四 吹き荒ぶ空風
乾き切った大地を、北からの寒風が一陣吹き抜けた。
舞い上がった赤黒い砂塵は様々な障害物に当たっては小さな衝突音を多重に奏で出し、降り注ぐ光陽の日差しを弱める。しかしながら、既に熱せられていた天地はその暑さを和らげることはない。
赤髪の少年クロウ・エンフリードは自らが搭乗する魔導機パンタルの中より、風に乗った砂塵が装甲に弾き返される音を聞きながら、周囲の砂海に目を向けている。
武装である大鉄槌の槌頭を大地に委ね、楽な姿勢を取っているが、動かずにただ立っているだけというも中々に辛い。しかも、視界の中に映るのが、強風で巻き上がった砂塵の他は、グランサーの姿すらない赤銅の砂海にどこまでも続く青空だけとなると、精神的に飽いてしまうし、欠伸も出かかるのも無理がない所である。
出かかった欠伸を噛み殺した少年が今いるのはエフタ市の近郊。市郊外に設置された下水処理施設とエフタ市との中間点は、ルベルザード土建が行っている道路敷設の現場近くだ。
クロウは空調から流れ出す生温い風に辟易としつつ、機体を微かに動かして、作業を行っている道筋へと視線を移す。
下水処理施設に近い場所で、車両前面部に巨大なローラーを設えた地均し車が道の基盤を均すべくゆっくりと動き、その後方では砂塵除けのゴーグルやマスクを身に着けた作業員達が数台の小型地均し機を使い、打音を響かせて大地を固めていた。
地均し班の更に後ろ、エフタ市寄りの場所では、荷台に練り混ぜ機を乗せた三輪運搬車が二両、距離を置いて舗装材を道路枠へと流し込んでいる。これら三輪運搬車の近くには作業用魔導機ラストルが一機ずつ付き添っており、時折動いては荷台の練り混ぜ機に接合剤や砕石、水といった材料を補給している。そして、二両に挟まれた場所では、先の者と同じくゴーグルにマスク姿の作業員達が格子状の補強材を道路に設置していた。
道路敷設作業を開始してより既に四日。
甲殻蟲による襲撃もなければ、時に吹く強風によって砂塵が吹き荒れる以外は作業工程に大きな問題も起きず、工事は比較的順調に進んでいた。
けれども、それがこの先に襲撃が起きなかったり、工事で問題が発生しないという保証とはならない為、クロウは簡易に作られた監視所で、ルベルザード土建の危機警戒対応班と共にじっと待機する日々である。
「おい、異常はないか?」
「櫓が風で大きく揺れる上に、砂塵で周りが見えねぇのが異常じゃなけりゃ、ありませんよ」
「嫌味を言うなって」
クロウはくぐもった声が聞こえてきた方向、機体のすぐ近くへと注意を向ける。
そこには荷台に高さ三リュート程の折り畳み式物見櫓を乗せた、前輪がタイヤ、後輪の代わりに履帯を帯びた赤黒い半装軌車が停まっていた。先の会話は、櫓上で周辺を警戒する防塵装備の監視者と運転席より顔を出した運転士とのものであったようで、二人は更に話を続けていた。
「それにしても、ルディーラの尖兵さん、いつもよりちょっと早いみたいだな」
「まだ今年の陽も沈んでねぇのに、元気なこってすね」
「これだけ早く吹くとなると、来年のゼル・ルディーラは酷いことになるかもしれん」
「うへぇ、また洗濯物が干せないって、母ちゃんの不機嫌な日が続きますよ」
「そりゃあ、うちの嫁さんもさ」
会話を聞いていたクロウはどこの家も悩みは変わらない事実に、思わず口元に笑みを刻む。
一年の始まりの節、旭陽節に起きる大砂嵐ゼル・ルディーラはゼル・セトラス大砂海域の風物詩、といえば聞こえは良いが、実際の所はゼル・セトラス域の住人に共通する悩みの種である。
というのも、砂嵐が吹き荒れる事で先のクロウの話にあったように日常生活に支障が出る上、大砂海を行き交う魔導船の動きを鈍くすれば、屋外活動の効率を悪くし、農作物や家畜、建築物にも被害を与えるし、巻き上がった砂塵で視界が低下する為に、都市に接近する甲殻蟲や賊党を発見するのが遅れて、市内への侵入を許すといった事態も起こり得る為だ。
再び強い風が吹き抜け、舞い上がった砂塵が辺りを覆う。
赤黒い薄幕によって見えにくくなった視界と断続的に続く砂礫の衝突音に、クロウは口元の笑みを消し、表情を微かに曇らせた。視界の悪さが危険に繋がっているのが、嫌でもわかるのだ。
この仕事が終わるまで、風が吹かないで何事も起きないで欲しいな、等と少年が考えていた所に、工事現場より人影が一つ近づいてきた。防塵用の赤い外套を纏った人影は足場の悪い砂礫上であっても、特に足取りを乱す事はない。
「おっと、兄貴が来たみてぇだ」
「ああ、もうそんな時間か」
人影はルベルザード土建で安全保障を担当するゴンザという男であった。ゴンザはまず半装軌車に向かい、部下達に対して、マスク越しに重々しい声で問いかける。
「どうだ、変わりはないか?」
「忌々しい砂塵以外は、特に変化はねぇですよ」
「車の状態も特に異常はありません」
「わかった。後二時間程で、今日の作業は終わる。それまで気を抜くなよ」
「わかりやした」
「もちろんですよ」
ゴンザは部下二人の答えに頷き返すと、クロウの機体に近づいてくる。
