五 砂海に挑む者達
「明日から十九日まで、毎日休まず、エフタと周辺の郷や開拓地を往復するんですね?」
「ああ、そうだ。毎年、この時期は新年が近いこともあって、里帰りする奴や貨物輸送の依頼が多くてな。休みなしが当たり前になる」
クロウの声に応じたのは、薄い白髪と同色の髭を顎に蓄えた老人。
彫の深い顔に多くの皺を刻み込んだ男は、衰えを知らぬように煌々とした光を蒼い目に湛えた上、固太りした身体を日焼けして色濃さを増した茶褐色の肌で包んでおり、老境にあるとは思えない程に逞しさを感じさせた。
ただいるだけで存在感を醸し出す老人は顎髭を扱きながら、しゃがれた声で更に話を続ける。
「だが、俺の船も俺と一緒でかなりの年寄りだからな。ほぼ連日、休みなしに動かすとなると、推進器が故障するなんて事態も起こり得る」
壊れる姿が連想できないんですが、との思いは内々に収め、クロウは首肯して、合いの手を入れた。
「つまり、故障が起きた時に備えての護衛依頼ですか」
「主だった目的としてはそういうことだ。近頃、蟲の襲撃が多くて物騒だからな。船に何らかの問題が起きて、砂海に着船する破目になった場合に、修理する連中の護衛をしてもらう」
「確かに、この所、多いですからね」
その襲撃の一部では当事者として戦ったこともあって、クロウの言葉にも実感が篭る。逞しい老人も頷きながら、先の言葉に付け加えるように言った。
「後、他にやってもらうことは、開拓地で荷を積み下ろしする際の周辺警備と……、航行中、乗客が諍いを起こした時に仲介に入るか叩きのめすかして収めたり、賊党が襲撃してきた時に対処を手伝ってもらうといった位だろう」
「襲撃への対処?」
飛び道具を持たない魔導機で手伝える事が俄かに思い浮かばず、少年は首を捻る。そんな彼に、貨客船マーベリア号の船長を務める老人、ジョット・ダリオンは両頬を吊り上げると物騒に笑って答えた。
「なに、船の行き足がやられた後の、最後の抵抗の手伝いだ」
クロウにとっての本格的な仕事、ルベルザード土建の警護依頼が終わったのは昨日の事。
工事期間中、北風ことルディーラの尖兵が数日吹き荒れた以外は、甲殻蟲の接近が一度だけで済んだこともあって、なんとか工程表通りに道路の敷設作業は進み、無事に終了する事となった。
この結果を受けて、最初の依頼を務め上げたことを世話になっているマッコールに報告しようと、クロウが組合連合会エフタ支部に顔を出した所、報告もそこそこに、当のマッコールから新しい仕事の口が入っている事を告げられたのだ。
その内容は、エフタ市と周辺開拓地を往復する商船の護衛。
他に仕事の当てもなく、また十一日から商船を動かすという依頼側の都合もあって、十日の今日、エフタ支部二階にある会議室にて、マッコールの立会いの下で交渉の席が持たれ、今の状況に至った次第である。
ダリオンが提示した逃げ場のない状況想定に微かに眉を顰めつつ、クロウは机の向こう側よりじっと見つめてくる老人に対して、真っ先に思った事を返した。
「抵抗は当然のことでは?」
「当然のことか。それが真実なら構わん。だが、賊に、こっちの味方になれば、お前の命だけは助けてやると言われたら、その時は、どうする?」
ダリオンは問答を仕掛けるように言って、顔の皺を更に深めて笑みを強める。けれども、その目は笑っていない。
マッコールの少し心配げな視線と老人の厳しい目に晒されながら、クロウは賊の申し出を蹴り飛ばして抵抗を試みた場合と、裏切って賊の味方になった場合とをそれぞれに思い浮かべ、また、その行く末を想像する。
結果、十秒も経たぬ内に結論が出た。
「仮に賊の味方になったとしても、自分が望んでいる未来には絶対に行き着けそうにないです。それくらいなら、最後の抵抗を試みた方がまだ生き残れるかもしれませんし、たとえ死んだとしても、自分に価値があったと思えます」
年若い少年らしからぬ、どこか達観した物言いを聞き、ダリオンは目を丸くする。が、次の瞬間には、口を開けて笑った。
「ははっ、若いから青臭いことでも抜かすかと思ってたが、現実的な辺り、機兵は機兵か」
「いえ、実際、賊に堕ちたとしても、常に周囲に神経を使って生きていかないといけないし、面子を潰された組合は間違いなく討伐隊を派遣してくるしで、散々に追い回された後に捕まって、どこかの都市で石を投げつけられながら吊るされる未来しかないじゃないですか」
クロウが口にした内容に、ダリオンは満足げに頷いた。
「ああ、そこまでわかってるなら、裏切りや馬鹿をする心配はないな」
率直過ぎる言い口に思わず、少年は苦笑いを浮かべた。それを認めた老人は更に語を重ねた。
「お前さんは笑うが、世の中にはな、そういった損得の勘定もできずに、刹那に生きている奴が結構いるんだ。その日の糧を得られない奴や儘ならぬ生活に自暴自棄になった奴は、誘いを受ければ転ぶこともあるし、はじめから社会に慣れない奴や育ちが悪い奴は、元よりそういったことへの抵抗は薄いもんだ」
クロウは自分が孤児院に入れなければ、今語られたような立場になっていたかもしれないだけに、ばつが悪そうな表情になる。その表情の変化から少年が話を理解したと判じたダリオンは言葉を続ける。
