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◆06:矩夜に痩犬路惑う

 結局、昼の配達が終わった後、ランチタイム後の皿洗い、夕方の仕込みまでサブロウは手伝っていた。


 乾史はと言えば、やることもないので近くのゲームセンターで古くさいシューティングゲームや、対戦格闘ゲームをやって時間を潰していた。


 ゲームをしている時は、乾史も年相応の中学生に見える。適当なところで切り上げた後、朱の店の裏口近くの地面に座り込んで、漠然と空を見ていた。建物で矩形に切り取られた、少しくすんだ青色の空。


 ……もともと、行く学校もなければ帰る家もない。


「男を教えてくれ、かよ」


 乾史は己の右掌を見る。先ほど握りこんだ百円玉は、いつもの通り跡形も無く消えて無くなっていた。乾史も、これがただの喧嘩テクニックなどで無いだろう事は、とうに気づいていた。だが。


”じゃあ、なんなのか”


 そこで思考を止める。


 それ以上先には踏み込んではいけない気がした。


 ポケットをまさぐる。そこから出てきたのは、いつもの百円玉ではなかった。もう一回り大きい金色。五百円玉だった。右手にとると、またもてあそび始める。


 掌の上で踊る金色。あの時のはたしか、同じ五百円でも銀色のだったっけな……。握りしめようとする。




  チカヨルナ、バケモノ

  コナイデクレ、タノムカラ

 

  ……掌が固まる。五百円玉は乾史に握られるのを拒絶するかのように、鎮座していた。


「何が男らしいか。オレなんかにわかるわけねえじゃねぇか……」




「はいおつかれさん!これ今日の日当」


 陽も大分傾いたところで、朱が茶封筒を持ってやってきた。サブが礼を言い、丁寧に押し頂く。と、朱がなにやらサブロウと乾史を睨んでいる。


「な、なんすか?朱姐さん」


「サブぅ。アンタ最近、ちゃんと風呂入ってる?」


 顔を近づけ、くんかくんかと匂いを嗅いだ。サブロウは思わず後ずさり、明後日の方向を向きながら答えた。


「いやその。最近は忙しかったんで、公園の水で洗ってるだけです」


「それで髪と肌にそんだけ艶があるんだから、アタシ以外の女が聞いたら嫉妬で発狂しそうね。若いってのはこれだから」


 深々とため息をつく朱。そのうちいくら手を入れても追いつかなくなるのよ、などと些か不吉な発言をしつつ、朱は胸のポケットからチケットを二枚取り出した。


「うちの知り合いが経営してる、カプセルホテルのサウナのタダ券よ。どうせアタシは行く暇ないから、アンタと、そこの小汚いのと一緒にいっといで」


 誰が小汚いだ、と激怒する乾史をスルーして、朱はサブロウの手元にチケットを押しつける。


「あんまし汚いヤツにうちの店に出入りされると困るしね」


 ぱちりと片目を閉じて、サブロウの額を指で弾く。ありがとうございます、と丁重に礼を述べつつ、サブロウはぽそりと漏らした。


「でも、どうせなら現金で渡してくれた方が…」


 風呂はその、あんまり好きじゃねえんで、などと口ごもる。じろりとひと睨み。


「カネで渡したらアンタ絶対ため込むだろ」


 サブロウは反論出来なかった。


「とにかく風呂に行ってきなさい。でないと明日から出入り禁止だかんね」






「っは――――!やっぱ風呂は命の洗濯だねえ!」


「コラ坊主!風呂に飛び込むんじゃねぇ!」


「あっ、スイマセン……」


 先に入っていたご老人に一喝されて、乾史は頭を下げた。手ぬぐいを畳んで頭に乗せて肩までつかる。そして、湯船の中で手足を思いっきり伸ばした。


「あ゛~~~~~~~~~……」


 後頭部あたりでどくどくと脈打つ己の血管を感じながら、乾史はとろんとした眼で天井を見上げた。駅の裏側、様々なホテルが建ち並ぶ一角。サウナ、大浴場を備えたカプセルホテルの中に、乾史達は居た。


 ちなみにこの下の階はマッサージチェアとテレビ、さらに下がカプセルホテルとなっており、終電を逃したサラリーマンや、夜のお仕事に従事する人々の骨休めの場になっている。


