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◆04:街路に狂犬吠え睨めう

 結論から言えば、乾史が空きっ腹であるという条件を除外しても、朝飯は十二分に美味かった。ジャンクフードで食いつないできた乾史にとって、まっとうなメシなど食べるのは果たして何日ぶりだっただろうか。


 炊きたての湯気立つご飯に存分に海苔の佃煮をのせ、一気にかき込む。熱いご飯とやや冷たい佃煮の甘みが絶妙な調和を引き出し、脳にダイレクトに旨味成分を叩き込んでくれる。


「たしかに、うん、これはウマい、んだが、それは、それとしてだな、聞きてえことがある、と、おかわりいいか?」


「どうぞ、アニキ」


 乾史の突き出した茶碗に、サブロウが炊飯器から飯を盛って返す。


「そうだ、それ。何だそのアニキってのは」


 そこでようやく乾史は、昨夜来の根本的な疑問を投げつけることが出来た。


「つうかだな。なんでお前はオレをわざわざねぐらに案内して、泊めたうえに飯まで食わせてくれるんだ?そりゃ確かに昨日はヤベェところを助けてやったがよ。その分はきちんとあのサルみてぇなチンピラから取り返した分で払ってもらったじゃねぇか」


「何って。アニキはアニキですよ。『狂犬』乾史っていやあ、今やこの街の人間で知らないヤツは居ませんや。本物に会えるなんて、それこそ夢みてぇな話でさあ」


 ぞぞぞ、と味噌汁をすする乾史の手が止まった。サブロウは目を輝かせて、目の前の乾史に向かって、彼自身の情報をとうとうと並べ立てた。




『狂犬』乾史。


 それが目下の犬神乾史の通り名だった。数ヶ月前に、ふらりとこの街にやって来た素性の知れない少年。


 外見はどう見てもみすぼらしい浮浪児のそれ。まだ高校生とも思えないこの少年は、だが、喧嘩においては無類の強さを誇った。


 確かにこの街のヤクザ者にも喧嘩(ゴロマキ)自慢の者は数多い。ドス一本で五人相手に斬り込んでいった、なんて武勇伝はそこら中に転がっている。


 がしかし、乾史の強さは明らかに次元が違った。


 特に大柄でもない十五の少年が拳を振るえば、プロレスラーのような大男が宙に舞い壁に叩きつけられる。ドスを握った本職のヤクザ十人を相手に互角以上に立ち回った事もあった。


 当初は、生意気なガキをシメようとやってくる不良やヤクザ者達を返り討ちにしていただけだったが、そのうちに乾史は自分の腕で食い扶持を稼ぐようになった。


 用心棒稼業……と言って良いものだろうか。夜の街を徘徊し、カツアゲにあったり因縁をつけられている人を見つけては、「助けてやるから金だしな」と半ば一方的に助っ人に入り、用心棒代を巻き上げる、という商売を行っていたのだ。


 もちろん、こんな事をしていればあっという間に裏社会の人間の恨みを買う。有形無形の妨害があった。だが、乾史はそのいずれも腕力ではね除けてきた。


 どこにも属さず、どんな相手にもかまわず噛みつく『狂犬』。


 普通の人間とは思えない強さを備えた、”異能”の少年の名前は、暴力を糧に栄えるこの街の裏社会に突如として現れた彗星のようなものだった。そして昨夜、乾史はいつものように街をさまよい……たまたまタチの悪いチンピラ二人に絡まれていたガキを助けに入ったのだった。



「―――あっしはこのとおり、チビで女みたいなツラしてるから、誰からもナメられるんでさあ」


 サブロウは自嘲気味に言った。


 たしかにそうだろう、と乾史も思う。


 こうして明るいところで面と向かい合って男言葉で話されていても、新たなおかわりを盛りつけているその姿は、一向に男とは思えない。面立ちといいバンダナでまとめた髪といい体格といい声といい、どう見ても少女のそれだった。