「加えて、魔術士の連中が言葉が悪いと常々怒っているが、魔が差すって言葉もある。まともな連中でも、時に犯される出来心って奴だ」
ふん、と鼻息を一つ吹き出し、老人はクロウの目を真っ直ぐに見据えて語を紡ぐ。
「故に、人はまず社会的な肩書や周囲の評価って奴を見聞きして、相手が付き合いをするに値するかどうか、信用してもよいかどうかを決めるのさ。実際、俺がこの依頼を持ち込んだのも、お前さんが機兵という、血と躯で信用を積み重ねてきた特級の肩書を持つからだ」
クロウはダリオンの眼差しと言葉から、お前個人をまだ信用していないという含みと機兵の名に反しない働きを期待するという意を汲み取った。自然、彼は表情を引き締め、腹の底に力を込めると口を開いた。
「肩書の重みと有難味、肝に銘じておきます」
「ああ、そうすれば、自然とお前さん自身の評判にも繋がるだろうさ」
老人は視線を少し和らげると、事務的な話へと内容を戻した。
「さて、こちらで考えている賃金は一日一往復で千二百。先に言ったような非常時を除いては、船員の邪魔にならない程度にのんびりしてくれていい。だが、忌々しいルディーラの尖兵が大挙して押し寄せた時には、船を動かせない事もある。当然、出港できるようになるまで船内で待つことになるし、下手をすれば、数日にまたがることもあるだろう。こういった場合は、賃金に拘束料として一日六百を上乗せするつもりをしているが、どうだ?」
「ええ、それで構いません」
非常時を除いては、基本、そこに居て待つだけの仕事であるだけに、クロウに否定する言葉はなかった。
* * *
一夜明け、斜陽節第四旬十一日。
早朝の晴れ渡った空の下、パンタルに乗ったクロウは港湾地区にある埠頭の一つで、貨客船マーベリア号に荷物が積み込まれるのを眺めていた。
ダリオン船長の船、マーベリア号は物資輸送用に設計されたラーグ級と呼ばれる小型魔導船で、全長が二十五リュート、全幅が十六リュートと見た目からして、少々小太り気味な船である。加えて、バルド級のような他の魔導船と異なり、上甲板の位置が埠頭よりも低いこともあって、どこかのっぺりとした印象をも与えていた。
しかしながら、輸送用として設計されたこともあって、この船は船首にある船橋部分より船尾の積み下ろし用斜路に至るまで、全てが露天の積載部となっており、結構な量の貨物を乗せることができた。
今も埠頭の起重機が大量の建築資材や魔導機の焼成材装甲、臭い思い出と共に見覚えのある大甕を乗せた荷役台を積載部へと降ろしていれば、人足達が港湾倉庫から運び出してきた荷物、大きく膨らんだルーシ袋や束ねられた農具や工具等を斜路を下って次々に運び込んでいる。
こうして積み込まれた貨物は船が揺れた際に荷崩れが生じたりしないように、日焼けした数人の船員達がロープや固定具を使って固定していた。
順次進められていた荷積み作業も、光陽が東の空に完全な姿を現した頃に終わる。すると、一連の荷積み作業を監督していた赤ら顔の船員が埠頭に向かって叫んだ。
「お客人方! お待たせしました! そこの斜路から乗船してください!」
クロウのパンタル近くで屯していた数人の男女が、大きな鞄や中身の詰まった背嚢、木箱といった荷物を持って、斜路を降りていく。
「機兵の旦那もどうぞっ!」
身の丈に合わない過分な呼び方に居心地の悪さを覚えつつ、クロウもマーベリア号へと足を進めた。
船上に降りた後、クロウは船員の指示に従って、後部甲板にパンタルを駐機させる。それと時を同じくして、船尾の斜路が引き上げられ、両舷主翼に一基ずつ設けられた推進器の四枚羽根が回り始めた。
どこか唸り声にも似た回転音に気を取られつつ、クロウが機体から降りると、頭にバンダナを巻いた若い船員が走り寄ってきて声を掛けてきた。
「機兵の旦那、船長からの伝言です。航行中、こちらから用を申し出ない限り、自由にして良いとのことです。後、船橋の一階に便所と休憩室がありますから、使ってください」
「わかりました」
軽く頭を下げて謝意を示すと、バンダナの船員は白い歯を見せて笑い、船橋がある船首へと戻って行った。その後姿を見送った後、クロウは埠頭の反対側、左舷の船縁へと向かう。
貨物や人の転落を防止する為か、クロウの胸近くまである鋼鉄製の板壁が続いている。そこから外縁へと顔を覗かせると、船体中央部付近に一リュート程の主翼が突き出ており、翼下にある推進器が羽根を回転させていた。
推進器で生み出された風を浴びていると、不意に船全体が軋むような音が聞こえ、身体が僅かに軽くなったような感触を得る。同時に、砂と船底のソリとが擦過する音が響き始め、船が前に向かってゆっくりと動き出した。クロウの視線が高くなるにつれて、下方より聞こえる擦過音が徐々に小さくなっていき、遂には聞こえなくなる。
クロウは周辺へと目を向ける。丁度、魔導船舶用の出入り口、外と泊地とを繋ぐ市壁の狭間を抜けて、砂海へと出る所であった。
高さ十リュートに及ぶ市壁に焦点を合わせ、景色が流れるままに後方へと視線を移していくと、市壁上に屹立している灯台を兼ねた防御塔が見えた。そして、それもまた徐々に小さくなっていく。
なんとなく記憶に残る故郷の姿を思い出しながら、その防御塔やエフタ市の姿が見えなくなるまで、クロウは眺め続けた。
