◆17:妖怪変化と覚醒少女
路地裏を風が吹き抜けた。
突如、怖気が走った。
全身の肌が粟立ち、毛が逆立つ。
すでにその時、路地裏の乱闘は決着がつきかけていた。十数人いたチンピラのほとんどは真凛に打ち倒され、おれは今度こそ皇女を連れて事務所へ戻る準備をしていたのだが。
「……っ!お出ましかよ!」
晩秋の夜よりなお寒い、そしてなにがしかの”悪い”モノが含まれた、底冷えするような風。不浄な”瘴気”とも少し違う。
幸か不幸か、おれは今までの経験でその正体を知っていた。”陰風”。ヒトからはみ出した存在、あるいはヒトならざる怪異がその力と共に解き放つ邪悪な気配。――すなわちその意味は、
「上だっ!」
「受け身っ!!」
おれと真凛の叫びが同時にあがる。夜の闇よりなお暗い、ネオンの光も通さぬ黒いかたまりが、明確な殺意を以ておれの頭上に落ちかかってきていた。
とっさに皇女を抱えるおれの背中を、真凛が思いっきり蹴り飛ばし、反動で自分も飛んだ。絶妙の判断。おれ達が左右に別れた一瞬あとの空間を、大質量の黒い塊が押しつぶしていた。
轟音、破砕。打ち割られたアスファルトの破片が飛び散り、おれの背中にいくつも跳ねた。降り注ぐ砂埃の中、真凛の警告通り受け身を取って起き上がったおれと皇女が見たものは。
「シイイィィィィィ……!!」
黒い靄の中に佇む、獣、だった。
いや、基本的なシルエットは人間――二メートル近い長身、屈強な筋肉質の体躯、無骨なミリタリー装備に身を固めたその姿は、日本ではまず目にすることは出来ないとしても――、確かに人型のそれである。直観。精神をシフト。小声で呟く。
『亘理陽司とファリス・シィ・カラーティに――』
だが、その全身から立ち上る禍々しい黒い靄が、明らかに男がまっとうなヒトのそれではない事を示している。そして両腕と顔は黒い斑点混じりの銀色の体毛にびっしりと覆われ、大きく張り出した顎から覗く牙、金色に輝く瞳孔は、まさしく獣、それも獰猛な猫科の生き物のそれであった。
長く突き出した首、異常に発達した背中と、曲げられた脚にたわめられた筋肉、そして浮かせた踵が、”猫背”を形成している。もちろん不健康な姿勢のそれではない。瞬時に得物に飛びかかることを可能とする、危険な発條。
『致命打は――』
そしてその両腕で逆手に握られ地面に突き立てられているのは、長大な鉄の棒であった。中央の持ち手のみが人間が握れる程度の細さだが、それ以外の箇所は梁のように太い。
奴は上空からの落下速度、己の膂力、そしてこの鉄塊の重さを一点に集約して俺を叩き潰そうとしたのだ。直撃していれば、俺は頭から踵まで圧縮された肉塊に成りはてていただろう。
『小僧共、カンはいいようだな』
黒い靄を周囲に放射しながら、獣が異形の口腔を器用に動かし西域の語を発音する。瞳孔が俺を見据える――と同時に、筋肉で形成された異形の猫背が弾けた。
『――当たらない!』
紡ぎ上げられた言葉が『鍵』を形成する。
「ヌゥッ!?」
先読みの博打は見事に当たった。おれを狙った鉄塊の一撃は、見えざる因果の鎖に絡め取られ……結果、『先の一撃の余波で断線したビルのケーブルが、獣の眼前に落ちかかってくる』という形で妨害された。咄嗟に硬直する獣。
だが、直前で急停止し勢いが殺されたものの、鉄塊はおれの左肩に重く食い込んでいた。
「くっは……!!」
おれの視界が急速に横に流れ、大音声と共に急停止。三メートルほど横に吹っ飛ばされてビルの壁面に叩き付けられたのだ、と二拍ほどして認識する。
仕方がない。ファリスへの流れ弾を防ぐためには『鍵』の対象を二人にせねばならす、その場合、必要なコストは加算ではなく乗算になる。負荷を削減するために、『当たってしまう』こと自体は受け入れざるを得なかったのだ。
