一 移り行く日常
冷たく乾いた空気を肌に感じて、短髪の少女はほっと息を吐いた。
その間にも涼やかな空気は彼女が着込んだ外套の下に入り込み始めており、暑い中を長く歩いた事で火照ってしまった身体から熱を奪い、肌着に染み込んでいた汗を急速に冷やしていく。
これは早い所、汗を拭きとるか着替えた方が良いな、と考えながら、彼女は短い髪を揺らして周囲を見渡す。暗視の魔術によって白黒で構成された視界には、連日来ることで見慣れた感がある天井や壁、砂塵で薄く覆われた床が映っていた。
彼女が今いるのは、ゼル・セトラス大砂海において、昼夜間の気温変化が少なく、風の影響もほとんど受けない希少な場所。年間を通して過ごしやすいと言われる地下遺構の一つだ。
大砂海各地に点在する地下遺構は、先に挙げた通り、人が砂海の暑さ寒さを避けて過ごすのに適している。けれども、人類の天敵とも呼ばれる存在、獰猛に人を襲って捕食する甲殻蟲が潜り込んでいる可能性が高いという大きな難点がある為、中に立ち入る者は少ない。
そんな地下遺構の一つに、少女が何故いるのか?
危険を覚悟して、光陽の日差しと大地の輻射熱によって育まれた、茹だるような暑さから逃れる為……ではない。
「はーい、到着ー。少し休憩したら、降りるわよー」
「あいよ。それにしても、お前、いつも無駄に元気だよなぁ」
「何言ってるの、元気に無駄なんてないわよ。なにしろ、元気を出せば、やる気が出る。元気を周囲に与えれば、皆もやる気が出る!」
「おー、なるほどなー」
上司や恩人と共に仕事の為に来ているのだ。
少女が再び大きく息をして、肺に篭っていた熱い熱を吐き出していると、様々な意味で常人とは一線を画している上司が声をかけてきた。
「そっちは大丈夫?」
「はい、何とか、大丈夫です」
「ならいいけど、無理は駄目よ?」
「そうそう、調整水は多めに持ってきてるから、欲しかったら言ってくれ。初日みたいに倒れられると焦るからな」
上司の言葉に相乗りする形で、彼女が知人以上友人未満の恩人と位置づけた少年が笑いかけてくる。
その笑顔を見て、ほんの少しだけ胸の鼓動が早くなったような感覚を覚えつつ、短髪の少女ことシャノン・フィールズはゆっくりと頷いた。
シャノンがゼル・セトラス大砂海域を訪れたのは、今から一旬半……三十日程前のこと。
ノルグラッド山脈南方域にて、再建されつつある人類社会で最も強大な国である帝国。その国の一組織、魔導技術院が旧文明の遺構を調査する為に派遣した調査団の一員としてであった。
調査団はこの地で中心都市の役目を担うエフタ市に到着すると、早速、近郊の遺構で調査を開始したのだが、三日と経たない内に、想定外の事態に襲われてしまう。
想定外の事態、それは遺構調査中に遺構内部で発生した大規模な爆発。
この爆発によって調査団員に犠牲者が出てしまったのだ。更には、この悲劇に追い打ちをかけるかのように、調査団を率いる団長までも急死してしまうという不幸が重なってしまう。
犠牲者が出た上に最高責任者が急死するという事態に、副団長は調査の中止を決断。遺構の発掘調査という大目的を果たせぬまま、帰国を余儀なくされてしまった。
調査団の誰もが犠牲者が出た悲劇と失敗に終わった調査に嘆く中、爆発より辛くも逃れ、死人の列に加わらずに済んだシャノンもまた、この予期せぬ非常事態が引き起こした余波を受けることになる。
床に座ったシャノンは背にした背負子にもたれると、腰鞄より少々歪な形をした水筒を取り出し、水分や塩分等を補給する。流れる冷水によって喉が潤わされる感覚を楽しんだ後、疲労感から漏れ出た溜め息未満の吐息をつく。
そんな彼女の前では自身より少し背が高い恩人の少年、クロウ・エンフリードが普段は引き締まっている顔を緩め、同じく水筒を傾けている。よく見れば、その頭上にへばり付いた、小人としか言いようがない彼女の上司、ミソラと何事か話しているようだ。
シャノンは二人を見つめながら、調査団が帰国する前夜……爆発が起きた当日の夜に、唐突に訪れた人生の岐路を思い出す。
あの夜、シャノンは死の危険に直面する体験に加え、同僚の死という衝撃を受け、心身共に疲労していた。けれども、彼女を死の淵から掬い上げたクロウとミソラとのちょっとした交流に加え、帝国機士パドリック・リディスの細やかな気遣いと労わりのお陰で、表面上は平静さを保つことができていた。
とはいえ、生死の境目で命が懸かった綱渡りを強制された事で気が昂ってしまったのか、目が冴えてしまい、寝床に入っても眠りにつけるような状態ではなかった。
その為、彼女は一人、医務室のベッドの上で爆発時からその後の一連の出来事を思い返しては、悶々としていた。
そんな時であった。
当時の上司であるソーン・サラサウスの来訪を受けたのは……。
「……という訳で、今後の帝国や社会情勢の為にも、あの爆発は何者かによる工作ではなく、あくまでも事故として、始末してしまいたいのです。けれども、事の真相を知る生き残り、つまり、フィールズ君の証言次第では、引っ繰り返される事も十分に起こり得るでしょう」
ベッドに腰掛けて話を聞いていたシャノンは、来た当初からずっと無表情を貫いているソーンを見上げ、途中で気付いてしまった上司の来意を言葉にして吐き出した。
