◆07:オフィスビルで昼食を
外のガーデンプレイス同様に様々な店や施設で賑わう『バベル・タワー』も、一度エレベーターに乗って十階まで上昇すれば、そこはもうビジネスオフィスそのものだった。
うちの事務所とは比べ物にならないくらい高級な内装。高級とはすなわち、遮音性に優れているということである。エレベーターを中心に、ちょうど漢字の『井』の字状に広がった壁向こうのフロアでは何十人もの人が働き、電話し、コンピューターが唸りを上げているだろうに、まるで高級ホテルの廊下のような静けさだった。
十階で一旦降り、今度は四十階より上、限られたごく一部の者だけしか立ちいることの出来ないフロアへとつながるエレベーターへと乗り換える。
「さっきまでのエレベーターからするとちょっと無骨みたいですけど」
ガーデンプレイスに直通していた方は、最先端のビルに相応しくガラス張りになっており吹き抜けのど真ん中を貫いていた。こちらはと言えば、広さは大したものだが、到って普通のエレベーターだった。ボタンを押すと扉が閉まり、上昇を始める。
「防犯上の理由ですね」
シンプルに門宮さんが答える。なるほど、ビジネスで毎日使う人にとっては景観よりも安全の方が重要だ。四十七階まで二十秒とかからない。そのくせ騒音はほとんど無い。普段はあまり意識しないが、これは中々凄い技術だと思う。
「ちょっとした電子要塞といったところか」
物珍しげにメガネを直しながら微妙に懐かしいフレーズを呟く直樹。悔しいがこいつがここにいると切れ者の若きエンジニアに見えない事も無い。
「いったいどんな魔法を使ったんですか?水池氏は昨日まであれ程貴方達に会うのを避けていたというのに」
門宮さんが興味津々の態で尋ねてくる。水池氏からおれ達の案内役を仰せつかったのであろう。あるいはこれが聞きたいがために志願したのかも知れない。
「大したタネじゃありませんよ」
おれははぐらかした。こういうのはせいぜいもったいぶる事に意味がある。門宮さんは未練ありげだったが、やがて話題を変えた。
「それにしても、『真紅の魔人』と『召喚師』の揃い踏みを拝見出来るとは思っていませんでしたよ」
「別に貴女達に見せたくてやっているわけではない」
フロアを示すパネルを見上げたまま直樹が呟く。
「それは失礼しました。でもこの目で確かめるまでは到底信じられなかったものですから。本国では欧州支社経由でお二人については随分耳にしました。あの死闘が日本ではほとんど知られていないのは不思議な限りです。それがまさか、日本に渡ってきた時には二人とも同じ事務所に所属しているとは」
「……まあ。腐れ縁という奴でしてね」
まぶしい笑顔を向けてくる門宮さんに対しおれは言葉を濁した。正直、往事の事はあまり思い出したくない。
「そこらへんの経緯も、少し興味ありますね」
「くだらないおしゃべりも情報収集のうち、というわけかな」
「おい直樹」
奴の愛想の無い口調をおれが咎めると、直樹は口を尖らせてそっぽを向いた。基本的に礼儀正しい奴なのだが、この男は何故か(精神的)年上の女性に対しては敬意を払わぬこと甚だしい。それが例え門宮さんのような美女であってもだ。
反面、年下に対しての相好の崩しっぷりときたら、知人でさえ無ければ一市民の義務として迅速に警察に通報するところだ。ここらへんは恐らく超美人の姉、来音さんの影響がなにがしかあるのだろうが……まったく理解に苦しむ。
やはり女性はっ!純情な少年の浅知恵や妄想の及びもつかないミステリアス・ワンを備えた大人の女性に限るのである。断定上等、おれは自分の発言に後悔などしない!門宮さんはと言えば、直樹の失礼にも関わらずあの微笑を浮かべたのみ。