マーベリア号はゆるゆると船足を増して巡航速度に達すると、北西へと針路をとった。
共に乗船した乗客達は全員が休憩室に入っているようで、時折、船員が貨物の固定状態や推進器の様子を調べに来る以外、甲板に人影はない。
クロウも特に用事はないので休憩室に入っていても良いのだが、なんとなくパンタルの傍から離れる気にはなれず、エフタ市周辺域とそれ程変わらない光景に目を向けた。
眼下に広がる砂海には、僅かに壁を残す廃墟がある他は、旧文明建築物の名残である瓦礫や赤錆び色を帯びた砂塵に覆われているだけである。
クロウは時間潰しを兼ねて、外壁が残った廃墟の数を数える。その数が百を超した辺りで、一陣の風が砂塵と共に吹きつけた。煽られた船体が微かに傾ぎ、砂塵に目をやられまいと閉ざしたクロウも咄嗟に船縁を掴む。船体の揺れは二度三度と繰り返す内に穏やかになっていき、平素と変わらぬ状態へと戻った。
慣れない感覚に目を瞬かせていると、白い船帽を被ったダリオンがクロウの立つ後部甲板にまでやってきた。
「今の程度で焦るな」
「慣れないもので」
老船長は少年の少し強がりめいた言い訳に軽い笑みを浮かべ、その隣に立つ。それから、流れていく砂海の光景に目をやると、しわがれた声で訊ねた。
「船旅は初めてなのか?」
「物心ついて間もない頃にエフタに来て以来ですから、初めてと同じかもしれません」
クロウはエフタに来た理由は言わず、ただ最低限の事だけを伝える。ダリオンも無粋に突っ込むことはせず、ただ話を続けた。
「どうだ、何か変わったモノでも見えるか?」
「いえ、エフタ周辺とあまり変わりませんね」
「そうだろう。古い記録によると、ここら辺りも、エフタと同じ都市になるらしいからな」
同じ都市と言われても想像がつかず、クロウは首を傾げた。彼が知る都市は市壁に囲まれたものなのだ。そんな少年の様子に頷きながら、ダリオンは話し続ける。
「俺達には想像しにくいが、旧文明の都市には市壁はなかったそうだ」
「ああ、それなら、幾らでも都市を大きくできそうですね」
少年が納得した様に頷き、更に続けた。
「でも、市壁がないなんて、きっと良い世界だったんでしょうね」
「それは少々過大評価が過ぎる。市壁がないのは、忌々しい蟲共がいなくて、必要がなかっただけにすぎんだろうさ。実際、お前さんが言うような良い世界だったなら、こんな風に滅びたりはしない」
「……確かに」
土壁めいた名残しか残っていない廃墟や大量の瓦礫に囲まれた建築物跡がクロウの目に入る。
これらは全て、断罪の天焔と呼ばれる大災禍によって生み出された代物だ。興隆を誇った文明を崩壊させる大破壊を引き起こしたのが何なのかは、クロウも知らない。ただ、三度、世界を焼き尽くしたという伝えられた話だけを知っているだけだ。
一度、ミソラに旧世紀の話を聞いてみてもいいかもしれない。
そんなことをクロウが考えていると、ダリオンが再び口を開いた。
「だが、直にこういった光景も減ってくる。これから行くロセリア郷の周辺になると、探さないと瓦礫が見つからない場所だ」
「へぇ、そうなんですか」
「ああ。だが、まぁ、伝聞よりも目で見た方が早いだろう」
老船長はそう言って船帽を取り、節くれ立った太い枯れ枝のような手で白髪を撫で上げる。それから船帽をかぶり直すと、クロウに視線を向けて告げた。
「開拓地の暮らしがどのようなものなのか、己の目と耳で見聞すればいい。お前さんみたいな若い奴には、それもまた良い経験になるだろう」
少年が頷くのを見届けたダリオンは踵を返し、船橋へと戻って行った。
ダリオンがクロウに言ったように、ロセリア郷に向かう道すがら、砂海は少しずつ景観を変えていく。
積み重なっていた瓦礫は徐々にその数を減らしていき、代わって大小様々な形をした岩石や礫が赤焦げた大地に散らばるようになった。これに合わせるかのように、地形もエフタ周辺の平坦な物から、緩やかな丘陵や古い枯れ川の跡といった物も散見できるようになる。
もっとも、緑や水気の類は極めて少なく、極稀に灌木や多肉植物らしき物があるだけで、人の生存には適していない環境であることを知らしめていた。
クロウも初めて見る光景だけに、船縁からじっと眺めていたのだが、流石に大きな変化が見えないとなると飽きてくる。付け加えれば、光陽も高度を上げ、降り注ぐ熱量も上がっている。
自然、彼はパンタルが作り出す日陰に入り、持ってきた黒パンを齧ったり、パンタルの手入れをしたり、うたた寝をしたりといった具合にくつろぎ始めた。
とはいえ、心底からくつろいでいる訳ではなく、その内心では、こんな待遇でお金をもらっていいのだろうか、いや、いざという時は命を懸けるんだからこれ位はいいのでは、けど、なんか申し訳ない気持ちがどこからか湧いてくるのは事実であり、いやいや、非常時に備えて休むことも仕事、といった具合に、葛藤を続けている。
パンタルの足にもたれながら、堂々巡りの思考を休み休み十数回重ねた所で、唐突に、マーベリア号の船足が落ち始めた。
この事態に、推進器に故障でも起きたかと、クロウの心身が色めき立つ。
しかし、即座に目を向けた船橋に慌てた動きもなく、ただ天に延びた柱に青旗が揚げられていくだけで、何らかの脅威に対応する為の急な転進もない。結局は、推進器が生み出す音自体が若干小さくなった程度であった。ここに至って、クロウはただ減速しただけだと気付く。