「話は分かりました。要するに、僕が帝国に戻ると、あの爆発が事故ではなく、何者かの工作であったと証言する可能性が出てきて不味いから、この地に残れ、という訳ですね?」
「ええ、その理解で間違いありません。形式としては、今後に向けた継続調査の為、或いは、組合連合会への技術協力の為に残した、という形にするつもりです」
「一人だけで、ですか?」
「事の真相を知る生き残りは君だけですし、そうなりますね。無論、異郷の地に独り残される以上、不安かもしれませんが、この措置は君自身の安全の為でもあるんです。帝都に戻ってから、例の工作をした輩の仲間に捕まって、好き勝手に弄ばれた挙句に洗脳されて、証言に利用された後は殺される、なんて恐ろしいこと、君も嫌でしょう? ここに来るにあたっても、男除けの対策した位ですし」
「そ、それはそうですが……」
「ついでに言っときますとね、僕も今回の不祥事の責任を取らないといけない立場ですから、良くて降格、悪くて免職になるでしょう。当然、僕付のフィールズ君も煽りを食うことになります。要するに、帰った所で、今まで通りの研究生活なんてものは、不可能ということです」
シャノンはソーンの突き放した物言いに反発を覚えるも、工作をした輩という言葉に、あの無機質な赤い単眼を思い出してしまい、身体に震えが起きる。怖気に震える身体を自らの両手で抱きしめながら、シャノンは精一杯の反発を口にする。
「だ、だからと言って、何の伝手もない、ここで放り出すなんて……、先生は遠回しに、僕に死ねと言ってるじゃないですかっ!」
「いや、まさか。幾ら私でも、無責任に放り出すなんて、目覚めが悪いことはしませんよ」
「……え、嘘ですよね? 先生なら、それ位の事は普通にしそうなんですが?」
「少々、君の私に対する評価が気になる所ですが……、今後、こうやって話をする機会があるかもわかりませんから、見逃しておきましょう。それで、君の件に関してですが、組合連合会のセレス・シュタール殿に縋らせていただきました。幸い、君は研究員であると同時に魔術士でもありますから、二つ返事引き受けてくれましたよ。しばらくの間、君を組合連合会の客員魔導士として雇ってくれます」
「しばらくの間というのは、具体的には、どれくらいですか?」
「一年程度を見込んでいるそうです。この期間、しっかりと働いてもらえれば、その後は、帝国に戻るなり、引き続きこの地で暮らすなり、はたまた、新天地を求めて旅立つなり、君の好きなようにすれば良いとまで言ってくれています。……あ、そうそう、言い忘れていましたが、技術院での君の籍、確保し続けられるという保証はできません。なにしろ、私自身も免職の危機ですので、君まで守る程の余裕はないです」
「……籍の保証はなし、ですか」
見捨てられたも同然の言葉に、シャノンは大きく肩を落とす。そんな彼女に対して、ソーンは微かに表情を緩め、思わぬ言葉を口にする。
「フィールズ君、君は腹立たしく思うかもしれませんが、実の所、私は君が羨ましい」
「……先生?」
「シュタール殿の近くで働けることもありますが、何よりも、あの小人殿の近くで暮らせるのですから」
「えと……」
「この際、全てを話しておきますとね。君を遺構内で助けた小人殿は、僕の家にとって、師匠筋に当たる方なんですよ」
「先生の、家の?」
「ええ、そうです。サラサウスの師匠筋……、断罪の天焔を経て、姓と血脈が途絶したマグナウスですよ」
魔術士ならば誰でも知る魔法の大家を耳にし、シャノンは目を見開く。
「私の家、正確には、マグナウスの教えを受けた者達には、伝えられていたのです。マグナウス最後の一人はゼル・セトラスの地に全てを遺した。マグナウスの遺産を欲する者達よ、命と引き換える覚悟があるならば、遺産全てとマグナウスの技を受け継ぐ小さき者を委ねる、とね」
「そんな話が?」
「ええ、あるのですよ。そして、僕もまた、マグナウスの遺産を欲する一人です」
と、ここで語を切ったソーンは眼鏡を押し上げつつ、今度は充血した目で、実に恨めしそうにシャノンを見据える。
「本当にねぇ、もし叶うのなら、僕がこの地に残って、あの小人殿の教えを受けたいところなんですよ? ですが、君と違って、色々と浮世のしがらみがある私は、責任者として、この一件のけじめをつけなければなりません。……いや、まてよ? ねぇ、フィールズ君。今からでも僕と立場を入れ替えないかい?」
「あはは……は、な、何を馬鹿なことを言ってるんですか、サラサウス先生。僕に先生の代役なんて務まる訳がないじゃないですか。というか、明らかに、こちらに残る方が未来があるというか、帝国に戻る方がお先真っ暗じゃないですか」
「ふ、ふふふ、そうですね。本当にっ、今、私は、猛烈に、君がっ、妬ましいっ! シュタール殿にお近づきになれる機会もあれば、小人殿から教えを得られるかもしれないという立場っ! それに引き替え、私は今回の後始末で、帝都でベルザール先生の代わりに、技術院のお偉いさん達や腐臭漂う元老共から、ねちねちねちねちねちねちとっ、いびられ続けるなんてっ! こんなの絶対に不公平じゃないですかっ! おぉ、偉大なる光明神よ! あなたの正義はいったいどこへ行ってしまったというのですかっ!」
毛細血管が切れたのか、先以上に目を赤く染めながら悲嘆に暮れた顔で叫ぶソーンに対して、シャノンは辛うじて愛想笑いを返しつつ、残留する事を告げたのだった。
