◆06:山を登る。
本当の顔が欲しいのだろう、と奴は言った。
本当の顔、とはどういうことですか、と鸚鵡返しに問い返す私に、奴は実につまらなさそうに「言葉通りの意味だ」と告げた。
”Третийглаз”の長たる奴は、この私からしても最悪の部類に属する人間だった。
いや、本当に人間なのか。
私は奴を何度となく殺してやろうと思い、その度に脳裏で思いつく限りの惨たらしい殺害方法を妄想した。それらを実行しなかったのは、もちろん良心が咎めたからではない。単に出来なかったからである。
それほどまでに、私は奴に畏怖を抱いていた。
ところが、その相手が唐突にそんなことを言いだしたのである。
弱者への施しではない。対等な取引でも無論ない。恐らくはおぞましい契約。下級悪魔が踊り出しそうな、こちらの弱みにつけ込んだ、交換の皮をかぶった一方的な命令のはずだった。
サインをすれば、比喩表現ではなく、本当に命を捧げることになるだろう。それなりに修羅場を潜って培われた私の直感が、全力で『否』と警告していた。わかってはいる。……だが。
欲しいのだろう、チャンスをやる、と奴は言った。
図星だ。
私は何としても、本当の顔が欲しい。
そう、私には顔がなかった。正確には、失ったのだ。いや、もっと正確には。
奪われたのだ。
顔というのは不思議なものだ。それは、私が私であるという証明。
顔を失ったとき、私は私ではなくなった。私であることを証明できなくなってしまった。
その後、確かに別の顔を手に入れた。だがそれは、『私の顔』ではない。
だから、私は私に戻れなくなった。今までの人生で積み上げてきた『私』が、消えて失せたのだった。
いや。消えて失せるだけなら受け入れられたかも知れない。それは『死』だ。
私は強欲だった。少なくとも、それを自覚している。強欲であればこそ、人生というゲームに果敢に挑んだ。強欲であればこそ、可能な限り楽しんだ。強欲であればこそ、『死』というゲームオーバーへの覚悟も出来ていた。
だが、『私』は奪われたのだ。私が積み上げてきたものも、全て。
それだけは。断じて受け入れるわけにはいかなかった。
強欲であればこそ、奪われることは許せない。
権力の階段を駆け上がるものが道を踏み外したとき、登った段の数だけ落下の痛みは増す。私は『私』でなくなった後、地の底を這いずるように生き延びてきた。
堕ちた誇りを抱え闇に生きる私……いつしか私の生き続ける理由は、一つに収斂していった。
本当の顔を奪り返す。
奴は私に、その機会をくれるという。
拒む理由は、なかった。
命をかけることになるだろう。だが、一度は失敗し、泥にまみれ、『顔』を――全てを失う事になった、あの事件に。
そして――私の顔を奪ったあいつに報復が出来るのなら。
再び、私の本当の顔を、奪り返せるのなら。
そのためなら、何だってやってやる。だから、私は。
奴の契約に乗ったのだ。
板東山を北から切り裂くように流れ、元城市へ向けて注ぐ板東川。なんでも室町時代の文献には既に登場しているほど由緒正しいこの川は、上流と下流で大きくその姿が異なる。
元城市内を流れるエリアでは洪水に備え、格子状のコンクリートにより整然と護岸工事がなされている。だが、上流へ遡り、板東山も中腹あたりまでやってくると、整備されていない剥き出しの川原が広がっているのだった。
清音達四人は、その細い川原を歩き続けている。先に進むにつれ、砂は砂利になり、石は岩になる。現在彼女たちがいるのはもはや、川原と言うより岩場だった。
無数に転がる岩と石。突き出た流木とガレキ。それらの隙間を埋め尽くす砂利と土砂を踏みしめ、ひたすら上流を目指すこと、かれこれ一時間。
大きめの岩に足をかけ、一気に身体を引き上げる。その拍子にバランスを崩しそうになるが、とっさに横に張りだした太い木の枝をつかみ、どうにか身体を支えた。清音は岩の上に立ち、大きく息を吐く。
「……どうやら、着いたみたいですね」
そこに広がっていたのは、清流を堰き止めるように横断する、膨大な土砂の塊だった。一月ほど前、急角度の斜面から滑ってきた土砂の塊は、道路とトンネル、そして斜面に生えていた無数の樹木を呑み込みながら落下し、この地点で板東川と衝突したのだった。