何も起きないからと周囲に気を配るのを忘れていた事に、幾らなんでも油断し過ぎだと己の行いを断じながら、クロウは減速の原因を知るべく、立ち上がって船の周囲を見渡した。
船の行く先に、赤黒い大地に対抗するように広がる鮮やかな緑が、風に揺らぐ麦畑とルーシの林があった。
市壁内に農業区画を収めたエフタ市ではまず見ることができない、人の営みと厳しい環境とがせめぎ合う見事なまでに対比的な景観に、少年は口を開けて呆けた。
そんなクロウの反応等お構いなしに、船は麦畑の中に北西へと一筋だけ延びる空白帯へ向かっていく。その通路の先には、全高八リュート近い防御塔を五つ備えた、高さ三リュート程の防護壁が巡らされていた。
エフタを発って、大凡八時間。
マーベリア号は今日の目的地であるロセリア郷に到着したのだ。
* * *
クロウが郷の景観に見入っていると、船首よりバンダナの船員が駆けてきた。
「機兵の旦那! 直に着船しますんで、周辺警戒の準備をお願いします!」
「了解です」
クロウは言葉少なに応じ、パンタルに搭乗し始める。
一方、先の船員は船尾最後部に立つと、赤と白、色の異なる二本の手旗を腰から取り出し、それぞれを上下左右に動かして、何かの合図を船橋に送りだした。
それに応じるかのように、マーベリア号は主翼下の推進器がゆっくりと回転し、船の向きを変え始める。一分程で船の前後を逆転させた後は、再び空白帯の上をゆるゆると進み続けた。
準備を終えたクロウがパンタルの駐機状態を解除した頃に、俄かに、身体が重くなったような感覚が生まれる。すの数秒後、足元より砂と船底のソリが擦れ合う音が聞こえ始めた。生じた摩擦で船の速度は更に遅くなっていく。
じりじりと船が防護壁に近づくにつれて、クロウの目により詳細な様相が見え始めた。
防護壁の手前十リュート程の場所に低い岸壁と小さな埠頭があり、真新しい起重機が据えられている。また、埠頭の一方にはバルド級一隻が接舷して着船していた。マーベリア号がその船の反対側へと向かっている事は、クロウの素人目にでもわかった。
この小さな港湾より、防護壁に設置された幅三リュート程の門に向かって真っ直ぐ舗装路が敷かれている。今現在、門は閉ざされており、岸壁近くで、一つの人影に従うように三機のパンタルが大盾と手斧を携えて来訪者を警戒していた。
どこか物々しい様子にクロウは首を傾げるも、自分がこの郷に住んでいる立場になって考えてみると、相手が何者であれ、警戒するのは当たり前かと思い直した。
と、その時、バンダナの船員が手旗を振る腕を慌ただしく動かし始めた。
ただならぬ様子に何事かと思って見ていると、両舷の推進音を再び大きくなる。見れば、人影や三機のパンタルも少しばかり動揺した様子で、マーベリア号を腕で指し示しながら左右に散った。
これらの状況からクロウが導き出した結論は、着船するには船足が早いということであった。
これは不味いのではと、少年が引き攣った顔を浮かべた所で、鈍い音と共に緩い衝撃が船全体を襲った。クロウは更なる衝撃に備え、転倒しないように両足を踏ん張り、近くの船縁を掴む。
十数秒程のじっと待つと、船はいったん止まった後、少しだけ後進してから推進音が小さくなっていく。
とりあえず、危機を脱したと判断したクロウは大きく安堵の息をついた。
それからしばらくして、バンダナの若い船員が蒼白な顔で斜路を降ろし切ると、ダリオン船長と赤ら顔の船員が連れ立ってやってきた。眉間に皺を刻み込んだ赤ら顔の船員がクロウは向かって告げた。
「機兵の旦那、荷の積み下ろしの前に船長が向こうの警備隊長と少し話をしますんで、一応、同行してください」
「了解です」
「ホルツッ! お前への説教は後だ! 今は仕事に集中しろ!」
「は、はいっ! わかりました!」
赤ら顔の船員から怒号に近い声を受け、見るからに落ち込んだ様子でホルツと呼ばれた若者が固定ロープを外す船員達の下へ去っていく。すると、黙ってやり取りを見ていたダリオンが平静を保ったまま口を開いた。
「ホルツには、良い経験になったな」
「ですね。今日程度の失敗なら、丁度いい薬になるでしょう」
「ああ。だが、ベック。ここで中途半端な指導をしてしまえば、後々に致命的な事態を引き起こすこともある。俺はいつも通りに口を出さん。お前のやり方で、精々、絞ってやれ。明日、もう一度、ホルツに誘導を任せるつもりでな」
「ええ、わかりました」
ダリオンは筆頭航法士の返事に頷いた後、斜路に向かって歩き出す。その後をクロウのパンタルが黙って付いていく。大地に降り立つと、ダリオンが独り言のように呟いた。
「人間、失敗をしないで上達する者など、そうはおらんさ」
応える事ではないと直感で感じたクロウは黙したまま従った。
ダリオン船長と警備隊長との話は互いに顔見知りという事もあってか、もう少し落ち着いた接舷で頼むといった苦情だけで終わり、荷降ろし作業が始まった。
警備隊長の合図で門が開き、六機のラストルやコドルが曳く荷車が姿を現す。内、ラストルがダリオンとクロウの前を通って船に乗り込んでいけば、作業員らしき者を乗せた荷車は埠頭へと駆けていく。