 前に一度だけ、新宿の裏通りでストリートファイトの王者を張っているとか言う女子高生を見かけたことがあるが、あれなぞより数万倍はこちらの方が女性らしい。


 実際、乾史ではなく他の男がこの状況にあれば、美少女にお膳を世話してもらって至福の刻に浸るか、あるいはその正体が少年と知って深く煩悶するかのいずれかだったろう。幸か不幸か、少年犬神乾史は、まだ女には興味がなかった。


「昨日みたいなこともしょっちゅうでしてね。だから上手く立ち回ろうと、小賢しいことばっかり憶えたんですが。しょせん小手先ですよ」


 料理の腕や家電製品をどこからともなく集めてくる才覚も、この街で憶えたのだろうか。


「そんな時にね。一人でヤクザをぶちのめしちまうとんでもなく強ぇヤツが現れたって噂を聞いたんです。しかもあっしと大して歳が変わんねぇって言うじゃないすか。


 ぜひ一度お会いしてぇ、と思っていたら、まさか助けてもらえるなんて。昨日はさんざんでしたが、最後はマジでツイてやした」


「あー、なるほど。そーいうことね」


 乾史は最後のご飯をかきこんで納得した。となれば、これ以上ここにいる理由もない。


「メシを食わせてもらったことは感謝してるぜ。んじゃあ、またどこかで、」


「あの!実はアニキにお願いがあるんすが」


 せっぱ詰まった大声に、飛び上がる。


「な、なんだよ」


 サブロウは言い出すべきか否か、しばし口ごもっていたが、やがて意を決して言った。


「あっしに男を教えてもらえやせんか?」


「―――は?」


「あっしも、いつまでも女のカッコして金巻き上げる商売続けてるわけにはいかねえんでさあ。だからあっしも、アニキみてぇに誰にもナメられないようになりてぇんです!」


「―――あ、ああ。いやそう言われてもな。そんなもん教えるモンでもねえだろ」


「もちろんタダとは言いません。もっと金払うから、しばらくあっしの用心棒をしてもらえやせんか?アニキの傍で自分で見て勉強しますから」


 ああ、つまりはこのガキは、これを頼みたいがためにオレをここまで連れてきてメシを食わせた、ということか。サブロウの言いたいことはわかったが、乾史としては一つ確認をしておかなければならなかった。


「……おめぇ、こう言っちゃなんだがよ。オレのことそんなに信用していいのか?」


 上手く立ち回ってきた、とはサブロウ自身も言っていたことだ。その本人が、易々と自分を信じるというのは、どうも腑に落ちなかった。


「正直、この街ではどいつもこいつも信用できねぇッス。でも、誰も信じなきゃやってけねぇ、ってチュウの姐さんに教わったモンで。それに、アニキは昨日の夜、取れる金がまだあってもあっしから奪わなかった」


「……そりゃ最初に一回五千円って言っちまったからな」


「だからあっしは、アニキならいいと思ったんス」


  サブロウは屈託のない笑みを浮かべる。乾史は柄にもなく考え込んでしまった。男を教えるだのなんだのは悪い冗談として、ただ用心棒を数日続けるというのであれば、今までもなかったわけでもない。


「メシはつくのかよ?」


「へい!さっきのくらいでしたら何とか三食」


 悪くない条件だ。それどころか、昨日までの乾史の食生活ときたら、あと少しで生ゴミを漁らなければならないレベルに達しつつあった。断る理由は、否、断れる理由がなかった。


