◆13:二人なら
「おのれ、どれが本物だ!?」
霧の中、無数に現れる『西風』の分身を、次々と斬り裂く『毒竜』。彼とて無数の修羅場を潜りぬけ、S級とまで称されたエージェントである。これが幻術だという事は最初から看破している。問題は。
「――くっ!」
霧の中から、首筋を狙って飛来した苦無を弾き落とす。そう、問題は無数の偽物の中に本物が紛れており、それが攻撃を仕掛けてくるということである。
幻術使いや霧使いは業界にも数多いが、熟練のエージェントにとっては、映像の不自然さや気配の有無を見破るのは容易いことだ。だが、この『西風』は、『毒竜』に対してすら完全に殺気を遮断し、攻撃を仕掛けてくる。底無しの技量と言えた。
『そこから右へ三メートル、前へ二メートルの床に攻撃を』
霧の奥から、『定点観測者』の声が響く。直観的に指示に従った。金属塊を斬り裂く音が響く。すると、たちまち青黒い霧が晴れていった。見れば、彼が今壊したのは、映画で使うようなスモーク発生装置だった。
「……何だこれは」
見れば、苦無が投擲されてきた方向の柱には、バネで苦無を打ち出す、簡単な仕掛けが取り付けてあった。
「最初に霧の中で分身によりあなたを翻弄し、徐々に幻術と、苦無の自動投擲にすりかわっていったようですね」
「…………ッ」
自分が子供だましのトリックに引っ掛けられた事を悟り、『毒竜』から一切の表情が消えて失せた。やがて、沈黙の底から、ごりごりと異様な音がする。それは、ごつい顎の奥で、『毒竜』の奥歯と犬歯が擦り合わされる音だった。
「コケにしてくれるな、『西風』よ!」
視線を向けるトラックのコンテナの上。だがそこには。
「生憎と、『西風』は多忙らしくってな」
先ほど真凛に向けられた二本のライトを背負って。
「もう一度ボク達がお相手するよ」
おれ達が居た。
仁サンに勝ち逃げされた事が、『毒竜』にして見れば余程プライドに応えたのだろう。マグマのような怒りの前に、既にその理性は、沸騰して気化する寸前だった。
「ガキどもが。いいだろう、毒にのたうちまわらせて悶死したお前達を切り刻み、奴への見せしめとしてやる……!!」
「あーおっかねえ。肉食獣でもカルシウムはきちんと摂ったほうが良いって言うぜ」
おれはこの一年ですっかり仁サンから受け継いでしまった口調で、野郎を見やる。
――大した敵では、ない。
おれが昼に奴を見た時に感じた焦燥感は、奴に対しての物ではない。奴に敗れた一年前の自分に対してのものだった。今のおれは、あの時より遥かに冷静で。
「頼りにしているぜ、我がアシスタント」
「りょーかい!!」
それに、こんな奴もいるわけだし。
空気が弾けた。コンテナを蹴るかすかな一音。カモシカのように躍動感溢れた跳躍で、真凛がライトの光の中から踊りかかった。毒が抜けたせいか、あるいは他に迷いを吹っ切ったからか。おれが知るどれよりもキレのある動きだった。
そのまま、『毒竜』の真上の空間を獲る。空中で背筋と腹筋を爆発させて、縦に二回転。それによって得られた加速と全体重を踵に乗せて、
「っはぁぁぁあああっ!!」
大木を撃ち割る稲妻を思わせる勢いで叩き下ろした。
「ぬうっ!!」
たまらず両手を交差させガードする『毒竜』。だが、想像以上の衝撃に膝、腰が沈む。受け止めた両腕の筋肉が、ブチブチと嫌な音を立てるのをはっきりと聞いた。
「かっ!!」
それでも迷わず反撃を選択出来るところはさすがにS級だった。クロスした両腕の奥から、致死性のブレスが吐き出される。しかしその攻撃は予測の範囲内。真凛はその時点で既に身を翻し、右足を『毒竜』に預けたまま、地面に両手をついていた。
そのまま独楽のように身体を回転させ、軽やかに左足で『毒竜』の両足を刈る。完璧なタイミング。柔道教室に初めてやってきた子供のように、一本の棒となって『毒竜』は地面に這いつくばった。
「とどめっ!」
「そうは問屋が卸しません!」
横合いからかけられた声と、柱に仕掛けられた残りの指向性地雷が真凛に向けて炸裂したのは同時だった。しかし今度は真凛は冷静だった。敵意を感知した瞬間に深追いせずに飛びのき、降り注ぐゴム弾のシャワーをやり過ごす。失敗したと悟って、次のボタンに手をかける『定点観測者』。
そうは問屋も卸せないってね。