ダメージ検証――右の肩甲骨にヒビ。腕の筋肉に一部断裂、アバラに衝撃、防刃防弾下着越しとはいえ全身に打撲。内臓まわりは後でチェック。――暫定結果、防具を付けた状態で二階の窓から突き落とされた程度。充分活動可能だ。アドレナリンを分泌させて痛覚を遮断し、身を起こす。
挙動を崩されたのもつかの間、即座に皇女につかみかからんとする獣。だがそこに、極端に身を沈め、影から滑り込むように真凛が追いすがっていた。
「ジィィッ!!」
獣が反応し、咄嗟に跳躍する。正しい判断だろう。アキレス腱をつかんで引きちぎろうとした指先が空を切る。そのまま真凛は前転して身を起こし、おれの代わりに皇女の護りとなる。跳躍した獣はそのまま、雑居ビルの壁を蹴り、合間を駆け上がってゆく。そして――
「また来るぞ!」
「わかってる!」
十分な位置エネルギーを稼いだ時点で獣は身体を反転させ、一転して下方、つまりおれ達に向かって壁を蹴った。今度の狙いは――真凛!
「っ……!」
真凛と皇女が咄嗟に飛び退る。再び弾丸と化した獣が、アスファルトに鉄塊を炸裂させたのはその直後だった。獣が唸り声を上げる。追撃はなかった。
「ちぇ、さっきより速いや。合わせそこねちゃったよ」
真凛が五指を屈伸させてぼやく。攻撃を避けざまに眼球を狙い貫き手を放っていたが、またも獣の反射神経にかわされたのだ。睨み合う両者。
初手の見せ合いが終わり、互いの力量が知れたところでわずかに膠着状態が訪れる。周囲を満たし始めた黒い靄に不吉な予感を抱きつつも、そこでおれ達はようやく相手を観察・分析することができた。
こいつが敵であり、さっき喋ったルーナライナ語から、皇女を取り戻すための刺客だという事までは明白だ。問題はその能力。
「……棍、かな?」
真凛が敵の持つ異形の鉄棒を見て呟く。
「――いいや、ありゃあ杵、だな」
「杵!?って、あのお餅つく奴?」
真凛が驚くのも無理はない。だいたいの人間にとって、杵というものは道具であって、武器ではない。こんなものを使う連中と言えば。
「ああ。だがハンマーみたいな”横杵”じゃなくて、竪杵……逆手に構えて重さで突き潰す方が得意な奴だ」
さっきアスファルトを叩き潰したのもそれだろう。真凛の言葉に応えていくうちに、おれの頭の中で検索結果が急速に絞り込まれていった。
『小娘が格闘使い、男は添え物――なるほど、事前情報の通りだな』
『添え物で悪かったな』
まあ否定はしないが。ルーナライナ語でお返事してやると、会話が出来ることに驚いたのか、黒い靄を顎から垂れ流しながら獣は言葉を続けた。
『貴様等も運がない。よりによってこの俺を相手にするとはな』
『はっ、獣のくせに随分器用にさえずるじゃないか』
前に戦った竜人は変身するとまともに喋れなかったもんだが。と、獣が喉をぐつぐつと震わせた。嗤っているらしい。
『獣、か。なるほど貴様らにはそう見えるかも知れぬな。愚かな奴め、俺が何者かもわからぬまま、臓腑を裂かれて死ぬがいい』
『ははん。さてはお前、頭悪いだろ?脅し文句に独創性がない』
先ほどチンピラ相手に独創性のない文句を吐いた事実を棚に上げつつ、おれは内心舌打ちした。コイツは殺意を明示した。つまりはまっとうな『派遣社員』ではなく、業界の仁義を守るつもりもなければ必要もないということだ。
『けどまあ、アンタの正体、心当たりがないわけでもないぜ?』
『ほう。小僧、俺様を知っているとでも?』
『そうさな、おれが知ってるのは――かつて中央アジアのある部族が、雪渓に埋もれた寺院に封じられし邪法を解き放ち、獣の力を我が物とした――なんて伝説だけど』
