◆15:ゲーム・オーバー
おれが『古時計』の重厚なドアを押し開けると、澄んだドアベルの音が店内に鳴り響いた。
おれの顔を見て、露骨に落胆した人が一名。この人が伊嶋さんだろう。そして満面の笑みを浮かべる脂ぎった中年のオッサンが一名……オッサンの笑顔など見たくも無いのでその場で脳裏に保存せず消去……そして相変わらず鉄仮面顔の弓削さん。同じテーブルに着いて本当に泣きそうな顔をしている眼鏡の女の子は、はて誰だろう。何気に結構可愛いと思うのだが。今日は本当に美人に縁のある日だ。玲沙さんもすでに甲州街道に下りたらしいし、あと何時間後かの朝飯におれは思いを馳せつつ店内に足を踏み入れる。
「勝負の結果は?」
冷たいとも言える言葉がおれを現実に引き戻した。見れば、浅葱所長がおれを見据えている。ここでの彼女の役割はおれ達の所長ではなく、このふざけたゲームの立会人なので、それは至極まっとうな反応だった。おれは報告する。
「ホーリック代理人の亘理陽司です。『ミッドテラス』のエージェントを三人と一台を排除し、ここに辿り着きました。こちらも三名が途中でリタイヤしましたがね」
「原稿は?」
「こちらに」
言っておれは、血と汗と涙の結晶である二つのキャリーケースを、衆人環視の元で弓削さんに手渡した。
「確かに、中身に間違いはありません」
封を開けて中を確かめた弓削さんが言い、中を見た少女も首を縦に振った。
「では、立会人として……今回のゲーム、ホーリック社の勝利を宣言いたします」
狂喜乱舞するのは中年オヤジのみで、他はいずれも沈みきった、もしくは冷めた反応だった。かくいうおれ自身も、目標を達成した以上の感慨は無く、黙って手近な席に腰を下ろす。マスターにコーヒーを一杯注文した。
「お疲れさま、亘理クン」
ここでようやく浅葱『所長』がおれにねぎらいの声をかけてくれた。だがおれはそれに軽く手を振ったのみ。
「あの眼鏡の子、誰ですか?」
それに対する答えにおれはさすがに驚いた。まさか『えるみか』の作者が女の子だったとは。……だが、それもおれに取ってあまり嬉しいニュースにはなり得なかった。
「用件はこれで終わりっスよね?コーヒー飲んだら帰らせていただきますよ」
店内の雰囲気だけでも、だいたいどのようなやり取りが成されたかわかってしまうという物だ。これ以上ここで繰り広げられる出来の悪いコメディに付き合う気分ではなかった。
直樹の野郎へのイヤがらせのため瑞浪さんにサインでもねだろうか、と思ったが、敵側の選手で、しかも勝たせてしまった人間がでしゃばったらどうなるか、という事がわからぬ程阿呆ではないつもりだ。
「そう言わないで。自分の仕事を確かめるためにも、もう少し見ていったら?」
浅葱さんにそう言われ、おれはつまらなさげな表情を作って、運ばれてきたコーヒーを呷った。確かにまあ、玲沙さんとの朝飯の約束にはまだ十分時間が合ったのだが。
「それでは、契約書のとおりに」
「はい、契約書のとおりに」
弓削さんはそう答えると、原稿をテーブルの上に積んだ。そして立会人である浅葱所長の目の前で、複写式になっている契約書におれ達が勝利した旨の文章を書き込んでゆく。何気なく契約書の文書の内容を追っていったとき、おれの頭の中にピンとひらめくものが合った。……ああ。なるほど、そういう事ね。
「よくやったぞ、弓削!!」
中年ががなり立てる。……このオッサンが今回一番の迂闊者だな、間違いなく。
「それではすべて、契約書のとおりに。このレースに勝利した側の編集”者”……弓削かをる氏が、『えるみか』と瑞浪の身を預かることとなりました」
浅葱さんの宣言に、中年オヤジの動きがぴたりと静止した。動作の途中で静止画にされると、人間ってホント変てこなポーズになるよなあ。
「浅葱さん。よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「では。私、弓削かをるは、所有する『サイバー堕天使えるみかスクランブル』の連載権と、委託されている『瑞浪紀代人』の所属を、株式会社『ミッドテラス』に移管することをここに宣言します。契約書の作成をお願いできますか?」
「弓削君!」
「弓削さん!」
「ば――馬鹿なことを言うな!!そんな口約束、通るわけが無いだろう!」
「生憎と、この契約書は『ミッドテラス』社長と、『ホーリック』社長代理のあなたの印で作成されています。当然、印鑑を押されたということは文面は理解されておられましたよね」
ことさら語尾を下げ、疑問形にしないところが意地が悪い。
「……な、しかし、そんな……」
「である以上、この契約書に従えば公式に権利は弓削さんのものになる。そしてその弓削さんがその場で譲渡を宣言した以上、『えるみかスクランブル』と『瑞浪紀代人』は公式に『ミッドテラス』のものとなる。もちろん題名の変更等の不自然な修正も無しに。おわかりですか?」
「こ――これは、詐欺行為だ!第一、そんな口約束で物事を決められてたまるか!そ、そうだ、それこそもう一度契約書を書け。弁護士の立会いの下で。いや、弓削、その前にお前はもう一度社に戻って」
「その必要はありませんな」
突如割り込んだ第三の男の声に、ぎょっとして振り向く中年。見れば喫茶店のマスターがトレイを持って立っていた。
「なんだあんたは!これはウチの問題だからでしゃばっ」
「それならば今契約書を作成すれば良い。そうですね、みなさん」
「「はい」」
浅葱さんと弓削さんが唱和する。
「言うのを忘れていましたが、こちらのマスター、本業は弁護士です。こう言った民事関係のトラブルの草分け的な存在なんですよ」
所長の満面の笑みに、ようやく哀れな中年は、これが最初から最後まで筋書きの仕組まれた陰謀だったということに気がついた。
「ゆ、弓削……この、貴様、恩を仇で返すとは……!クビだ、クビ!もう二度とウチに顔を出すな!」
「確かにその言葉、伺いました」
「……ん?」
己が口走った言葉の重大さに、中年が青ざめたその時。
「弓削さああん!!」
感極まった態の瑞浪さんが抱きついた。
「弓削さん、ありがとうございました、やっぱり弓削さんは最高です!」
「……俺たちみんな、手玉に取られたか。たいしたもんだよ、お前は。……これで、いつでもうちに来てくれるな」
「作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事ですから」
半ばあきれ顔を浮かべる伊嶋編集と対照的に、中年の顔は蒼白を通り越して土気色になっていた。
「弓削さん、弓削さん……」
「紀ちゃん、ごめんね、一連のごたごたで随分つらい目に合わせちゃったね。でも、もう大丈夫だから」
涙でぐしゃぐしゃの瑞浪さんの顔をハンカチでぬぐってやる弓削さんの顔を見ながら、おれは我知らず呟いていた。
「……おれも、佳い女センサー装備しようかねえ」
初めて、鉄仮面の下の素顔を、見た。
「ごちそうさんでした」
もう勝負のついた騒動を尻目に、おれは席を立った。今度こそ、これ以上先を見る必要は無い。と、今夜は大活躍だったおれの携帯が、再び銭形警部のテーマを奏でた。
『亘理さん、こちら玲沙です。今、神田のJR駅前につきました』
「はいはい、今迎えに行きますよー」
おれは、徹夜明けの空腹を満たすべく、『古時計』のドアを押し開けた。
ビルの谷間から昇るすがすがしい朝の陽光が、騒がしい夜の終了を告げていた。
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