「エンフリード殿、何か不都合はありませんか?」
「特にありません」
クロウはこの年長者から殿呼ばわりされる度に感じる、座りの悪さを感じながら答えた。これは作業初日、ゴンザより、雇った機兵の方に対しては殿付けするのがうちの決まりですから、と押し切られた結果なのだが、クロウ自身が己が若輩に過ぎない事を知っているだけに、やはりむず痒さを覚えてしまうのだ。
クロウの思いを余所に、ゴンザは淡々とした調子で更に業務連絡を続ける。
「今日の作業は後二時間程で終わる予定です。作業終了後、作業員の撤収が終わり次第、業務終了の連絡をこちらに送りますので、以降はいつものように勘定方へ直接行って頂いて構いません」
「わかりました」
「それと明日は休日となりますので、明後日、今日までと同じ時間に南大市門の門前広場に来てください」
「ええ、了解です」
「では、後しばらくの間、よろしくお願いします」
ゴンザは慇懃に頭を下げると、元いた場所である工事現場へと戻っていった。
* * *
四日目の作業もこれまでの三日間と同じく特に問題なく終り、作業員や工機の撤収が終わると、市外で旧世紀の遺物を収集していたグランサーや郊外施設の従業員達に交じり、クロウは危機警戒対応班の半装軌車と共に南大市門前の広場まで引き上げてきた。
流石に四日目となると、ルベルザード土建の作業員ともちょっとした会話が生まれてくる物で、臙脂に染まる夕焼けの中、言葉を交わす。
「ほぉ、なるほど、機兵になる前はグランサーをしてたんで」
「ええ、命を賭けることになりますけど、魔導機免許を取る為の金を稼ぐのには手っ取り早かったもので」
「かー、肝の据わり方がちげぇな。俺なんざぁ、警戒班に配属ってだけでブルったのによ」
「ああ、そういえば、お前さん、初めて警戒班に来た日は真っ青だったな。傑作だったぞ」
「へっ、肝が小さくて悪うござんしたね」
運転士の中年男と荷台に乗った監視員の青年が言葉の応酬を繰り返す。その様子を同じ荷台から呆れた顔で見ていたもう一人の作業員、連絡に来たクロウとそう歳が変わらない頃の少年は、クロウのパンタルに目を向けて口を開いた。
「でも、確かに、俺とそう年齢も変わらないのに、機兵なんだから凄いよなぁ」
「いや、俺が機兵になれたのは、多分に運が良かった面もあると思ってますんで」
「運、かぁ。どうやったら俺の所に来てくれるのかなぁ」
クロウは我が身を振り返り、しみじみとした声で応じる。
「なんというか、地下遺構に単独で潜ったり、旧世紀の罠に引っ掛かったり、甲殻蟲の近くで身を隠したりとかして、命の危険に晒された分だけ、帰って来たような気がしないでもないです」
「……あー、いや、俺、やっぱり普通が良いです」
やっぱりそうだよなぁ、と赤髪の少年は機内で一人首肯して返した。
そうこうするうちに門前広場に着くと、クロウはルベルザード土建組と別れ、人溜りができている場所へと向かう。人溜りはその多くが道路敷設工事に係わって、資材を倉庫より現場まで運んだ人足や荷車の主、更には現場で単純な作業に従事していた日雇い達で、ルベルザード土建の勘定方より今日の分の日当を受け取っていた。
クロウもまた、彼らの近くで魔導機を止め、操縦機構より起動キーを抜いて完全に停止させてから降り立つ。初日は衆目を集めた物だが、数日も経つとクロウの存在に慣れたようで、今では軽く挨拶してくる者もいる。そんな声に応じつつ、クロウが勘定方へと向かうと、見知った存在、というよりも雇用主の姿を認めた。
ルベルザード土建の社長ナタリア・ルベルザードは、既に少年機兵がやってきたことに気が付いていたようで、勝気な顔に微笑みを浮かべながら手招いてきた。多少、汗の臭いが気になる以外に、クロウに忌避する理由はなく、招きに応じて、女社長が立つ場所へと足を向けた。
「ご苦労様、エンフリード殿」
「いえ、これも糧を得る為ですので、気にしないでください」
「ふふ、そんなに堅く構えないでちょうだい」
「ええと、そういわれまして、その、半ば性分でして……」
クロウが若干困り顔で応じていると、ナタリアの後ろに二人の人物が控えている事に気が付いた。両者とも、ナタリアと同じく褐色肌だ。
一人は、二十歳前半と思しき背の高い青年で、ルベルザード土建の黒い上着を着ていた。
制服の黒と上背に加え、色濃い茶髪を短く刈り込んでいることから、一見して厳つい印象を受けそうな所であるが、身体の線が細めで、かつ、緑暗色の瞳を持つ目が少したれ目気味の為か、そこまで強い様相ではなかった。
もう一人は、クロウと同年代と思われる背の低い少女で、こちらは市教育機関に通う者が着る緑色の上着を羽織っている。
胸と腰回りの肉付きが薄い為、まだ女性と呼ぶには早いが、無造作に流した短い黒髪やナタリアによく似た勝気な顔立ち、茶褐色の瞳を収めた切れ長の目から、どこか野性味を帯びた強い躍動感を感じさせた。
ナタリアはクロウの視線に気付くと、改めた調子で二人の紹介を始めた。
「男の方は私の息子で、ジーク・ルベルザード。女の方は同じく私の娘で、リィナ・ルベルザードよ」
