◆08:凶蛇猛襲
「……と、言うわけで、息子恭一郎氏を、お父上である露木甚一郎氏に引き合わせるためおれ達がやってきたというわけです」
おれは手短に話を終える。実際のところ、水池氏のランチタイムはあと十分。次はまた別のアポイントが控えているのだそうだ。貴重なチャンス、なんとしてもこの十分でイエスの返事をもらわねばならない。
「露木恭一郎、か。そんな奴はとっくに死んだよ」
缶コーヒーを胃に流し込み、無感動に水池氏は述べた。とはいえ、これ程までに『本人である』と明示されているイズモの調査結果にケチをつけたわけではない。
「今の自分はあくまで”水池恭介”であると?」
直樹が問う。たしかに、日本で裁判所を介して改名するのはそう簡単な手続きではないはずだ。
「ああ。あまり知られたくはないが、否定するつもりはない。アメリカに渡ったときにその名前は捨てた」
サンドイッチをあらかた食い終えると懐からタバコを取り出した。げげっ、ダビドフ・マグナムなんて吸ってるよこの人(ダビドフを知らないという人は、一箱千円のタバコと申し上げればわかってもらえるだろうか)。食べ物と違い、こっちには金をかけているらしい。おれ達がまだ食っているのにおかまいなく火をつけると、煙を吐き出した。きつい匂いがあたりに広がる。
「お前も吸うか?」
「遠慮しておきます」
せっかくの高級タバコだが、メシを食いながら吸う気にはなれない。
「……そう。だから、恭一郎に会いたいという、その露木なにがしの要請には応じようもない」
先ほどまでの強気の口調よりもややソフトな物言いだが、それがいっそう明確な拒絶を感じさせた。
十数年ぶりの父親との再会のチャンス。ゴールデンタイムの人捜し番組なら、ここで浮気をして子供を捨てた親、駆け落ちした娘あたりが拒みつつも迷い、それをスタッフが説得してスタジオで再会、というシナリオになるのだろうが、水池氏の場合は即答だった。となると、
「名前を捨てたのはお父さんとの縁を切るため、ということですか」
沈黙。それは肯定の意思表示だった。正直なところ、おれは困ってしまった。うすうす予想はしていたものの、最初っから全く会う気がない人間を引き合わせるとなれば、それこそ無理矢理拉致でもしないことには話が進まない。さてさてどうしたものか。手詰まりの中、口を開いたのは直樹だった。
「しかし解せませんな。露木弁護士と言えば有名人、わけても悪評など聞かれない人物ではありませんか。誇ることはあれ、忌避する必要があるのですか」
うわ、いきなり地雷踏みに行ったよこの阿呆。……まあ個体として生きる吸血鬼に家族間の機微を読めってのは難しいのかも知れんが。
「――露木というのはな。偽善者の名だ」
案の定、不機嫌そうに水池氏は言葉を吐き捨てた。おれは触れるべきか迷っていたが、この会話の流れでは切り出さないわけにはいかなかった。
「やはり、お母様の事を?」
水池氏が向けてきた視線に、おれはたじろいだ。半分以上は、おれ自身の後ろめたさによるものだったが。もう一つのイズモのレポートには、露木恭一郎少年が父と縁を切りアメリカへ渡る原因になったと思われる事件が記されていた。
――カネのあるところには暴力がついてまわる。トミタ商事、および、トミタ商事が被害者から集めた金を投資した先には、暴力団の息がかかっているところが多かった。
そういうところに単身乗り込んでいってカネを返せ、と申し立てたわけだから、露木弁護士にかかる圧力は相当なものだった事は想像に難くない。取り立ての際には随分と脅迫や妨害も受けたそうである。
だが、暴力団にしてみれば仮にも相手は弁護士。下手な脅しや直接の暴力は、そのまま逆手に取られて警察の介入を招くおそれがある。結果、彼らが取った手段は、姑息と称しうるものだった。
