◆06:オープン・コンバット
慣性の法則とはありがたいものだ。どれだけ速く移動しようと、一定の速度で移動している限りはとりあえず体に負担はかからない。前方の玲沙さんの体の傍から吹き抜ける嵐のような風の壁がなければ、だが。殺人的な急加速が収まった後、おれはどうにか自分の状況を落ち着いて確認することが出来た。
おれの今見ている光景を何と説明したものか。
理性ではわかっている。おれは今、中央高速道の上り車線を、ステキな美女とタンデムで疾走している。それは間違いない。だというのに。
何で次々と『対向車』が向かってくるのか。それも『後ろ向き』に。それをごく僅かに重心をシフトするだけで次々とかわしてゆく玲沙さん。なるべく考えないようにしていた質問を、おれはついに口にした。
「あの……!これ何キロ出てるんですか……!!」
ヘルメット内には『アル話ルド君』と直結した、ノイズフィルタリングをリアルタイムで施すヘッドホンが内蔵されており、滝の中にいるようなこの轟音の下でも驚くほどクリアな通話が可能だ。
『私、その。子供の頃ヒーローに憧れていたんです』
メット越しに帰ってきたコメントは、おれのHowManyの質問への回答ではなかった。その質問に何か言い知れぬ不吉な影をひしひしと感じつつ、おれは耳を澄ます。
『女の子がヒーロー好きって、ヘンですよね』
「いえいえゼンゼンそんなことナイッス」
メットから聞こえて来たのは苦笑、だろうか。
『特にバイクに乗ったあのヒーローが大好きでした。いっつもお兄ちゃんの持っていたマンガ雑誌を何度も繰り返して読んでいたんです』
すっ飛んでくるタンクローリーを軽やかに回避。
『そこに出てくるバイクが本当に大好きでした。ずっと思っていたんです。百キロとか百五十キロとかじゃなくて、マンガに書いてあるくらいの速度で疾走ってみたらどんなに胸が熱くなるだろう、と』
待ってください。それってまさか、
『結局、夢を叶えるためにこの仕事を選びました』
現在進行形で叶えているってわけデスカー!?
答えは前方に迫ってくる業務用の大型トラック。相対速度で考えれば、並走する車と百キロ以上の速度差があればこういう現象も出現しうるのかもしれないが、いやしかし、
『『追跡者』より『剃刀』へ。どうだ、調子は?』
『こちら『剃刀』。諏訪SAを出発して今、諏訪ICを通過しました』
「……お久しです、見上さん」
『やあ、亘理君か。元気でやってるみたいだな』
ヘルメットから響いて来たのは、今回の作戦に参加しているうちのチームの四人目の声だった。出版業界専属のエージェント、『机上の猟犬』見上柏錘さんだ。この人とはおれはかつて、ある遅筆で有名なベストセラー小説家の失踪事件が発生した時、一緒に仕事をしたことがあった。この度はその能力を買われ、おれ達のチームの指揮役を務めている。
「どうも。そっちも相変わらず、小説家と漫画家の恐怖の対象のようで」
ここで減らず口を叩くのは最早おれ自身の意地である。
『ウム。俺の『遠隔視』ある限り、何人たりとも〆切から逃れる事は出来ん』
過去数多の作家の一縷の望みを断ち切ってきた重々しい断言を電波に乗せる。
見上さんの能力は『遠隔視』。テレビの特番なんかでよくあるあれだ。世界最高の超能力者とか肩書きのついた外国人のオジサンオバサンが、自宅に居ながらにして過去の殺人事件の現場や行方不明者の居場所を霊視(番組によっては透視とも言うかな)して、スケッチしたりするって奴。
ああいう番組に出演する能力者もイカサマ師から本物まで玉石混合だが、見上さんのは正真正銘の本物。特定した対象の現在位置を、まるでGPSのように正確に把握することが出来る。どうやって把握しているのかはおれも知らない。
見上さん曰く、訓練や怪しげな魔術ではなく、先天的に生まれ持った能力、とのことだ。そして、それを他人に説明するのは非常に難しいらしい。こういう言い方はちと良くないが、生まれつき目が見えない人に、”色”という概念を説明するようなものなのだそうだ。
彼がエージェントとしての経験も長く、修羅場でも冷静な判断が出来る事をおれは知っていた。今回のような彼我の位置関係が重要な任務に、見上さんが司令塔として控えてくれているのはとても心強い。