「初めまして、ジーク・ルベルザードです。明後日からの仕事もよろしくお願いします」
「リィナ・ルベルザードよ、よろしく」
男の落ち着き払った声での挨拶は丁寧であったが親しみや熱はない。他方、少女のはきはきとした声での挨拶は短くも力強く、どこか親しみが感じられた。
それぞれの声音の温度を感じ取りながら、クロウもまた挨拶を返す。
「初めまして、機兵のクロウ・エンフリードです。今後もお付き合いの程を、よろしくお願いします」
この言葉にジークはただ黙して頷き、リィナも幾分かクロウの顔を見つめた後、軽く頷いて見せた。双方の様子を静かに観察していたナタリアは表情を変えぬまま、己の子ども達にそれぞれ指示を出す。
「ジーク、社屋に戻って機材整備の手配を」
「わかりました」
「リィナは……、迷惑にならない程度に、好きになさい」
「なら、もう少し、ここにいるわ」
青年はクロウに軽く頭を下げて見せた後、少女はクロウを意味あり気に見つめた後、それぞれ去って行った。二人が人並みに紛れて去った後、ナタリアはクロウに再び向き直る。
「ごめんなさいね。急に引き合わせたりして」
「いえ、構いません。でも、正直に言いますと、ルベルザード社長に、あれほど大きな子どもさんがいたとは思いもしませんでした」
「あら、意外とおべっかも使えるのね」
「いや、別におべっかじゃなくて、結構、大真面目に思ったんですが……」
「ふふ、なら、そういうことにしておきましょう」
クロウの反応が面白かったのか、はたまた、言葉の内に含まれていた賛辞に気分が良くなったのか、ナタリアは楽しそうに微笑む。すると、若作りの顔立ちがより一層若く見えてしまい、クロウは少々困った顔で目を逸らした。
そんな少年の反応を楽しんでいたナタリアであったが、俄かに表情を改めると、社長としての顔で話し出す。
「さて、少し真面目な話をしましょうか」
「はい」
「今日までの四日間、特に問題は起きなかったようだけど、エンフリード殿は今後、どうなると見ているかしら?」
クロウは己のグランサー時代の経験やグランサー達が工事現場から離れるように動いていた様を思い出しながら、質問に答えた。
「工事作業であれだけの音を響かせていますから、おそらく、一度や二度、甲殻蟲が寄ってくるだろうと考えています。実際、グランサーも工事現場周辺から姿を消していますので、彼らも間違いなく危ないと判断していると思います」
「そう。なら、対処については?」
「初日の内に、ゴンザさんと打ち合わせました。蟲が迫って来るのを発見した場合、私が蟲を早めに潰すように動き、警戒班は警報を発した後、別方向を中心に更なる厳重な警戒を実施。作業班は一時作業を中断して、安全が確保されるまでは市門前広場か下水処理施設内に退避。私が倒れた場合は市軍に対処依頼の連絡、という手筈です」
初日の報告でゴンザから聞かされた内容と同じであることを確認し、ナタリアは頷く。
「他に気になった点はあるかしら?」
「今日はルディーラの尖兵が来たこともあって、吹き上げられた砂塵で視界が悪くなってました。これは一度二度で収まればそれ程問題ではないんですが、立て続けに吹かれると視界が極端に下がります。そうなると当然、安全も確保できません」
「ゴンザには?」
「今日の昼に伝えてあります。話し合った結果、極端に視界が悪くなった場合、ある程度収まるまで作業の中断も止むを得ないのではないかと」
ナタリアは眉根に皺を作りつつ呻いた。
「そうなると、工期が厳しくなるわね。……エンフリード殿は休日に出たり、作業開始時間の変更をしても構わないかしら?」
「前もって言っていただければ構いません」
「それなら、仮にそういった措置が必要になった場合、日当を割り増しで払うから、よろしくお願いするわね」
「ええ、わかりました」
ナタリアとの話が終わると、クロウは勘定方より今日の日当を受け取り、自分の機体へと戻る。近くを通る者達が物珍しそうに機体を見上げていくのだが、それ以上に目立つ姿があった。
「へぇ、パンタルの中って、こんなんなんだぁ。ラストルと似てるけど、やっぱり何か違う感じね」
開放された機内を覗き込む少女が一人。ナタリアの娘リィナが内部機器に目を配りながら、感心した様に一人呟いていた。
「えーと、ルベルザードのお嬢さん?」
「あ、っと、ごめんなさい。ちょっと興味があったから、見せてもらってたわ」
「そうですか。流石に乗り込まれたら困りますけど、見る位ならいいですよ」
「そ、ありがと。……ねぇ、以前から思ってたんだけど、パンタルの視界って、悪くない?」
「操縦席が開口式になってるラストルに比べると、間違いなく悪いでしょうね」
クロウは前面装甲部に設けられた三箇所の展視窓を見つめながら答える。クロウが答えた事で興が乗ったのか、リィナは少年の視線の先にある強化ガラスを指差して言った。
「なら、もう少しこの覗き窓を大きくしたらいいのに」
「その辺は、意外と賛否があるかもしれません」
「なんで?」