『……ふん……』
獣の気配が変わる。どうやらおれを”添え物”扱いするのはやめたらしい。
『当たりか。ま、簡単なクイズだったな。銀色の毛皮に黒の斑点、鉄の杵をかまえて陰風を纏う”妖怪変化”、といえばヒントがありすぎなくらいだぜ』
獣の口の端が急角度に歪む。
『ならば言ってみるがいい、……我が真名をな』
『その昔、ありがたいお経を取りに天竺に旅立った坊さんを喰らおうとした魔物の末裔。花皮豹子精――またの名を『南山大王』!』
ナンザンダイオウ、の日本語を知っていたのだろう、獣は嗤った。禍々しい歯列がむき出しになる。
『気に入ったぞ小僧!男の肉は好かぬが、貴様の脳随は啜りがいがありそうだ!』
再び弾ける筋肉のバネ。夜闇を裂いて鉄杵を唸らせ、『南山大王』は跳躍した。
「ふん、生憎おれの役割はどっちかっていうと念仏唱える方でね――荒事は任すぜ孫行者!」
「なんだかよくわかんないけど任された!」
そこはがってんお師匠様とか言って欲しかったがまあいい。割って入った真凛が鉄杵を潜り込みつつ掴みかかり、接近戦を挑む。獣は己の爪牙を振り回しつつ、鉄杵の有利な間合いを取ろうとする。剣呑な技巧と獰猛な黒靄が混じり合い、一挙手一投足の間合いでの乱戦となった。
「大丈夫か?」
もつれる両者から距離を取り、皇女の元へ。おれが獣相手に正体当てクイズをやっていたのは、別に自分の知識自慢のためではない。真凛が皇女を安全圏に退避させるまでの時間稼ぎである。
「亘理さん、肩が……!」
「ああうん、まあ軽い打ち身ってとこ」
「嘘です、あの音なら骨にヒビが入っているはずです!」
「だいじょぶだいじょぶ、割とまれによくあることだから」
皇女の気遣わしげな視線。どうも扱いに困るなぁ。ケラケラ笑って手を振り、話題を転換する。
「で、今の襲いかかってきた獣に心当たりは?」
「たぶん……ビトール大佐です。叔父の右腕を務めていて、豹の魔物に変じる力を持つなどという噂がありましたが、まさか」
本当に豹に化けるとは思っていなかったのだろう。それが普通の世界の常識というものだ。
「んじゃ、厄介者の相手は真凛に任せて、おれ達はとっととずらかろうか」
「そ、それは真凛さんがあまりにも危険では!」
「へーきへーき。君も見たろ?アイツのえっげつない暴力をさー」
蹴られた顔面をさすってみせる。
「しかしビトール大佐のあの姿は、もはや人間ですら……!」
「大丈夫。アイツはああいった手合いとはもう何度とやってるしね。それに」
ま、そろそろアシスタント業務も長いしな。
「任せられるから任せる。――そういうことさ」
「信頼、してるんですね」
「と、とにかく!ここから離れるぜ、……ってなんだこりゃあ?」
「黒い……壁!?」
皇女を連れてビルの谷間から抜け出そうとしたおれ達は、黒いガス状のものがわだかまり、出口を塞いでいることに気がついた。
「あの黒い靄か……!」
己の迂闊さにまた舌打ちする。確かに陽は落ち、もう夜と言ってもいい時間だ。だが外から届くはずのネオンや街灯の明かりが一切遮断されていたことに気がつくべきだった。辺りを見回す。イヤな予感は的中。いつの間にか周囲一帯が黒い靄に閉ざされていた。
「これが、ビトール大佐の力なのでしょうか?」
「だろうな、奴さんの撒き散らしていた黒い靄、ただの虚仮威しってわけじゃないらしい」
試しに手をかざすと、不吉な寒気が腕に走り思わず引っ込めた。分類するなら『妖術』のくくりだろう。精神的な嫌悪感を催す人払いの結界。