「ま、一週間くらいなら別にかまわねーけどよ」


 そっぽを向いて答える乾史、満面に喜色を浮かべて飛び上がるサブロウ。


「商談成立っすね!じゃあ、早速ですいませんがアニキ、これから昼の仕事があるんです。一緒に来てくれますか?」


「ああ。メシも食ったし腹ごなしをしねえとな」


 もともと二人とも準備をするほどモノを持っているわけでもない。倉庫の外の水道から引いたホースで顔を洗い口をゆすぐと、それで準備完了だった。


 出がけに乾史は、入り口を振り返り、残っていた最後の疑問を口にした。


「そういやこのたくさんの本よお。えらく小難しいけど、誰が置いていったんだ?」


 改めてみると、化学や政治経済、ダイスウキカとやらの参考書もあった。サブロウは赤面すると、


「あっしです。学校行ってねえモンで。時々、余ったカネで買って読んでるんでさあ」


  乾史は今朝何度目かわからない驚きに言葉を失った。




 二人が倉庫から出て行く。だが、その様子をじっと見ていた人間がいたことに、サブロウも、そして乾史も気づくことはなかった。


「おやおや。これは些か、奇妙な事態になっているようだな」


 倉庫の近くの通りの影で、その男は誰にともなく呟いた。困っている口調とは裏腹に、その表情はどこか楽しげだった。歳の頃は二十そこそこか。陽に良く焼けた肌に、鉛色の瞳。短めに刈ったやはり鉛色の髪の毛を、整髪料で刺々しく逆立たせている。


 異様な体型の男だった。


 百八十五センチの身長は、高いとはいえさほど珍しくはない。だが、問題はその脚と腕の長さだった。いずれも異様に長い。同じ身長の平均的日本人の、腹の位置に腰がある。


 そしてその膝に届きそうな、長い腕。対照的に頭は小さく、九頭身に達しているのではなかろうか。そのため実際の身長以上に背が高く見える。


「巣穴を嗅ぎつけてみれば時わずかに遅し……か。いやいや、焦りは禁物」


 細長い身体に、ウィングカラーのシャツ、地味だが明らかに上質とわかる黒のベストとパンツを纏っている。


 履いている革靴は丁寧に磨き込まれているのか、遠目にも艶が見て取れるほど。その格好はまさしく十九世紀の執事さながらだった。


 だがしかし、その胸元は大きくはだけられ、鎖と錠を模した銀色の首飾りがかけられている。よく見れば、袖のまくり上げられたその腕、耳にも、鎖や拘束具、銀で作った髑髏の小物が光っており、ストリートのパンクファッションさながらだった。


 執事とパンク、体制と反体制という相反した要素を無理矢理一つにまとめたような、なんとも統一性のない姿だった。


「巣穴で見つけた邪魔者は、果たしてただの子犬かどうか……?と」


 眉をしかめて携帯を取り出す。マナーモードに設定した携帯が震えていた。舌打ちしたげな表情をこらえて、電話に出る。


「もしもし。……ええ。ちょうど見つけたところです」


 たちまちスピーカーから漏れる大声。どうやら電話をかけてきた男は相当に怒っているらしい。男は眼を閉じて、受話器を離した。


「しかしですね旦那様。追跡中の連絡はご勘弁頂きたいと申し上げました。もしも携帯の音で気づかれたりでもしたら厄介です」


 またもスピーカーから流れる大声。耳を離したまま男は回答する。


「ええ。今居場所の側に居るのですが。どうも面白いことが起こったようでしてね。どうも用心棒を雇ったらしい。中々に先見の明がおありなさる」


 そう言ったときだけ、男の声にかすかに賞賛と皮肉の念が混じった。黙り込む電話の向こう。一転して何かを確認するように、低く押し殺した声が流れる。


「いえいえ。そんな大層なものではございません。ほんの子供なんですがね。子供だからと油断してかかれないのがこの業界の怖いところでございまして」


 電話口の声が二言三言述べる。それに頷いて男は言った。


「いずれにせよ一週間もあれば果たせるかと。……はい。かしこまりました旦那様」


 通話を切り、ポケットにしまう。その時、倉庫の方向から風が吹いた。まだわずかに残った桜を散らし、通りを抜けてゆく。風が運んできた桜の薫りを、男は鼻をひくつかせて、丹念に吸い込んだ。


「―――『臭いは憶えた』。もはや地の果てまで行っても逃げ切ることは出来ん」


 男は、乾史とサブロウの消えていった通りの奥へと視線を転ずる。身につけた鎖のアクセサリーが、じゃらじゃらと音を立てた。その目線の先を、どこからか漂ってきた桜の花びらがかすめる。


 男はそれを愛でるようにしばし眺めると――――唐突に、その右の拳を振り抜いた。


「……はたしてどこまで頑張れるか。見せてもらおう、用心棒くん」


 花びらが地面に落ちる。羽毛より軽いはずのそれは、真っ二つに切り裂かれていた。

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