その様子を見届けると、ダリオンが傍らのクロウに告げる。
「積み下ろしは二時間程になる予定だ。警備隊にもお前さんのことは言っておいた。ここの警備隊がいるから、問題は起きないとは思うが、もしもの時は、斜路周辺の警備を頼むぞ」
「はい」
クロウの返事を聞くと、ダリオンは一つ頷く。それから、船帽を取って、下船する乗客達と一言二言言葉を交わしたり、会釈をしたりしながら、船上へと戻って行った。
残ったクロウは手に持った大鉄槌、その槌頭を大地に預けながら、改めて周辺に目を配る。
門及び港湾部があるのは居住地の南東部。
居住地を守る防護壁は一リュート程と意外と厚く、頑丈そうに見える。開け放たれた門扉もエフタ市の物には及ばないものの、それなりに分厚い。
そんな門奥には広場があるようだが、魔導船が到着したこともあってか、住民達が集まってきているようで、何やらざわついた喧騒が聞こえてくる。郷とはいえ開拓地だけに、それ程人口は多くないと思っていたクロウにとっては、新鮮な発見であった。
自然と好奇心が湧き起こり、居住地内部の様子が気になったのだが、余所者である自分が不審な動きをするのも如何なものかと考え、誘惑を断ち切って、麦畑がある防護壁外周へと目を転じる。
鮮やかな緑の原は、東西に五百リュート、南北に三百リュートはある防護壁より、外側に向かって三百リュート程広がっており、その外端には境界線を構成するように、半リュート位の石垣と三本の鉄骨を組んで作った障害物、それらを繋ぐ有刺鉄線が見えた。
他方、北側にはルーシの林が広がっており、根元付近にはまた別の植物が植えられている。目を細めてじっと見てみると、木々の向こう側には高さ一リュート程の土塀が建てられていた。
あれは外周の防護か、それとも防砂用のものだろうかといった具合に、クロウが黙然と考え込んでいると、警備隊の隊長が近づいてくる。
体格の良い警備隊長は中年も後半、初老に男とも呼べそうな外観で、髪も頭頂部付近まで禿げあがっている。隊長は色艶の良い頭皮を撫でながら、落ち着いた声音でクロウに話し掛けてきた。
「君がマーベリア号の護衛を引き受けた機兵かな?」
「あ、はい、そうです」
「あの船は最低でも一節に一回、開拓地を回ってくれる貴重な船だからね。よろしく守ってやってくれ」
「ええ、もちろんです。ところで、先程、話をしている様子を見て思ったんですが、隊長さんは、ダリオン船長と付き合いが長いんですか?」
「そうだな、郷に格上げした辺りからの付き合いだから、もう二十年は越えている」
「二十年」
警備隊長が口にした年月はクロウの胸に重く響く。己が目指す故郷の復興、その道程が如何に長い物であるか、を改めて認識した為だ。
一方、パンタルの装甲に遮られている事もあって、中年男は思いに沈む少年の様子に気付かず、己の内にある物を再確認するかのように話を続ける。
「本当に長い付き合いになった。特に、十四年前の漲溢では女や子どもを逃すのに世話になったものだよ」
「漲溢、ですか。当時は小さかったものですから、その時の記憶はあまりないです」
「そうかい。……あれは、二度と経験したくはない災禍だ。ラティアが一塊どころか、辺り一面を隙間なく埋め尽くして、防護壁に向かって来るんだからね」
中年男は遠い目で麦畑を見回す。
「うちでもルーシが一本残らず薙ぎ倒されるわ、防護壁の一部を破壊されて居住地に侵入されるわ、麦が根っこから掘り返されて全滅するわで、エフタ市軍と旅団が救援に来るまで、かなり酷い目にあった。始めは、何故もっと早く来てくれないんだって恨んだものだが、後で北部域の開拓地が全滅した事を聞いたら、命があるだけマシな方だと思わざるを得なかった」
そう言った警備隊長の顔に浮かぶのは、脅威に立ち向かおうにも力が足りないことへの口惜しさと、被害にあったとしても我慢しなければならない現実への遣り切れなさとが混ざり合った表情であった。
「忌々しい蟲共がのさばるのは腹立たしいが、今は連中に勝てるだけの力を蓄えるしかない。その点から考えると、マーベリア号自体はそう大きくはなくても、エフタと開拓地を定期的に行き来して、人と物を繋いでいるのは想像以上に重要なことだよ」
「なるほど」
「まぁ、でも、時々、さっきみたいに接舷に失敗するのが難点だがね」
「あはは」
最後に付け加えれた冗談めかした物言いに、クロウは笑うしかなかった。
* * *
クロウがロセリア郷でマーベリア号の積み下ろし作業を警備している頃。
エフタ市では、三隻のバルド級小型魔導船が船橋上の柱に敵対する意思がないことを示す青旗を掲げ、泊地へと入港しようとしていた。
三隻とも、その外観は市軍が使っている軽武装のバルド級と異なり、船首甲板に連装式の砲塔一基と船橋の両舷に連装機銃を一基ずつ、更には船尾甲板に船橋と繋がる形で魔導機用格納庫を備えた重武装船である。
エフタ市にとって見れば、敵対する意図が無くとも十分脅威に値する戦力である。にも拘らず、市軍がまったく動きを見せないのは、その三隻が味方であることを十分に理解している為だ。
旅団第三遊撃船隊。
それが三隻の船に付けられた部隊名であった。