「視野が広いのは確かに良い点だと思いますけど、甲殻蟲と面と向かい合う状況になると、逆に少しでも装甲が欲しくなるもんでして」
「ふーん、そういうもんなんだ。なら、甲殻蟲って怖い?」
「そうですね。これに乗れば、真正面からでも戦う事が出来ますから、以前よりは怖くないですね」
クロウが言った事は嘘ではない。
無論、甲殻蟲に対する恐怖は抱いているが、これまでの抗う事が難しい存在で理不尽な恐怖の象徴といった状態から、死の危険を伴うが退けることができる存在で対処可能な敵性体といった具合に、恐怖の度合いが格段に下がっているのだ。これも初陣において、自らの手でラティアを叩き潰し、甲殻蟲が決してかなわない敵ではない、という確信を得た結果である。
一方、質問したリィナだが、穏やかに答えたクロウを見て目を丸くし、ついで、何事かを納得するように何度も頷いた。リィナは自然体で言い切ったクロウの姿に確かな自信を見て取り、以前より母親が言っていた、機兵は在り方が強い、という言葉の意味に僅かにでも触れた気がした為だ。
そして、少女はクロウに一歩近づき、その目をじっと見つめながら、話し出す。
「ところでさ、私とあなた、そう歳も違わないみたいだし、敬語で喋るのやめない? なんていうか、やっぱり気が張って、疲れるじゃない」
「えーと、それは……」
「そもそも、私はまだ学校に行ってて、直接、仕事に関わってないし、こうして話す機会も仕事が終わった後位だから、いいじゃない。ついでに、私の事を名前で呼んでくれてもいいわ。ま、そしたら、私も名前で呼ばせてもらうけどね」
瞳に期待の色を多分に込めたリィナからの申し出に、クロウは困惑するように後ろ髪を掻いた後、これも一つの縁かと心中で呟き、砕けた口調で告げた。
「なら、そうさせてもらうよ。リィナさん」
「だめだめ、さんはいらない。リィナよ」
「……わかったよ、リィナ」
「うん、改めてよろしく、クロウ。私も今日みたいに時々、顔を出すから、また話をしましょう」
そう言って楽しげに笑うリィナの姿は、どこかナタリアの姿を髣髴とさせるものがあり、クロウに両者が親子である事を如実に教えていた。
ナタリアやリィナに挨拶をして別れた後、クロウは市壁外周を通り、魔導船の出入港路を抜けて、自宅のある港湾地区に戻ってきた。夕闇迫る港湾地区には昼間の喧騒はなく、数隻の魔導船が停泊しているだけである。
クロウは市壁脇の斜路を上って泊地より岸壁に上がると、自宅である機兵長屋へは帰らず、すぐ近くにある倉庫と変わらぬ外観の総合支援施設へと足を向けた。
施設の巨大な門扉は魔導機や魔導機回収車が入れる程度に開かれており、クロウは機体を屋内へと進ませた。
施設内部は高い天井を支えるように格子状の鉄骨梁が張り巡らされ、それらを規則的に配された十本程の巨大な柱が支えている。また、出入り口より入って右側には、柱列に沿う形で天井まで至る壁が設けられており、店舗の看板や魔導機懸架用の鉄骨が突き出たり、屋内を照らし出す魔導灯が設けられていた。
クロウは魔導灯の青白い光の下、施設の最奥を目指して歩き出す。
総合支援施設と銘打たれただけあって、整備場に至る通路の両脇には、魔力補給所や魔導機の武防具店、魔導機関連機材の販売所、軽食店に大砂海金庫の出張店といった具合に、魔導機に関連する施設や店舗が並んでいる。
この施設は基本的に休みがなく、一日三十六時間、ずっと開いている。が、それは主たる業務となる魔導機整備施設と魔力補給所だけで、魔導機関連機材の販売所や武防具店、軽食店に大砂海金庫の出張店といった付随店舗は夜になると閉まる仕組みだ。
もっとも、クロウが顔を出した時間はまだ開店中のようで、販売所や武防具店の店員は客の到来かとじっとクロウが乗るパンタルの動きを注視していた。
クロウはそれらの視線を感じながらも気付かぬ振りで通し、目的地である整備場に近づく。
施設の最奥に位置する整備場には八機分の整備用懸架と十二機分の駐機用懸架、四機分の代替機用懸架が設けられれている。
八個ある整備用懸架であるが、これらは甲殻蟲による大規模襲撃、所謂、漲溢のような非常時における運用が考慮された為であって、常日頃から全て稼働している訳ではない。現に今も、ラストルが一機、薄赤色の繋ぎを着た数人の整備士によって整備されているだけである。
クロウが整然と並ぶ四両の魔導機回収車を横目にしながら、閑散とした整備用懸架に近づくと、ラストルの脚部装甲を外し、中の油圧装置を弄っていた整備士の一人が軽い声音で声を掛けてきた。
「よう、エンフリード、パンタルの点検整備か?」
「ええ、お願いします、ブルーゾさん」
「あいよ、ちょっと待ってな」
クロウよりブルーゾと呼ばれた整備士は立ち上がり、クロウの機体を最寄りの整備用懸架へと誘導し始める。それに従って懸架の一つに機体を収めると、クロウは駐機状態へと移行させて降り立つ。
機体の固定を終えた整備士はクロウに近づき、口を開いた。
「一通りの点検でいいのか?」
「はい、悪い箇所があったら直す形で」
