◆13:泡沫の果てに
トミタ商事事件。
かつて、戦後最大と言われた詐欺事件である。
その被害者救済に東奔西走し、弁護士の亀鑑として称えられる事になったのが露木甚一郎氏。しかしその名声の影には、家族の犠牲があった。有形無形の圧力が彼自身とそして家族に向けられ、やがて疲れた夫人は、事故を起こして鬼籍に入る。
事件が解決した後も、一人息子である恭一郎は、決して父を許すことはなかった。父の業績が世間に認められても、いや、認められるほどに、それが誰の犠牲によって成り立っているのかと思うようになったのかも知れない。
縁を切ってアメリカに渡り、父の業績を否定するようにカネを儲けることを目指した息子。一方の父は、その後も弁護士として業績を残したが、やがて年齢を理由に引退する。
方々から名誉職や企業の顧問の地位を提示されたが、応じることはなかったという。トミタ事件について本をを著してみないか、との誘いも断った。
その時点では誰にも告げていなかったが、癌に冒されていたこともあったし、自分は弁護士であり、それ以外のものではないと思うところもあったようだ。
伝説の弁護士の晩年は、その業績に比してとても寂しいものだったらしい。家族はなく、引退と同時に後進の弁護士達との交流も断ったと聞く。数少ない友人達とは手紙を交わしていたが、直接顔を合わせることはなく、誰も彼が癌に冒されていた事を知らなかったようだ。
世捨て人とも思える彼の行動が、どういった心境に基づくものなのかは、おれ程度ではまだ窺い知ることは出来ない。病院にもろくに行かず、担ぎ込まれて入院した時にはもう転移が進んで手遅れだった。
以後、それなりに闘病生活は送っていたが、一縷の生還の望みに向けて努力するということもなく、淡々と日々を過ごしていた、とは病院の医師の語るところだ。イズモ・エージェントサービスに息子恭一郎の捜索を依頼したときには、もうベッドから起き上がることも出来なくなっていた。
――自分はプライドに縛られた弱い人間なのだ。
先日おれが伺ったとき、甚一郎氏はそう語っていた。
歩けるうちは息子を探そうともせず、歩けなくなってから会いたいと思う。
私は弁護士の亀鑑などではない。トミタの時もそうだった。私があの仕事を引き受けたのは、勇気からではない。恐怖からだった。目の前にいる被害者を置き去りにして逃げたかった。だが自分が”正義”でなくなるのが怖かったから、引き受けざるを得なかったのだ、と。
そして今また、家族と会う資格など捨ててしまいながら、息子の現在の姿を知らないまま逝くことを恐れ、最期の最期で会いたいと思ってしまったのだ、と。
イズモ・エージェントサービスへの当初の依頼は、今息子がどうしているのか知りたい、というものだった。無事でいることがわかればそれでいい、会うつもりはない。調査結果を受け取るまではそう思っていた。
だが、息子がヨルムンガンドの社長であると知り、その商売の内容を聞いて、一度だけ会わなければならない、会って言葉をかけねばならないと思ったのだそうだ。
……それが、今回の依頼のそもそもの発端である。
「深夜の病院てのはあまり気分のいいものじゃないな」
東京にほど近い千葉西部の病院の三階、入院患者達の部屋がある棟におれ達はいた。露木氏の病室の扉の前に置かれたベンチに腰掛け、入り口を護っている。今、この扉の奥には露木氏と、そして水池氏が居る。十数年ぶりに対面した親子二人が、会話を交わしているのだろう。
「これが人捜しの番組なら、一番視聴率的に盛り上がるところなんだがな」
「水池さん、お父さんと仲直りできるのかな……」
「さあな」
病室の中で、どんな会話が行われているのか、おれは知らない。知る必要もないことだった。十数年生き別れていた親子の仲を取り持つほどおれは図々しくはないし、義憤に駆られるほど熱血漢でもない。おれ達はあくまで傭兵――水池氏をここに連れてくることを請け負った、ただの派遣社員なのだから。