かつての上司が最後になって見せた醜態をまざまざと思い出し、シャノンは引き攣った笑みを浮かべる。
シャノンの顔に珍しい笑みを認めた為か、現在の上司であるミソラが背中より光を放ちながら飛来して、彼女の肩に舞い降りると、興味深そうに話しかけてきた。
「なになに、どーしたの?」
「あ、いえ、その、サラサウス先生の事を思い出してしまいまして……」
「あー、あの眼鏡の人ね。いやー、あそこの家って、昔から変た、じゃない、変わった魔術士を輩出していたんだけど、今になっても変わらないなんて、ほんと、血と家風ってのは引き継がれるのねぇ」
「そうみたいですねぇ」
遺構内という場であるにもかかわらず、和んだ空気が二人の間に流れる。
どこか寛いだ雰囲気を醸し出す二人に対して、手持ちの道具を点検していた残る一人の少年が少々呆れた風情で口を出した。
「おーい、二人とも、ここが市壁の外だってこと、覚えてるか?」
「んー? クロウ、もしかして、仲間外れにされて寂しいの?」
「はいはい、おねーさんの言う通り、寂しい寂しい、これでいいか?」
「ぬぬ、クロウのくせに生意気ねー」
「クロウのくせにって、これはまた酷い言われようだな」
「え、今のあんたなら、これ位の扱いで十分のはずよ?」
「うわ、なにそれ、ひどっ」
ミソラはクロウに対して遠慮の欠片もなく思った事を口にして、二人の間で常の如く言葉の応酬が始まる。それを傍で見ていたシャノンは、目の前の少年に対してだけ、ミソラの接し方が違う事を実感する。そして、その事実が、まるで小さな棘が引っ掛かったかのように、自身の胸に疼きをもたらすことも……。
シャノンはその疼きの意味を考える前に、二人の間に割って入った。
「あの、そろそろ、降りませんか?」
「あっと、ごめん。フィールズさん、もしかして、身体冷えてきた?」
「その、少し……」
「だってさ、ミソラ」
「わかったわ。じゃあ、そろそろ、下に降りましょう」
ミソラの断に従い、クロウとシャノンは遺構の深部に降りるべく、動き始めた。
遺構深部に向かう三人の仕事。
それは十九番遺構内部にある魔術工房、ミソラが三百年以上眠りについていた場所に残されている魔術書や旧文明期の技術書の類を運び出すというものだ。
ミソラはその姿形からわかるように普通の人間ではなく、旧文明期に作られた魔導仕掛けの人形に旧世紀人の魂が宿った存在である。
ミソラは魔導仕掛けの身体に高い価値があることに加え、当人自体が旧世紀世界を知ることもあって、旧世紀の遺物に関わる者はもちろん、研究者や企業、好事家に王侯貴族といった存在から、己自身を守る必要があった。
その為、組合連合会の幹部であるセレス・シュタールに直談判し、庇護を受ける代償として、共に眠っていた貴重な旧世紀の遺物を譲渡したのだ。
とは言っても、ミソラもセレスという個人は信頼しても、組合連合会という組織をまだ信じきれていない為、ある程度、見定めるまで全てを委ねられないと主張し、書物の譲渡方法について話し合いがもたれた。
その結果、最初に大量の書物が確かに存在するという証明を兼ねて、所蔵されている書物の約半分を運び、残りの半分は、半年毎に組織としての組合連合会が信頼できるかどうかの判定を行い、それ次第で移動させるか否かを決定するという形で合意したのだ。
そして、それらの書物を組合連合会本部の地下書庫に運ぶ役目を与えられたのが、組合連合会に所属したばかりで組織にこれといった利害を持たず、かつ、ミソラと面識があった事から助手兼付き人とされたシャノンであり、ミソラが特に信を置き、十九番遺構内の構造も知るクロウという訳である。
話を今に戻して、遺構深部に向かう道中、階段途中にある崩落個所より転落したり、甲殻蟲や賊の類に遭遇したりするといった大きな問題もなく、三人は地下四階に位置する魔術工房に到着する。
工房は部屋の中央部に大きな作業机が置かれており、書類の類が乱雑に散らばっていた。また、壁面には天井まである書棚が並べられ、金属の塊や袋詰めにされた粉末といった素材が無造作に置かれている。
彼らの目的である書物は幾つもある書棚に収められているが、書物の運び出しは今より一旬前より行われている為、その数を半分程に減らしていた。
ミソラが少年の頭上から一飛びして、貫頭衣の裾をひらめかせながら作業机に降り立つと、その前に並ぶ二人を鼓舞するように宣する。
「さぁ、今回の運び出しは今日でお仕舞だし、頑張りましょう!」
「ここで実際に頑張るのはミソラだけだけどな」
「……シャノンちゃん、私のやる気に水を差した、そいつを殴っといて」
「えぇ! 僕がですかっ?」
「フィールズさんは本当のことを言っただけの俺に、そんな酷い事、しないよね?」
「うぅ」
その結果、何故か、シャノンが上司と恩人の間で板挟みになった。
どうするかと、俯いて大いに迷いを見せる少女に対し、ミソラはクロウに向けて悪戯な笑みを見せてから、澄ました顔で言い放った。
「さぁさぁ、シャノンちゃん、どっちにつくのー」
「もちろん、フィールズさんは俺の味方だよな?」
「あら、シャノンちゃんは職場を同じくする私の味方に決まってるじゃない」
「でも、ただ事実を言っただけなのに殴られるなんて理不尽だし、そんなの絶対におかしいよな?」