単縦列を構成する三隻の内、先頭を行くバルド級の船橋は接舷に備えて、船長や操舵する航法士達の動きが少々慌ただしい。
その様子を後方から見つめていた二十歳半ば程の男、均整の取れた身体つきに艶めいた褐色の肌、黒曜の如き光沢を帯びた瞳を持つ青年が、長く伸びた青い髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、傍らに立つ参謀役の中年男に低い声で話し掛けた。
「ようやく帰って来れたな」
「ええ、今回の遠征、二節を越えておりますから、少々長すぎたと言えますな。隊員達もシャバで垢を落としたくて、うずうずしとるでしょう」
「そうだろうな。俺もいい加減、この鬱陶しい髪を切りたいもんだ」
青年が目にかかるまで延びた前髪を掴んで言うと、小太り気味の参謀は冗談めかした口調で応じる。
「そのままのした方が人気が出るのではないですか? 主に、うちの隊の、むさ苦しい連中に」
「勘弁しろよ、バクター。俺が愛でるのは女だけで、男色は趣味じゃない」
「ははは、わかっておりますよ」
若者はバクターに愛想笑いを見せてから、眉間に皺を寄せて嘆くように言った。
「しかし、当初の想定では、二節以内に帰還するできるはずだったんだが、俺もまだまだ読みが甘い。何事も思い通りにいかないことを、今回は思い知らされたよ」
「まさか、巣を潰す作戦が想定以上に上手くいきすぎて、散らばっていた連中が戻って来る前に女王が潰れてしまうとは、予想された中でもまず起きないだろうと考えていましたからな」
バクターもまた難しい顔でそう言った後、若い上司の気分を盛り立てようとするかのように、少し語気を強めて続けた。
「なんにしても、我が隊に被害もなく、ラティアの巣を一つ潰したのですから、成果は成果です」
「はは、成果であっても、本末転倒な事態を誘発させては誇れんさ。予定期間も超過してしまったしな」
青髪の若者はバクターが述べた賛辞を謝絶するように遮り、久方ぶりに見るエフタ市の港湾地区へと目を向けた。
時を遡る事、盛陽節第二旬。
第三遊撃船隊は組合連合会本部で直属の上司に当たる安全保障担当幹部と協議を行い、漲溢に備えた予防的措置として、ラティアの巣を潰す計画を企図。翌第三旬に、母港であるエフタ市を出港した。そして、今より一節前の爛陽節第四旬頃に、大砂海北東域でラティアの巣を発見、これを潰すことに成功する。
しかしながら、今し方の話にあったように、巣を破壊する策が上手くいきすぎて、最期の最後まで生かすつもりであった女王までも潰してしまい、巣の危機に帰巣してくるラティアを順次潰していく作戦が破綻してしまった。
結果、足掻きの一群と呼ばれる生き残りの暴走現象を引き起こしてしまい、周辺の開拓地にラティアの群れが押し寄せてしまうこととなる。
この事態を受けて、第三遊撃船隊は巣周辺域にあった開拓地の援護と救援に追われる事となり、当初、二節以内と予定していた遠征期間を二旬近く延長してしまい、今になっての帰還となったのだ。
責任者として己が慢心と失敗を内々で省みていると、どこか心配そうな顔をした年長の参謀に気付き、青年は黒い上着を羽織った肩を軽く竦めて見せた。
「まぁ、だからといって、解任されることはなかろう。先の通信でもそういった気配は感じられなかったし、今回の作戦で貴重な資材や弾薬を大量に使ったことと絡めて、偉いさん達からちくちくと厭味を言われる程度だろうさ」
第三遊撃船隊の隊長を務める青髪の美丈夫、ラルフ・シュタールはそう言った後、おどける様に笑いかけた。
ラルフが隊員達に解散の訓示と再招集の日時を告げると、第三遊撃船隊は半節の休暇に入った。
長期任務から解放された男達が私物を担いでぞろぞろと埠頭へと降りていき、船隊が帰還したことを知って出迎えに来た家族や友人といった親しい者達と再会を喜び合ったり、気の合う仲間同士で繁華街に繰り出そうと話し合ったり、今日こそあの娘に求婚するんだと叫んでは周りから囃し立てられたり、無事に帰って来れた事を信仰する神に感謝したりと、岸壁は賑やかさを増す。
そんな喧噪の中を出迎えの送迎車が近づいて来るのを確認すると、ラルフは見送りに来た旗船の船長に告げた。
「船長、悪いが先に降りさせてもらうぞ」
「了解です。とは言っても、後は船渠に入れて整備方に引き継ぐだけですから、偉いさんに報告するよりは楽な仕事ですよ」
「はは、言ってくれる。なら、後は任せる」
ラルフは船長の軽口に笑って応じた後、右手を額に当てた挙手の敬礼を交わし合い、船体脇にある階段を降り始めた。自然、埠頭に屯する男達から注目を浴び、口々に声が飛ぶ。
「大将! お勤め、ご苦労さんです!」
「愚痴聞き、頑張ってくだせぇ!」
「また今回も迷惑かけますんで、よろしくお願いしやぁす!」
ラルフは親しみが篭り過ぎた声を浴びると、苦笑を浮かべながら埠頭に降り立ち、口の悪い傭兵達に向かって整った顔に見合わない荒い口調で言い放った。
「わかったわかった! なんにせよ、てめぇらみたいな悪たれ共の尻拭いをするのが俺の仕事だからなっ、休みの間、精々気張って、女から金と精を搾り取られてきやがれっ!」
隊員達はどっと沸き、それぞれに崩れた敬礼をしてきた。ラルフも口元に不敵な笑みを浮かべて軽く答礼して見せた後、送迎車に乗り込む。その後に続いて乗り込んだバクターが囁く。