「しまった!」
おれはろくでもないことを思い出して舌打ちした。
「どうしたの?」
「大学のレポート出すの、明日の朝イチまでだったんだよ」
ザックからレポート用紙を取り出して、慌てて筆を走らせる。
「そんなの後にすればいいじゃない」
「馬鹿者、これにはおれの輝かしい卒業への道がかかっているのだぞ」
というか、留年したら学費が足りなくなるのだ。
いやホント、こんなバイトをやっていると、世間のオトナが一年にいくら稼いでいるのかがだいたいわかるようになってくる。すると、私立大学の学費ってのがいかに親にとって大きい負担かというのはイメージ出来るようになってくるのだ。
まして地方から上京させて、家賃に仕送りまでつけてやるとなれば負担倍増しだ。花の大学生活、授業に行かずに気楽に遊び回るのも大いに結構だが。出してもらった学費分の何かを身につけないと親に申し訳ないよ、とバイト代と奨学金でまかなっている男は言ってみる。
「……もしかしてアンタ、意外と真面目な学生だったりする?」
「……オマエサンはおれを何だと思っていたのカネ?」
”サボって遊ぶ”と”効率よく勉強して残りはダラダラ遊ぶ”は違うのである。まあ、出る価値がないと判断した授業は代返してもらったりするし、最近は、このバイトのせいで平日の授業を落とすこともしばしばだが。
「お前もバイトで腕を磨くのはいい。だけど授業サボって親に迷惑はかけんなよ」
いなくなって初めてわかるありがたみ、てな言葉もあったな。
「う……はい」
なんだか三年ぶりくらいに真面目なことを言った気がする。深夜の病院では軽口を飛ばす気にもなれず、おれは話題を転じた。
「どうだ、真凛。周囲は」
「殺気、って言えばいいのかな。生き物じゃないのに、こっちを狙っている気配が、数えるのも嫌になるほどあるよ。ぐるっとこの病棟を二重三重に取り巻いているね」
そうか、と呟いた。BMWでだいぶ引き離してやったが、『絞める蛇』ご一行様はもうしっかりこちらに追いついてきているらしい。直樹達には連絡を既に入れてある。どうやら仕事は終わりに近づいているようだ。
その時、静かに病室の扉が開いた。
中から歩み出てきたのは水池氏だった。おれ達は軽く会釈をして、尻をずらしてベンチに席を空けた。腰を下ろし、タバコ……タビドフ・マグナムに火をつける水池氏。
「――礼を言わなきゃならん、な」
そう口を開いた。半分が灰になるほど深々と煙を吸い込み、一気に吐ききる。彼はおれの顔を見ると、どうだ、とタバコを差し出した。
「たまには頂きます」
おれはタバコを受け取る。水池さんが手ずから点火してくれた。きつい匂いだが、一口吸うと、最高級のタバコだけが持つ、甘くて濃厚で深い香りがおれの鼻腔に充満する。
「……驚きました」
「美味いだろう?」
若者で、タバコを美味いと思って吸っている奴が何人いることか。九割がカッコつけで吸い始めて、いつのまにかやめられなくなる類のものだ。おれも美味いと思ったことは一度もない。だが、これは別格だった。
「親父がよく書斎で吸っていてな。こいつが吸えるようになったら大人だとそう思ってた」
吸えるようにはなったんだがな、と水池さんは言う。
「……親父のようになりたかったのか。親父のようにはならないと思っていたのか。走って走って走り抜いて。たどり着いたところが、お袋を殺した連中と同じ穴、とはな」
おまけに会社まで失って、と自嘲する。
「――クソ親父め。後悔していたなら後悔していたと最初に言えばいいものを」
今更そんなこと言われてもなあ、とぼやいた。もう粉飾決算の情報はネットを伝って日本中に流れている。明日市場が開けば、ヨルムンガンドの株は一気に暴落するだろう。株主達がどれほどの損害を被るか、想像もつかない。
「結局、俺がやってきた事はただの詐欺なのか」
「そうじゃないと思いますけどね」
言葉を続ける。
