◆02:派遣社員、北へ
土曜日の午前六時。
十月の下旬ともなれば日の出の時刻も随分遅くなっている。
かすかに白み始めた紫色の空のもと、澄みきった空気は肌寒く、街はまだまだ眠りから覚めていない。おれはようやく目的の場所にたどり着き、ひとつ白い息を吐いた。
天気予報によれば、今日は暖かさを感じる秋晴れとのことだったが、それも全ては太陽が昇ってからの話らしい。羽織ったジャケットの袖から両の掌を引き抜いてこすり合わせ、おれは喫茶店『ケテル』の重厚な樫の扉を押し開いた。
からんころん、と平仮名で表現するのが相応しいレトロなドアベルの音と、暖かさを保った室内の空気がおれを包む。高田馬場駅から二十分、ここまで冷え込んだ薄闇の中を歩いてきた身体のこわばりが解れていくのがわかった。
店内には三人の人間が居た。テーブル席に向かい合わせで掛けている二人と、カウンターの奥にたたずむ老紳士が一人。
「おはようございまーす……」
おれが寝ぼけ声でカウンター向こうの老紳士に挨拶をする。
「おはようございます亘理さん。何になされますかな」
「あー……じゃあモーニングセット。眠気覚ましにキツイ奴つけてください」
「早朝に濃いコーヒーを飲むと胃に良くはありません。カフェオレにしましょうか」
「お願いします桜庭さん」
相変わらずの細かい心遣いに感謝しつつ、おれは席に向かった。
この老紳士は桜庭重治さん。この喫茶店『ケテル』のオーナーにして、おれ達が所属する人材派遣会社フレイムアップの会計担当。そして所属するメンバーのうち最後の一人でもある。
もともと海外のあちこちを渡り歩いていた人なのだが、数年前にそれまでの仕事を引退し、ここに店を構えて落ち着いた。浅葱所長とは遠縁の親戚にあたり、学生時代は後見人になっていたらしい。会社を設立する際にも何かと桜庭さんが支援をしたのだそうで、あの所長が唯一頭の上がらない人物でもある。
一応フレイムアップに所属し、喫茶店の経営ついでに会計もしてくれているが、おれ達からしてみれば同僚と言うよりOBのような存在である。この人が前線に出てくる事は滅多にない。
まあ、そうそう出てこられると他のメンバー(特におれ)の存在価値がなくなってしまうので、何事もほどほどが一番と言うことだ。
年の頃は詳しくは知らない。賢者のような老成した雰囲気は七十を超えているとも思わせるし、背筋が伸び、統制の完璧に取れた佇まいはまだ五十歳と言っても通るだろう。
ほとんど白くなった頭髪をオールバックにして髭を蓄えた姿は日本人離れしており、冬のスコットランドの暖炉の前でパイプをくゆらせている姿が容易にイメージ出来てしまう。
加えて、『理性と良識』という概念を固めて圧縮成型したようなその人格から、おれ達ヒラメンバーの寄せる信頼度ははかりしれない。
桜庭さんが『この仕事は危ない』、あるいは来音さんが『今月は苦しいです』と発言した時こそが、我が事務所における真のボーダーラインとされている。
テーブル席に向かうと、そこには二人の少女が向かい合わせに座っていた。いずれも知った顔であり、おれは軽く手を挙げて挨拶する。
「おはよ!ってなんか暗いなあ。キアイ足りないよ?陽司」
おれに向けて手を振っているのは、ショートカットの黒髪と大きめの瞳が印象的な高校生(あえて女子高生とは呼んでやらん)、七瀬真凛。一応この仕事ではおれのアシスタントという事になっている。そういえばコイツとのコンビも、すでに半年近くになるのか。
「黙れストレスフリー娘。こちとらレポートが再提出くらって寝る間も惜しいんだよ……」
寝ぼけた頭で応じる。まったく、午前六時だというのにやたらとテンションの高いお子様である。
「それはそうだよ。いつもは朝稽古の時間だしね」
そーですか。勿論、おれはいつもは絶賛睡眠中の時間である。麻雀でも打っていればそれこそ今から寝に入ってもおかしくはない。ていうか正直今すぐ回れ右して布団に潜り込みたい気分である。
「亘理さん、ここどうぞ」
と、真凛の向い側の席に座っていた女子高生が奥にひとつ詰めて、おれに席を作ってくれた。やあありがとう、とおれは上の空で礼を述べ、ジャケットを脱いで腰を下ろす。そこでようやく寝ぼけ頭が違和感に気づいた。
「……涼子ちゃん。涼子ちゃんじゃないか。こりゃ珍しいところで会ったもんだ」
「ごぶさたしてます、亘理さん」
そう言って、律儀にぺこりと頭を下げる。その動きにつられて長めのポニーテールがひとつ跳ねた。
この少女の名前は金沢涼子。彼女については以前どこかで少し触れたことがあったかも知れないが、真凛のクラスメートである。
やや明るい色の髪と瞳の、すっきりとした面立ちと、ひとつひとつリズミカルな動作が印象的な少女だ。
真凛のようにバカみたいにエネルギーが有り余ったオーバーアクションというわけではなく、小さくとも内に秘められたうねりの大きさを感じさせる、海の波のようなリズム。
「たしか君の家は埼玉じゃなかったか?」
半年ほど前、おれは名門女子校にまつわるゴタゴタの解決のために派遣された事があった。そしてその学校に通う彼女達に初めて出会い、その際に涼子ちゃんの住所も調べたりしたのである。