恐らくこの黒い靄の中で何が起ころうと、外の人間には感知されない。表通りを歩く人間が悪臭漂う路地裏や薄暗い物陰に視線を向けるのを避けるように、この場で起こる事を無意識に忌避し、忘れようとする力が働くのだ。
人に仇なす『妖怪変化』が力を振るう際、しばしばこういった結界を用いることを、おれは経験として知っていた。
「気合い入れて突っ切りゃいいだけの話なんだけどな……!」
額に脂汗が浮かぶ。理屈ではそう判っていても、ヘドロの海に顔を埋めるような強烈な嫌悪感が行動を阻む。ファリスを見れば、こちらも顔を青くし身を竦ませている。
「作戦変更だな、こりゃ」
二人揃って突破できる目は薄いと判断せざるを得ない。
「こうなったらそいつを一気に片付けて脱出するぞ――って、おい!?」
皇女を連れて引き返したおれ達の前に、意外な光景が広がっていた。
獣が吠え、巨大な体躯が唸りを上げ――アスファルトに叩き付けられた。
『ガハァッ!』
牙の間から肺の中の呼気と黒い靄が吐き散らされる。己の重量と速度がそのまま凶器となって跳ね返り、頑丈な骨格と胸筋をも押しつぶしたのだ。
『舐め、るな小娘ェェエ!』
コンマ数秒で身を跳ね上げ、『南山大王』は突進、膂力に任せて鉄杵を振り下ろす。遠心力をためこんだ極太の鉄の塊が七瀬真凛の小さな頭に振り下ろされ、木っ端微塵に粉砕された、かに見えた。
真凛は左手左足を前に出した構えから、右足を半歩だけ退いて半身に身体を開いた。半瞬前に己の頭があった空間を鉄杵が通過する。強敵の攻撃を紙一重で避ける『見切り』だ。そこまではまあわかる。おれも何度も見たことがある。
だがそこからが異常だった。真凛はそのまま前に突き出した己の両の掌で、鉄杵を掴んでいる『南山大王』の手首を軽く包み込んだ――ように見えた瞬間。
『ッッガァ!』
苦悶とともに『南山大王』はまるで高圧電流に感電したかのように背筋をびくんとまっすぐ伸ばし、そしてその姿勢のまま斜め上空にすっ飛んで行ったのである。
「ま、真凛さん!?」
呆気にとられるおれ達の視界で、『南山大王』の巨大が放物線を描き、そのまま雑居ビルの壁面に叩き付けられ、轟音を撒き散らす。
『ゴ……ガ……!』
地面にずり落ちた獣が痙攣する。
「亘理さん、真凛さんは武術の他に何か魔術も使われるのですか?」
「いや、そんなはずは……」
先ほどのチンピラとの戦いで、真凛が護衛として十分な戦闘力を備えている事を確認済のファリスだが、驚くのも無理はない。触れただけで相手を吹き飛ばすなど、武術ではなく超常現象の領域のはずだ。
「うん。うん。だいたいわかってきた」
不可思議な技を使った当の本人は、ごく平然と、なにやら確かめるように己の五指を開閉させている。と、瓦礫が吹き飛び、またも『南山大王』が身を起こし突進してきた。
『殺す!殺す!貴様は臓腑を引き裂いて殺す!!』
憎悪のこもった絶叫も、ルーナライナ語を解さない真凛には届かない。
「要は銃弾を見切る時とおんなじなんだよね。力の流れを――」
鉄杵が風を巻く。横薙ぎの一閃。縦を躱されたのであれば次は横。シンプルだが確実な選択、のはずだった。
だが真凛は、敵が撃ちこんだ時にはすでに暴風圏の中心に吸い込まれるように前進。体幹を軸に収縮する螺旋のように身を翻すと同時にまたも両の掌で『南山大王』の手首と肘にあてがうように触れ、糸の切れた人形のようにすとんと膝を抜いていた。
『……!』
獣はもはや悲鳴も上げなかった。再び宙に己の身を跳ね上げ、今度は吹き飛ぶ事すら出来ず、自身の起こした暴風に巻き取られるように巨体が鋭く空間を翻り――べちゃりと雑巾のように地面に吸い込まれ、潰れた。
「――よく見て、螺旋にして相手に集積してあげればいいんだ」