「失礼しました。お二人のプライベートまで立ちいるのは、野暮と言うものでしたね」
なんか微妙に物凄く嫌な言い回しだなぁそれ。
停止したエレベーターが扉を開くと、おれ達の目の前には正面には無機質で豪奢な(IT関係者ならこのニュアンスをわかってくれると思う)ガラス扉があり、扉の前には野暮な制服に身を包んだごっついアングロサクソンの大男が立ち塞がっていた。言わずと知れた門宮さんの相棒、機械化人間『スケアクロウ』である。
『昨日も会っているが、久しぶりだな、と言っておこう』
CNNかBBCのキャスターでも務まりそうな極めて流麗な英語である。それがなぜ日本語を話すとあんな通信販売口調になるのだろうか。
『実質二ヵ月と半か。腕も背骨も修理が済んだようで何よりだ』
おれが返答する。ちなみに彼の機械の両腕を引きちぎり背骨を握りつぶしたのは、我が女子高生アシスタントだったりする。
『おかげさんでな。もっともあの時の処分で俺は責任を取らされて降格。今は同じコンビと言えども、主任がジェインで俺が副主任だ』
『それはそれは……』
おれが微妙に言葉に詰まっていると、スケアクロウはその鋼鉄の手でおれの肩を叩いた。
『変に気を回すな。俺としてはむしろ気楽なものだ。もともと前線上がりだからな。ジェインの指示は的確だ。それに従って俺が攻撃をするほうが、理に適っている』
『いや、そりゃわかってるんだけどさ』
ちょっとだけ、あと数年もしたら門宮さんがどこまで出世しているかを考えると空恐ろしくなった。どうにもこうにも、おれの周りにはデキる女性が多すぎるような気がする。
ヨルムンガンド社の実際の仕事場は四十六階に集中しており、四十七階は応接室、食堂、そして社長室など、お客向けの施設が収まっていた。スケアクロウと門宮さんに先導されるまま自動のガラス扉をくぐる。途中二回もIDカードを要求する扉があり、その都度ゲストコードを入力しなければならないため、えらく時間がかかった。
そうして辿り着いた社長室は、実に二十畳の広さを持ち(おれの部屋が風呂トイレ台所を含めてすっぽり収まって余りある)、毛足の長いカーペット、どっしりとしたマホガニーのデスク、多分デンマークあたりの産であろうキャビネットが壁に並んでおり、『いかにも』と言った雰囲気だった。
ついでに言うと、キャビネットの裏には小さいながらもホームバーまで備え付けられている。
真中には来客用の応接セット。突き当たりの東南の壁は一面ガラス張りとなっており、高くそびえる東京タワーや浜離宮、その向こうに広がる東京湾が一望できる。これがホテルの一室ならば、このロケーションだけで料金二割増しは確定と言ったところだ。
そして、その奥にある社長室に、水池恭介はいた。
写真で見る通りのそれなりに整った顔立ちだが、実際に対面してみると立ち昇る精気のようなものが段違いだ。これだけのパワーが無ければ、生存競争の激しいベンチャー業界ではたちまち喰われてしまうのかもしれない。
「用件があるならさっさと言え」
んで、第一声がこれである。ドラゴン水池と称される、不敵な面立ち。テレビで散々お馴染になった強気の発言はパフォーマンスではなく、素でこういう性格らしい。声こそこちらにかけているものの、視線は卓上のノートPCから外さず、一心不乱に未読メールを捌いている。
シグマの二人は扉の側で控える。部屋の主はイスを勧めてくれなかったので、おれと直樹は勝手にソファーに腰を下ろして脚を組んだ。本来は銀行だの投資ファンドだののお偉方のためのソファーは、分け隔てなく貧乏学生も迎えてくれた。
交渉の基本はリラックス。今日本でもっともお金持ちにして有名人を前にしてのこの図々しさは、もちろんこのバイトで培われたものである。
「就職活動に備えて、会社訪問でもしておこうと思いましてね」
