◆07:かつての友人
午後四時を知らせるチャイムの音が、暑い空気の中をゆっくりと泳いでゆく。近くに小学校でもあるらしい。日曜日でもチャイムはなるんだなあ、とおれは益体もない事を考えた。バンの窓から見えるナガツマ倉庫に、未だ動きは無い。
真凛は結局あのあとどこかへ行ったきり戻って来なかった。当然、この後は事務所に連絡して状況が変わった事を告げ、直樹なり仁サンなりの応援を要請しなければならない。
だがおれはなんとなく『アル話ルド君』を手に取る気になれず、入手した情報をメールにして来音さんに送るだけにとどめ、そのまま一時間ばかりこのバンの中で見張りを続けていた。
コンビニで買い込んできたアンパンを口に放り込んでコーヒー牛乳で押し流す。海鋼馬の連中が絡んでいるとなれば途端に事態はキナ臭くなってくる。カバンがあの倉庫に保管されているとなれば、次はそれがどこから流されてくるのかを確かめねばならない。
密輸品か、どこか国内の工場で製造しているのか。連中は裏門を使っていると言っていた。となれば、ここに搬入にやってくるトラックを張っていれば、何か情報がつかめるかも知れない。しっかし、マッズいパンだなこれ。
「不味そうなものを食べてますね、陽司君。らしくもない」
唐突に運転席の窓の向こうからかけられた声に、おれはアンパンを吹き出しそうになった。慌てて口元を押さえ、何とか飲み込む。それで初めて窓の外を見る事が出来た。
「あなたは……」
おれは危うく残りのアンパンを取り落としそうになった。
そこに居たのは、『毒竜』同様、軍隊用のフライトジャケットに身を包んだ男だった。だがこちらは標準的な日本人の体型と顔立ちで、些かくせの強い髪を整髪料で固めている。その顔を見直したとき、おれの頭の中で線が繋がった。
「なるほど、ね。どうりで聞いた声だと思った。さっき『毒竜』が話し込んでいたのはあなただったんですね」
「盗み聞きしていたのですか?そんな趣味を持った子に育てたつもりはありませんが」
「あなたがそれを言いますか、鯨井さん」
おれは窓を開けて、そこにいる男、『定点観測者』鯨井和磨をにらみつけた。
『定点観測者』。
その名前、魔術書に登場する現在過去未来を見通す力を持つとされる精霊の名は、鯨井さんの持つ特殊なサイコメトリー能力に由来する。サイコメトリーとは、てのひらなどで接触した対象から、その対象にまつわる過去の出来事や以前の持ち主の情報を読み取る能力である。
いわゆる世間一般で言うところの超能力であり、強弱の別こそあれ、この業界にも使い手は多い。しかし鯨井さんのそれには、さらにもう一つ、隠された能力がある。
「この周りにいくつ『受信器』をセットしてあるんですか?」
「八つですよ。今の私の仕事はここの警備ですからね」
「……それじゃあおれ達が来た事は最初からバレてたわけだ」
鯨井さんは、三次元空間の任意のポイントに自分の思念を焼付け、離れていてもその周囲の景色、音、臭いをきわめて正確に把握出来るのだ。彼はこれを『受信器のセット』と呼んでいる。彼がこの能力を広範囲に展開すれば、極めて意志の統率の取れた、不可視の見張りが幾人も配置された事と同義となる。
『定点観測者』の名はここに由来する。先日一緒に仕事をした『机上の猟犬』見上さんとはまた違った、強力な遠隔視系の能力者だ。
おれがロックを解除すると、助手席のドアをあけ、鯨井さんが乗り込んできた。
鯨井さんは紙袋を差し出した。中にはスターバックスのアイスコーヒーが二本納まっていた。おれは礼を述べ、一本取り出した。もう一本を、鯨井さんが取る。
「本当にあなたかどうか確信はありませんでした。随分雰囲気が変わっていましたから」
「……変わりましたかね」
「変わりましたよ。本当に。随分いい出会いに恵まれたようですね」
「どうでしょうかね」
アイスコーヒーを口につけて、おれはぼやいた。少なくとも往事に比べて貧乏になった事は疑いようが無い。鯨井さんは二秒ほど考え込んだ後、本題を切りだした。
「……それで、影治君の行方は?」
おれは肩をすくめ、投げやりに答えた。
「見つかってれば、おれはこんなところに居ませんよ」
つーか、生きてないね。
「そうですか……。どこにいるのやら」
「そんなことより鯨井さん。あなたがなんで海鋼馬の『毒竜』なんぞとつるんでいるんですか?」
鯨井さんはほろ苦い笑みを見せた。
「宗像研究室が潰れてからこの方、私も流れ流れましてね。今は海鋼馬のメンバーですよ」
「まさか!?あなた程の情報収集能力であれば、よほどまともな派遣会社をよりどりみどりでしょう。何も好んでロクデナシ揃いのあの海鋼馬に所属する事は無い」