片膝立ちのまま真凛が呟く。その両手はいつの間にか、剣を撃つように振り下ろされていた。
「……マジ?」
合気道で言うところの四方投げ、いや小手返しだろうか。あまりに速く到底目で追えるものではないが、ネットの動画で観た武道の技ではそれが一番近いように思えた。多分ではあるが、いわゆる合気の類い。
『南山大王』の獣の膂力、体重、そして鉄杵の重量や遠心力。それらを巧みに取り込み相手に送り返したのだろう。『南山大王』は自分自身が放った力で宙を飛び、壁や地面に叩き付けられる羽目になったのである。
『……ガ……ハ……ッ』
倒れ伏したままの獣。残心したまま真凛は距離を置き、一息ついた。
「よし、上手く出来た。颯真とやり合う時は余裕なかったけど、この人は力も動きも大きかったからかえってわかりやすかったよ」
「真凛さん、それも武術の技、なのでしょうか」
皇女が恐る恐る確認した。そうであって欲しい。万が一このお子様が超能力にまで目覚めでもしたらそれこそ手が付けられない。
「うん。やってることはウチの基本技。他の流派にも普通にある技なんだけど」
「ンな技が普通にあってたまるか」
「あはは。こないだ、シドウさんとやり合ったでしょ?その時にあの人もボクと同じく『見えてる』っぽい人だったからさあ、色々コツを聞いたんだ」
シドウというのは以前の仕事で真凛が戦った巨漢で、柔術の使い手である。この女子高生の特技として、銃を構えた相手の殺気、銃口の位置から弾道を『線』として見るというものがあるのだが、どうやらコイツ、その特技を投げ技や関節技に応用し始めたらしい。
「体格が大きい人相手だと指とか目とかを攻撃しないと崩せないから、読まれちゃうと手詰まりになっちゃったんだけど、これでだいぶ幅が拡がったよ」
己のレベルアップを実感するように、何度もうんうんと頷くお子様。素人見立てだが、『南山大王』は決して弱敵ではない。むしろ戦闘能力で言えば今までおれ達が渡り合ってきた中でも上位の部類に入るはずだ。それをここまで一方的に叩き伏せるということは、つまり成長していると言うことだ。
「真凛、おまえ」
「ん?」
「いや……、何でもない」
いつも通りのあっけらかんとした表情に、おれは言葉を失った。自分でも何を言うつもりだったのか、よくわからなかった。
「ま、まあ障害も排除したことだし。さっさとみんなで事務所に戻ろうぜ」
ズボンの埃を払ってザックを背負い直す。帰り支度を始めようとしたおれの耳に、皇女の叫びが刺さった。
「亘理さん、あれを!」
「どうしたファリス?」
「靄が、晴れていません……!」
「何だって?」
おれの視界の先には、路地裏と表通りの境を塞ぐ黒い靄。『南山大王』を倒したはずなのに、それは晴れずに未だどろどろと蟠ったままだった。
『グ、……グ……、ハハ……ハハハハハ!』
瓦礫の山が崩れ、『南山大王』が身を起こした。己自身の重さと速度で何度も地面に叩き付けられたダメージは相当に大きいらしく、鉄杵を杖代わりにしている。だがその眼はまだ凶暴な殺意に満ちていた。
『まだやるのか?正直、こちらとしてはこれで手打ちにしたいんだがな』
あちらはどうか知らないが、こちらは生命のやりとりをしても何の得もないのだ。
『バカを言うな……これからよ……。キサマ、気づいていないのか?』
「陽司、後ろ!」
真凛の声に背後を振り返り、おれは眼を向いた。
「これは、……いったい何が起こっているのですか?」
皇女の狼狽も無理はない。そこにはおおよそあり得ざる光景が展開されていた。
