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◆14:灼熱の死闘

「じゃあじゃあ、ファリスさん、せっかくだからカレーうどんを食べましょうよ!」


 

「本当ですか!それはとても楽しみです!」


 

「はいはい、じゃあ今日の昼はカレーうどんな。真凛は自分で払えよ?」


 


 

 ――学生街である。いざ昼飯となれば、安くて量が多く良心的な店はたくさんあり、むしろチョイスに困るほどだ。ファリスと真凛の希望を聞き入れ、おれ達はさして苦もなく食事にありつくことが出来た――


「……はずが、どうしてこうなった……」


 おれは目の前のテーブルに載っているどんぶりを見て、頭を抱えた。


「カレーうどん、だよ、ね……」


 カウンター席の隣で同じものを注文したはずの真凛もどんぶりに釘付けになった視線を逸らすことが出来ない。そこにあるのは黒色でごく標準的な大きさの、麺を盛るためのどんぶりであり、中に収まっているのは程よく茹で上げられたうどん、のはずである。


 だが。


 赤い。

 

 赤いのだ。

 

 緋色スカーレット鮮紅色クリムゾン、いや、もはやクェーサーと表現すべきであろうか。漆黒のどんぶりの中に、マグマのようにどろりと重く赤い油が流し込まれ、白いうどんを呑み込み覆い尽くしている。


 目をこらせば、油の正体はカレーであり、その赤灼した色は、なんかコズミックでケミカルな密度で濃縮された唐辛子などの各種スパイスによって構成されていることが判じられるだろう。


 その上にはブロック状の豚肉が乗せられており、脂がとろけそうなまでに赤辛く煮込まれたそれは、大気すらまだない始原の星に、天から投じられた巨大な隕石メテオを連想させた。


「陽司、ボク、カレーって黄色いものだと思ってたんだけど」

「その解釈で合っている。これは例外だ。……とびきりのな」

「はーイ、ナロック特製レッドカリーうどん三つお待ちしましタ~」


 硬直するおれ達の横で、高田馬場の名物タイ料理店『ナロック』の店長さんがトレイ片手に屈託のない笑顔を浮かべた。


 カレーうどんを食べるべく学生街に繰り出したおれ達だったが、目星をつけていた店はいずれもランチタイムを終えて夜に向けて仕込中だった。


 スケジュールにあまり余裕のなかったおれは深く考えず、『アル話ルド君』で適当に検索をかけ、「近場で他にカレーうどんを食べられる店」と打ち込んだナビに従いを入店したところで、ここが『ナロック』だった事を今さらに思いだしたのである。


 高田馬場に最近出来たタイカレー店、『ナロック』。特筆すべきは、辛口で有名な本場のタイカレーすら上回るほどの、唐辛子を中心としたスパイスを遠慮仮借なくぶちこんだ一切妥協のない炎のような激辛レッドカリーである。


 その辛さは凄まじく、珍し物好きで体力だけはある新入生達が度胸試しで食いに行っては、何割かがぶっ倒れるのが恒例行事となりつつあるとの事だ。


「まさか新メニューでカレーうどんを始めていたとはなぁ……」


 『カレー屋』で探していれば即座に気づいていたであろうに。我ながら今ひとつ迂闊なこのデジタル思考を呪いたくなる。


「なんか凄そう、だね……」

「ま……まぁ、美味いって評判だし、とりあえず食べるとしようか」


 どんぶりから立ち上る湯気が、ひりひりと肌を刺すのは錯覚ではあるまい。おれ達は覚悟を決めて割り箸を手に取ると、厳かに宣誓した。


「いただきます」


 先陣を切ったおれは灼熱の海に箸をつっこみ、うどんをひきずり上げて啜り込む。その瞬間、刺激性の強い高温の空気が呼吸器系に流れ込み、


「ぶっほごふっぶむっ!?」


 おれは盛大にむせた。


 むせた瞬間にうどんつゆ、というかカレーが鼻腔に飛び込み、高濃度のカプサイシンが鼻粘膜をダイレクトに焼いた。肺から空気を排出する反射行動と、刺激物を押し戻すべく空気を吸入する反射行動とが相反し、錯乱した横隔膜がみぞおちの奥でへたくそなタップダンスを踊った。


「ちょっ、だ、大丈夫!?」


 椅子の上でのたうち回るおれの背中を慌てて真凛がさする。おれはそれにかろうじて左手を挙げて応え、どうにかパニック状態の呼吸を落ち着けると、コップの水を慎重に飲み込んだ。