脳裏の古ぼけた机から『鍵』を引きずり出す。微力ではあるが、この世界に定められたあらゆる法則を根源からクラックする『鍵』を手にし、おれはおれをバックヤードに放り込み、空いた容量を……俺が占有する。
「『この倉庫内で』『七瀬真凛に』『爆発は』『当たらない』」
事象が捻じ曲げられる。それは、大河の流れを堰きとめ、無理矢理小川に引き込む行為にも似ていた。俺の定義した事象を実現するために、運命と言う名の大河は何とか現実と折り合いをつけようとし――結果、通常では有り得ない確率の『都合のいい幸運』が発生する。
まさに爆薬が起動するその瞬間。『毒竜』が振るったカギヅメに切り裂かれ、荷重に耐え切れなかった鉄骨が、音を立てて大きくひしゃげた。それに巻き込まれた地雷は、みなあらぬ方向を向いて暴発した。真凛にはカスリ傷もない。
『定点観測者』鯨井さんが目を細める。
「……亘理君ですか」
どうもー、と、コンテナから降りたおれは手を挙げて応える。ちなみに真凛や仁サンのようにカッコよく飛び降りられなかったのでこっそり降りて来たのはナイショだ。ここでようやく起き上がった『毒竜』がおれに気づいた。
「ふん。いつぞやの小僧か。確か、因果を操る『ラプラス』とか名乗っているそうだな?」
何時の間にそんな話が広まってるのやら。おれは無言で親指を突き出すと、下に向けて振りおろす。露骨な安い挑発。だが、かつてない屈辱に理性が煮えたぎっている奴には、火薬庫に花火を投げ込んだようなものだった。奴の顎がますます軋みを上げる。自分の歯を噛み折りそうな勢いだった。
「挑発に乗ってはいけませんよ、『毒竜』。彼の能力は――」
振り返りもせず返答する。
「何をしに来た、『定点観測者』?」
「敵は二人。しかも先ほどとは明らかに違います。こちらも二人でかからねば危ういですよ」
相棒に送った忠告は、だが逆効果のようだった。
「俺に命令するな、と言っただろう」
「しかし」
「仁義破りの闇討ちしか出来ぬような腰抜けは、居るだけ足手まといだ」
鯨井さんの顔色がはっきりと変わった。
「……わかりました。では私は退くとしましょう」
言うや、踵を返す鯨井さん。本当に手を出すつもりはなさそうだ。
「決着がつくまで、密入国の皆さんの面倒を見ていますよ」
「そうするがよいさ。どの道ここからは」
頬骨が張り出す。頑丈なはずのフライトジャケットがぶちぶちと音を立てて弾けとび、胸骨がべきべきと音を立てる。首が延び、背中が隆起し、筋肉が膨れ上がる。爪が延び、瞳孔が絞られる。顎が突き出し、ぎらつく牙が剥き出しになる。
「周囲なゾ気にカケテいてはやっテイらレヌからナ!」
言葉を喋るに適さなくなった口から、おぞましい声を紡ぎだした。これが、『毒竜』の中に宿る真の力か。突然変異の異常な筋力を全開にし、そしてそれに適応すべく骨格が変形した結果、人間とは呼び難い、爬虫類を思わせるフォルムになっている。竜人、という言葉がおれの脳裏をよぎった。
「……えーっと、陽司」
「ナンダネ七瀬クン」
「怪物退治も、ボクらの仕事なのかな?」
「ま、比較的オーソドックスな部類に入るかな」
おれはしれっと嘘八百を述べ、人間辞めました、と全身で主張している『毒竜』をねめつけた。その身長も大きく変化し、恐らく二百三十センチに達していると思われた。翼と尻尾が生えていないのが、最後の良心という所だろうか。
「挽肉ニナルガイイ!!」
突進。その自重を物ともせず、膨れ上がった筋肉がおれ達に遅いかかる。
「右!」
真凛の声に従い、おれは右に横っ飛ぶ。当の真凛は、自身に『毒竜』の突進をひきつけつつ、左にかわした。すれ違い様に肋間に貫き手を放つが、装甲じみた筋肉に阻まれる。肉と肉との衝突とは思えぬ、硬質な音が響き渡る。そのまま勢い余った『毒竜』は鉄骨に突っ込み、倉庫がまたも大きく軋んだ。おれは崩れ落ちた残骸の山に突っ込みそうになり、どうにか立ち止まった。
「強そうだなあ、おい」
「そうでもないんじゃない」
うちのアシスタントの頼もしい返答である。
「そりゃまたどうして」
「だってアイツ、さっきまでのボクとそっくりだ」
なーるほど、それなら。
「いい手はあるか?」
おれの声に、真凛が床に落ちてたモノを拾い上げる。
「これならどうだろう」
いつから目端が効くようになったんでしょ、このお子様。
「ナイスアイディアじゃないの」
おれ達はにやりと笑った。
「来るよ!」
「おうよ」
今度はおれに向けて突進してくる『毒竜』に、真凛が割って入る。
