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◆02:シャワーとコーヒー(色気無し)

 事務所内に備え付けられたシャワー室に飛び込み、熱いお湯で頭の天辺から全身を洗い流す。事務所に買い置きしてある予備の下着と無地のTシャツ(三組で千円の奴)に換え、ロッカーに吊るしてあったカーゴパンツ(ファッションアイテムではなく純然たる米軍流出品)を履いて、ようやくおれは人心地を取り戻す事が出来た。バスタオルを右肩にかけ、サンダルをつっかけてごく小さな脱衣所を出る。と、


「……」

「何だよ」

「そっちこそ何だよ」


 なんのかんのと着替えを用意するのに手間取り、おれより後の順番になった真凛が立っていた。さっぱり洗い流したはずの不快感がまたぶり返す。


「……フン!」


 二人同時にそっぽを向き、真凛は脱衣所へと入っていった。おれは振り返り様に、親指を立てて下に向けてやったが、扉を閉めたあいつの目には入らなかったようだ。くそっ。


 

 と、そんな荒んだおれの心に染み渡るような馥郁たるコーヒーの香りが漂ってきた。見れば、事務所内に割り当てられたおれ用の事務机の上にコーヒーカップが一つ置かれている。喉の奥がぐびりと鳴った。


そういえば泥まみれの不快感ばかり気になっていたが、昼飯を食べて以降何も飲み食いしていない。おれはとるものもとりあえず卓上のコーヒーを流し込んだ。ホットコーヒーだが適度に冷めており、シャワーで火照った身体にはこのくらいがちょうど良かったらしい。


一気にカップを空にして、そこで初めて己の無作法に気づいた。カップを片手に、傍らの、このコーヒーを淹れてくれた女性に照れ隠しのコメントを述べる。


「うぅーん、やっぱり来音さんの珈琲を頂くと心がなごむなぁ。香ばしい味わいと深いコクがささくれだった精神を癒してくれるというか。この仕事をやってて唯一幸せな気分になれますよ」


 ……まあ、実の所インスタントではあるのだが。ついでに言うとビールならエクセレントだった。


「まぁ、お上手ですねー、陽司さん」


 そういって昼下がりの秋の木漏れ日のような値千金の微笑をおれに注いでくれる女性は、笠桐かさきりリッチモンド来音らいねさん。腐れ縁のおれの悪友、笠桐・R・直樹なおきの姉上ではあるが、おれに言わせれば月とスッポン。レアメタルと産業廃棄物。東証一部上場優良企業と粉飾決算発覚株価大暴落企業。到底同じ血を引いているとは思えない素敵な女性なのである。


 

 

 ぬけるような……としか乏しいおれの言語力では表現できないが……肌。なんでも母方に東欧の貴族の血を引いているとかで、東洋人のそれではないなんとも艶っぽい白さ。そして髪は陽に透かしたときだけわずかに紅く見える黒。たっぷりとしたボリュームのある黒髪が、艶を波打たせながら背中まで美しいラインを描いている。


日本人ばなれしているのはそれだけではなく、すらりと伸びた長い脚と、俺だって名前くらいは知っている高級ブランドのスーツをまったくさりげなく着こなしている、細いながらもメリハリの効いたプロポーション。ファッション誌のモデルだって簡単につとまりそうだ。


 そして容貌の方はと言えば、これがまたそこらの女優が裸足で逃げ出したくなるレベル。今日は事務仕事に没頭していたのだろうか、ベタな黒ぶち眼鏡をかけている。その奥で瞬く、夜の海のように深く吸い込まれそうなダークブルーの瞳。オックスフォードの法学に特化したカレッジを卒業した実績を持つ知性と、貴族としての気品を明確に湛えた桜色の唇。才色兼備とはまさにこのことである。


 修めた法学の知識と実務の腕を買われ、ウチの浅葱所長に法務担当として雇用された。現在ではこのフレイムアップの経営に関する法律手続き一式をほとんど一人で遂行している。


おれ達アルバイトや、実働部隊の隊長である鶫野つぐみのひとしサンのように現場で実務に携わる事は殆ど無いが、おれ達の現場からの要請があれば、すぐに必要な法律や社会の情勢、企業データなど様々な情報を調べ上げてくれる。バックアップスタッフとして理系担当の羽美さんと対を為す、文系の要である。