二人の言葉に更に追い詰められるシャノン。だがここで、その小さすぎる胸の中に、どうして第三者である自分が二人に追い詰められているのだろうかという思いが浮かんでくる。
そして、改めて二人の顔を見た。
二人は揃って楽しげな笑みを浮かべて、シャノンを見ていた。
「ふ、二人ともっ、図りましたねっ!」
「やー、そんなことしてないわよねー、クロウ」
「ああ、そんなことするわけないよなー、ミソラ」
「その反応で十分過ぎる位にわかりますよっ!」
と、ここでミソラがその表情を真面目なモノに切り替えた。唐突に表れた思いがけない顔に、シャノンは面食らい、言葉を失う。その空隙を縫って、ミソラが話し出す。
「ねぇ、シャノンちゃん。前から思ってたんだけど、あなたは他人行儀過ぎるわ」
「え?」
「そりゃ、見ず知らずの土地にたった一人で残されて、色々と思う事もあるだろうし、もう少し自分を出すというか、気を抜いてもいいんじゃない?」
「な、なんか、誤魔化されてるような気が……」
「ふふ、さっきのは、あくまでもっ、シャノンちゃんの態度を見定める為のものであって、それ以外に目的はないわ!」
ミソラはかっと目を見開き、強引に言い切った。シャノンはその迫力に押されるままに頷き、自身の態度について尋ねる。
「でも、僕、そんなに他人行儀に見えますか?」
「見えるわね。私やクロウに対してだけじゃなくて、他の人達にもね」
「そう、ですか」
少し自覚があったシャノンは困った表情を浮かべる。
「まぁ、あまり難しく考えないで。ただ、もう少し、シャノンちゃんもこの土地や住んでいる人達に歩み寄る必要があるんじゃないかって、思ったのよ」
「歩み寄り、ですか?」
「そう。簡単に言えば、知らないモノを知ろうとすること。委縮せず、勇気を持って、未知に踏み込むこと、って所かしら?」
そう言うと、ミソラは少女の傍らで感心した顔を浮かべている少年へと目を向ける。その目線はシャノンに向けていたものよりも少し厳しい。
「クロウ、あんたにも言えることよ。あんたなりに色々と考えて気を使ってたんでしょうけど、シャノンちゃんと距離が感じられるわ」
「……かもしれないな。俺、同世代の女の人と話し慣れてないから」
クロウは自分の対応をよく自覚しているのか、ミソラの言葉に素直に頷いた。それを見たミソラは視線を緩め、普段と変わらぬ口調に戻って問いかける。
「あら、私に対しては、それほどでもなかったようだけど?」
「そりゃお前、女に区分する前に何者かもわからない未確認生物だったんだぞ? しかも、その後にも、顔を思うままに踏みつけられるわ、好きなだけ泣き言や暴言を吐かれるわで、こっちも遠慮もなくなるさ」
「ふん、悪かったわね、未確認生物で」
ミソラは拗ねたように口を尖らせるが、それも一瞬。
「で、話し慣れてないのが原因?」
「ああ、どうしても距離感が掴めなかった。お前だって、よく知らない男から、いきなり馴れ馴れしくされるのって嫌だろう?」
「えぇ、下心を感じるでしょうね」
「だから、少しずつ話ができるようになれればって思ってたんだけど、それが中々、難しくてなぁ」
「なるほど、気を使いすぎたってことか。でも、それで余計にぎくしゃくするのっても面白い話ねぇ」
「……後、ミソラのお陰で、女には気をつけろって意味が実感できたのもあるかも。それで、余計に腰が引けて、距離を取ったかもしれない」
「はいはい、負け惜しみはいいわ」
「ま、負け惜しみじゃないって!」
剥きになって言い返すという、非常に分かり易い少年の反応に気を良くしつつ、ミソラは端正な顔に困惑した表情を浮かべているシャノンに微笑みかける。
「ま、そういうことらしいから、とりあえず、お互いの事を少しずつ知る為の、そうね……、改めての第一歩として、呼び名辺りから変えてみたら?」
「その……、つまり?」
「うん、二人とも相手を名前で呼ぶの」
ミソラの提案に、シャノンは隣に立つクロウの様子を探る。
こちらの様子を探る少年と目が合った。
予期せず、頬や耳に熱を感じ始めた所で、クロウの少し落ち着きがない声が少女の耳に入る。
「シャノン……、い、いや、そっちの方が年上だったから、シャノンさん、でいいかな?」
「……うん、それでいいよ。僕は、クロウ君って呼んでいい?」
「ああ、ひとまず、それでいこう」
「うん、ひとまず、ね」
双方の合意がなると、ミソラは曇りのない晴れやかな笑みを浮かべ、うんうんと何度も頷く。
そして、このミソラが行ったお節介或いは配慮により、クロウとシャノンの間にある、遠慮という名の分厚い壁が少し削れた為か、目的である書物の選別はより速やかに進められることになった。
「『魔術治療概論』? それは持って帰りましょう。どれ、『死と魂の掟』か……、うーん、これはまだいらないわね。それで、これは……、『第十一版魔語総覧』ね、絶対にいるから持って帰るわ。え、なに、『恋愛の覇者―呪殺編―』? それ確か、当時の禁書だから、今度封印しないと駄目ね」
この書物の選別は、二人が書棚から適当に選んだ本を作業台の上で待つミソラの下に持ってきては見せ、持って帰るか否かを決めるという形で行われている。