無言電話や差出人不明の脅迫状、明らかに悪意を持って流される風聞、過去のスキャンダル。人間、誰だって叩けば多少は埃が出る。結婚前につき合っていた異性や、親の仕事上の汚点などを探し出してきては、かなりあざとく近所に吹聴してまわるというような事もやってのけたらしい。
それでも、正義と信念の人である露木弁護士は怯むことはなかった。……だが。家族はそうではなかった。夫を支えて露木夫人は随分と健闘したらしいが、連日の嫌がらせに疲れ果て、やがて睡眠障害を発症した。
そして寝不足の状態で車を運転し……交通事故に遭い亡くなった。一人息子の恭一郎を、安全を期して学校まで迎えに行こうとしていた途中だったのだという。
そして皮肉にも、この露木夫人の死こそが、世間の注目を集めることとなった。詐欺事件として終わったと思われていたトミタ事件の被害者達が今なお苦しんでいることを知らせるきっかけとなり、世論が味方につき、事件は決着へ向けて進み出したのだ。
「あの男は自身の名誉のために何もかもを切り捨てた。ならば名誉だけ背負って生きればいい」
水池氏はまだ十分残っているタビドフを灰皿に押しつけ、それ以上おれ達に口を差し挟む余地を与えなかった。
「用件は他にはないな?露木甚一郎とやらが俺に会いたがっている。お前達はそれを俺に持ち込んだ。そして俺はそれを聞いて、無理だと断った。以上でこの件は終わりだ」
時間は十分を経過していた。
「そういうわけにはいきません、露木氏は――」
「しつこいな。二度目はないと言っただろう」
水池恭介氏は席を立ち、パンくずを払った。
「会食は終了だ。実りはなし。これ以上俺を拘束しようとするなら、業務妨害とみなす」
その視線に応じて、シグマの二人がさりげなく居住まいを正す。それに応じて直樹もわずかにソファから腰を浮かし、たちまちのどかな昼食気分は社長室から吹き飛んでしまった。ここからは門宮さんも容赦なく警備としての務めを果たすだろう。
水池氏の態度がこうまで強硬とは、正直誤算だった。おれは心の中で舌打ちする。『時の天秤は常に私達『シグマ』に味方する』。門宮さんの言葉が耳に痛い。おれ達を尻目に当の水池氏は社長室を出ようとしていた。強硬手段は下の下策だが……やむなしか。それとも。
おれ達が行動を決めようとして顔をあげると。
本当に偶然に、水池氏の足下にあるそれが目に入った。
直樹も、門宮さんも、そして水池氏も気づいていない。
社長室には小さいながらもホームバーがあった。その流しの小さな蛇口から、何か透明なゼリーのようなものが流れだしている。それは、高級な絨毯を横切り、その先端は水池氏の足下近くにまで届いていた。
蛇口から実に数メートルにも渡り伸びる細長い透明なゼリー状の物体。あまりに透明だったので、光の加減が違っていたら気づかなかっただろう。高級ホームバーともなると、蛇口から水の代わりにジェルでも流すのだろうか?だが、どこかで見たような……。
あまりにシュールな光景にしばし呆然と見守る。と、その先端が――蠢いた。
「水池さん、それ、」
「あん?」
そこまで口に出した時、おれの脳裏でアラームとともに検索結果が表示され、唐突に全てを理解した。
「『絞める蛇』!!呪術師の使い魔だ!!」
おれの絶叫と、絨毯に横たわっていた『絞める蛇』の鎌首が跳ね上がったのはまったくの同時だった。その勢い、まさに密林から躍り出る毒蛇のごとく。
床から水池氏の首筋を目指し、『絞める蛇』の頭が一直線に空を奔る。一気に思考が加速する。――直樹、門宮さんは完全に反応が遅れた。おれの能力では――悠長に一言紡いでいる間に手遅れだ。どうする!?
その時、横合いから走り込んだ『スケアクロウ』が水池氏をその巨体で突き飛ばした。おれと同じ方向を向いていたこいつも気づいていたようだ。ちょうど水池氏の首筋の位置に入れ替わった『スケアクロウ』の胸元に、『絞める蛇』がその毒牙を剥いた!