当然板東川は堰き止められ、一時はここら一帯が溢れた水でずいぶん酷いことになったらしい。その後の復旧活動でどうにか最低限の土砂は除けられ、水が流れるようになったものの、そこで作業は一旦打ち切りとなってしまっていた。
もしも小田桐氏が流されているのならば、ここが一番確率が高いはずだった。
「予想はしてたけど、これは想像以上にひどいですね」
惨状を一通り把握すると、清音は岩の上に座り込み、背負っていたバックパックを下ろす。修行のためと称して割と本格的な山ごもりをさせられた経験もある清音だが、さすがに岩場を登り続けるのは疲れた。
「これは、完全に、トレッキングですねえ」
その清音の後ろを背広姿で息を切らしながらついてきたのは徳田だ。すでに膝にきているようで、その様は岩を登るというより這い上がると言った方が正しい。清音は手を貸して、徳田を引っ張り上げてやった。
もともとウルリッヒの正社員とはいえ、彼はあくまで一般人にすぎない。本来はここまで着いてこずとも、会社の支店に待機して清音達の報告を待っていれば良いはずなのだが。
「はぁやっと着いた。まったく、お客様へのサービスというのも楽ではありませんなあ」
職務熱心と言うべきなのだろうか。元城市を車で川沿いに北上して板東山中に入り、行けるところまで進み、そこから徒歩で一時間というこのハードな行程に、結局最後までついてきてしまった。
「じゃあちょうどいい区切りですし、仕事に取りかかる前に休憩にしましょうよ」
清音はバックパックを開いて中から水筒と紙コップを取りだし、二人分の麦茶を注ぐ。徳田は恐縮恐縮と手で拝む真似をしつつ、麦茶を飲む。清音も自分の分に手を伸ばす。
「お、清音ちゃん気がきくでないの」
横合いからひょいとその紙コップを取り上げたのは、いつの間にか清音達に追いついていた土直神だった。そのまま清音が止める間もなく飲み干してしまう。
「ウム。ンマイ」
「ちょっと!飲むなら自分の飲んでくださいよ」
「おいら水筒持ってないもんよ」
「それだけ荷物に余裕があったくせに何言ってるんですか」
大きめのバックパックを背負った清音とは対照的に、土直神は集合したときの服装そのままで、カバン一つ持ってはいない。
それどころか、呆れたことに片手に未だ携帯ゲーム機を持ったままである。石の上や川の中に落とせば一巻の終わりだろうに、一向に本人は気にする様子がない。
「だっておいらぁシティボーイよ?そんな清音ちゃんみたいなセンスのない装備は出来ないじゃん」
確かに清音の今の服装は、高校指定の運動用の分厚いジャージ上下だった。
センスを云々する以前の問題だが、清音にしてみればせっかくの私服を、誰に見せる必要もない山奥の仕事で汚したり破いたりする気にはなれない。洗濯代というのはバカにならないものなのだ。
「……いいですけどね別に。本番ではちゃんと着替えますし。ところでシティーボーイってどういう意味ですか?」
「知らんの?そんなんだから田舎モンって呼ばれるのさ清音ちゃんはあ」
もちろん清音には、彼女が生まれる前にとっくに死語になった言葉などわかるはずもないが、少なくとも時々買い物に出かける都内でシティーボーイという言葉を聞いた記憶はなかった。
残りの紙コップを取りだして麦茶を注ぎなおす。今となっては癪だが、最初から四人分注ぐつもりだったのだ。
一方の土直神はと言えば、携帯ゲーム機からタッチペンを引き抜くと、清音達の腰掛けている岩に触れ、なにやら小さな円を描くような仕草をしている。
「……『仕込み』ですか、土直神さん?」
「ああ。仕事には入ってないけど、こういうのを見ちまうとクセでね。しかしこりゃあひっでえなあ。脈がぐっちゃぐちゃだ」
ぶつぶついいながらあちらこちらの岩や地面にタッチペンで細工をし始めた土直神から視線を外し、清音はようやく人心地を取り戻したらしい徳田に話しかける。
「徳田さん。すみませんが、小田桐さん……土砂に埋まっているかも知れない方について、もう少し詳しく教えてもらえませんか。何も情報がないと、お話が出来ませんし」
「は?ええ。私などで分かることでしたら