「先方に動きはありましたか?」
『ああ。敵サンはルールどおり、君達より大分前に諏訪ICから上がっている』
『車種はわかりますか?』
玲沙さんが会話に加わる。
『そこまでは俺にも視えん。だが四輪なのは間違いない』
『加速と小回りより堅実性を重視してきましたか。いずれにしても、じきに接触することに、』
そこまでで玲沙さんは一旦コメントを切った。
『亘理さん』
おれには首を上げる余裕などなかったが、それでも何が起こりつつあるかは容易に推測できた。ついに戦端が開かれたのだ。
追い越し車線を維持していた玲沙さんの『隼』が、突如車体を倒し、右も右、中央分離帯に接触するギリギリのところまで一気に寄せた。近づいたせいで先程より尚凄まじい体感速度で後方に放たれていく灯りと、最早閃光としか認識できない対抗車線のヘッドライトが、おれの脳をかき乱す。前方以外はなるべく見ないようにしているはずなのに、大きく体が斜めに傾いだことで、超高速で疾走するアスファルトが視界に嫌でも飛び込んでくる。
もみじおろし。
そんな言葉が脈絡もなく脳裏に浮かんで途端に泣きたくなった。だが勿論涙腺から体液を分泌するような悠長な時間は与えられなかった。『隼』が空けた空間を、けたたましいブレーキ音を響かせて鋼鉄の分厚い箱がえぐってゆく。
先行していた敵さんの車が、おれ達をバックミラーに捕らえると同時にブレーキを踏んで衝突を狙ってきたわけだ。向こうはムチ打ち、こちらはもみじおろし。それで全ては決着ってとこか。ったく、随分と思い切りのいい野郎だな!怒りが一瞬恐怖を退け、おれは敵を見やった。
トヨタ・クラウンアスリート。
それだけでおれは、まだ顔も見ない敵を嫌いになる事に決めた。玲沙さんが回避に入った時点ですでに再加速に移行していたのだろう、たちまち加速は負から正へと転換。丁度おれ達と何秒間か並走する形になった。クラウンの運転席の窓は……開いている!
烈風吹き込むはずの車内。その助手席には、『隼』の後部に取り付けているものと同じケースが確かにあった。そして、窓からおれ達を見やる運転手――壮年の男――の顔は……笑っていた。猛烈にイヤな予感。そしてそんな予感はバッチリハズレるわけがない。運転席から男の右手が伸び、その手にあるものをこちらに見せ付ける。
「ベアリング!」
もちろんそれは精密工業用品としての意味合いではない。その技術を応用して地雷に混ぜ込み、人を殺傷するためだけにばらまかれるロクデナシの鉄球のことだ。こういう時に途端にピンと来てしまう自分の人生にちょっと落ち込む。おれの叫びを耳にしたのだろう、玲沙さんが『隼』を立て直すと再び一気に加速する。
……お初にお目にかかる。『包囲磁針』葛 剛爾。
男の唇が確かにそう動いた。途端、男の手から無数のベアリングが掻き消える。その行く手は。
「追ってくる!」
悪夢のような光景だった。失禁寸前の速度でぶっ飛ばしているはずのこのバイクに、まるで砲丸のような速度で宙を飛び喰らいついてくる、黒焼きの入ったベアリング。相対速度を考えれば、こいつらはとんでもない早さですっ飛んでいる勘定になる。夜の闇の中、視認する事さえ至難の刺客の襲撃だった。
だがおれの絶叫など聞く前に玲沙さんは行動に移っている。その細い右腕から叩きこまれたアクセルに『隼』が雄叫びを上げ、一段と羽撃きが力強さを増した。おれはもはや色欲を彼岸の彼方に投げ出した態で玲沙さんの腰にしがみつく。
玲沙さんのテクニックは極上だった。吸い寄せられるように飛来してくるベアリングを、ぎりぎりまで引き付けてスラロームの要領で回避。慣性を殺しきれなかったベアリングは、あるものはアスファルトに、あるものは側壁に叩き漬けられて四散する。
闇に沈んだ中央道に一瞬青白い火花が散ったはずだが、それすらも認識する余裕などおれ達には許されない。視界いっぱいに広がる前方のダンプカーを『薄皮を剥くように』回避する。たちまち開く相対距離。おれは振り返り、トヨタクラウンが後方に小さな姿となった様を確認し安堵した。
とりあえずは距離は取れた、はずだが。
『原稿の前半部分はその車の中にあるはずだ。何としてもそこから奪取するんだ』
無情に響く指揮者殿の声。確かにこのまま逃げ切ったところで勝利はない。では、どうすればいい?