「ギジャァァァアアアアッ!!」
咆哮とともに、今や竜そのものとなった顎から、大量のブレスが一直線に吹き出される。
「さすがにそう何度も見せられると――」
くるり、とワルツを思わせる軽やかなステップで、毒息を避けつつ斜め右に踏み込み入り身。『毒竜』に一瞬背を向けつつ脇を抜け跳躍。そのまま勢いを殺さず高々と放たれた旋風脚が、スパーン、と擬音を発したくなるくらい綺麗に二メートル三十の位置にある『毒竜』の後頭部に入った。
「小娘ガァッ!!」
反射的に振るわれたカギヅメが地面に衝突し、敷かれた分厚いコンクリートの床を瞬時にズタズタにする。だが。
「――いい加減、飽きてくるなあ」
真凛のその声を聞いた『毒竜』は明らかにうろたえた。なぜならその声は、彼の後頭部から聞こえたからだ。回し蹴りに放った足をガイドにし、一瞬で『毒竜』の背を駆け上がり、肩車の姿勢で『毒竜』の首に跨っていたのである。
「アンタは最低のひとだけど。聞こえるうちに一応謝っておくね」
咄嗟に攻撃方法の選択に戸惑ったその時、『毒竜』は、確かにそう声を聞いた。
「ここからは、解体だから」
真凛は両拳の中指のみを立て。
「『耳掻き』」
『毒竜』の両耳穴に、根元まで突っ込んだ。
狂った獣の絶叫が、倉庫内に轟いた。
軍人として充分以上のキャリアを積んできたはずの『毒竜』が、頭の中を抉られるという想像もしえない激痛に身をよじる。頭を振って暴れる『毒竜』、だが真凛はロデオのように巧みにバランスを取って肩車の体勢を維持する。
ここでようやく、頭上の敵を叩き落とすべく、カギヅメが振るわれる。だがいかに筋力があれ、この体勢ではまともな威力など発揮できない。指を引き抜き、真凛は容易くその一撃を捌くと、そのまま左手で手首を捕る。右手で『毒竜』の長く延びたカギヅメに、甲の側から手をかけ。
「『爪切り』」
四指のそれ、すべてを引き剥がした。今度は絶叫させる間も与えない。そのまま手首に添えた手を、つ、と動かす。繊細な場所を愛撫するかの如き動きで、たちまち『毒竜』の皮膚、筋繊維、骨、すべての構造を読み取り、その隙間に指を潜り込ませ。
『胡桃割』
一気に握り潰した。まだ停まらない。そのまま耳の前、顎関節に指を挿しこみ。
『髭剃り』
引き下ろした。がごんと音がして下顎が外れ、筋肉と皮膚だけでぶら下がる。
それは戦闘と呼べるものではない。正に解体だった。七瀬式殺捉術の真骨頂にして、どうしようもない程合理的で凄惨な一面が、ここにある。
強敵と相対した時、この流派は一撃必殺の打撃や華麗な投げ技など狙わない。拳技が得意な敵であればまず指を、次に手首を、肘を。蹴技が得意な敵であればその足指を、次に足首を、膝を。外側から内側へと、丁寧に丁寧に一箇所ずつ破壊していくのだ。
城攻めでいえば、兵士武将を軒並み殺してまわり、最後に丸裸になった本丸を存分に焼き打ちするようなものだ。真凛自身、己の技がどれほど凄惨なものかは承知している。
彼女にこの技法の使用が許可されるのは、私闘ニ非ズ、殺メル不可ズ、倒スニ難シ、の三条件が揃った時のみである。そしてこれでも真凛は加減している。本気であればまず眼を狙っていた。
聴覚、カギヅメ、そしてブレスを吐き出す顎を破壊された『毒竜』は、己の脳の許容量を越える激痛に、もはや絶叫も出ない。並の人間ならここで痛覚が焼き切れていてもおかしくはない。だがそれでも、奴は最強の一角を占めるだけの相手だった。
「……ッ!!」
もはや閉じる事も出来ない喉の奥から、ごぼり、と音がする。
それは、奴の体内にありったけ蓄えられたブレスだった。顎が外れそれを吹き出す事は出来ずとも、周囲に吐き散らすことで真凛だけは確実に仕留めるつもりなのだ。頚椎を握りつぶして息の根でも止めない限り、こればかりは、真凛には防ぎようがない。
「おれがいなけりゃ、な」
おれの得意ポジション、ライトからファーストへの送球の要領で、おれはその手に持った凶器――指向性地雷の残り一発を、思いっきり投げ込んだ。本来シャッターの役割をすべき下顎は、真凛に破壊されその機能をなさない。
ベストシュート!奴の口の中にすっぽりと入り込む指向性地雷。奴が吐き出そうとするその前に、おれは光の速度で『鍵』を起動させる。
「『亘理陽司の』『投じた地雷の』」
一瞬の時間は無限に引き伸ばされ、俺は世界に楔を打ちこむ。