「『実用魔術百八式』? うーん、実用となると今でも伝わってそうだけど、一応、持って帰りましょう。おっと、『三千百年度版英学館大百科事典一巻』か、この厚さってもう鈍器の類よねぇ。本当、これを翻訳する人、死ぬかもしれないわ。あ、ごめんごめん、重いでしょうけど、これは持って帰るわ。っと、ちょっと待って、続きというか、似たようなものはあった? え、近くに後九冊程ある? そう、ありがとう、わかったわ。で、それは……、『機械工学論文集』? 多分、それはまだ早いから、今回は見送りね。……次は、『―成形人形別冊―真の造形美』か。うーん、なんていったらいいのかなぁ、これを見て、私を作ったのかぁ。じゃなくて、これも次の機会ね」
二十日近く同じ作業をしてきた所に、クロウとシャノンの間にあった、ぎこちなさが少し抜けた事もあり、選別作業はより効率化している。
「その『先端冶金科学事典』はまだ難しいだろうし、今度でもいいや。次は……、えーと、世界伝奇……伝承、大全? …………え、うそ、『世界伝奇伝承大全』って! ちょっと、これっ! 伝説の奇書じゃないの! うわうわっ、どーしよっ、これ、まじ、えー、信じらんない、って、何、仕事しろって? かー、クロウ、あんたはわかってない、これがどれ程貴重な本なのかって、ちょ、聞きなさいよっ。……あ、いや、シャノンちゃん、まじめにするから、そんな呆れた顔しないで……、え、持って帰るのかって? ………………くっ、こ、今回は諦めるわ。で、それは……『三千百九十年度国防白書』か、むー、今すぐ必要じゃないし、次にしましょう。で、これは、『正しい避妊の仕方』? 人口減ってんのに、これはいら……、いや、やっぱり持って帰った方がいいわね。……つか、おい、こら、クロウッ! さっきから黙ってれば、あんた、狙って変な物ばかり持ってない? え、こっちは字も読めないんだから気のせいに決まってる? 中を確認しておきながら、今更とぼけるなっ!」
とにもかくも、二人の背負子には貴重な本が積み上がっていき、背負える限界に達したのだった。
* * *
三人が遺構内での仕事を終え、エフタ市に戻ってきたのは昼時を過ぎた頃であった。
彼らは大きく開け放たれている南大市門より市内に入ると、組合連合会本部がある中央地区を目指す。
暑さの盛りを避ける休息、所謂、午睡の時間に入っている為か、南大通りを行き交う人は少なく、物を運ぶ荷車の類も見受けられない。また、溶鉱炉や金属加工場等がある工業地区や市内各所に点在する各種生活用品や工業部品を作る工房群からも作業音が聞こえてこないことから、昼とは思えない静けさだ。
どこかゆったりとした時間が流れる市街を眺めながら、シャノンは帝都を、昼夜関係なく、常に喧噪に満ちた大都市の、綺麗に区割りされていながらも、どこか猥雑さを持つ街並みを思い出す。それと共に、心細さと寂しさが入り混じった想いが、胸を締め付けられるような切なさが湧き起こってくる。
止むを得ない事情とはいえ、突然、見知った人達や家族と離れて、この異郷の地に暮らす事になった以上、郷愁の念を感じない訳がないのだ。
そして、今、心の中で飽和した郷愁が、彼女の口から言葉になって飛び出てくる。
「この午睡の時間には、まだ慣れません」
それを耳聡く拾い上げたクロウが話に繋げた。
「シャノンさん、帝国には午睡の時間って、ないの?」
「ええ、少なくとも帝国、いえ、帝都にはない習慣です。まぁ、この暑さですから、午睡がある理由も十分過ぎる程にわかるんですけど……、どうしても悪い事をしてる気がしてしまって、落ち着きませんね」
「真面目ねぇ、シャノンちゃん。それとも、帝国の人って、みんなそうなのかしら?」
「どうでしょうね。ただ、帝都で暮らしていた時は、昼休憩の後はすぐに仕事や授業が始まるのが普通でした」
「午睡なしかぁ、帝国の人って勤勉だなぁ」
「あはは、実際の効率を考えると、本当にいいのかわかりませんよ? それに、僕自身、帝都の外で暮らすのは初めてですから、僕が知らないだけで、帝国でも午睡の習慣を持つ地域があるかもしれません」
シャノンは二人と言葉をやり取りすることで、孤独感や寂寥感が薄れるのを感じながら、日除けフードの下、汗が浮かぶ顔を手拭いで拭う。彼女の言葉にはまだ硬さが残るものの、朝、出掛けた時よりは遥かに舌滑りが滑らかになっている。
市内という安全が確保された環境ということもあり、三人の話は帝都とエフタ市の違いから帝国と大砂海域の政治形態や社会制度の相違はどこか、といった具合に続いていく。
そうする内に、トラスウェル広場が近づいていた。トラスウェル広場は南大通りと商会通りという大きな通りが交わる場所だけに、それなりに人の姿が見える。
また、港湾門方向の反対側、住宅地方面にある商店街や組合連合会エフタ支部からパンや肉が焼ける香ばしい匂いに加え、飲料水に混ぜられる香料の甘い薫りが漂ってきている。
クロウとシャノンは遺構内の工房を出る前に堅パンを齧っただけであった為、目が自然に匂いの元を探すように、商店街の店先を泳ぐ。
そして、誰のとも知れず、腹が鳴った。
「い、いい匂いを嗅ぐと、お腹が空いちゃいますね」
「だよね。……今日の晩は、久しぶりに串焼きでも食べようかな」
「もしかして、そこの支部で出してる、ニニュの串焼き?」
「ああ。食べた時あるのか、ミソラ?」
「うん、セレスと一緒に、組合支部の人達と顔合わせに行った時にね。あれ、焙り方が上手だから皮の油が肉の隙間に行き渡ってるし、塩と香草の加減もばっちりだから、本当に香ばしくておいしいのよねぇ」