「――――はぁ、はぁ。……強烈だな、これは」


 一分ほどの深呼吸でようやく平常心を取り戻し、おれは感想を述べた。まだ鼻腔と舌先に爛れるような刺激が残っている。胃のあたりにはかっと熱いものががわだかまっており、この辛さが単なる味覚の刺激にとどまらず、人体に重大な影響を与えうるものだと言うことを示している。


「うっあ、これ、ホントに辛いね……!」


 撃沈したおれに倣う愚を犯さず、レンゲにすくったカレーをひとなめした真凛が眉をひそめる。おれ達は顔を見合わせると頷き、箸を置いた。普段ならともかく、今日は激辛カレーで度胸試しをしにきたわけではない。お店の人には悪いが、店を変えてもう少し無難なメニューを食べた方が――。


 ずる、ずるるずるるるるる。


 豪快な音がとどろき渡る。反射的におれはその方向、つまりは反対側の隣の席を振り返った。


「これが日本のカレーうどん……。とても美味しいですね!コシのある麺にスパイスの効いたスープが調和していて、とても食べ応えがあります!」


 ずるるるる、ずるるるーッ。


「……」


 唖然として見守るおれ達の目前で、月光のような銀髪を備えた褐色の美姫の桜色の唇へ、白いうどんと灼熱の汁が新丹那トンネルに突入する東海道新幹線のごとき勢いで啜り込まれてゆく。おれ達の視線に気づき、ファリス・シィ・カラーティは赤面して箸を置いた。


「あ、あのすみません、日本ではおうどん、おそばを食べるときは音を立てるのが作法と習っていたのです。不作法でしたでしょうか?」

「ああいや、そこは全然問題ないのだが」

「辛くないんですか?」

「確かに辛いです。ですが、様々な辛さが素晴らしいバランスでまとまっているので、不快な辛さではなく、むしろ麺自身の味を引き立てる形となっています。日本にここまで香辛料を扱えるお店があるとは驚きです」

「そ、そういうものなんですか?」

「ふむ……」


 そう言われると、おれも未練が湧いてくる。実のところ、先ほどの辛さはまだ舌先に残っているが、決してまずいわけではなかった。鼻を灼いた強烈な刺激も時間が経つと、鮮明な香りとして感じられるようになっている。気を取り直して、おれは慎重に麺をすくい、再びすすった。


「……!、やっぱ辛い、けど、結構イケる、な」


 まぶしい光の下で何も見えない状態から、段々目が慣れると周囲の状況が解るように。舌が慣れ、辛いだけとしか思えなかった中から徐々に微妙な味の判別できるようになってきていた。


 なるほど確かに、このレッドカリーが決してただ強い刺激を求めたキワモノではなく、厳然とした一品の料理であるということが理解できる。


 競争の厳しい高田馬場の学生街を、ただ辛いだけで生き残れるはずがない。激辛でありながら絶妙のスパイスの構成、とろける豚肉との組み合わせ。辛い辛いと言いつつもやめることが出来ず完食してしまう者が後を絶たない悪魔のカレーという評判も、今なら納得だ。


「あまり冷たい水は飲まない方がいいと思います。辛さが長引くので」

「アドバイスサンキュー。……へぇ、だんだんイケるようになってきた。この角煮、柔らかい上に味がきっちり染み渡っていて極上だ」

「おいしいですよね?」

「あぁ。美味いね」

「う~ん、でもボクはやっぱり苦手かなぁ」

「まぁ、お前にはまだちょっと早いわな。無理しなくていいぞ。別の頼むか?」


 もともと味覚というものは年齢によって変化する。甘いチョコレートやコーラが大好きだった子供が、大人になるにつれ辛い酒だの苦いモツ鍋だのを好むようになるのもそのせいだ。


 ――と、ここまで思考した時点で後悔した。どうせコイツのことだ、子供扱いするなとか、また店の中でわめき立てるに相違あるまい。


「……いいよ。頼んだんだから、ちゃんと最後まで食べる」


 だが、真凛はそれだけ言うと、積極的に箸をつけてうどんを啜り始めた。むぅ、辛いものを食ったせいで喋る気が失せたか。


 

 