「わかった。つっても、前の点検から半旬も経ってないし、戦闘行動をしていないなら大丈夫だろうが……、お前さんの仕事柄を考えると機体の状態には万全を期した方が良いわな」
「ええ、自分じゃ砂塵取り位が限度ですし、やっぱり専門に見てもらう方が安心できるんで」
「その考え方ができる内は長生きできるだろうさ。ま、久し振りの御新規さんだし、マディスさんやディーンの野郎の紹介でもあるからな、精々気張らせてもらうよ」
そう言って笑った男、ダーレン・ブルーゾは三十に届くか届かないかの年頃で、濃い茶褐色の髪から下あごまで延びる長い揉み上げが妙に目立っている。
そんな彼とクロウとの付き合いは、先のとある一件……魔導銃の試射中に起きた事故で、中破した機体をこの整備場に運び込んだことを切っ掛けに、先達の機兵であるウディ・マディスに引き合わされる形で始まったのだ。
当然ながら、まだ付き合いは浅いのだが、マディスからの紹介に加えて、魔導機教習所の教官で隣に住むディーン・レイリークの友人ということもあってか、特別に気にかけてもらっているといった風情である。
「で、どうだったよ? 本格的な初仕事は」
「できるだけ意識しないようにしてるんですけど、やっぱり一人で守るっていうか、他に頼れる人がいない状況ですから、自分で思っている以上に緊張しますね」
「ああ、そうだろうな。俺も似たような経験をした事があるからわかるわ」
ブルーゾはクロウの答えに応じつつ、機体外観に異常がないかと視線を走らせる。数秒の目視で目立った破損が見られないことを確認すると、青年整備士はクロウに訊ねる。
「操作感に異常はなかったか?」
「特に変わらないです」
「なら、大掛かりな部品交換もなさそうだし、他の予定が数件入ったとしても、明日の昼までには上げられると思う。って、明日は仕事ないんだよな?」
「ええ、明日は休みです」
「なら、昼までに仕上げる予定ってことで」
クロウは明日の昼以降に取りに行くと頭に刻み込みながら、最も肝心な点を訊ねた。
「前はあれでしたから聞きませんでしたけど、代金って、どれくらいになりそうですか?」
「ああ、代金な。ほれ、あそこに料金表がある」
ブルーゾが指差した先、壁面には料金表が掲げられていた。クロウが内容に目を走らせる隣で、ブルーゾが簡潔に言った。
「全点検は基本工賃が三百で、後は交換した部品代になる」
「思ったより安いですけど、これ、元取れてるんですか?」
「赤字は市が安全保障費で補填してる。施設長の話だと、ここは平時よりも非常時に活きる場所らしい」
「へぇ、そうなんですか」
とクロウが頷いた所に、ブルーゾを呼ぶ他の整備士の声が届く。
「エンフリード、他に聞きたいことはないか?」
「いえ、ないです」
「なら、作業に戻らせてもらうわ」
「はい、明日の昼過ぎに取りに来ますんで」
「あいよ、了解。ま、暇で手が空いてたら、装甲も綺麗にしといてやるよ」
「あー、なんとなく休日の方が忙しそうですし、それはあまり期待しないでおきます」
ブルーゾは少年の返事に肩を竦めて笑うと、整備が続くラストルへ向かって去って行く。残されたクロウもまたその後姿を見送ると、ついでに晩飯を食べていくかと、施設内の軽食店へと足を向けたのだった。
* * *
リィナが時折訪れるようになった以外、特に大きな変化もなければ、クロウの出番が必要となるような問題も起きずに時は流れ、一年最後の旬となる斜陽節第四旬の三日となった。
懸念されていたルディーラの尖兵も時折様子を探りに来るかのように吹く位で、道路の敷設工事は当初計画の内で順調に進んでいる。
今も下水処理施設前より北に向かう道筋で舗装材を流し込む作業が行われ、その道の北端より市壁へと向かう道筋ではラストルが瓦礫を除去し、排土板を備えた工機が道枠内に運ばれた砕石を均し、ローラーを備えた地均し機が路盤を押し固めるべく行き来していた。
パンタルに乗ったクロウは工事現場の北東部、防御塔が設けられる予定の角地で、地道ながらも確実に進んでいく工事の様子を何となく眺めている。そんな彼の機体の傍らには、例の如く半装軌車が停まっており、見張り台に上った監視員が周辺へと警戒の目を向けていた。
未だ光陽は中天に昇り切っていないが既に外気温は高く、今も尚上昇を続けている。パンタル内の温度もそれに伴って上がり始めており、クロウは大した効果のない空調出力を強めに調整する。もっとも、平常の通りに生暖かい風が流れるばかりで、内気温の上昇を抑え込むには至らない。
ブルーゾに勧められれたように、金が貯まり次第、空調を更新した方が良いかもしれない。
そんなことを考えながら、クロウが三日前に整備場で勧められた改造案を思い出していると、半装軌車の運転席より声がかかった。
「エンフリード殿」
「はい、何かありました?」
「いえ、今の所、問題はないです」
機内でクロウが首を傾げる。それを見て取ったわけでもないだろうが、運転士の男はクロウの疑問に答えるかのように、更に口を開いた。
「その、最近、リィナお嬢さんとよく話をしているのを見かけるんですが、どんな按配なのかなと思いまして」