 朱にもらったタダ券だと、この浴場とマッサージチェアだけが使える。ねぐらで飯を摂った二人はここで数日間の、文字通り垢を落としに来たのだった。


「んあぁおぁあ」


 聞き取り不能のおめき声を発しながら、首をごきごきと鳴らす乾史。押しかけ用心棒の際にシャワーを使ったりしたこともあったが、風呂となると実に数ヶ月ぶりだった。


 ほどよく体が温まったところで一旦湯船から出る。入る前に一度体を流してはいたが、その程度では路地裏生活でこびりついた垢は落としきれるものではない。


 備え付けのタオルとボディソープを風呂桶に放り込み、垢の殲滅に向けて決然と洗い場に向かう。


 途中、打たせ湯に寄り道し、首筋と肩を打たせることしばし。胡座を組んで目を閉じるその様は、どう見ても人生に疲れた中年のオヤジさながらの仕草だった。


「って。お前何やってんだよそんな端っこで」


「あ、アニキ……」


 見れば、洗い場の一番端の隅っこで、まだ湯船にも入らず体を洗っているサブロウが居た。妙にこそこそと人目を避けている風である。


「せっかく銭湯に来たんだからこう、でけぇ風呂でぐあーっと手足を伸ばすのがスジってもんだろおい」


 打たせ湯から出て、のしのしと近づく乾史。


「あ、いえ。あっしは別に体さえ洗えればそれで」


 なぜか後ずさる。濡れそぼった髪を振り乱しながら、とっさにタオルと両腕で体を隠す姿は何というかこう、第三者の視点では教育上大層よろしくない気がした。


「かー、まったく肝っ玉のちいせえヤツだな。小学生じゃあるめえし、今さら生えてるの生えてねえのでからかうような事するかい」


「いや、そういうんではなくってですね…!」


 頭に血が昇っているせいか、普段よりなおテンション高く、乾史が絡む。一方必死に胸元と腹の下にタオルを巻き付けてもがくサブロウの姿は、ここが男湯でなければ通報ものの光景だった。


「ええーい、風呂場で前を隠すようなヤツに男が語れるか!ほれ脱げ、ぬーげ!」


「や、やめてくださいって…!」


 完全に修学旅行中の中学生の悪ノリだった。ささやかな抵抗もむなしく、タオルは乾史の手にはぎ取られてしまった。


「かっかっか、じゃあ背中でも流してやろう……って、おい」


 その手が急停止する。その視線が、ある一点に釘付けになっていた。


「何だよ、それ」


「あははは……。見られちまいやしたね……」


 力なく笑うサブロウ。その白い背中には、いくつものミミズが這ったような疵痕が浮かび上がっていた。





 この雑居ビルに入っているカプセルホテルのささやかなメリットは、最上階に位置しているということだった。


 浴場のおよそ四分の一、湯船の真上がガラス張りになっており、昼であれば空を見ながら湯につかることが出来る。しかしすでに陽が落ちた今は、ガラスは浴場が光を反射し、浴室から外を見ることは出来ない。


 体を洗い終えた乾史は、サブロウと並んで湯につかりながらぼんやりとガラスを見上げていた。天井に映った自分の間抜け面と眼が合って、なんとなく中指を立てて突きつけてやる。


「たいして珍しい話じゃあありやせん」


 そう前置きして、サブロウはぽつぽつと口を開いた。


「あっしの両親は、あっしがまだガキの頃に死んじまったんでさ」


 東京にほど近いとあるアパートで、父と母と、幼いサブロウは暮らしていたのだという。


 父はなかなか定職に就けず、不安定な日雇いの肉体労働の仕事で食いつないでいた。母親もパートで昼夜働いており、お世辞にも暮らしは裕福とは言えなかった。


 だが、それでも当時のサブロウは自分が生活に不自由していると感じたことはなかった。ごく普通に小学校に通い、近所の子供達とも仲が良く、物覚えの良いサブロウは両親の自慢だったという。


 だが、その幸せな生活は、ごく危ういバランスの上に積み上げられたものだった。ある日、父が仕事中に事故に遭い、亡くなった。まともに睡眠を取らずにきつい肉体労働をし続けた疲れによる、高所からの落下事故だった。


 そして、父が亡くなると、生活の負担は母に全てのしかかった。通常、こうした事態に備えてたとえば生命保険や公的な扶助という制度がある。だが、サブロウの両親は、なぜかそれらに加入したり、頼るということがなかった。


 以前にも増しての重労働に、母親が病気になり急逝するまで九ヶ月。今にして思えばずいぶんあっけないものでしたね、とサブロウは抑揚をつけずに言った。


「ちょっと待てよ。フツー、そこまでキツけりゃ誰かを頼るくらいはしてもいいんじゃねえのか。親戚とかいなかったのかよ」


「―――親戚、ね」


 はは、とサブロウが乾いた笑みを漏らした。その口調と、いつもとは違う大人びた表情に、熱い湯船の中にもかかわらず、乾史の背中に冷たいものが走った。


「どうもね、ウチのお袋と、お袋の実家の仲があんまり良くなかったみたいでさあ。親父は親父で早いうちに親兄弟と死に別れてたみたいで。詳しくはわかりませんが、頼れる伝手はどうもなかったみたいですね」