「おれだって貴方に投資してます。まあ、五万円ですけど。必死に小遣いから捻りだした金、どこに投資しようか、そりゃあ無い知恵絞って考えましたよ。投資家気取りの素人ですがね。それでもおれ達は、貴方を選んで金を投じたんです。少なくともそれだけのものは、貴方にはあったってことなんじゃないですか」
「だが、株価の暴落による損失はもう避けられん。彼らに何と言えばいい」
つい先日、物事はシンプルに捉えた方が良いと言ったのは誰だっけか。
「また株価を上げればいいんじゃないですか」
「……簡単に言ってくれるな」
「簡単じゃないことはわかってますけど。だからこそ、貴方にしか出来ない仕事ってことだと思います」
「やっぱりお前、どんだけ大変か理解してないだろ」
苦笑する水池さん。
「立て直し、か」
そして五秒くらい、天井を見た。
「厳しいものだな」
と、不意に視線がこちらを向く。
「……そうそう、お前、卒業したら俺の会社に来るか?」
「もし卒業まで無事に生き延びて、その時まだ御社があったら考えます」
「忘れるなよ」
久しぶりに、あの不敵なドラゴン水池の笑いが復活した。
タビドフ・マグナムの香りが、ゆっくりと夜の病院の廊下に伝ってゆく。吸い終えて灰皿に押しつけると同時に、水池氏はぼそりと呟いた。
「これからまた、忙しくなるな」
その言葉を発するまでに、どれだけのモノを背負う覚悟を決めたのか。余人にはうかがい知れなかった。おれも習って灰皿に吸い殻を押しつける。
「陽司、その。……気配が」
横から真凛が申し訳なさそうに口を挟む。その言わんとするところは明白だった。お父上の件が終わったからと言って、『蛇』の攻撃が止むわけでは無論ない。
「わかってる」
「亘理君」
水池さんはおれに向き直った。
「もう一度、仕事の依頼をさせてくれないか」
力強い言葉である。築き上げられた押しの強い態度の底に流れるこの真摯な姿勢こそ、水池恭介という男の本当の基盤なのだろう。
「あの蛇を撃退して欲しい。もう一度ヨルムンガンドを建て直す。そのために、今は死ぬわけにはいかない」
「お断りします」
即答するおれ。あ、隣のアシスタントがなんかわめいてる。
「なんで!仕事はもう終わったんだから、受けたっていいじゃない」
「もちろん、事務所を通じて正規のルートで申し込みをさせてもらうつもりだ。君たちにこそお願いしたいのだが。報酬は、三百万はもうムリだろうが……」
「それなら問題ないでしょ、陽司?」
「だめデス。そもそもキミは業界の基本を忘れておるよ七瀬クン」
真凛がおれをじっと見つめている。だからそんな顔するなっつうの。
「……ウチの会社は本当に人使いが荒いんですよねぇ、福利厚生が大したこと無いくせに」
おれは窓の向こうに視線を飛ばしたままぼやいた。
「一度受けた依頼は、フォローを含めて完全に達成しないと給料もらえないんですわ」
「それは……」
「どういう意味?」
まだわかりませんかねこのお子様。真凛の額をぺしぺしと叩く。
「お連れしたお客さんに安全にお帰り頂くまで、この仕事は終わったことにはなりません。……ちゃんと覚えておけよ?」
おれの発言の意図が奴の脳細胞に届くまで、一秒の時差があった。
「そうこなくっちゃ!」
スイッチが入った。真凛が、狩りに出陣する虎の児めいた笑みを浮かべる。
「水池さんは、部屋の中に。万一の事もあります。お父上と一緒に居てください」
おれ達の仕事は、ここを守りきること。既に連絡は取れている。『蛇』を仕留めるのは、別の奴の仕事だ。
首をごきりとならすと、ベンチから立ち上がり、廊下へと歩を進める。プールの授業がやってきた小学生のように腕をストレッチしながら、真凛が続く。
「じゃあ始めるか。……ついて来いよ、アシスタント!」
「途中で転ばないでね、先輩!」
歩を進めるおれ達。
病院の廊下の向こうから、一斉に水の蛇の群れが襲いかかってきた。
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