「口の悪さだけは、中々直りませんな」
「本気を出せば、俺以上に口が悪い奴が言う言葉ではないと思うが?」
「それはそれ、これはこれ、という便利な言葉をご存じで?」
「ああ、知っているからこそ、場の状況に応じただけさ」
ラルフがしれっと嘘を吐き出した所で、送迎車が動き出した。コドルの吐き出す鼻息を聞きながら、ラルフはエフタの様子に目を向ける。
港湾の様子は常と変わりなく、目に入った商会通りや垣間見えた繁華街にも大きな変化は見えない。大砂海という厳しい環境から帰還したこともあってか、何気ない人の営みに心癒されるのを感じていると、ラルフと同じくエフタ市内に目を配っていたバクターが思い出したように口を開いた。
「そういえば、帝国と同盟が衝突した件に伴って、東方の動きがきな臭くなっているとのことですが、聞き及んでおりますか?」
「ああ、それに加えて、アーウェルより先に賊が湧いていると聞いた。組合所属の商船も被害を受けているともな」
アーウェルはゼルセトラス大砂海東方域の中心都市で、更に東方に位置する領邦国家群との接続口になっている要衝でもある。
そのアーウェルと東方域、域外周辺域の地図を思い浮かべながら、青髪の青年は柔らかな背もたれに身を預けて、語を紡いだ。
「先の武力衝突に反発して、多くの機兵が抜けた結果、帝国が動かせる戦力はかなり落ちたからな。宗主の影響力が落ちた事を幸いとばかりに、自分の利益しか考えない馬鹿共が動いているのだろうさ」
跋扈する賊の裏にいるモノを見据え、ラルフの顔に侮蔑の表情を浮かべる。それを横目で見ながら、バクターがある問題点を指摘した。
「しかし、アーウェルより先となりますと、既に域外です。件の連中を叩き潰そうにも、域外への干渉となれば、上は認めますかな?」
「組合所属の商船が被害を受けている以上、大義名分があれば動く方向に持って行くさ。妹も俺と同じで、損害を被って黙っている性分ではないからな。既に帝国に手を回して、話を通しているかもしれん」
「はは、お嬢であれば、ありえますな」
「なら、後の予想もつくだろう」
「ええ、ルヴィラとザルバーンにある護衛船隊は通常の任で動かせませんし、遊撃にしても、エル・ダルークの第一、第四は不動が基本。アーウェルの第二も活発化した賊が砂海域に侵入するのを防ぐ為にも、周辺域への睨みとなる必要があります」
「そう、だから、十中八九、動くのはうちってことだ」
ラルフがどこか楽しげな表情を浮かべた所で、送迎車は組合連合会の本部に辿り着いた。
ラルフは本部二階にある安全保障部で幹部でもある部長に真面目な顔で任務報告を行い、任務の経過とその後の対応について幾つかの質疑を受けた。彼にとっては幸いなことに、厭味や叱責の言葉は無く、今少し弾薬の消費量を抑えろという切実な響きが篭った苦言が呈されただけであった。
そして、報告が終わった後は、残りの諸手続きをバクターに委ね、もう一人の安全保障担当がいる上階へと足を向けた。
途上、度々、顔見知りから声を掛けられては、その都度、足を止めて話をしたこともあって、ラルフの行き足は非常に遅い。特に女性職員から声を掛けられた時は、足の裏に接着剤がついているのではないかと疑ってしまいそうな位である。
こうして、三分も経たぬうちに着く所を、のろのろと進んで三十分強。
ラルフはようやく目的地であるセレス・シュタールの執務室前に辿り着いた。
見知った顔と話をして気分が解れた事もあってか、彼の顔に安全保障部で見せていたような張り詰めた色はない。逆にどこか余裕すら感じさせる様子で扉を叩こうとする。が、その寸前に、まるで見計らったかのように扉が開き、彼の手は空を切った。
「お帰りなさいませ、ラルフ様」
「……ああ、ただいま」
間抜けな姿を晒した自覚がある所為か、付き合いの長い黒髪の秘書に答えるラルフの声は少々歯切りが悪い。そんな青年の様子などお構いなしに、表情を微塵も崩さない秘書はラルフを室内に招き入れ、自身は退出して行った。
残されたラルフは空を切った右手を見つめて、独り呟く。
「あいつ、透視でもできるのか?」
「シュタール船隊長。挨拶もなく、いきなり何を馬鹿な事を言っているのですか?」
「おっと、すまん。旅の疲れが少しばかり出たようだ」
ラルフは言い訳めいた謝罪の言葉を口にしながら、青髪の麗人が座る執務机へと近づいていく。彼の妹は兄の贔屓目を抜きにしても見目麗しく見えた。自然、彼の口から賛辞が漏れ出る。
「セレス、今日も相変わらず、美人だな」
「心のないおべんちゃらは結構ですから、まず任務の報告をお願いします」
「はいはい」
賛辞を受けても顔色を僅かなりとも変えないで仕事を優先する妹の姿に、愛想笑いの一つでも浮かべて、如才ない受け答えをしてほしいものだ、等と嘆息しつつ、ラルフはほんの少しだけ言葉を改めて、簡潔な報告を始めた。
「報告。第三遊撃船隊は当初目標であった、ラティアの巣を駆除する事による間引き任務を達成。しかしながら、作戦過程で齟齬が生じ、足掻きの一群を誘発。これに伴って、周辺域開拓地への援護と救援を実施した所、当初計画期間内での任務終了が不可能に陥り、二旬後の今日、帰還するに至った次第」