 そしてもう一つ特筆すべき長所は、殊にアクの強いウチのメンバーの中で、数少ない真っ当な性格の持ち主というところだろう。彼女と、おれと、そしてもう一人、経理担当の桜庭さんという老紳士。この三人が、業界内で蛇蝎の如く忌まれる、あるいは悪魔の如く恐れられるトンデモ会社、『人災派遣のフレイムアップ』の常識の砦なのだ。

 


 

「とんでもない目にあったもんですよ」


 おれが一息で飲み干してしまったコーヒーカップに、すぐに来音さんがお代わりを注いでくれたため、今度はじっくりと味わうことが出来た。どうやら他のメンバーは例によって出払っているらしい。


「所長は?」

「下の『ケテル』で商談中ですね」


 この事務所が入っているのは、古書店『現世』のビルの二階である。一階には『現世』と、もう一つ、『ケテル』という喫茶店が入っている。小さな店だが、渋めの調度類が落ち着いた雰囲気を醸し出してくれるので、所長が気合を入れて商談する場合はよくここを使うのである。


となると、事務所の中に居るのはおれと来音さん。そしてまだシャワーを使っている真凛だけのようだった。おれはそちらに視線を向けると一つ舌打ちをした。


「随分災難だったみたいですね」

「ええ、あのバカのおかげで。……っと、これ、レシートです」


 仕事中に背負っていなかったため泥まみれをまぬがれた愛用のザックから、一枚の紙を取り出して渡す。おれ達に与えられる仕事の概要は、通常『オーダーシート』と呼ばれる紙に一枚にまとめられて送られてくる。そして、今回のように依頼者とともに現場に赴く場合は、この『レシート』と呼ばれる複写式の紙を持って行く。


仕事を達成した後、依頼人からここにサインを貰うことで、初めて仕事終了となるのだ。そしておれ達は、このレシートを事務所に納める事と引き換えに報酬を貰うのである。それを受け取った来音さんが、口元を押さえて必死に笑いをこらえている事に気がついた。


「な、何っすか?」

「いえ、陽司さんのさっきの台詞、シャワー待ちしている時の真凛さんの台詞と一言一句同じでしたから」

「やめてくださいよ、あんな単細胞と一緒にするのは」


 おれは吐き捨てるように言った。来音さんはおれのそんな顔を三拍ほど見つめた後、彼女自身の席――おれの隣――に腰掛けた。


「そうですね、じゃあ所長も商談中ですし、私が任務報告を承りましょうか」


 極上のスマイルであった。

 

 

 

 おれの任務報告の骨子を手早くレポート用紙に書き写し、お疲れ様、と来音さんは一言述べた。おれは恐縮しつつ、心の中でガッツポーズ。来音さんに報告すれば、それは自動的にメンドクサイ任務報告書を作成してくれる事を意味するので、おれ達現場スタッフとしては二倍三倍にオイシイのだ。


「でも正直言いますと、真凛さんへの対応は賛同しがたいものがありますわ」

「うぐ」


 これはおれには堪えた。滅多に文句を言わない来音さんだからこそ、こういう指摘はズンと来るのだ。感情ではなく冷静な分析に基づいたものであり、つまりはだいたいにおいて正しい。


「い、いや確かに指示に曖昧な点があったところは認めますがね。それを突撃命令と解釈するあいつの思考回路の方に問題があるっつーかなんつーか」

「仕事上の指示の行き違いについては、よくあるトラブルですから特に問題ではありませんよ。問題は、その後の喧嘩ですね~」

「う……。そっちですか」


 仕事上では常にきびきびしている来音さんだが、プライベートではちょっとのんびりした話し方をする。つまりは、これはプライベートな話。仕事上では問題はないが、おれ個人の真凛への対応がよろしくない、と指摘されているわけだ。