……そーいやあの時真凛に目玉を抉られかけてから、しばらく先端恐怖症になったんだっけかな。
「週末の早朝となれば……もしかして朝帰りとか~!?」
おれはオヤジっぽい表情をつくって意地悪な冗談を飛ばしてみた。と、
「ハイ、そうなんです」
あっけらかんと答えられたものである。
「ちょ!?、本当?」
「池袋でライブをやって、そのまま打ち上げにいったんです。親に電話したら、無理に夜に帰ってくるよりは歌の先生のところに泊まっていった方がいいって」
「ああなんだ、そういうことね」
と、向かいの真凛が冷たい目で睨んでいる。
「どういうことだと思ってたわけ?」
「イヤ別ニ」
しかし、それならそれで早朝にわざわざ喫茶店に寄る必要はあるのだろうか。
「ついでだから借りてたマンガをまとめて返そうと思って。きのう待ち合わせしたんだ」
真凛の席の隣には、なるほどトートバックにぱんぱんに詰まったマンガの単行本。確かにここまで膨れあがってしまっては学校に持ってくるわけにもいくまい。というかそもそもこうなる前にこまめに返せというに。
「けどなんというか、無秩序な……」
トートバッグから覗くマンガは種々雑多だった。少女マンガに少年マンガ、青年マンガも一部ある。なんとなく女の子は少女マンガしか読まないものと思いこんでいたおれには、ちょっとした驚きだった。
「ふっふん、何をアナクロなこと言ってるんだよ陽司。今時は少女マンガだけしか読まない子の方がキショウなんだよ」
アナクロに稀少ときたかい。ちゃんと言葉の意味を分かって使ってるんだろうな。
「とくにこれなんかね。最終巻で宿命のライバルが対決するシーン、行動の読み合いが凄いんだよね」
「そうだよね、二人がどれほどお互いのことを考えてるかが良くわかるよね」
「だよねー」
仲が良くて結構なことだ。しかし微妙に二人の会話に齟齬があるような……まあいいか。
「それにしても多いな。そんな重いの引きずって帰るのは大変だろうに」
「あ。大丈夫です。ライブの機材よりは軽いですから」
実はこの子、昼は名門女子高のお嬢様、夜はインディーズのバンドのボーカルという二つの顔を持っているのである。
なんでも子供の頃から声楽を習っていたのだそうだが、そこの先生が面白い人で、クラシックとメタルを融合させてシンフォニック・メタル(……ものすごくぶった切って説明すると、ファンタジーRPGのボスキャラ戦のような曲)に傾倒し、その影響を受けて彼女もボーカルになったのだとか。
世間では有名な音楽家の先生だそうなので、一人で帰らせるより確かに安心である。その教えを受けた彼女の実力も本物で、インディーズ業界でもめきめきと頭角を現しつつある。おれも社交辞令抜きでCDを買わせてもらい、『アル話ルド君』に突っ込んで良く聞いていた。
「そうそう、今度の新曲いいね。ソロでギターの代わりにバイオリンで早弾きするあたりがツボだったし。声も、初めて会ったときから凄かったけど、さらに綺麗になった。水晶みたいだ」
「本当ですか?」
普段は優等生と言ってもよい子なのだが、こののんびりした子がひとたびステージでマイクを握れば、圧倒的な声量でライブのお客どころか会場ごと津波のように呑み込んでしまうのだから、人間というのはつくづくわからない。
特筆すべきはその声で、高い音程で歌い上げる時に若干ハスキーが入ると、声自体は十六歳の少女のものでありながら、おそろしい程に威厳ある声になり、これが仰々しい曲と実に合う。
バンド自体がシンフォニック・メタルで、特に北欧神話をモチーフにした曲が多いため、ファンの間では『ワルキューレ』のニックネームが定着しつつある。某バンドのカバー曲で、『In this bloody dawn, I will wash my soul to call the spirits of vengeance』とか歌われた時は、おれでも少しゾクっと来た。
ちなみにこのバンドのメンバーというのも、ギターにベースにドラムにキーボードと全員が全員面白人間だし、ボーカル仲間にも奇人変人が多かったりするのだが、その紹介は長くなるので割愛させていただく。
「ああ、本当も本当。惚れちゃいそうだね」
「嬉しいです。亘理さんにそう言ってもらえると」
「はは、『ワルキューレ』のお役に立てれば光栄だ。お世辞でもねー」
おれはからからと笑った。何しろ既にファンクラブまであるとの話である。メジャーデビューも間近と噂される、ある意味おれごときとは違う世界の住人である。
「お世辞なんかじゃ――」
「そ、それで!今日の仕事のことだけど、どんな内容なのかな」
真凛が声を張り上げる。人の会話に割り込むとは作法を知らん奴だな。
「ああ、その件だがな……。と、その前にメシを食わせてくれ」
おれは肩越しに振り返る。一流のバトラーを思わせる動きで、桜庭さんがたいそういい匂いを立てているトレイを運んでくるのが目に入った。
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