 ランチタイム後の客の少ない店内に、男女三人がうどんを啜る音がしばし響く。三者三様、どうにか激辛うどんをあらかた食べ終える。摂取した高濃度のカプサイシンが、腹に収めたうどんが今まさに消化器官のどこにあるかを雄弁に主張していた。


 人心地つくと、おれ達の話題は自然とこれからの予定についてのものへと移った。


「今日はこれから学校見学して、『箱』を探すのは明日から?」

「まぁそうなるだろうな。『箱』が見つかるまでファリスはウチの事務所に泊まって貰うことになるけど、かまわないかい?」

「かまわないどころか!お礼を申し上げなければなりません。本来ならホテルに泊まるべきなのに」

「気にしない気にしない、どうせ最初に君が払った依頼料に宿代も込みだろうからね」


 彼女を護衛しつつ『箱』の捜索。なるほど確かに大仕事である。


「でもさぁ」

「あん?」

「何日ぐらいかかるんだろう?ボクも毎日ってなると、その、学校が」

「そこなんだよな」


 ひりつく舌を労りつつ、おれは朝からドタバタ続きだった状況を整理する。


「結局の所、『箱』があるのは日本のどこか。日本と言っても、北海道から沖縄、離島だってある。それこそ九十九里浜でダイヤモンドを一粒探すようなもんだよ」

「なんで九十九里浜?」

「気にすんな。そしてもう一つ、『箱』が日本にあるという情報そのものの真偽。まぁ、セゼルがこんな凝った嘘をわざわざつく理由もないとは思うが、数十年前に隠した暗号が、まだこの世にちゃんと形として残っているという保証もない」


 実は考古学なんかの世界では、”宝の地図”というものは割と見つかるのだ。貴重な遺跡の所在地を記した文献や、貴族の屋敷跡から発掘された財産の目録など。


 だが現実は散文的なもので、そもそも文献の情報そのものが、当時の噂や伝聞をもとに書かれた誤りであったり、確かに当時はそこに財宝があったものの、数百年前の火災でとっくに焼失していたり。”宝の地図”を正しく解いても、宝にたどり着けないことの方が圧倒的に多いのである。


 先日の幽霊騒ぎでもあったが、『探す』任務でいちばん厄介なのは見つからないものを『ない』と証明することだ。ファリスも何時までも日本に滞在するわけにはいかないだろうし、ウチもあてどもない捜索をずるずる続けるわけにはいかない。


「それは、確かにそうですが」


 口ごもるファリス。おれはしばし彼女の表情に視線を置く。彼女の言葉は続かなかった。――いい機会、か。


「まぁ、それはこっちで何とかするよ。それよりもう一つ、もっと重要で根幹的な問題がある」

「なん、でしょう?」

「……おれが口を出していいものかどうかは、わからないけど。たぶん、依頼に取りかかる前に、この問題はクリアしておく必要がある」

「どういうこと?陽司」


 不思議そうにおれを見る真凛とは対照的に、視線を赤いカレーうどんに落とし沈黙するファリス。おれは腹に一つ力を入れ、いずれしなければならない話を、ここで切り出すこととした。


「仮に『箱』が見つかり、暗号が解け、ルーナライナの最後の大金脈が見つかったとして。……それで、君の国は救われるのかい?」


 ファリスは頭を上げなかった。


 そう、この聡明な王女が、そもそもこんな簡単な問題に気がつかないはずがないのだ。


 視線を落としたまま、膝の上に置いた両の拳を、微かに震わせた。



 

 根源的な問題。


 もしも、最後の金脈の在処が彼女の国にもたらされたとしたら、何が起こるか。


 何も変わらない。分裂した諸勢力は歓喜の声を上げて金脈に殺到し、銃でその土地を奪い合い、勝ち取った者がまた、老若男女を問わず民衆を奴隷のように働かせ採掘させるだろう。


 金鉱が何年持つのかは解らないが、それで終わりだ。黄金は同胞を撃ち殺す銃と引き替えに諸外国に吸い上げられ、ルーナライナには凶器と廃墟と死体と怨恨しか残らない。


「君はおれ達に、『箱』を見つけて、ルーナライナを救って欲しいと言った。でも『箱』を見つけてもたぶんルーナライナは救えない、んじゃないかな」


 なるべく言葉を選んでいるつもりだが、彼女を傷つける事になることも覚悟していた。結局のところ彼女の依頼は、一つの国の内戦を収めて欲しいということでもある。そして、身も蓋もないことを言えば、しょせん遠く離れた日本の学生バイトになど解決できるはずがないのである。例え、おれ達に今以上に常人離れした力があったとしても。