「では。家族の事をお願いします。たしか三年前に結婚されて、子供も生まれたんでしたっけ?」
徳田は背後のカバンに向き直り、書類を取り出す。
「そうですな。元々はお見合い結婚で、取引先とのパイプを強化するという意味合いが強かったのですが、そういう事を抜きにしても実際、非常に美人で気だての良い奥さんで、近所でも評判だそうですよ」
「ご夫婦の仲は良かった?」
「ええもうそれは。地元の方によると、御主人の方は物静かで控えめな性格なのだそうですが、記念日や奥さんの誕生日にはプレゼントを買って早く帰る、連休ともなれば揃って温泉、小旅行に出かけるという仲睦まじさだったそうです。一応ウルリッヒでも事前調査をしたのですが、群馬にある自宅の周りでは、ご近所から悪評どころか妬みそねみの類もほとんど聞かれませんでした」
「ふえー」
清音はそれ以外にコメントのしようもない。清音のイメージする夫婦像の九割は、町内会の寄り合いで開かれる奥様方の井戸端会議に依るものである。
「そして昨年子供が誕生。長男ですね。いやはや、全てを手に入れた幸せな人生、と言うべきですかねェ」
うらやましいものです、と徳田は遠い目をする。
書類には奥さんの名前や長男の名前もあった。清音はあくまで徳田のチームに派遣された臨時メンバーに過ぎず、小田桐氏が行方不明になった後、この人達が今どれほどに悲嘆の底にあるかを直接知る立場にはない。
もしも小田桐氏が生きているのだとしたら、何としても会わせてあげたいものだ。と、思考に没頭する清音に、徳田が遠慮がちに紙コップを差し出す。
「すいません、麦茶もう一杯いただけますか」
「あ、どうぞどうぞ。そうだ、四堂さんも飲みます?」
清音は背後に声をかける。最後の一人が、やはりいつの間にかそこにいた。
この一行において、しんがりを務めているのが四堂だ。
徳田と同じ背広姿だが、猫科動物めいたしなやかな巨体はこの山中に完璧なまでに馴染んでおり、まさしく密林に放された人喰い虎のごとく。足音すら立てず、無造作に足場の悪い河原を踏破している。
マクドナルドを出てから一時間近く、ここまでほとんど口を開いていなかった四堂だが、軽く手を振ると、麦茶には口をつけずぼそりと言った。
「近くに複数人の気配がある」
「え?」
清音と徳田は顔を見合わせた。復旧作業もすでに打ち切り、警察の現場検証の予定もないはずだ。
「気配って……この現場にですか?」
うなずく四堂。その視線は土砂崩れの落ちてきた方向に広がる森の中に向けられている。
「まさか山菜採りの人でも紛れ込んだとか」
「あるいは、上の県道は復旧していますから、もしかしたら興味本位の野次馬が崖を覗き込んで、そのまま滑り落ちてきたのかも知れません」
「いずれにしても迷惑な話ですね」
「では、警戒に当たる」
そこで用を足してくる、と聞こえかねないほどの何気ない口調で踵を返すと、巨体をひらりと岩の下へと踊らせる。
「あ、ちょっと四堂さん、」
止める間もなかった。両手に何も持たない背広姿のまま四堂は岩場を降り、斜面へと続く森の中へと溶け込むように入っていってしまった。
「行っちゃいましたなあ……」
「今回は戦闘系の四堂さんの出番はなさそうですからね。あの人の事だから、『少しは働かないと給料をもらう資格がない』とか考えているんじゃないですか」
「職人気質なんですな」
「まあ……ある意味では」
清音は言葉を濁した。四堂が普段請け負う仕事の内容を考えると、確かにこれ以上ないほどストイックな職人と言える。徳田の麦茶が空になっているのに気づくと、清音はよし、と呟いて、両の手を打ち鳴らした。
「さて。じゃあ徳田さん。私も自分の仕事を始めちゃっていいですか?」
紙コップをしまい、いくつかの道具が詰まったリュックを引き寄せる。心得顔の徳田が、恭しく一礼した。
「よろしくお願いします、『風の巫女』。ああ、土直神さん。着替えの間、我々は後ろを向いていましょうね」
「ちぇー。そこはおいらがボケてからツッコんで欲しかったッスよ」
つまらなそうに、土直神が口を尖らせた。
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