ミソラが空腹を煽るかのように口を挟むと、シャノンは空いた手で腹を押さえる。
「うぅ、なんだか、余計にお腹が空いてきました」
「なぁ、シャノンさん、これ運び終わった後、そこで一緒に食べないか?」
「……え?」
少年からの突然の申し出に少女は立ち止まる。合わせてクロウも立ち止まり、見る者によっては精悍にも見える顔に少し照れた表情を浮かべて、誘いの言葉を口にする。
「この仕事も今日で終わりだし、次に話せる機会もいつになるかわからないから、どうかな?」
「……うん、いいよ。僕もこの街のこととか、色々と聞きたいし」
シャノンはクロウの誘いに頷くと、少し早くなった鼓動を誤魔化すように、軽く笑って答えを返した。
と、ここで口を挟む者が一人。
「あれー、クロウ、わたしは誘ってくれないのー?」
「お前は放っておいても勝手についてくるだろうから、誘う必要なし」
「まぁ、なんてことなの。女友達ができたからって、おねーさんに対する扱いがぞんざいだわ」
「元々ぞんざいに扱ってたから、何の問題もなしだな」
「シャノンちゃん、こいつ、こういう奴だから、あまり仲良くし過ぎたら駄目よ? 好き勝手に利用された挙句、捨てられるから」
「いや、人聞きが悪すぎることを言うなって。それと、自分の都合でシャノンさんを巻き込まないように。自称、頼りになるおねーさんの名が泣くぞ?」
「なら、どっちの言い分が正しいか、シャノンちゃんに聞いてみる?」
「ああ、聞いてみよう。シャノンさん、どっちが信じられる?」
「え、えーと、クロウ君のミソラさんへの扱いがぞんざいなのは、少々、いただけないですね。もちろん、そういう風に扱う気持ちもわかりますが……」
このシャノンの答えを聞いた瞬間、クロウとミソラは揃って口元に人が悪い笑みを浮かべた。それを目の当たりにしたシャノンは少しばかり嫌な予感を覚える。
「おねーさん、聞きましたか?」
「えぇ、私の扱いを是正せよという、実に見事な答えだったわ」
「でもさ、俺の気持ちも汲み取れるとも言ってくれてるぞ?」
「そうなのよねぇ。うぅ、私、実はシャノンちゃんに嫌われていたのね」
「あ、いえ、別にミソラさんに不満がある訳ではなくて」
「ごめんね、シャノンちゃん。今から嫌われないように、もう少し考えて行動するわ」
「俺も謝っておくよ。二人の間に亀裂が入るような切っ掛けを作ってしまって……」
「いや、話を聞いてくださいよ、二人とも」
と言いつつも、二人のいつものやり取りの中に、自分も含められた事にシャノンは嬉しさを感じてしまう。その内心を押し隠しつつ、生真面目な表情を取り繕った少女は、滑らかに両者の考え違いを訂正する言葉を紡ぎ始めた。
「いいですか? 僕がクロウ君の気持ちがわかると言ったのは、前の上司が適度に構わないとすぐに拗ねる人だったからですよ。まぁ、他の先生方みたいに、立場を悪用して色々と無理強いしたり、研究成果を自分の物にしようとするといったことはなかったんですけど、それでも十分に面倒な人でしたね。だいたい、考えてみてくださいよ。あれだけ人がいた調査団の中から、酷く怖い思いをした僕を一人だけで残すような人ですから、それだけでどういう人なのか、だいたいわかるでしょう?」
遥か彼方、帝国の地で眼鏡をかけた青年が大きなくしゃみをした。
シャノンの魔導技術院時代の苦労話により、三人の話し方が更に砕け始めた所で、組合連合会本部に辿り着く。四階建ての重厚な人工石造りは大砂海域への影響力の大きさを衆目に示しているようだ。
どっしりと腰を据えた本部の中に入ると、常の如く、セレス・シュタールに帰還を告げる為、ミソラが上階に向かって飛んでいく。残光を残す小人の少女が居合わせた人々の目を集める中、残された二人は密やかに本部奥の制限区域へと向かう。
シャノンの先導で二人は立ち入りを制限する衛士詰所を抜け、奥まった場所にある階段を降り、涼気漂う地下に新たに設えられた一室、特別保管室に辿り着く。
特別保管室には、セレスの手配で新編された旧書管理翻訳班が詰めていた。
この旧書管理翻訳班は旧世紀の文字を解読できる五人の職員で構成されており、貴重な旧世紀の書物を管理すると同時に、旧世紀の文字を現在使用されている共通文字に翻訳し、訳書を作製する仕事を担っている。
訳書は今後活用される可能性が高い物であるだけに、誤訳や誤字脱字の類が出ては不味いので、目を変えて二重三重の確認を行ったり、使用する訳語を巡って議論したりする等、班員達は皆、真剣だ。クロウ達が顔を出した時も、午睡も取らずにそれぞれが各々の机で、一心に翻訳作業に励んでいた。
こんな具合に非常に仕事熱心な班員達であるが、荷物の中より厚さ二十ガルトを超える大書『三千百年度版英学館大百科事典一巻』が取り出された瞬間だけは、皆揃って充血した目をたっぷりと潤わせたのは、完全に余談である。
ともあれ、運んできた全ての書物とシャノンがミソラの言うままに代筆した目録を無事に引き渡し、日雇い扱いのクロウが青白い顔の青年班長より日当を受け取ると、二人は作業の邪魔にならないよう、足早に立ち去るのだった。
三人は待合で再び合流すると、午睡の時間が終わって人通りが増え始めた南大通りを戻り、エフタ支部に向かう。光陽が目立って西に傾いたものの、気温は以前として高い。街路樹が作り出す木陰や時に吹き抜ける風がなければ、全身から汗が吹き出して、汗塗れになってしまうだろう。