 だからここではっきりさせておかなければならない。『箱』を見つけることが国を救う事にはならないという事を。おれ達に出来るのは『箱』を探すことまでだという事を。


 国の危機を救うのは、通りすがりの冒険者ではない。国を支配する者と、その国で生きる人々でなければならないのだ。魔王を倒したり伝説の秘宝を手に入れることでは、現実の戦争は終わらせられない。


「……隠された『箱』を見つけて、ルーナライナを救って欲しい、というのは父の命令でした。それは間違いありません」


 しばりの沈黙を、ファリスが割った。


「対となる『鍵』も確かに、父から受けとったものです。でも、父はこうも言っていました。……見つかるまで、帰ってこなくていい、と」

「帰ってこなくていい?ちょっとそれって……」


 ひどい、と言いかけた真凛が口をつぐんだ。そう、ひどくはないのだ。今の彼女の故郷の状態を思えば。


「父も、この金脈の在処をそこまで信じていたわけではなかったと思います。私が見つけられる可能性も。私を海外に逃がす口実と半分半分。たぶんそんなところじゃないでしょうか」

「ファリスさん……」

「父の意志にはすぐに気づきました。成功は期待されていない、ということも」


 寂しげに笑う皇女。


「なら、受けないことも出来たかもな」

「……はい。もしかしたら、断ってルーナライナに残ることも出来たかも知れませんね……」

「でも、結局君は日本に向かうことにした。それはなぜ?」


 おれの質問に、彼女は驚いたようだった。もしかしたら、彼女自身も己にその問いかけをしたことがなかったのかも知れない。


「……あそこに居ても、私に出来ることは何もないんです」

「それは、どういう意味かな?」


 おれは意図的に、反応をシンプルなものへと絞っていった。彼女に必要なのは、たぶん、自問自答のための、鏡だ。


「王族の仕事は、その立場を利用して国の役に立つことです。その財力を利用して産業を興したり、文化を保護したり、国の広告をしたり」


 真凛がおずおずと手を挙げた。


「あのぅ、お姫様ってこう、お城の中でおいしいご飯を食べて、毎晩舞踏会をしてるものかなあ、と」

「お前それ、幼稚園の頃読んだ絵本のイメージしか頭の中にないだろ!?」


 ちなみに食事や舞踏会も、人脈を築くという重要な仕事の一つである。パーティーを仕切り、人を人に紹介したりするホストとしての器量が求められ、なまなかな実力では務まらないのだ。


「学生時代に懇意にさせて頂いた他国の皇族の方にも、そうして社会で活躍している人がもう何人も居ます。……私には、いずれもそれらの力はありません。皇女などと言っても、人を動かす権限も、国のお金を使う権限もないんです」

「でも、『箱』を探すことなら出来る。そういうことかい?」

 おれの言葉に、彼女はしばし考え、そして静かに頷いた。

「そう、ですね。『箱』を見つければ、少なくとも、金鉱が尽きて国が崩壊するまでの時間を稼ぐことは出来るはずです。城の中に残って何も事態を打開できないよりは、まだまし。そう考えたのかも知れません」


 瞑目し、言葉を紡ぐ。


「それに、……そう、私に『箱』を使いこなすことが出来なくても、叔父様達にだけは渡すわけにはいきません。彼らの手に落ちれば、亘理さんの言うとおり、さらなる内戦の火種になるだけです。それだけは――見過ごすことが出来ないんです。だから、私は『箱』を手に入れなければならないんです」

「――そっか」


 おれは両手を頭の後ろで組んで、天井を見上げた。


「やっと、君の顔が見えてきた気がするな」


 わざと意地の悪い笑顔を作ってみせる。


「……私も、国を出てから今の今まで、自分がどうしたいのかが自分でも解っていなかったんです。でも。貴方に話をしているうちに、少し整理がついてきました。ありがとうございます」

「礼を言われることじゃないさ。判断に迷う時、他人との会話で自分の意見を整理するのは有効な手段だ。――これで決まりだな。まずはとにかく『箱』を見つける。颯馬や玲美さんに取られる前にな。その上でそれをどう使うかは、ファリス、君の判断次第だ」


