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◆01:ある大学生の日常

 七月中旬。


 退屈極まりない期末テストを過去問とレポートのコピーでしのいでしまうと、再び長い、人によっては長すぎる夏休みが待っている。四月が新入生の歓迎会で潰れてしまうことを考えると、大学二年生の春学期の勉強期間は二ヶ月ちょい、といったところだ。

 とはいっても、


「学校があっても休日みたいなものじゃない」


 と、バイト先の暴力娘に言われても反論できないのが現状であるからして、その二ヶ月も気合を入れて勉強をした記憶などカケラもない。気がついてみると終わっていた、というのが正直なところである。授業に出て教授の話を聞く。つまらなかったら代返でも頼んでゲーセンだの雀荘だのに繰り出す。昼は喫茶店で悪友どもとだべり、夜は気が向いたらテニスサークルにでも顔を出す。週末にはこれまた気が向いたら合コン、飲み会、エトセトラ。日曜日は二日酔いでダウン、元気だったらドライブでも、というところだろうか。


 桜が散りおわって既に三ヶ月。今では葉桜が青々と伸び盛り、校門に豊かな影を落としている。学校の敷地と無骨な新宿区の道路とを分け隔てている並木の上から無料で流れる、蝉達の構想七年の交響曲。その大音声に紛らせるようにして、いつしかおれ、亘理陽司(わたりようじ)は呟いていた。


「平和だねぇ……」


 こんなことを言うから日頃まじめに社会人している高校時代の友人連中に悪態を突かれるのだが、実際今の俺の心境は平和きわまりない。


 一応ここ、都内のそれなりに有名な大学に入るには高校時代の青き春の幾年かを無機質な受験勉強に捧げたのだし、その甲斐あって狭き門を通ったからには、可能な限りその特権を行使するのは当然。いや寧ろ義務であろう。若さ・イズ・イリバーシボー。何しろせっかく、あの極悪非道のバイトから解放されたことでもあるし。



 日々平穏、怠惰こそ人生の美酒と信じて疑わないこのおれの目下唯一の不満であり、かつ唯一の収入源でもあるのがこのアルバイトである。これがまたひどいんだ。紆余曲折を経て引き受けることになったものの、仕事がキツイわりには給料が少ないし。こちらの都合に構わずどんどんオーダーを押し付けてくるし、上司はエゲツねーし同僚はビンボー人かいじめっ子しかいねーし。その上ここ最近は人手不足もあってか、経理やら営業やらの真似事までやらされていたりする。そのせいで友人たちには「お前の貧乏は知っているけど、行動も貧乏臭くなったよなあ」とありがたくもない感想を述べられる始末。


 いつしか足は学校から駅へと向かっていた。テストとともに講義もほとんど終了しており、もうわざわざ出席するような授業もない。大学と高田馬場駅を結ぶ坂道をゆっくりと登っていく。世間ではそこそこに有名な某大学の、まだ郊外に転出せず伝統を繋いでいる旧校舎に日々通う文学部生、というのがおれの現在の身分である。


 気がつけば明治通りとの交差点までたどり着いていた。ここから五分も歩けば駅に着く。私鉄で俺の部屋まで電車で十五分。帰って本屋に行って夕食の買い物でもして……あとは何しようかな。幸いにして、少な目とはいえバイト代も入ったばかりで、懐具合にもそこそこ余裕もある。ドアポストに突っ込まれている家賃やら新聞やら諸々の支払い請求書は自己暗示をかけて意識野から締め出してしまうことにするとして――


 いいや、寝よう。


 おれは決心した。誰にも文句は言わせない。ぬるま湯生活万歳。


 ――そんなおれの甘い夢想は、胸ポケットの携帯から鳴り響く不吉な『銭形警部のテーマ』に破られた。あ、いや、別に『銭形警部のテーマ』が不吉と言うわけではなく。このテーマが鳴ってしまうと言うことは……おれは顔をしかめて携帯を引き抜き、そして液晶画面に表示された発信元を見た。



『人材派遣会社フレイムアップ』



「…………ふむ」


 手早く自己暗示を掛ける。――今日は大切な期末試験の日であり、模範的な生徒たるおれは万一にもアラームが鳴ることを恐れ自宅に携帯を置いた。従ってここに携帯端末などあるはずもなく、おれは何も見てないキイテナイ。


 ……着信音は、一向に鳴り止む気配が無い。だんだん交差点にたたずむ人々の視線が重くなってくる。……わかってはいるんだ。このままではたとえ一時間であろうが銭形警部のテーマが鳴り続けるだろう事は。保留にしてもいずれは同じ。周囲の冷たい視線に耐えかね、おれはついにフックボタンをタップした。


『亘理くーん』


 ためらわず『切』をタップ。


 あの人が出る以上、まちがいない。『仕事』の話だ。早い。早すぎる。もう試験が終わったことを嗅ぎ付けられたのだろうか!?