鯨井さんは肩を一つ竦めた。
「……仁義をね。守れなかったんですよ」
そう言うことか。おれは納得した。バレなきゃなんでもあり、と思われがちのこの『派遣業界』だが、それでは血みどろの抗争になってしまう。いつしか異能力者達の間では『仁義』と呼ばれる暗黙の掟が成立していった。
任務で他社のエージェントと敵対したのであれば、それがたとえ年来の友人が相手であろうと全力で倒しにかかること。任務中に手酷い怪我を負わされたとしても、互いの任務が終了した時点で決着とし、以後私怨を残さないこと。可能な限り一般人に危害を及ぼさないこと。任務中に知りえた他のエージェントの能力は、たとえ友人にもバラすべきではないこと、など。
これは異能力者がきちんと業務を遂行するよう強制すると同時に、異能力者を保護する事も意味していた。任務で倒したエージェントに逆恨みされて、自宅を焼き打ちされる、なんて事があってはたまらないからだ。
この『仁義』を破った者の噂はたちどころに広まり、同じ異能力者からは軽蔑され、派遣会社は彼を雇おうとはしなくなる。そんな外道なエージェントを雇い入れるのは、業界でも黒い噂が絶えない海鋼馬くらい、とこういうわけだ。
「しかし、よりにもよってあなたが仁義を破るなんて」
一体何を、と聞こうとして踏みとどまった。だが、鯨井さんはそれを察したらしい。
「とある任務中に出会った敵エージェントを、どうしても許せなかったんですよ。そのエージェントも一般人に平気で無法を働くような輩でしたがね。任務が終了した後、私は全て仕事上の事として忘れようと思った。しかし気がつけば、奴の自宅を調べ上げ、待ち伏せしてズドン、とやっていたわけです」
言葉遣いは淡々としていたが、その言葉には後悔の様子はなかった。……全て覚悟の上での行動だったのだろう。その代償として彼は業界の爪弾きとなり、海鋼馬に流れ着いたという事だ。
「……すいません。本当ならあなたは今頃、学会の」
「そういう事は言いっこなしですよ亘理君。あの事故は我々の不注意であり、あなたには何の責任もありません。影治君もそう思ってくれているはずです」
「でも、手を下したのはおれと、おれのこの体です」
精確には、以前のおれ、か。
「陽司君。この話はやめにしましょう。私自身は自分の選択に満足していますし。あなたが何度後悔したところで過去が改竄出来るわけでもない。……たとえ、あなたが完全にその力を発揮出来るようになったとしても。そうでしょう?」
多少やつれてはいたが、その表情は間違いなく、かつて宗像研究室でおれを世話してくれた鯨井研究員の顔だった。
「昔は良く看て貰いましたね」
手を掲げる。おれは懐しい気分になった。厳密に言うと、懐かしいと感じるべき気分になった。鯨井さんはやはり寂しそうな表情を浮かべた。
「残念ですが、今の君にはとても触れる事は出来そうにありません。引きこまれたら、私の精神もあなたの一部になってしまうでしょうからね」
おれも笑って手を振った。こんな体質になってしまってから、様々なサイコメトラーやテレパスの世話になったものだが……結果は散々なものだった。今となってみれば当たり前だ。そもそも病根の位置が、精神や超能力といったカテゴリーのさらに外にあったのだから。
「おれ達の事は『毒竜』には伝えているんですか?」
鯨井さんは首を横に振った。
「私が把握している情報は、倉庫に迷い込んできた二人の若者がいるというだけの事です。さして気に止めるべき事項ではありません。その二人が、我々の警備するナガツマ倉庫に襲撃をかけるつもりでもなければ、ね」
言外の意味をおれは察した。今この時点では、お互いたまたま出会っただけの旧知の人というわけだ。だが、おれ達に襲撃の意図があるとすれば、鯨井さんは自らの義務を果たす。そういう人だと言う事はおれはよく知っていた。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
おれは礼を言うと、鯨井さんと自分の紙コップを紙袋に放り込み、丸めて後部座席のゴミ箱に放り込んだ。
「それでは。私も仕事に戻りますよ」
「はい。また機会があったら、よろしくお願いします」
機会とやらが極めて近い時期に訪れる事をお互いに予感しつつ、おれ達は別れた。再びナガツマ倉庫へと戻って行く鯨井さんを見送って、おれはこの日何度目かのため息をついた。
――やれやれ、厄介な戦いになりそうだ。
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