「それなら正規にアポを取ることだな。生憎とそんな利益を産まない行為に裂くスケジュールはないが」
水池氏は変わらずディスプレイを見つめたまま。代わって直樹が口を開く。
「それはまた。優秀な人材の確保こそがIT業界の急務でしょう」
「講演会ならやっているさ。東大京大一橋。国立と私立の大手は大体やったな。優秀株はよりどりみどりだ」
図太い笑みを浮かべる水池氏。
「昼食をご一緒したいとのお誘いだと伺ったんですけどね?」
「そうだな、そろそろメシにするか」
言うと、ノートPCを畳んでこちらにやって来た。机の下から何やら袋を取り出し、応接テーブルの上に置く。それは何と言うか、おれにとってはとても馴染みのある袋だった。
「日本最新のショッピングモールなどと言ってはみても、その実コンビニひとつロクにない。使えん話だ。ようやく地下のテナントに入ったが、そうでなければ本気で引っ越そうかと考えていたぞ」
袋を広げる。中から出て来たのは、フィルムで包装された、いわゆるコンビニのミックスサンドと缶コーヒーだった。数はご丁寧に五人分。
「門宮君と『スケアクロウ』君も一緒にどうだ」
気さくに声をおかけくださるIT長者様。
「あのー……?」
『金でたいていの事は出来る』と豪語する男が食べるには、ちょいと味気ないと思うのだが。
「別に高いモノを食いたくて金を稼いでいるわけじゃない。会食以外で高いメシを食う気にはなれんし、何より時間が無駄だ」
言うや水池氏はとっとと包装を解くと、サンドイッチを美味そうに口に放り込みはじめた。ことさらに貧乏学生に嫌がらせをしているわけではなく、普通にこれが彼の昼食のようだった。
「さっさと食わんか」
「はあ」
地上四十七階、豪華な調度類に囲まれて食べるミックスサンド。さっき食べた千二百円のそれと、味の違いはおれにはわからなかった。
結局シグマの二人も加わって、五人の奇妙な昼食会が始まった。とは言え会話の切り口も見つからず、一同無言のままサンドイッチを腹に送り込む。って、隣でスケアクロウも平然と食べているが、そう言えばこいつの腹はどうなっているのだろうか。
――五人、か。
テーブルを囲む人間を、『蛇』はその目に克明に捕らえていた。
キョウスケ・ミズチ。事前に入手した資料によれば、ミズチもまた日本語で『蛇』を意味し、ドラゴンを名乗っているとか。
『蛇』の唇が切れのよい半月を描く。
よろしい。
まずは極東の草蛇に格の違いを思い知らせてやるとしよう。
「俺のブログにコメントをつけたのはどっちだ?」
水池氏がじろり、とおれと直樹を見据える。隠してもしょうがないので挙手するおれ。
「一応これでも御社の株主でしてね」
「せいぜい投資額は五万円というところだろうが」
「お前は余計な事言わなくていいの」
通常、企業の株を一定数買うと、株主優待としてその企業からいくつかの恩恵を受ける事が出来る。食品会社なら年に一回お中元が送られてきたり、映画会社なら試写会の招待券がもらえたり、などだ。
ヨルムンガンドの株主優待は少々変わっていて、一株でも持っていれば、社長である水池氏の会員制ブログにコメントをつける権利がもらえる、というもの(逆に言うと、何株持っていてもお中元がもらえるわけではない)だ。
襲撃に失敗した昨夜、おれは『あなたが昔お世話になった人がお会いしたいと思っている。コンタクトについてはあなたの警備のK氏に確認あれ』てな主旨のコメントを打っておいたわけである。メールも電話も直接交渉もダメ。
しかしながら考え方を変えてみれば、ブログ経由なら社長様に簡単にコンタクトが取れるわけで、まさしくこれがITの恩恵というわけだ。しかしまあ、株主優待がまさかこんなところで役に立つ日がこようとは。
