって聞いた覚えがある」
クロウがそう言って頷くと、整備教官も頷いて見せるが、口から出てきたのは否定的な見解であった。
「だが、ラファンの場合だと、いつ事情が変わるかわからんし、アーウェルに帰れる可能性もあるからな。最低でも十年は奉職しなきゃならん市軍とは相性が悪い」
「ああ、そういえば、市軍に入った友人が十年は長いってぼやいてました」
クロウは機兵を志して市軍に入った同期卒院の友人に、魔導機免許の取得と引っ越しの報告をしに官舎を訊ねた際、俺なんて、まだ機体にも触らせてもらえねぇよ、と締め上げられたことを思い出しながら応じる。
このクロウの言葉に首肯して同意を示しながら、マッコールが口を開く。
「十年内の除隊はまず無理だろうな。とは言っても、組合の保管施設は余剰人員を抱える余裕がない」
「エフタは支援施設の拡充に熱心だから、他の都市より付け入る隙がないんだろ?」
「そうなんだよ、ボルト教官。いや、住んでいる身から言わせれば頼もしい限りなんだが、組合の職員としては、もう少し儲けさせてくれって所だよ」
クロウはマッコールのぼやきに口元を緩めつつ、残りの一つを口に出した。
「ということは、複合支援施設ってことだね」
「そうだ。あそこなら、突然、明日から来ません、なんて不誠実な事をしなけりゃ、円満に辞めることも可能だ。実際、俺の知り合いに、開拓地に引っ張られて辞めた奴もいるしな」
ボルトが補足するように言うと、マッコールが話のまとめに入った。
「それでだな、クロウ。この線で話を進めるにあたって、お前に頼みたいことがある」
「うん、どんなこと?」
「ああ、軍務局への根回しっていうか、局の人間にラファンさんの人格と能力の保証して欲しいんだ」
「保証?」
「ああ、現場に立つ人間の保証だ。あそこの施設長や現場の班長とは知り合いだから、そっちの筋には俺から話を通す。ただ、裏方にもう一押しがあると、こういう話はすんなりと通るんだよ」
「なるほど」
クロウは社会の裏側を知った気分で頷く。
「そんな訳だから、休み明けの二日にでも軍務局に行って、機兵管理係のベルトンさん、だったかな? あの人に今日の事っていうか、ラファンさんの事を話をしておいてほしい」
「え、マッコールさん、それだけでいいの?」
「おいおい、お前は簡単なことだと思ってるかもしれないがな、色んな危険と向き合う機兵が命を預ける機体を委ねられるって言うのは、意味が大きいんだぞ。実際にお前、ラファンさんになら安心して機体の整備を任せられるんだろ?」
「うん、ラファンさんなら、安心して任せられるよ」
クロウがそう言って笑うと、少女の琴線に触れるものがあったのか、突然ポロポロと涙をこぼし始めた。思ってもみなかった反応にクロウは大いに慌てるが、両手で顔を覆った少女はただ小さな声で、ありがとうございますとの言葉を繰り返し続けた。
* * *
マッコールとボルトはまだ話が残っているからと、泣き止んだラファンとクロウを先に送り出した後、先程よりも幾分暗い表情で話し始めた。
「ボルト教官、大筋言われた通りに進めましたが、これで良かったんですね?」
「ええ、助かりましたよ。今、ラファンに必要だったのは、誰かに頼りにされる事でしたんで」
マッコールの言葉に悪相の整備教官は顎髭を一撫でして頷いた後、心底から疲れた様子で溜め息をついて続ける。
「今回の話、ラファンの親は娘を危険な目に合わせたくない、危ない場所で苦労させたくないって考えたんでしょうが、本人から見れば、魔導機整備士の資格を取って、自分も実家の仕事を手助けできるだけの力を持っているにもかかわらず、蚊帳の外って訳でしょう?」
「まぁ、そうですね」
「これって穿った見方をすれば、端から戦力に含めていないってことと同じです。あいつは頭が良いから、そういった風にも受け取れることにも気付いてしまって、本当に、落ち込みようが半端なかったんですよ」
マッコールは人に頼りにされる喜びや充実感を知っているだけに、眉を顰めてしまう。
「真っ先に問題から外された事で、家族にとって、自分は不必要な存在なんだろうか、と感じた訳ですか」
「ええ、自分の存在意義を足元から崩されたように感じたんでしょう」
「家族はそんなことを思っていないんでしょうが」
「俺も文面を読ませてもらいましたが、独りでエフタに居させるのも心配した様子でしたよ」
大きな目を瞬かせ、目頭を摘まみながら、ボルトは話し続ける。
「ですが、すれ違いが生まれる時なんて、こんなもんだと思いますよ。今回も、当人にそれでも戻るって気概があればまた別の話になったでしょうが、当人に考える頭があって、良くも悪くも良い子過ぎた為に生じた、すれ違いです」
「互いを思い遣った結果がこれだと、悲しいですね」