 一拍おいてまたもや、不吉なメロディーが鳴り響く。脳みその中でめまぐるしく行われる仮想演算。おれは大きく深呼吸をすると、意を決してもう一度フックボタンをタップした。


「はい、もしもし」


 こう見えても花の東京一人暮らしを生き延びている身、キャッチセールスや押し売りのあしらいかたは百通りも心得ている。大丈夫さ、もっと自信を持て。向こうがどんな仕事を押し付けてきたって、きっと断れるさ。……はかない期待。


『お久しぶり。用件はわかってるわよね?こっちはただでさえ人手が足りないんだから』


 電話の声は女性だった。別段媚びや甘ったるさを含んでいるわけではないのに、妙に艶がある。天性の色気というやつだ。時々お世話になるシティホテルのバーあたりで耳に入ったなら、喉をごろごろさせて喜びたい声色であるが、残念ながらそうするにはあまりにも辛い記憶が脳味噌深くに刻み込まれている。


「しょ、所長。お久しぶりですね。あぁ、人手が足りないって……夏休みだからみんなで軽井沢にキャンプに行くとかですか?ザンネンだなあ、ボク体が弱くてアウトドアはちょっと」


 さりげなく、さりげなく。


『夏休み?夏休みですって?ほほう、学生っていい御身分なのねぇ。世間では盆と彼岸を返上して働いている人がいるっていうのに』

「ええ、そうなんですよ。現行の社会制度は勉強してきた学生がつら~い社会人になる前にしばらくあま~い夢を見させてくれるそうでしてね、おれとしてはその権利を行使したい欲求に駆られているわけです」

『他人のノートのコピーの持ち込みなんていうあま~い目論見で文化人類学のテストを受けられるのも、権利なわけね』


 ……おい。一体いつのまにおれのテストの情報を把握しているんだ?


『今日からどうせ何もやる事のない夏休みに入るんでしょ。オーダーが一件。あなた向きのが入ったの。事務所に来て。詳細は後で話すわ』


 ちょちょちょ、ちょっと待て。


「所長。あのですね、いいですか。おれ、こないだ一ヤマ踏んだばかりなんですけど」

 そのために春季の単位をあやうく落としかけたのだ。遊ぶだけ遊んでも留年はしない、というおれの主義からすれば、かなり危ういヤマだったのである。

『あら、そうだったっけ』

「そうなんです!だから、おれとしては当分遠慮したいんですってば。だいたい、直樹だって仁先輩だっているでしょうに」

『彼等はねー。ちょっと別件で出てるのよ。ニュースでやってるでしょ?豚のジョナサン君の大脱走事件』

「ああ……ワイドショーで大騒ぎの」


 またウチの連中が関わってるのか。


『任務は緊急。ウチのメンバーで今動けるのは君だけなのよ』

「いやー、そう言われてももうテスト終わっちゃったし、いま実家なんですよね~」


 逃げ切れるか。


「ふーん。実家って高田馬場にあったんだ。それもこんな明治通りの真ん前にねぇ」


 受話器を当てている右耳、ではなく、無防備な左耳から心臓へ送り込まれた音声はおれを飛び上がらせるに十分な威力だった。あわてて振り返ると、そこには、明治通りを睥睨(へいげい)するかのように路肩にうずくまっている真っ赤な……毒々しいまでの紅い外車。車に大して興味のないおれでも、このジャガーの値段が七桁ではすまないということくらいはわかる。そしてそのジャガーすらも圧倒するかのような存在感で、運転席のウィンドウに形の良いヒップを預けて、長い髪を夏の風になぶらせながら笑みを浮かべている優美な女性の姿が、そこにはあった。


「あ、浅葱(あさぎ)さん……」


 おれは乾いた愛想笑いを唇に張り付けようとして失敗し、破滅的な色気を湛えた女性を見やった。テストの日程を把握されてた所で気づくべきだった。逃げ切れるどころではない。……最初から捕獲済みだったのだ。


「ハイ!亘理君。オーダーよろしく」


 こぼれおちる極上の笑み。がっくりと肩が落ちるのが、自分でもわかった。


『平和だねぇ……』


 数分前の台詞は、遥か遠くの時空へと呑みこまれていった。

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