「あ、それ、俺も気になってたんすよ」
双眼鏡で周辺を見回していた監視員からの声も届き、クロウは訝しげな表情を浮かべつつ反問する。
「リィナのこと、ですか?」
「ええ、どうにも仲が良さげな雰囲気でしたので、男女の御縁でもあるのかと思いまして」
「へ?」
運転士の思わぬ言葉に虚を衝かれ、クロウは目を丸くする。少年にとって、出てきた話題があまりにも想像の埒外であった為だ。言葉を失ったクロウを余所に、中年男の話は続く。
「あー、何と申しましょうか……、日頃、現場にはあまり顔を出さないリィナお嬢さんが、足繁く通ってくるもんですから、そういった話でもあるのかなと思いまして」
「いやいや、そんな話はまったくないですよ。ただ、どうも、リィナは魔導機に興味を持ってるみたいで、それに関連して色々と話を聞かれてはいますけど、今言われたような色艶めいた話はないです」
「ありゃ、そうですか。はは、こりゃあ、早とちりだったみたいですね」
運転士の男はそう言って照れくさそうに笑うと、更に続けた。
「ちょっと言い訳がましいんですが、若い頃にルベルザードに入って以来、小さい頃からお嬢さんの成長を見てきた身としましては、少々、気になったものでして」
「うはっ、バラトさん、年寄りくせぇっすね」
「だー、ディル! おめぇは黙ってろ!」
運転士が照れ隠しのように吠える。それに応じるように、監視員の防塵マスクからくぐもった笑いが漏れた。
不意に、その笑いが途絶える。
唐突に笑声を消した監視員は双眼鏡で東方の砂海、そのある一点をじっと見つめる。この動きにただならぬ空気を感じたクロウ達も沈黙する。そして、物見台上の青年は自身が遠望するままに告げた。
「東……、大凡で三、いや、二アルト程度に、ラティアが……、一、二……、二匹、こっちに向かって、来てます」
己が見出した存在がなんであるのか理解したのか、報告する監視員の声は固く緊張している。
その重苦しい声音を耳にし、クロウは遂に来るべき時が来たかと一つ唾を飲み込む。それから、高鳴り始めた心臓を落ち着かせるように、静かに深呼吸して、教習所の座学でディーンより教えられたこと、単独で戦う際は、常に一対一の状況を作り出すように努力せよ、との言葉を思い出す。
「二匹の間隔は、どれくらいですか?」
監視員が向く方向へと視線を走らせ、赤銅色の砂海に溶け込んだラティアを探しながら訊ねた。
「あ、だ、大体で……、十ないし、二十リュート程度っす」
クロウはラティアの姿を我が目で捉える。
ラティア。
ゼル・セトラス大砂海では広範囲に住まう陸生甲殻蟲で、平均的な大きさは大凡で四リュート前後。全身を砂海に紛れる赤錆色の甲殻で覆い、三対六本の節くれ立った長い脚を持っている。
一リュート以上はある大きな頭部には、音や振動を感じ取る二本の長い触角があり、無機質で赤みを帯びた大きな単眼と六つの複眼を有している。また、咢の前に鋭く延び出た一対の牙は、魔導機をも切り砕く程に強力だ。
その相手にどう対処するか脳内で組み立てつつ、少年は努めて冷静な声で告げた。
「現場に蟲の接近を伝えて、退避の警報を。お二人には引き続き周辺監視を継続してもらいますが、車はいつでも退避できる状態にして、仮に蟲が接近してきた場合は逃げてください。それと、もし別方向から蟲が来た場合は、その方向へ赤の信号弾を射出するようにお願いします」
「わ、わかりました」
運転士が矢継ぎ早の指示に何とか頷く。それを見届けると、クロウは機体の出力を戦闘状態にまで引き上げ、息を大きく吸い込んだ。
命懸けの戦いを前にして、クロウの心中に湧き起こる二つの大きな感情、死に対する恐怖と己に対する不安。
この心底より勝手に湧き起こる、如何しようもない弱気な情動を叱咤するかのように、ラティアを叩き潰した経験と記憶が自信と勇気、更には興奮をも引き出し、滾るような血潮を全身へと行き渡らせる。
少年は内々で混ざり合う全ての感情を掴むかのように、両手で得物である大鉄槌を握りしめ、ラティアが近づいてくる東方へ向かって動き出した。
砂礫を踏みしめ、遠目に認めた蠢く蟲を目標にして、行き足を速める。
力を倍加させる油圧装置と関節部の吸振器は十全に役目を果たし、砂礫と瓦礫で構成される不整地を物ともせず、重い跫音を響かせて、クロウの機体は加速していく。
後方より蟲の襲撃を告げる警報が響き始めた。警報音を感じ取ったのか、二匹の甲殻蟲も足の動きを早める。その様子を展視窓内に収めながら、クロウはラティアの左側へと回り込むべく、右に弧を描くような進路を取った。
警報音が遠くなっていき、蟲の姿が大きくなっていく。
クロウは近場の一匹に狙いを定め、注意を引くべく猛進する。自然、彼が狙うラティアも接近する人型に気付き、その頭を動かせば、六本の足を器用に動かして、方向を変えた。荒くなりかける息を極力整えながら、大鉄槌を横手に構えて距離を詰める。
そして、五十リュート程までに距離が狭まると、視界の隅でもう一匹の動きを捉えながら更に右方へと回り込み、接近を図る。この動きに合わせるように、ラティアも左回転し始めた。