「そうですか、前もって聞いていた通りですね。では、作戦を狂わせた齟齬への対処方法に関しては?」
「その時の経過状況と対処案を書類に纏めて、安全保障部に提出済み」
「わかりました。その案件に関しては、後で読ませていただきます」
セレスは余所行きの声で答えると、応接用の長椅子を指し示し、ラルフに座るように促した。ラルフは肩を竦めて頷くと、長椅子にどっかと座り、この部屋が我が家と言わんばかりにくつろぎ始めた。この様子を見て、ようやくセレスも表情を緩め、柔らかな声で話し出す。
「遠征、おつかれさまでした。無事の帰還、何よりのことです」
「その言葉、一番最初に聞きたかったもんだ」
「始めに言うと、公私の別が崩れてしまいますから」
「はは、他に誰もいないってのに、真面目なこった」
生真面目な妹の言葉に、ラルフは笑みを浮かべて応じると、言葉を続けた。
「ま、お前らしいといえばお前らしいか。で、どうだ、俺がいない間に、彼氏の一人でもできたか?」
「……ルティアス小父様もそうですが、兄上も、何故、私の男性関係を気にするのですか? 以前にも言いましたが、そういった事に興味を持てないと言っているではないですか」
セレスが呆れた調子で言うと、ラルフもまた天井を仰いで嘆息してから答えた。
「そりゃお前、誰かが言わんと、いつまで経っても、男に興味を持たんだろうからだろうが。ついでに言えば、お前、友人って言える奴、一人でもいるか?」
これまではこの質問でセレスが沈黙してしまい、ラルフが更に言い募るところなのだが、今日は違った。
「最近、忌憚なく話をできる方ができました」
「……なに?」
驚きを顕わにする兄の様子に、実に心外といった顔でセレスは言う。
「私の言、お疑いになりますか?」
「い、いやいや、お前は不必要な嘘は言わないからな、うん、それは実にめでたいことだな。うんうん、めでたい」
兄の実に信頼の篭った言葉に、セレスは頷いて応じた。
「はい。今回の休暇期間中、機会がありましたら、兄上にも紹介します」
「そ、そうか、楽しみにしておく」
思いもよらなかった事態に、ラルフはまだ動揺が収まらなかったが、セレスが表情を引き締めたのを見て、即座に心構えを正した。
「ところで、兄上は東方域で起きている問題はご存知でしょうか?」
「域外でうちの商船が賊に襲われている件か?」
「はい、それもありますが、今から話すのは、アーウェルで再び麻薬が広がりつつある件です」
聞き捨てならない言葉に、ラルフは眉間に皺を寄せつつ訊ねた。
「何時からだ?」
「兄上が遠征に発ってから、第一報が入りました」
「……酷いのか?」
「今の所、難民の間で収まっています。ですが、派遣した手の者からの報告で、第二遊撃船隊に麻薬を浸透させようとする動きが見え隠れしていると、上がって来ているのです」
「不穏だな。アーウェル市軍の方は?」
「既に、売人が入り込んだ気配があると」
「不味いな動きだ。市軍が汚染されると、市民にも広がる恐れが出てくる」
「はい。ですから、手の者には対処を指示したのですが、やはり、こういった事は元を絶たねばならない事には収拾がつきません。ついでに言えば、少々、引っ掛かりまして」
ラルフは首肯して同意を示し、得た情報から己の考えを纏めるように呟いた。
「まぁ、時期を考えると、賊の件と無関係とも、関連しているとも取れるな」
「ええ、単なる偶然かもしれませんし、何者かの思惑あっての必然かもしれません」
「無関係ならば、それでいいとして、関連していた場合、目的は何だと考えている?」
「アーウェルの制圧……、我々の目を賊に向けさせている間に、市上層部を傀儡化し、東方交易の利権を得る、辺りでしょうか」
セレスの言に、ラルフはあってもおかしくはないとこぼし、怜悧な声で質す。
「域外……、領邦域に手を出す件、帝国との話はついたのか?」
「今、渉外担当が頑張ってくれています。聞く所では、来年の旭陽節中には、黙認を引き出せそうな感触を得ているそうです」
「そうか。実働は?」
「今の所、第三遊撃と考えています」
「わかった。賊を捕えた時に、麻薬関連で何か情報がないかを締め上げてみる」
「お願いします」
ラルフは妹に頷いて見せると、心底からの溜め息を漏らした。
「まったく、砂海を相手するだけでも大変だってのに、蟲に、人にで、面倒な事だ」
「ですが、その面倒を放置することで、この砂海に住まう者達の足を引っ張られる訳にはいきません」
「まぁな、っと」
ラルフは勢いをつけて立ち上がると、セレスに告げた。
「とりあえず、面倒事を相手しても耐えられるように、繁華街で息抜きしてくる。久し振りの休暇なんだ、行くなってのは、受け付けないからな」
「ならば一言だけ。羽目を外し過ぎないようにお願いします。兄上が馬鹿をした結果、ルティアス小父様に文句を言われるのは、私ですから」
「了解了解。今日はお泊りの予定だから、家の鍵は締めておけよ」
辞去の挨拶代わりに後ろ手に手を振りながら、ラルフは執務室を後にする。
見送るセレスは昔から変わらない兄の後姿に小さく微笑んだ後、己の仕事へと戻って行った。
12/10/20 一部表現を修正。
13/11/15 語句修正。
13/12/15 一部訂正。