 そういうと、おれは彼女の前に右手を差し出した。


「あの、亘理さん……?」


 目を丸くする皇女殿下。


「本来ならまだ君くらいの年なら、そこまでの責任はないはずだ。でも君が現状でやれる事をやろうと思う、その姿勢に敬意を払う。……偉そうな物言いでごめんね。雇われの身だけど、おれでよければできる限り力になるよ」


 正直、アイテムを手に入れれば国が救える、程度の認識しかないようなら、必要最低限の役割を済ませて、日本に留まるなり帰国するなりを選んで貰おうとも思っていたりしたのだが。……まぁ、頑張ってる子は応援したくなるじゃないか。


「よろしく、お願いします」


 おずおずと腕を伸ばすファリス。


「よろしく」


 おれ達は握手を交わした。皇女の手は少しつめたく、柔らかかった。


「……ねぇ」


 横からのぞっとするほど平坦な声。おれが思わず振り返ると、真凛が恐ろしく思い詰めた表情でこちらを見つめていた。


「な、なんだよ」


 真凛の顔色は蒼白。さっきまでの闊達さが消え失せ、なんだか泣き出しそうな目をしている。


「い、言っておくが今回は下心はないぞ、もともとおれは年下に興味は――真凛?」


 おれ達に向けた視線が機械的に下へとかしぎ。


 ごとん、と。


 七瀬真凛はテーブルに突っ伏したのであった。

 

 

 

「……大丈夫かおい?」

「う……うん、大丈夫だいじょうぶ、へいきへいき」

「脂汗を垂らしながら言っても説得力ねぇぞ」


 口では平気と言いながら一向に椅子から立ち上がる様子を見せない真凛。こりゃどう見ても、アレだな。


「――ここ痛いか?」


アバラと下腹の境目あたりを、かるく指で押してみる。


「ぴゃあ!?」


 感電したように身体を震わせる真凛。どうも当たりらしい。


「こりゃ腹じゃなくて胃だな。あんまりにも辛いものを食ったから、胃壁に刺激が来てるんだろう」

「病気などではないのですか?」

「素人見立てだが、安静にしていれば問題ないと思うけど」

「良かった……。でも、どうしましょう?」

「救急車を呼ぶほど大げさではなし、かといって家や事務所に連れ帰るには大変、か。……すみませーん」


 困ったときはその場の責任者に聞けば、それなりに解決方法を知っているものである。


「はーイ?」


 店の奥からさっきの店長さんが応じる。すると彼女は真凛を一目見るなり、


「もしかしテ、お腹痛くなったですカ?今、お水と薬もってきまス」


 そう言って、店の奥に薬を取りに戻っていった。ファリスが真凛の背中をさすり服装をゆるめ、おれは他のお客さん達に簡単に事情を説明しお詫びする。こうして、おれ達の午後の予定は大幅な軌道修正を余儀なくされることとなったのであった。


 粉末の胃薬をぬるま湯で流し込んで十分ほど経過すると、脂汗は止まり、真凛の体調は明らかに上向きになったようだった。


 だが未だ腹を抱えてグロッキー状態のままであり、到底動けそうにない。いざ戦闘となればヘビー級ボクサーのボディーブローに耐え抜く腹筋も、内側からのダメージにはなんら役に立たないらしい。