 両手を組んで湯船に沈め、握りこんで水鉄砲を飛ばす。


「あとはまあ、この街のガキには良く聞く話でさ。金無し、身よりも無し。これできちんとした施設に引き取られればまた違ってたんでしょうがね。あっしが入ったところが、これまたヒドイところで」


「ヒドイって……どんなだよ」


「昔はきちんとしたトコだったらしいんですが。ああ言うところは完全に閉鎖された世界なものでね。所長が代わったとたんに地獄になった、って施設の先輩は言ってましたよ。


 体罰だの説教だのっつう名目のストレス解消があちこちでされてまして。あっしなんかは集中的にヤラれたほうじゃねえですかねえ」


 見ず知らずの他人の情報のようにサブロウは語った。


「じゃあ、背中のキズは、そん時に……」


「……施設の保育士に何人か変態ヤロウがいましてね。こっちが泣きわめくとよろこんでますます殴りつけてくるって手合いでさあ。悔しいから途中から意地でも声をあげないでやりましたけど」


 ざまあみやがれっすよね、とサブロウが笑う。


「で、ある日とうとうあっしも忍耐の限界にキやしてね。保育士の股間を思いっきりけっ飛ばして、そのまま着の身着のままで脱走したんでさあ。


 いやあ、あれは気持ちのいいもんですねえ、自由を手に入れるってのは。そんでこの街に流れて来て、どうにかこうにかメシを食いつないでるってわけです」


 良くある話でしょ、とサブロウは締めくくった。気安く相づちを打つことは乾史には出来なかった。二人とも無言のまま、蛇口からどばどばと流れ落ちるお湯を、たっぷり二分は眺めていただろうか。乾史はふと、自覚せぬままに口を開いていた。


「……でもよ、それじゃ」


 きつくねえのかよ。金は足りるのかよ。この暮らしをいつまで続けるんだよ。接ぐべき言葉はいくらでも思いついていたのに。


「さみしくねえのかよ?」


 気がつけば、そんなことを、聞いていた。サブロウは虚を突かれたように、二三度睫毛をしばたかせた。


「さみしくは、ありません」


 呟く。その声は、小石のように小さく、頑なだった。


「アニキだって、そうやって一匹狼で生きてきたんでしょう?」


「それは、」


 オレには力があったから。力があったから、一人で生きられた。力があったから、一人でしか。


「……それに、さみしさなんて感じてるヒマはありゃしません。こう見えても食い扶持稼ぐのに忙しいですしね。金が余ったら本を買いたいですし」


「本?」


 乾史は今朝、サブロウのねぐらに積み上げられていた種々雑多な本を思い出した。


「もしかしてお前、アレ全部読んでるのか!?」


「はい。まあ、読んで何がどう、ってわけじゃないんですが……。でも、きちんと勉強して。高校は、今からじゃ無理かも知れませんが。大検をとって大学に行けたらって思ってやす」


  サブロウは湯船につかったまま、上を見上げた。


「この街は、光が強すぎて。こうして野良犬みてえに地面を這いずっていると、何がキレイなものか、何があったけえもんかがわかんなくなっちまうんでさ。


 あっしもここに来てそんなに長えわけじゃありませんが。そういう、ちょっとキレイな光とか、見せかけの暖かさに飛びついて、ヒドイめにあった人を、随分見てきました」


 愛してくれる人を求めてやってきた三つ年上の少女は、優しくしてくれた男にドラッグを教え込まれ、この街から姿を消した。一旗揚げようと海外からやってきた気のいい外国人の兄貴分が、ある日警察に連行されているのも見たのだ。


「星みてぇなもんでさ」


 サブロウは天井を指さした。


「いまはガラスに光が反射して見えやしません。ここを出ても、今夜は曇りですから、多分見えないでしょう。でもだからと言って、星が消えてなくなっちまったわけじゃありやせん」


 見上げたまま。その視線の先は、乾史の想像もつかないほど先を捉えているのだろうか。


「アニキ。たしかにあっしは、アニキみてえな強い力は持ってやしませんし、学校も小学校までしか行けやせんでした。でも、あっしはこの街で、なんとか自分だけの星をつかみてぇんです」


 だから、今は自分の出来るところまで、昇ってみようと思っています。そうサブロウは言った。


「もう、あっしはオトナを頼るのはやめたんでさあ。アニキみたいな一匹狼にはなれねぇかも知れません。でも、ゴミを漁る野良犬だっていい。地べたをはいずり回っても辛くねえです。いつか、光を手に入れるまでは」


 その言葉は、遠くを目指し、かつ、周りに何も近づけない。


「犬が星を見上げるのは、悪いことなんでしょうか」


 乾史には、それに応える言葉がなかった。





  ―――オレは。


 何のためにこの地べたをはいずり回っているんだろう?

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