その間にも距離は近くなっていき、彼我の間隔は約五リュート程。
クロウが蟲の虚を突くべく機体を切り返そうとした所で、ラティアが唐突に動いた。
「ッ!」
まるで見計らったような突進。
咄嗟に機体をそのままに流し、巌の如き塊を避ける。が、機体の姿勢が崩れ、得物を振るう余裕はない。それでも即座に反転して追撃を仕掛けようとした。そこに機体後方から怒涛の如き踏破音が聞こえてきた為、クロウは頭を切り替えてそのまま離脱を図る。
クロウが反転しようとしていた場所を、もう一匹のラティアが駆け抜けた。
想定していた以上の連携ぶりに、大量の冷や汗が少年の全身より噴き出す。けれども、訓練された身体は半ば反射的に後方より突撃を仕掛けてきたラティアを追い、身体を転回させようと動かしていた右脚へと大鉄槌を振るった。
横薙ぎの一閃で前脚の甲を砕き、返す一撃で中足の節目を潰し、渾身の振り上げで一番太い後足を弾き割った。
緑血の飛沫を浴びながら距離を取る。
右脚全てに打撃を受けたラティアは急速に傾ぎ、辛うじて繋がっていた足を折りながら、地響きを立てて倒れた。ラティアの甲高い悲鳴に似た鳴き声が響く中、クロウは舞い上がった砂塵より逃れて機体を反転させると、直に先の一匹を探す。
もう一匹のラティアは既に十リュート程の距離まで迫って来ていた。けれど、仲間が倒れた事で警戒したのか動きを緩め、頻繁に触角を動かしながら、ゆっくりと近づいて来る。
クロウも大鉄槌を下段に構えると機体正面を正対させたまま、蟲の動き、特に頭部や前脚の動きに注意を向けながら、相手の側面に回り込むべく右へ右へと進み、じりじりと接近を図った。
距離が詰まることで少年の緊張は大きくなり、額に浮かんだ汗が頬を伝い、頤より滴り落ちる。
ふと、クロウの脳裏に浮かぶのは、以前、試射を行った魔導銃。
あれがあれば、楽だろうな。
そんなことを考えた瞬間、彼は仕掛けた。
右脚を右前に大きく一歩。
獲物を狙い定めたように、ラティアの牙が開く。
しっかりと踏ん張り、大鉄槌を振り上げながら、左脚で左方へ切り返しての一歩。
僅かな溜めの後、蟲は脚を使って身体を延び出す。
迫る頭部の一点、開いた咢を見つめながら、得物を握る手を放した。
重い破砕音と柔らかな半固体が押し潰される音。
流れのままに一歩二歩と進んだ所で、頭の前半分を破砕された蟲が機体右脇で前のめりになる。クロウはすかさず態勢を立て直すと、腰より予備兵装の手斧を右手に取って、まだ動こうとする右前脚の節を叩き割り、次いで、頭頂に位置する巨大な単眼へと振り降ろした。
鮮緑の飛沫が蒼天へと舞い散り、蟲の全身が一つ大きな痙攣を起こす。それから、巨体を支えてた脚が折れ崩れていった。
動かなくなったことを確認すると、クロウは詰めていた息を吐き出す。そして、早鐘の如く動悸する心音を感じ取り、無事に生き残れたことを意識した。
全身を満たす充足感或いは安堵感から思わず気が抜けそうになるが、もう一匹に止めを刺していない事を思い出し、彼は身体を奮起させる。
そして、止めを刺しに行こうとした間際、大鉄槌の投擲で破壊した頭部が目に入った。めり込んだ大鉄槌の柄が天に向かって屹立していた。得物は慣れた物が良いと、クロウは手斧を腰に戻し、柄の握りを持って抜き出す。大鉄槌は槌頭より柄の半ば以上まで鮮やかな緑に染まっていた。
その血糊を一振りして飛ばし、武器に不備がないことを確認した所で、クロウは今更ながらに周囲を警戒していないことに気が付いた。その事実に、彼は独りばつが悪そうな表情を浮かべつつ、機体を動かして全周囲へと視線を向ける。
二匹のラティア以外、周辺の砂海は平素と変わらず異常はない。また、工事現場がある市壁方向にも新たな襲撃を知らせる合図はなかった。
とりあえず、続きの仕事がないことを確認すると、クロウはもう一匹のラティアの止めを刺すべく、今度こそ動き始めた。
* * *
その日の夜。
エフタ市内南西区画に位置するルベルザード土建の社屋にて、社長のナタリアが工事の保安担当であるゴンザより昼間に起きたラティア襲撃とそれに伴う退避行動、更にはクロウによる撃破に関しての報告を受けていた。
報告を聞き終えたナタリアは確認するように、聞かされた内容をまとめて言った。
「退避は速やかにできて、人、物、両方に被害なし。エンフリード殿がラティアを潰した後、一時間ほどの様子見をしてから作業を再開。工事担当は作業工程への影響は最小限に抑えられた、と喜んでいたという訳ね?」
「はい」
「そう、例のエンフリード殿の初陣での話も吹かしではなく、実力は本物ということもわかったし、上出来だわ」
「ええ、私もこの目で見届けました。エンフリード殿は忌々しい蟲を二匹、確かに叩き潰しました」
実直な男が微かな興奮を示しながら告げると、執務席に座ったナタリアは一つ頷いて、気にしていた点を訊ねた。
「周囲の反応はどうだったかしら?」
「大多数が安心して作業ができると喜んでおります。実際、撃退の前後で目に見えて動きが違いました」