「ごめん……また足引っ張っちゃった……」

「いや、おれも悪かった。もっと無難な店にすべきだった」

「ううん、ボクが調子に乗って食べたからだよ……」


 とはいえ、そんな調子でいられると、多少はこちらにも思うところはある。


「すまん」

「謝らないでよ……」


 微妙な沈黙。うむむ、いつぞやの反省を踏まえ、今回は素直に非を認めているつもりなのだが、何故こうなるのか。


 と、ファリスの腕時計からひとつ、小さなアラームが鳴った。


「あっ」


 時計を覗き込んだファリスがちょっと気まずそうな表情になる。律儀な彼女はサホタ達との約束の時間に合わせ、タイマーを設定していたのだった。


「亘理さん、ここは一旦出直した方がよいのではないでしょうか」


 それを耳にした真凛が、力なく遮る。


「いいよ……ボクここで休んでいくから……二人はサホタさんとこ、行ってきて……」

「さすがにまずいだろうそれは」


 置いていくのも問題だが、お店にも迷惑がかかる。


「かまいませんヨー、これからディナーに向けてお店一旦しめますかラ」


 見れば店長さんの手には派手な刺繍の施されたブランケットと枕があった。おれが何か言う前に手早く真凛にかぶせ、そのまま座敷に寝かせてしまう。


「初めてウチのカレー食べた人、よくこうなりまス。薬飲んで二時間くらい休めばだいたいヨクなりまスから」


 ニコニコと笑う店長さん。どうも本当にこんな事態には慣れっこらしい。


「……すみません、それじゃあ、ちょっとお願いします。じゃあ大人しくしてろよ真凛、終わったら戻ってくるからな」


 出来れば一日浪費したくないというのは事実だ。ここは店長さんの好意に甘えておくべきだろう。


「……うん、気をつけて」

「いやまあ、特に気をつけることもないんだが」


 ブランケットにくるまって手を振る真凛に軽く手を挙げて応え、おれとファリスは店を後にした。





「何やってるんだあの間抜けは」


 パイプ椅子にどっかと背を預け、颯馬は額に手を当てた。紅華飯店の三階、商用客のミーティングやプレゼンテーションに使われる会議室の一つである。


 マンネットブロード社の派遣社員は仕事にあたる時、交通の便、ネットインフラ設備の充実、依頼人とのコンタクトなどの観点から、ホテル内の会議室を前線基地として使用することが多々ある。


 颯馬達がいるこの部屋もまさにそれで、高級な内装にそぐわない実用一辺倒の折りたたみ机や椅子が並べられ、卓上に置かれたノートPCからは、監視にあたっている部下の記録した音声がリアルタイムで再生されていた。


「任務中にカレーで腹を壊すなんぞ、プロの自覚があるのかアイツ」


 憮然としてつぶやく。さすがに店内の様子まではわからないが、ファリス皇女と亘理の会話を拾えば、だいたいの内容はわかった。


「七瀬真凛サン、ですカ。最年少のフレイムアップメンバー。この間、『竜殺しドラゴンバスター』の称号も得た、聞いてマス」

「ふん。武技の研鑽は怠っていないようだな」


 美玲の言葉に、颯真は嫉妬を隠さなかった。『竜』の異名を許された化物を打倒した者のみに与えられる、『竜殺し』の銘。武術に生きる者にとっては、エージェントとしての実力や格付けとはまた別の、垂涎の称号である。


「近頃彼女のコト、ウチの社員達からも人事課へ問い合わせあるようですネ」

「だろうさ。ウチの前衛はどいつもこいつも社員である前に武芸者だ。強い者がいたら手を合わせたくなるのはもう本能みたいなもんだろ」

「無名の新人ノービスから、追われる側ターゲットになテきてるてことデス。ご本人、自覚ないようですガ」

「渡さんさ、他の奴になんぞ」


 左の袖をまくる。肉を毟りとられた無惨な傷の跡が、ミミズのようにのたくっていた。外見で相手を侮り無造作に放った崩拳の、高価な代償つけ。地仙の元で鍛え、神童、並ぶ者なしなどと謳われ増長した小僧への、手厳しい実戦の洗礼だった。


「あれから半年。鍛錬と大物喰いを為したのは、お前だけじゃないぞ」


 唇の端が曲がる。それは武芸者としての誇りと、好敵手に対する若者らしい敵意が混じり合った、物騒な笑みだった。


「坊ちゃまの出番、まだ後。今はフレイムアップが暗号探す、待ちでいきまショウ」

「だが、何もしてないわけじゃないんだろう?」


 颯馬の問いに、美玲ははて、と惚けた表情を浮かべる。


「冗談はよせ。七瀬の相棒はあの古狐よりたちの悪い亘理だ。今のうちに仕込みを済ませておかねば遅れをとることくらい、俺にもわかる」


 惚けた顔から一転、なんとも曖昧な笑みへと変わる。称賛と艶と、そして毒。


「坊ちゃま、日々成長私嬉しいのコトです。でも王様、細かいこと考えずどーんと構えてればいいデス。細かいことするの、臣下のシゴト」

「……だな。では存分に勤めを果たせよ、美玲」

『お任せあれ』


 リズミカルな中国語で返答する美玲。とその時、卓上に置いてあった携帯電話がうなりを上げた。


『もしもし?……ええ……ええ……なんですって?わかったわ。……そちらは、引き続き監視と報告を』


 電話を切った美玲の表情には困惑が浮かんでいた。相手は今回の任務に従事している監視員のひとりだ。


「どうした?」


 しばしの逡巡の後、彼女は答えた。


『ビトール殿が、動き出したと』

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