「ケンカはともかくー、男女云々の発言は大変よろしくありませんねぇ。女の子はそういう言葉にとっても傷つきやすいんですよ」

「オンナノコぉ?あれのどこが?」


 オンナノコというよりはオノナタノコって感じですが。


「どこからどう見ても可愛い女の子じゃないですかあ」

「どっからどー見てもゴツイ男の子じゃないですか」


 まったく、お嬢様高校のブレザーなんぞより詰襟の学ランでも着せた方が万倍似合うというものである。


「仕事上の点は、陽司さんも譲れないものがあるでしょうからともかく。その一点についてはきちんと謝っておいた方が良いですよお」

「ええー!?なんでおれが、」

「陽司さん」


 来音さんはおれの方に身を乗り出して一言。


「良いですねー?」


 あ。表情は笑顔だけど目が笑ってない。


「わかりました、わかりましたよ」


 おれは降参のポーズで手を振った。どのみち来音さんにお願いされて断れる霊長類ヒト科のオスなどまず居ないのだ。


 ……はー。


 しゃーねえ。ここは年長者として、分別のあるところをガキんちょに見せてやるとするか。とおれが決意した途端、間髪要れず事務所のドアが開いた。


「やっほー、亘理君帰ってたんだ、おっかれー」


 所長が帰ってきた。っていうか折角あるんだからチャイムくらい鳴らそうぜ。上機嫌なその声から推察するに、


「新規の依頼ですね、嵯峨野所長」


 敏腕秘書モードに戻った来音さんがふわりと席を立つ。そこまで言われてようやくおれは、所長の後ろにもう一人、スーツ姿の男性が佇んでいる事に気づいた。何やら巨大なボストンバッグを背負っている。所長はその男性をパーテーションで区切られた応接室に通すと、来音さんを手招きする。


「来音ちゃんもお疲れ。で、スエさんと仁君のチームは今どうしてる?」


 問われた来音さんの顔が曇った。


「仕事自体は順調に進捗しています。ですが、ヤヅミが抱え込んでいた利権に集まってくる勢力は想像以上に多数だった模様です。彼等を排除しつつ、依頼者の債権を回収するにはあと一週間欲しいと須江貞チーフからの連絡です」


 ヤヅミ、とは日本の大手都銀の一角であるヤヅミ銀行の事である。先日、とある事件の影響により社内の致命的な不祥事が暴露され、一気に社会的信用を失った。ヤヅミと提携している取引先は軒並み浮き足だち、早くも水面下では船から逃げ出すネズミや、おこぼれに預かろうとするハイエナ達の暗闘が始まっているのだ。


「そかー……。調査任務だしあの二人が最適だと思ってたんだけど。んん」


 言うや、所長の視線がおれに向く。あー、これひょっとしていつものパターン?


「亘理君、唐突だけど一件、」

「おれはイヤですよ」


 ここで即答出来るあたり、おれもここに来てから随分鍛えられたよなあとか思う。しかし我らが浅葱所長はそんなおれを見据えて一言。


「今月のアパート代、未払いだったよね?」

「な、何の事やら」

「あれー違った?亘理君の生活パターンからすれば、今回の猿退治の報酬でようやく今月の食費が確保。次でようやく固定費に充当出来るってあたりじゃない?」


 違った?等と言いながら自身の分析を微塵も疑っていやがらない。ええ、まさしくその通りですよ。だが、今日だって散々な目に会ったのだ。しばらくは休みを、


「同日複数の依頼にはボーナスがつくわよ」

「…………仕方ありませんね」


 ”…………”の間に、おれなりの葛藤があった事にしておいて頂きたい。


「じゃ、さっそく応接室に来て頂戴。依頼人がお待ちよ」

「うーっす、了解」


 応接室に消えていった所長を見送ったあと、おれは何か着替えがないかと探した。だが、しょせん夏場にロクな服が残っているはずもない。結局おれは、Tシャツとカーゴパンツのまま応接室に向かう事にした。と、


「…………」

「……おう」


 脱衣所から出てきた真凛と出くわした。出会い頭で一度面食らった表情になったものの、すぐにそのツラはシャワーを浴びる前同様、不機嫌極まりないものになる。と、後ろの来音さんから何か異様なプレッシャーが発せられている。


「あのさあ、」

「……なんか用?」


 無言の圧力。うう、年上の余裕を見せるんでしょ。わかってますって。


「さっきは、」

「亘理君?早く来て頂戴」


 パーテーションの向こうからちょっと苛立った所長の声が響く。ビジネスには妥協のない人だ。怒らせると何かとマズイ。


「わかりましたわかりました」


 おれは慌てて応接室へと向かった。


「真凛さん、ちょっといいかしら?」


 その後ろで来音さんが真凛を呼んでいるのが目に入った。

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