「Hh……ッ!!」
くぐもった声が一つ。突き飛ばしたのではない。弾き飛ばしたのでもない。『絞める蛇』の突進は、『スケアクロウ』の鋼鉄の、いやそれ以上の強度を誇る装甲を埋め込んだ胸板を、杭のように貫いていた。
「おい!『スケアクロウ』!?」
細長い体躯で胸板を貫いた『絞める蛇』はそのままの状態で、背中に抜けた上半分をスケアクロウの右腕に、胸板に埋まっている下半分をその腰に巻き付けた。次の瞬間、胸が悪くなるような光景が展開された。
けたたましい金属音が鳴り響く。『絞める蛇』が巻き付いた『スケアクロウ』の右腕を締め上げ、右腕と、支点となった胸の穴と腰とをいっぺんにねじ切ったのだ。
「…………!!」
悲鳴を上げることすら出来ず、右腕と胴を切断された『スケアクロウ』は絨毯の上に転がった。ここでようやく、おれが突き飛ばされた水池氏と『絞める蛇』との間に割り込むことに成功する。
「なんだ!なんなんだこれは一体!?」
その疑問を発したくなる気持ちはよくわかるがとりあえず放置。
「蛇口を閉めろ!こいつは水があればあるほど強くなる!!」
おれの指示は、だが遅きに失した。すでに潜む必要がなくなったと判断したのか、『絞める蛇』はその身をぶるりと震わせる。
蛇口、とはよく言ったもので、はじけ飛んだそこから勢いよく水が噴出……せずに、そのまま蛇の尻尾へと変じてゆく。みるみる巨大になってゆく『絞める蛇』。最初はロープ程度の太さしかなかった胴体が、あっという間に人間の腕くらいの太さに成長し、体長はすでに十メートルを優に超える。
『絞める蛇』の頭がこちらを向く。そこに目や鼻などないのだが、おれはまさしく蛇に睨まれた蛙だった。とたん、『絞める蛇』はその胴体をくねらせ、おれと水池氏双方にしゅるしゅると巻き付いてくる。
透明な水の、ぞっとする冷たさ。その胴体は水のくせに異様な弾力と、そして圧力に富んでいた。消防用の放水ホースを使った事がある人なら、この感覚は理解できるかも知れない。
あいにくとこちとら生身の体である。こんなもので締め上げられて腸詰め肉ならぬ肉詰め腸になるのはごめんこうむる。
「水池さん!」
門宮さんの声が飛ぶ。見れば、長い胴体で締め上げたまま、音もなく『絞める蛇』の頭が水池氏の肩に噛みつこうとしていた。
「直樹!」
おれが叫ぶ前に、奴は動いていた。
「世話の焼ける!」
無愛想な呟きとともに、直樹が吸血鬼の膂力を解放し、蛇の胴体に遠慮ない蹴りをたたき込む。人外の力で蹴り飛ばされさすがに応えたか、おれと水池氏の拘束を解放する。
「大丈夫ですか!?」
「肩が、肩が!」
見ると、肩のあたりにうっすらと血がにじんでいる。傷は浅いようだが……噛まれたのか!?確認するまもなく、今度は蛇の頭がおれを狙って来た。
「――穿て。『紙飛行機』!」
そのタイミングを見計らって、門宮さんの呪が飛ぶ。鋭く折り上げられた紙片は一つの剛弓と化し、『絞める蛇』の頭部に深々と突きたった。だが。
「効いていない!?」
門宮さんの声にわずかに動揺が走る。突き刺さった紙飛行機は、だがそのまま水を吸って形を失い、奴の内部に取り込まれつつあった。
「こいつに内蔵や器官はありません!形状そのものを崩す攻撃を!」
おれは叫びつつ、腰を抜かした水池氏を壁際にひっぱる。くそ、重いなこのオッサン。引き続き直樹がその胴体を殴りつけ、蛇を退ける。『スケアクロウ』が倒れた今、唯一この蛇に力負けしていないのが直樹だ。だが、奴の冷気を発動するにはここは狭すぎる。どうする?
一瞬こちらを振り返った直樹と眼が合う。……了解。おれは壁沿いを走る。
今や二十畳の部屋全体を取り巻くほどの大きさに成長した水の蛇。それは海竜とも思える偉容だった。
壁際の水池氏と、それを庇う直樹達の前で、奴はうねうねと不気味に体をくねらせた。胴体は動かぬまま、頭部だけが右に回転し、結果その細長い蛇身はねじれ上がっていく。凄まじい圧力を、その内に蓄えながら。そしてそのいびつな身体のよじれが、限界まで達した時。
「伏せろっ!!」
直樹が叫ぶ。ねじり上げたゴム紐を解放する要領で、『絞める蛇』の身体が長さ十五メートルの巨大な鞭と化し、部屋中を縦横無尽に乱打した。圧倒的な水の質量と、解放された圧力による凄まじい速度が、純粋な凶器と化して室内を荒れ狂う。
巨大な爆竹に点火したような連続破裂音。デンマーク製のキャビネットが、冷蔵庫が、マホガニーのデスクが、ノートPCが。塵芥のように軽々と吹き飛び、空中で粉砕される光景はもはや悪夢としか思えなかった。
「――啄め。『鶴』!」
吹き荒れる水の嵐の隙を突いて門宮さんが攻撃。
おそらくは『紙飛行機』に並ぶ彼女の必殺の攻撃だったであろう折り鶴の吹雪は、だがいずれも『絞める蛇』の身体に弾かれ傷をつけることが出来ない。広範囲を補足する攻撃の代償として、一撃一撃の威力が低いのが裏目に出たのだ。わずかに舌打ちし、英語で呟く門宮さん。