「読んでいただけたようで幸いです」
「通常ならこんな話は耳も貸さんさ。門宮君に感謝するんだな」
「我々の仕事は警備です。一つの話し合いですむものを無為に衝突させることはないと思いまして。亘理さんでしたら安全と判断しました」
どうやらこの場をセッティングしてくれたのは門宮さんらしい。いやまあ、実のところそこに賭けていたわけなんだが。
「ずいぶんと思わせぶりな発言をかましてくれたな。ブログでは株主の憶測が飛び交っているし、今見たら週刊誌からも問い合わせのメールが入っていたな。どうせ階下には記者がうろついていただろうが……」
「はい。丁重にお帰り頂きました」
門宮さんのお言葉。さっすが。
「そういうわけだ。これ以上余計な真似をされても困るからな。わざわざこの俺が時間を割いて会ってやった」
「寛大な対応に感謝します」
皮肉ではなくおれは謝辞を述べた。もしおれが彼の立場なら黙殺するか、それこそ『スケアクロウ』あたりに排除させるだけだっただろう。対話の場を作ってくれた事自体、彼としては最大限の譲歩なのだ。
「ミストルテインの買収工作でお忙しいようですしね」
おれはあえてもう一歩踏み込んでみた。水池氏は、にやりと太い笑みを浮かべる。
「まあな、あそこの役員連中、すぐに折れるかと思ったが中々にしぶとい。あと二人、こちらに尻尾を振らせてやらんとな」
社内の機密に該当するだろうことを、平然とさらけ出す。
「それとな、お前」
「亘理です」
おれの発言など聞こえてない風を装い、
「跳ねっ返りは嫌いじゃあない。ただし――」
水池氏はずい、と身を乗り出してきた。
「俺に脅迫は通じない。この一回だけだ。次は無いぞ」
「……了解しました」
さすがに若くして一大帝国を築いた男、ここぞと言うときの迫力は段違いだった。ともあれ、これでおれ達はようやく話し合いのテーブルに辿り着いた事になる。
「もう一度言う。用件があるならさっさと言え」
おれは手短に、イズモ・エージェントサービスからの依頼の内容を語り始めた。
『蛇』は攻撃準備に入った。直線距離にしておおよそ千五百メートル。高度はこちらがわずかに上だが、今日の東京の上空には強い風が吹いていた。
仮に、もしも今『蛇』がいる地点から狙撃を試みるとしたら、オリンピックの金メダリストだろうと、軍や警察所属の狙撃兵だろうと匙を投げるだろう。しかし、『蛇』にとってそれは問題ではない。
犬歯で人差し指を強く噛む。ぷつりと皮膚が裂け、赤い血の珠がみるみる盛り上がる。指を下に向けると、血の珠は平たい欄干の上に置かれたミネラルウォーターのボトルの中へ吸い込まれるように落ちた。
「……、……ぃ、……、ガ……。 ……、……、ィリ……」
ボトルの上に掌をかざし、かすかにどこの言葉とも思えぬ何事かを呟く。小気味の良い律動に満ちた、低声だが弦楽器のように響く声。
幸か不幸か、自分たちの世界に没頭している周囲の人間は、誰一人それに気づくことはなかった。ボトルの中に垂らされた紅い雫が拡散し、そして何事もなかったかのように溶けて消える。
「……ぁ、……。……ゎン、……。 ……リビ」
ボトルを逆さにする。当然、中の水はこぼれて床に飛び散――らなかった。音もなく、まるで一つのゼリーのように形を保ったまま、静かに床に着地する。
「ゆけ。『絞める蛇』」
その透明のゼリー状の水が、ぶるり、と震えた。部屋の中には何十人と人がいる。その誰もに気づかれず、『名』を与えられた透明の水の固まりは『親』の命に従い、実に驚くべき速度で壁の隅を這い進み、給水器の蛇口へぬるりとすべり込んでいった。
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