先ほど倒されたチンピラ達。その多くは逃げ散り、何人かは完全に昏倒し無力化していた。だがそのうちの三人に、周囲に漂っていたあの黒い靄が、もつれた蜘蛛の巣のように幾条もの糸となって絡みつき、そして繭のように包み込んでいたのだ。
そして靄が完全にすっぽりとチンピラを覆いきると……それは、むくりと立ち上がった。二メートルの巨体と、鉄杵を携えた獣のシルエット。つまりは『南山大王』のカタチを採って。
一体二体と起き上がり、そして三体目が起き上がる。
気がつけば四匹の獣に、おれ達は囲まれていた。黒い靄に包まれた『南山大王』の影三体と、そして、
『これで形勢逆転だな、小僧共。……これこそ我が真の力、必勝の陣よ』
オリジナルの『南山大王』に。
「亘理さん、これもビトール大佐の力、なのですか?」
「っていうかこれ、ちょっとずるくない?」
四方を囲まれ焦る皇女と、唇をとがらして不満を述べるアシスタント。おれはと言えば、額に手をやり己の読みの甘さを反省していた。
「『分瓣梅花の計』か。そりゃそうか、『南山大王』ならそう手を打つよなぁ」
「ぶんりゅ……ナニソレ?」
『分瓣梅花の計』。かつて『南山大王』が取経の旅に出た聖僧を襲った際、武芸と神通力に長けた弟子達を遠ざけるために打ったという策。
自らの姿を己の部下に映し化けさせ、囮となし行動させる妖術だ。いくつかの言い伝えによれば、化けさせられた部下達も主と同じ能力を持ち、聖僧の弟子達をそれぞれ苦しめたとある。
「まあ、なんだ。四捨五入すると部下の肉体を依り代にして分身を作り出す術ってところだな。餅つきに分身たあ、どうやら新年隠し芸の心得もあるらしい」
強いて減らず口を叩きつつ、内心冷や汗を拭う。見た目以上に状況は不味かった。先刻の戦いで見せたように、真凛であれば例え数が増えようと『南山大王』の攻撃を捌いて投げ飛ばすことは出来るかも知れない。だが。
『小僧ハ殺シ、皇女ハ攫ウ。ソノアト小娘、キサマヲ切リ刻ンデクレル……!』
靄で出来た分身が、濁った言葉を紡ぐ。獣の何体かの視線は、真凛ではなくおれ達に向けられていた。そう、数に物を言わせた各個撃破にかかられたら、打つ手がない。
「皆さん、私は……」
「ハイつまんない事は言いっこなし」
「そうそう。ボク達これでも、オシゴトとして引き受けたんですし」
実は任務達成率は百パーセントだったりする。ケツを捲る選択肢はなかった。
「ボクが引きつけるよ。二人は逃げて」
「殊勝な申し出だが、そもそも逃げられるかどうかも怪しいもんだよなぁ」
通路にはいまだ靄がわだかまったまま。皇女を連れて複数の獣の追撃を振り切り、強力な『人払い』の力を持つ障壁を突っ切るのは、さすがに要因が多すぎておれの『鍵』でもカバーしきれない。あまり言いたかないが、絶体絶命というヤツのようだった。
『……終ワリダ!!』
本物と分身の『南山大王』達が声を揃えて言葉を紡ぎ、そして一斉に向かってくる。
「ああくっそ!」
こうなりゃ一か八か、逃げの一手しかねぇか!
そう思った時。
夜を裂いて、冷気が走った。
晩秋の夜よりも、おぞましい陰風よりも、遥かに冷たく清冽な白い冷気。
『ガハァ!?』
獣の一体がのけぞった。他の三体も、驚き突進を止める。
『ア……ガ……?』
その胸に突き立っていたのは、白い剣。
「まったく、皇女を案内すると街に出て行ってみれば帰ってこない」
冷気であつらえられた、純白の騎兵刀。
「まさか貴様、皇女をタチの悪い夜遊びにでも誘おうというのではあるまいな?」
事務所のメンバー、『深紅の魔人』、笠霧・R・直樹の得物であった。
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