『亘理さん、お願いします』
……ま、そうなるんだろうな。指揮者と運び屋がそれぞれの役割を果たしている以上、『万能札』としても期待に応えねばなるまい。例えそれが回数制限付きだとしても。
意識を内面に飛ばし、抽斗から古ぼけた鍵を引っ張りだす。悪いが今回ばっかりは先行逃げ切り。出し惜しみなし!
『亘理陽司の』
ふん。俺は嘲弄する。跨った鉄馬から上半身を捻り、猛追してくる鉄の箱を視界に収める。鉄馬の騎手は俺の意志を汲み取ったのだろう、速度を落として奴の接近を促した。
『視界において』
瞬くうちに距離が縮まり、鉄箱に収まった男の顔と視線が合う。不遜な男だ。俺は唇を吊り上げた。そのままその横、鉄箱の中の箱に目を移す。
『四角き双子の』
捻った左の掌を、鉄馬の後部の箱に添える。速度、状況。ここまで状況が困難を極めていると、枝葉を禁じて都合の良い因果を導くのは容易ではない。だが、
『離別を禁ずる』
単語の方が強力に限定出来たため、俺は十二分に強固な鍵をかける事が出来た。男が驚愕した。突如路面に現れたのは、朽ち果てた角材。恐らくは前を走る鉄の箱が落としていったものだろう。俺に気を取られていた男はそれを回避する事が出来なかった。たまらず乗り上げ、箱が大きく右へと傾ぐ。それでも即座に体勢を立て直した所は褒めてやろう。だが、慣性に従って飛び出した箱にまでは気が周らなかったようだな。
それはまるで、意志をもった小動物のように鉄の箱の中から飛び出し、主人の懐に飛び込むかのように俺の右の掌に収まった。無論それは小動物でもないし、ここは愛玩動物と戯れる平穏なる庭先ではない。百万回やったところで成功するはずのない曲芸。
だが、例えば一千万回挑戦すれば一回成功しうる可能性があるのならば――その為しえる『一回』以外の世界を全て封殺してのけるのが、この力。『鍵』のまずは小さな使い途だ。そして大きな
「……~~痛ぅ。出し惜しみなしったって、お前が好き勝手しゃべっていいってわけじゃなんだがな」
おれは仏頂面で、襲ってくる極大の歯痛にも似た苦痛に耐えた。途端に崩れそうになる姿勢、だがまるで後ろに目がついているかのような玲沙さんのバイク捌きがおれを補佐した。背骨を限界までねじり、後部に取り付けられたケースの上に、もう一個のケースを固定する。
金具が音を立ててはまり、おれは一つ、車上で大きく息をついた。みるみるうちに男の乗ったクラウンはおれ達から離れてゆく。
「勝利条件その一ゲット。このまま一気に逃げ切りましょう」
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