『固けりゃいいってもんじゃないんですよこのポ○モン野郎』
……なんかちょっとスラングが混じったような気がするけど、気のせいだよね?(pocket monsterをポケ○ンと訳したおれは間違ってないよな?)ああきっと気のせいだ。
「下がっていろ」
その背後から躍り出たのが直樹。人外の膂力にものを言わせて、真っ二つに割れている応接テーブルの破片を持ち上げ蛇の頭部に叩きつける。臓器はないくせに頭部の概念はあるのか、奴は怯み動きを止めた。
「ハイそこまで」
おれは手に持ったコードを、『絞める蛇』の尻尾がつながっているホームバーの蛇口に巻き付けた。このコード、先ほど奴に吹っ飛ばされた冷凍庫のケーブルを手持ちのツールナイフで切断したもの。しかもこのコード三相じゃないか。いいのかコレ。
「くくらららええ必殺業務用二百ボボルトト」
台詞が変なのは巻き付けた時におれも感電したからなのでカンベンしてもらいたい。一応上着で手を被っており、またすぐに手を離したから出来たものの、両腕が痺れるし脳裏に衝撃がバチバチくる(良い子は絶対マネすんな)。
おれの方はギャグですんだが、尻尾に即席のスタンガンを取り付けられた蛇の方はたまったものではなかった。何しろ全身伝導体、その上電圧は低くとも電流の量はスタンガンなど比べものにならない。
漫画のように火花が弾けたりはしないが、体内を走るすさまじいショックに『絞める蛇』は明らかに苦悶していた。元来た蛇口に逃げ込もうにも、そここそが電気を送り込まれているポイントである。すると奴の取り得る選択は、
「ふげっ!」
この無様な悲鳴は、『絞める蛇』が蛇口から切り離した尻尾に顔面を引っぱたかれたおれの台詞だ。奴は自由になると、一直線に部屋の外に向かって逃げ出した。ここでようやく、ターゲットの安否を確認する余裕が戻った。
「水池さん、大丈夫ですか!?」
初めておれ達エージェントのトンデモぶりを目にした水池氏は、若干放心状態にあるようだった。まあムリもない。何しろ命まで狙われてたんだから。
「ウソだろ……いくらなんでも、これはやり過ぎだ……」
……そんなようなことを呟いている。一方、逃げた蛇を追う直樹。
「逃がすか!」
「待ってください!」
外へ走り出そうとする直樹を制する門宮さん。
「何だ」
「水に仮初めの知能を与えただけの使い魔をこれほど操るには、術者がこちらの情報を逐一把握していなければならないはずです」
さすがに同系統の能力者らしく、彼女は敵の正体を見破っていたようだ。
「操り主がこの近くに?」
だが、あれほどのセキュリティをかいくぐってこのフロアに潜入するのは不可能に近い。また、そこまで近づけるならわざわざ使い魔を仕掛けてくる必要はない。となると。
「外か!?」
壊滅状態の部屋を突っ切り、まだ痺れている脚を動かして東京湾まで見通せるガラス窓に走り寄る。この四十七階の様子を奥まで把握するならば、同程度の高さをもった建物が必要だ。だがぱっと見た限り、そんなものは見あたらなかった。残る二人も駆け寄ってくる。
「直樹、見えるか?」
腐っても吸血鬼、奴の眼は色々と特別仕様なのだ。
「昼では今ひとつだが……。この方向周囲五百メートルにはまずそれらしいものはないぞ」
となると盗撮カメラでも事前に仕掛けたか。そう思って目を転じようとした時、ようやくそれに気づいた。
「五百メートルよりもっと遠くなら?」
「何だと?」
およそ直線距離にして千五百メートル。一つだけ、このフロアを見渡せる場所があった。
「あそこか!!」
そこにはこの『バベル・タワー』よりも遙かに高く、また歴史ある高層建築が、その紅い雄姿をたたえていた。全長三百三十三メートル、日本の象徴たる電波塔、東京タワー。その大展望台はちょうど、この四十七階と水平の位置にあった。
存外にいい勘をしている。
『蛇』が覗き込んだ手持ちの望遠鏡の向こうでは、銀髪の青年と日本人の若者、そして警備員と思われる女性がそろってこちらに視線を向けていた。もっとも、こちらの顔まではわからないだろうが。
東京タワー大展望台。地上百五十メートルに位置する欄干に身体を預けて、窓のはるか向こうを見つめている。ここでは『蛇』がそのような仕草をしていても、観光気分の外国人としか思われないだろう。
悠々と伸縮式の望遠鏡をポケットにしまい、エレベーターへと向かう。彼らがどう足掻いても、今立ち去ろうとする『蛇』の足取りをつかむことは不可能だ。
右手でボタンを押そうとして、自分が指に傷……噛み傷と、そして、火傷を負っていたことに気づき苦笑する。左手でボタンを押して待つ。やがてやってきたエレベーターに乗り込み、下降する。
さて、準備は完了した。
後は愚かな草蛇が、己の身の程を弁えることを願うばかりだ。
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