「ふふ、それは大変結構なことね」
ナタリアは満足げな笑みを浮かべる。そして、何事かを思い出したように、ゴンザに質問する。
「ゴンザ、エフタ市には報奨金制度ってあったわよね?」
「報奨金制度、ですか。……先代より聞いた覚えはあります。確か、市が創設して間もない頃に制定された制度で、甲殻蟲を潰した者に報奨金を与えるもの、だったはずです」
「そうそう、過去話で聞いたのは、それよ。相場が安く改定される度に、酒場で傭兵や機兵がくだを巻いていたとか言ってた奴。あれ、廃止されたとか、聞いているかしら?」
「わかりません。明日にでも市に問い合わせておきましょう」
「ええ、そうしてちょうだい。もし制度が生きていたら、エンフリード殿への特別報酬代わりに使おうと思うつもりだから」
ゴンザは自身の上司の顔を見て、少し表情を情けない物に崩して言った。
「姐さん、悪い顔になっています」
「あら、これだと、うちの懐は痛まずに、相手の好意を買えるのよ?」
「そうかもしれませんが……」
「はいはい、あくまでも今思いついた物で、使えたらの話よ。そろそろ、うちの娘が風呂から上がってくるはずだから、この話は終り」
社屋はルベルザード家の自宅を兼ねており、一日に一度、時間を取って取り留めのない話をするのが、ルベルザード母娘の昔からの日課なのだ。その事を知っているゴンザは困った顔で応じた。
「今の話の是非はともかく、報奨金については聞いておきます」
「ええ、頼むわ」
ナタリアは幼い頃からの弟分に内々でしか見せない親しげな笑みを見せると、社長執務室より退出させた。
それから、数分後。
執務室には、ナタリアの娘リィナの姿があった。
執務席近くの応接椅子に座を占めた少女は風呂上りという事もあってか、濡れた黒髪をそのままにして、下着に厚手のガウンを纏った格好だ。ナタリアは少々色艶めいた娘の姿を取り立てて見咎める事もなく、静かに問いかけた。
「で、今日も顔を出してきたの?」
「うん、まぁ」
どこか心ここにあらずといった風情の娘に苦笑を浮かべ、ナタリアは問いかける。
「エンフリード殿のパンタルを見たの?」
「うん」
「なら、ああいった物を見る機会が無かったあなたには、刺激が強かったんじゃないかしら?」
「あー、うん、ちょっとね。まさか、ラティアの襲撃があったなんて、びっくりしたわ」
リィナは黒緑に染まった大鉄槌や返り血を浴びたパンタルの姿に、それが甲殻蟲との戦闘を経た結果であり、市壁の外の現実を強く印象付けられたのだ。
「実際に戦闘をしてきた機兵を見て、どうだったかしら?」
「うーん、クロウは、特に変わった所がないっていうか、見た感じはほんとーにふつーなんだけど、不思議と、こう、惹きつけられるっていうか……」
リィナの声は話す内に小さくなっていく。が、反比例するかのように、頬や耳が赤みを帯びていった。そんな娘の初々しい反応に微笑みながら、ナタリアは告げる。
「まぁ、あなた位の年代で、あそこまでしっかりしている子は中々いないでしょう。特に、学園に通っている子の中にはね」
「うーん、そうかもしれないなぁ」
リィナは唸るように答えると右膝を抱えるようにして、歳の割に少し薄い胸の間に収める。
「ふふ、もしエンフリード殿を捕まえたいなら、反対はしないわよ?」
「そんなつもりはないわよ。ただ、前から機兵に興味があっただけで……」
「そうなの? もったいないわねぇ。若い割には頼りがいがあるし、もし私が若かったら、押しかけているかもしれないわね」
「な、な、何言ってんのよ。自分の歳を考えなよ!」
「あら、もしもの話しよ、もしもの」
嫣然と笑うナタリアに、リィナは柳眉を逆立てる。が、次の瞬間には、ナタリアが軽く溜息をついた。
「でも、実際の話ね。エンフリード殿程の胆力があれば、大抵のことは熟せるから、身内に欲しい存在だとは思ったりするのよ。今のジークじゃ、まだ頼りなくて」
「う、うーん、そうかしら? 私は兄さんが頼りにならないなんて感じた事はないけど?」
「あなたから見れば、そうかもしれないわね」
ナタリアは少し寂しげに微笑む。
彼女が息子に求める物、それは気概。困難の中にあって、皆を導く方向性を示せるだけの強い意志であり、自分の指示に唯々諾々と従うばかりではなく、時に異を唱えるような反骨の強さだ。
そして、その強さこそが一つの組織を率いるに足る力であると、彼女は考えている。
優男な見かけの割に頑固だった夫を流行病で亡くして以降、その事を強く意識して、息子に身につけさせようと努力してきたが、結局は与えることも教えることもできなかったモノを思いながら、ナタリアは独白するように続けた。
「でも、私から見れば、今のあの子では力が足りない。だから、まだ、ルベルザードを任せられないの」
どこか悲しげな女の言葉を、扉の外で一人の青年が項垂れながら聞いていた。彼は首を一振りすると、落ち込んだ足取りで暗い廊下を去って行った。
12/10/14 誤字修正。
12/10/20 誤字修正。
13/11/15 語句修正。