「『その姿の』『維持を禁ずる』!」
俺の能力は『禁ずる』事のみ。外に向けての鍵は、閉める事しか出来ないのだ。だから、地雷が爆発しない、という未来を全て、俺は禁ずる。
どむ、と鈍い音が響いた。
口の中で無数のゴム弾が炸裂し。
ついに、『毒竜』は倒れ伏した。
「お疲れ」
着地し、膝をついて大きく肩で息をする真凛に声をかける。
「ボクも、力に……なれたかな?」
おれは右の掌を真凛に向けて差し出した。質問を質問で返す。
「これからもよろしく頼むぜ?アシスタント殿」
きょとんとする真凛に、やがて理解の表情が浮かんだ。おれの掌に真凛の掌が打ち下ろされ、小気味の良い音を立てた。
「よろしく。……先輩!」
おれはにやりと笑って、親指を上に突き出した。
……実は掌がじんじん腫れてたりするのだが、それは口にしなかった。仕事としては何よりまず、力加減を覚えてほしいところである。
「まだやりますか?」
おれは入り口付近で一部始終を見守っていた鯨井さんに声をかけた。その背後では、密入国者の方々が不安そうに身を寄せ合っている。鯨井さんはゆっくりと首を横に振る。
「『定点観測者』に出来る事は観測だけ。観測したデータを用いる者がいなければ、私に出来る仕事はありませんよ。力づくでその帳簿を取り返したりする事も不可能です」
「ありゃ、気づいてましたか」
おれはザックに仕舞い込んである、この倉庫の搬出入の記録や取引を記入してある帳簿を叩いた。真凛の救出に向かう前、どさくさに紛れて倉庫の管理室から引っ張り出してきたものである。今の倉庫内の惨状を思えば、その判断は誠に正しかったと言わざるをえない。
「『観測者』は見る事にだけは卓越しているんですよ」
「……これからどうするつもりですか?」
「さて。まずは帰って報告ですね。海鋼馬は初任で失敗する人間を使ってくれるほど温厚な組織でもなさそうですし。まあ、そのうちに考えるとします」
「そうですか……」
「私のことより、ね」
鯨井さんは言葉を切った。
「これは海鋼馬のエージェント、『定点観測者』としてではなく。宗像研究室のOB鯨井としての言葉なのですがね」
鯨井さんは、倉庫に積んであったバッグから、崩落に巻きこまれなかったものを二つ、取り出した。
「私の『観測』の結果、この二つ……いいえ、ここに置いてあったバッグ全てが、完全な同一品でした」
おれは、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「そんな事は……」
「そう、絶対にあり得ないのです。しかし、現実はこの通りです。つまり。あなたの仕事と言うことですよ亘理君」
「……わかりました。情報、ありがとうございます」
鯨井さんがふ、と顔を緩める。
「いい顔になりましたね、亘理君。これでは我々が不覚を取るのも仕方がないでしょう」
さてさて、と鯨井さんは手を叩いた。
「『毒竜』や『狂蛇』の面々は私が面倒を見ます。あなた達は早く行きなさい」
「密入国の人達についてはそのまま警察に引き渡してください」
「ちょっと、陽司!?」
「大丈夫、というわけでもないが。須江貞サンのコネで、きちんと保護してもらえることになった。強制送還になるだろうけど、あとは所長のコネで真っ当に来れるルートを探す、てとこかな」
漫画喫茶に篭って、今日の午後をほとんど費やしてこんなことをやっていたわけだ。地道に手続きを踏む、というのも一つの方法なのだ。彼等の窮状を放ってはおけない、さりとて密入国を見逃すわけにはいかない、となれば、おれの打てる手はこれくらいだった。
「なんかコネばっかりだね」
でもありがとう、と真凛は言った。
「つーか、所長と須江貞さんの存在価値なんてコネだけみたいなもんだし。さて、行くか」
おれは鯨井さんに目礼をすると、真凛に撤収の合図をした。
「それから、そこのお嬢さん」
「ボクですか?」
ええ、と鯨井さんは真凛に向けて、
「今あなたが見ているこの亘理君を、よろしく頼みます」
そんな事を言った。
「えっと、それはどういう……?」
「おーい、行くぞ」
「あー、うん!」
おれは真凛に声をかけると、裏口の門を押し開けた。
遠くから、ようやくパトカーのサイレンの音が近づいてくる。
色々と長かった夜が、明けようとしていた。
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