ミソラ以外の二人が汗を流しつつ、木陰や建物の陰を選んで歩き続けていると、再びトラスウェル広場が見えてきた。商店街や繁華街に向かう人々が行き交えば、体格の良い人足が瓶や籠を積んだ荷車を曳いていたりと、先よりも賑やかになっている。その中、三人は砂塵を落として、エフタ支部に入った。
支部の中はまだ、ゆっくりとした時間が流れていた。
昼間は食堂として機能している酒場は客も少なく、遺物の買い取り等を行っている窓口もまた人影はない。加えて、職員達も夕刻からの忙しさに備えるかのように、心なしか動きがのんびりとしている。
三人は酒場に入ると、壁際は奥まった位置にあるテーブル席に腰掛け、置かれていた絵付きの品書きを眺める。が、実際に見ているのは、初めて来たシャノンだけで、それ程、品数も多くない事からすぐに決まる。
「シャノンちゃん、決まったかしら?」
「あ、はい」
「じゃあ、頼むわよ。おねーさーん、注文をお願いしまーす」
ミソラの声に応じるように、給仕係の女性が軽い足取りで注文を取りに来た。その胸も大きければも腰回りも大きいという、恰幅の良い黒髪の給仕係はミソラを認めると、皺が目立ち始めた褐色の顔に笑みを浮かべて口を開いた。
「おや、ミソラちゃんじゃないか、いらっしゃい!」
「こんにちは! 前に約束した通り、食べに来たわ」
「ええ、ありがとうね。……で、こっちの金髪の可愛い子は誰だい?」
「私の同僚で、シャノン・フィールズっていう子よ」
「そうかい、よろしく。できれば、今後も、ここを贔屓にしてくれたら嬉しいね」
とシャノンに言った所で、クロウに目を向け、人の悪そうな笑みを見せた。
「で、なんで、やんちゃ坊主のあんたが一緒にいるんだい?」
「二人とは縁があってね、友達付き合いさせてもらってるんだよ。それにしても、いきなりやんちゃ坊主は酷いな。もうやんちゃな時期は卒業したってのに」
「あたしらから見りゃ、酒も満足に飲めないあんたは、まだまだやんちゃ坊主さね」
「はは、手厳しいなぁ」
クロウが苦笑としか言い表せない笑みを浮かべていると、興味深そうにこちらを見つめる二対の目に気付く。
「俺、三年はここを利用してるんだから、知っていてもおかしくないだろ?」
「そうだろうけど、なんか、それ以前から知ってそうな感じじゃない。気になるわよねぇ、シャノンちゃん」
「ま、まぁ、少し気になります。あ、無理なら別に……」
「いや、別に隠す事でもないよ? ただ、この人、マリーさんは昔、俺が入っていた施設の近くに住んでいて、たまに食べ物を持って来てくれたんだよ。何しろ、あそこにいた時期は本当に食べ盛りだったからな、食べても食べても腹が減るから、本当にありがたかったよ」
「ははっ、気にする必要はないさ。全部、ここの余りもんだったからね」
「本当に満腹感を味わえたのはマリーさんが来た時だけだったよ。だから、こうして、自然と、頭も上げられないって訳さ」
朗らかに笑う中年女性に対して、クロウは半ばおどける様に頭を下げる。その様子を見て、ミソラとシャノンは納得顔で頷いた。
「さて、こういう世間話も楽しいんだけど、早く注文を取れって感じに厨房が厳しい目してるから、そろそろ注文を頼むよ」
「ああ、という訳で、ミソラ」
「はいはい、ニニュの串焼き一本と一番少ない果物の盛り合わせ、それと……前に飲んだ炭酸の甘い奴」
「串に、果盛りの小、ピッターね」
「僕もニニュの串焼き一本と黒パンは……半分で、後、野菜盛り合わせの小と青茶でお願いします」
「俺は串焼き三本と黒パン一個、飲み物は粉乳で」
会計伝票に数字や品名を書き入れ、内容を確かめるように繰り返す。
「……よし、串一一三で五、黒一個半、果盛り小、野盛り小、ピッター、青茶、粉乳ね。会計は?」
「手間かけさせるだけだし、今払っとくよ」
他の二人が何か言う前に言い切ったクロウに、マリーと呼ばれた給仕は少年の成長或いは見栄を張る姿に、面白そうな笑みを浮かべる。
「全部で二百八十五ゴルダだけど、昔からの誼だし、端数は引いて二百八十にしといてあげるよ」
「そりゃ助かる」
クロウより白い光沢を帯びた三枚の百ゴルダ貨幣を受け取ると、マリーは伝票の合計部分を手早く書き直し、支払い欄にもチェックマークを入れる。それから、前掛けのポケットより赤みを帯びた二枚の十ゴルダ貨幣を取り出して、クロウの掌に返した。
「じゃ、少しだけ待っとくれ」
給仕は三人に笑顔で言い残すと、厨房に注文を渡すべく去って行った。声が届かなくなったと見て取ると、ミソラが代表して問いかける。
「お金、いいの?」
「いいさ。割の良い仕事を紹介してもらったからな、少しは返しておくよ」
「ふふっ、それは良い心がけだわ。シャノンちゃん、ここは好意に甘えましょう」
「え、本当にいいんですか?」
「男としての見栄を張らせてやってってことよ」
したり顔でいて、悪戯心も多分に現れた表情で、テーブルの上に立つミソラが言うと、クロウが呆れた声を出す。
「いや、お前、そういうのは本人がいる前で言う事じゃないぞ?」
「ワザとに決まってるじゃない」
「だろうと思ったよ」
クロウは乾いた笑みを浮かべる。一方のミソラは晴れやかな笑みを見せた。実に対照的な二人の笑顔に、シャノンもまた吹き出す。三者三様の笑みが一頻り場を満たす。