「本当ですよ。傍から見ていて、あまりにも面白くない。なので、同僚からエンフリードがエフタに居ると聞いてましたから、少しでも早くすれ違いを解消する為に、巻き込ませてもらいました」
ボルトは謝意を示すように頭を下げると、マッコールはゆっくりと首を振って応えた。
「いえ、気にしないでください。そういった事情なら、クロウも気にしないでしょうから」
「そう言ってもらえると、少し気が楽になりますよ」
大人二人の話はそれからしばしの間、静かに続いた。
一方のクロウだが、どこか恥ずかしそうな様子のラファンを連れて、ミソラ達の座る席へと戻っていた。当然、新たに登場した少女が何者なのかとの質問の声が飛ぶ。
「クロウ、その子は?」
「教習所で世話になった魔導機整備士の人で、エルティア・ラファンさん」
「ほぅほぅ、こんな可愛い子と知り合っていたとは、クロウも隅に置けないわね」
「またお前は、そういうことを……」
クロウが呆れた表情を見せる傍らで、ミソラの形に驚いていたエルティアが困惑の声を小さく漏らす。
「え、ええ? に、人形が喋ってる?」
「おぉ、初々しい反応ね」
ミソラは面白そうに笑うと、机の上で白衣の裾を軽く摘まんでお辞儀をして見せる。
「初めまして、お見立て通り、元人間の人形でミソラよ。よろしく」
「は、はぁ、よろしく、おねがいします」
「まぁ、立ったままなのもなんだし、座ってちょうだい」
エルティアは理解が追い付いていないのか、赤くなった目を何度も瞬かせつつも頭を下げて、席に着いた。クロウもまたその隣に座った所で、視線を場に残るもう一人の人物であるシャノンへと向ける。
シャノンは少年が連れてきた少女の、自分とは比べ物にならない程に自己主張している胸と臀部を見て、女として負けた気がして、目を虚ろにしていた。
クロウはシャノンの様子がおかしい事になんとなく気付いていたが、直感がそれに触れてはならぬと囁く事から、知らぬ顔で紹介を始めた。
「こ、こちら組合の開発部に所属している魔導士で、シャノン・フィールズさん」
「はじめまして、しゃのん・ふぃーるずです」
「こちらこそ、はじめまして、エルティア・ラファンです。フィールズさん、魔導士の資格を持ってるなんて、凄いですね」
「いえいえ、それほどでもないです」
シャノンの乾いた声音に困惑して、エルティアは隣に座るクロウへと視線をやる。その何気ない動きにシャノンの肚の底で蠢く不快源が活性化して、端正な表情が微かに引き攣った。
いち早くその微妙な変化に気が付いたミソラは、シャノンの気を紛らわせる為にも、初対面の場で困ったことを引き起こさない為にも、ある提案を口に出した。
「クロウ、三人もの可愛い子と同席するなんて贅沢しているんだから、ここの代金位はもってくれるわよね?」
「……ミソラ以外の二人じゃないのか?」
「おし、その喧嘩買ったっ!」
ミソラはクロウの挑発に乗る形で場の空気を壊そうと考え、大声で宣した後、少年の顎へと一直線に体当たりを敢行、見事に命中する。
この結果、クロウは盛大に首を仰け反らせた後、上体ごと机の上に崩れ落ち、ミソラもまた巻き込まれる形で墜落した。そして、唖然とする少女二人の間で、二人して悶絶する。
周囲から何事かと注目が集まる中、クロウは顎の痛みに耐えながら苦言を呈する。
「お、おまえ、いきなりの実力行使は卑怯だろ」
「ふ、ふん、女の子に対して、ちゃんと女の子として配慮しない男には、ちょうどいいわよ」
憤然として応じたミソラであったが、想定もしていなかった言葉が聞こえてきたことで、我が身とクロウを犠牲にした努力は無に帰することになる。
「え、えと、フィールズさんは男性じゃなかったんですか?」
「ぼ……、僕は、女です」
「えっ?」
驚きで目を見開くエルティア。この反応に、シャノンは表情を取り繕いながらも心中で落ち込む。ここで暮らす以前ならば気にしなかったであろうが、今は少し気にかかるのだ。
その思いが表に滲み出てきた為か、エルティアが慌てた様子で弁明する。
「ご、ごめんなさい! その、男の人にしては、綺麗な人だから、女の人なのかとは思ってはいたんですが、確信が持てなくて。でも、シャノンさんって、スラリとしていて、格好いいですね。私もそんな風になりたいです」
「は、はは、そうですか」
褒められているはずなのに、褒められた気がしないのは何故だろう。
そんなことを考えるシャノンの内で、来年からはもっと食事量を増やして、身体の肉付きをよくしようという決意が芽生えた。
この後、悪相の整備教官が降りてくるまで、四人での世間話が繰り広げられることになるのだが、主として中性的な少女が身体的な劣等感を刺激される結果となり、彼女に先の決意をより固くさせることになったのであった。




