◆12:漫画家と編集者
「エージェント1号より連絡あり。原稿を確保したまま、東京都内に到達した模様です」
手を打ち鳴らし快哉を叫ぶ伊嶋氏とは対照的に、テーブルを叩きつけて立ち上がるのは現編集長。
「馬鹿野郎!高い金を払って雇っているというのに、何をやっているのだ!」
先ほど相手を役立たず呼ばわりしたことは綺麗に頭の中から消えているらしい。視界の隅に、ささやかに喜色をにじませる瑞浪氏を捕らえ、見境なしに噛み付く。
「何を笑っているんですか!」
身を竦ませる瑞浪氏、冷然と二人の間でコーヒーを堪能する弓削氏。その様子も気に入らなかったのか、編集長はまた何やら聞き取りがたい言葉で喚いた。
深夜の京浜東北線でもああいうオヤジって居るわよねー、などという率直な感想をおくびにも出さず、浅葱所長は淡々と四杯目のコーヒーと、レアチーズケーキを注文した。夜間の食事は体、主に体重の天敵だが、夜通し起きて脳を活性化させているととにかく腹が減るものだから。
「気にすることはないよ瑞浪君。もうすぐ君はあの『あかつき』から解放される。また前みたいな雰囲気で、僕らと一緒に描けるんだよ」
「ありがとうございます、でも……」
瑞浪さんはちらりと現編集者を見やる。何を思うのか、弓削さんは端然とコーヒーを手にしたまま無言だった。
「新連載については心配しないでくれ。可能な限り『えるみか』に近づけられるように努力するから」
「……あの。やっぱり、『えるみか』じゃなければいけないんですか」
瑞浪さんは、確かにそう言った。
「当たり前じゃないか。あれほどの良作、ここで打ち切りになんかさせるものか。商標こそ、アニメ会社、グッズの会社……いろいろあって、『えるみか』の名前を使うのは無理だったけど、でも、基本的には中身は変えさせないから」
伊嶋氏はコーヒーを飲み干し、瑞浪さんの両肩に手を置く。手の掛かる子供を宥めるように。
「わかってます、わかってますけど!『ミッドテラス』に行ったら、『えるみか』は『えるみか』でなくなってしまうんです!」
「瑞浪君……」
「『えるみか』は私だけの力で出来たものではないんです。だから……本当は、怖いんです。『ミッドテラス』で、ちゃんと続編が書けるかどうか。ううん、描ける筈が無いです!だって、私の思い付きを弓削さんがきちんとしたストーリーに仕立ててくれたからこそ、四十話もやってこれたんですから!」
漫画家、とくに若手に対する編集者の存在は非常に重要である。親密になって漫画家のネタ出しにつきあい、編集部の意向を作品に反映させ、時にはストーリーを主導する。編集者が異動になった途端につまらなくなったマンガ、などというものは星の数ほど世の中に存在するのだ。
そして、知る人ぞ知る、人気作品『えるみかスクランブル』の影の立役者であり、実質的なシナリオライターだったのが彼女、連載開始時から編集者としてコンビを組んできた弓削かをる女史であった。そしてこれも、『えるみか』を『ミッドテラス』が引き抜けない大きな要因のひとつとなっていた。
「……たしかに、君達は二人でよくやってきたと思う。だが、瑞浪君。君ももう五年目だ。そろそろ弓削君以外の編集者ともやっていけるようにならなくては。そうだろう?」
「でも、それなら『えるみか』はもう描けません。弓削さんのシナリオがなかったら、私の絵はただの止め絵になってしまうんです。そんな『えるみか』の続きを書かなきゃいけないなら、いっそ」
「瑞浪君……!」
伊嶋編集長が何とか椅子に彼女を座らせる。
「どうぞ」
おりしもそこにマスターが、英国の執事めいた物腰で二杯目のコーヒーを運んできた。えも言われぬ芳香がテーブルに現れ、座が少しだけ落ち着いた。
「弓削さん」
それまで事務的な報告に徹していた浅葱所長が声をあげた。
「貴方個人としての意見はどうなんでしょう?」
一同が驚愕する。
「何を言っているのかね!?弓削はうちの社員だぞ、だいたい……」
「お静かに」
ぴしゃりと編集長の言葉を封じるその様は、弓削さんですら恐らくは及ばないだろう。彼女、嵯峨野浅葱は年こそ若いが、今までの人生において無数のハードネゴシエイトを行ってきた。秤にかけてきたものの重さ、対峙する相手の力量、ともにこの男のそれを百倍かき集めても及ぶものではない。状況に応じた語調の使い分けなどは初歩の初歩だ。
「たいしたお話ではありません。私個人が、いち個人としての弓削かをるさんの意見に興味を持っているというだけのことです」
対する弓削さんは、冷めてしまったコーヒーに口をつける。鉄仮面ぶりは相変わらずのようだった。
「繰り返しになりますが。作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事だと私は信じています。だから今回もベストの選択をしたつもりです」
「弓削さん……!!」
瑞浪さんが悲鳴寸前の声をあげる。
その様を見やって、浅葱所長はぽつりと述べた。
「ホーリック側が勝つといいですね」
「な、何を!?」
「嵯峨野さん!」
伊嶋氏と瑞浪さんが驚愕の声を上げる。
「……貴方は中立の立場だと思っていたんですがね」
伊嶋氏の声には明らかな失望と怒りがあった。
「いえ、これはあくまで私個人の意見ですから。公人としてはあくまで中立の姿勢は変わりありません。ご心配なく」
「本当ですかね」
剣呑な雰囲気は、だが、そんなものはおかまいなしとレアチーズケーキの最後の一欠片を腹に収めた浅葱所長の声によって破られた。
「ホーリック側が、ミッドテラス側を再び捉えたようです」
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