それぞれに到来していた笑いの波が引くと、ミソラが表情を改めて、クロウに質問する。
「ねぇ、クロウ。今日で仕事は終わったけど、この後はどうするの? 遺物拾いに戻るの?」
「いや、どこかのおねーさんがいい仕事を持って里帰りしてくれたお陰で大金が手に入ったから、組合連合会で魔導機の搭乗免許を取ろうと思ってる。あれはどこでも通用する免許だしな」
「え、あの外骨格、動かす為の免許があるの?」
「当たり前だっての。魔導機って甲殻蟲と正面から戦えるだけに、人も簡単に殺せるんだぞ? 身元が確認できて、正規の訓練を受けた奴じゃないと乗れないって仕組みもできるさ」
「へぇ、そうなの」
「ああ、一時、魔導機を使う野盗が増えたから、全市が集まって協議して、民間は組合連合会が一括して管理するようになったらしい。……まぁ、一括で管理をしたからって、野盗がいなくなる訳じゃないんだが、それでも数は減ったそうだぞ」
「色々とあるのねぇ」
「いつの時代もそんなもんだろ?」
「まぁ、確かにね。それで、免許だけど、取れるの?」
「ああ、本式じゃなくて限定の方だから、取れると思う」
「限定?」
ミソラが首を捻ると、黙って二人の会話を聞いていたシャノンが口を挟む。
「魔導機の限定免許は工事や重労働用に用途を限定した簡易機……、出力制限したり、装甲を外した魔導機を動かす為の免許ですね」
「あぁ、つまり、重機扱いって事ね」
「ええ、そう取ってもらってもいいです。まぁ、一応、重機は重機であるんですが、ここの工事では簡易機の方が主力みたいですから」
「むー、ここだと周囲に大きな瓦礫が多すぎて、運用性が悪いからって所かしら?」
「おそらくは」
と言いながらも、シャノンは胸の内でエフタ市に簡易機が多いのは、甲殻蟲の襲撃や漲溢が起きた時の予備戦力として備えているのだろうと当たりを付ける。というのも、簡易機でもしかるべき措置を施せば、一線級の魔導機に準ずる性能を発揮できる為だ。
シャノンが思考を深め、この地で使用されている魔導機を思い出している間にも、ミソラはクロウに新たな質問をぶつけている。
「ねぇ、本式と限定で、訓練に違いはあるの?」
「当然。本式は正規の魔導機にも乗れるからって、講習期間は長いし、訓練も下手な軍以上に厳しい上、試験も外に出ての実機演習らしいから、凄く難しいって話だ」
「限定の方は?」
「こっちはまだ簡単。本式よりも講習期間が短いし、訓練も基本的な操作と実地練習、簡単な整備を繰り返すだけ。試験も実際の工事現場で仕事をやるって内容だ」
「……ふーん、なるほどねー」
そう答えるとミソラは何やら考え事をするように腕組みをして、目を閉ざした。
小人の少女が沈思する姿に、何故か、少年の第六感とも言える部分が酷く疼くが、特にちょっかいを出してきそうな話はしていないし、これは多分、自意識過剰だろうと己に言い聞かせる。
けれども、その言い聞かせる声を上回る形で、彼の勘は激しく警鐘を打ち鳴らし、何か不味い事が起きる可能性が高いと声高に訴えかけてくる。
クロウは胸の内で不安感を増幅させていく彼の勘、特に危機感と呼ばれる部分に負けて、ミソラに何を考えているのかを問いかけようとする。
が、それは戻ってきた給仕の声で断ち切られてしまった。
「はい、お待たせ。串一一三と黒一個半、果盛り小、野盛り小、ピッター、青茶、粉乳だよ。串は熱いから気を付けてね」
「はーい、ありがとう」
「うんうん、ミソラちゃんは元気でよろしい。ま、今は客も少ないし、ゆっくりしとっとくれ」
その言葉と共に、注文の品がテーブルの上で割り振って置くと、マリーは暖かな微笑みを残して去って行った。香ばしい匂いを放つ串焼きを筆頭とした料理を前に、彼らの食欲が湧き起こる。
「さ、食べましょう」
「ああ」
「はい」
ミソラが軽く頭を垂れて縦一線に印を切って、さっさと食べ始めたのに対し、クロウとシャノンは両手を組み合わせて、祈りを捧げる。
とはいえ、クロウとシャノンが捧げる祈りの内意は異なる。特に神への信仰を抱いていないクロウは孤児院での教えのままに食べ物となった生命に対してであり、シャノンは帝国で広く信仰されている光明神に対してである。
そんな二人の祈りを見ていたミソラは口元を油塗れにしながら頬張っていた肉を呑み込み、感心したように呟く。
「……二人とも真面目ねぇ」
「いや、特に信じる神はないけど、マナーだからやってる」
「あはは、クロウ君、身も蓋もないですね」
「あ、ごめん。気、悪くした?」
「いえ。信仰はそれぞれ個人の物で、帝国と万人はそれを容認する、というのが、帝国建国以来の国是ですから、気にしません。でも、同盟や東方の人達の中には、無信仰や他神を許さないって人もいますから、気を付けてくださいね?」
「へぇ、そうなんだ。シャノンさん、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
その後、食事はクロウとシャノンの間に上手くミソラが入った事で会話が弾み、終始、楽しい雰囲気で進む。それこそ、己の第六感がミソラを警戒せよと必死に訴えかけていた事を、クロウに忘れさせる程に……。
こうして、三人での初めての会食は特に何事もなく、穏やかな内に終りを告げたのだった。
12/05/19 一部表記修正。
13/02/28 一部加筆。




