◆04:オープン・コンバット(β)
華僑。
その言葉を聞いて、ファリスの中で膨れあがっていたパニックは急速に収まっていった。不安が解消されたから、ではない。不安が現実のものになったからだ。
わかってはいたことだ。
そもそも気軽な海外旅行などではなかったのだから。
「では、貴方がたは、叔父様の差し金なんですね」
「……さてね。俺から出せる情報はここまでだ。これでイーブン。あとはアンタがアンタなりに知恵を絞るべき事だろ」
少年はひとつ鼻を鳴らすと、今度は視線を窓の向こうを流れる風景へと転じた。すると女の方が困惑したように眉をひそめる。
「坊ちゃま。ソレ、フェア言わないのコトよ。せっかくこちらが先手打ったのに、モッタイナイね」
「坊ちゃまはやめろと言っただろ!いいんだよ、どうせこっちが質問すれば俺達が何者かなぞすぐにバレてしまうんだから」
「だったら、なおさら坊ちゃまが教えるコトないね」
「うっ、……うるさいんだよ美玲は!早く聞き出すことを聞けっての!!」
華僑の差し金。そう聞いて黙って座っているわけにはいかない。たとえ一欠片でも、情報を集めたければ。
「教えていただけませんか、颯馬さん。叔父様はどうして私が――」
「ち、近づくなよ!」
思わずファリスが身を乗り出すと、颯馬と名乗った少年はまるで猛獣に襲われたかのように、狭い車内で大きく飛び退いた。
「……あの、颯馬さん?」
「あ、気を悪くしないでクダサイ。坊ちゃま、いわゆる一つの、女ギライね」
「お、女嫌い……ですか」
すると、颯馬の顔がみるみるしかめっつらになる。
「っせぇな!女なんぞと話をすると、ロクなことがないんだよ。あんな顔を合わせれば食い物と恋愛の話しかしない奴ら!」
「いわゆる一つの、思春期におけるテンプレイトですネ」
「はあ」
「黙れ美玲!そもそもお前が日本に来てから俺につきまとうから、学校で俺が――」
「ヒドイです坊ちゃま、ワタシ坊ちゃまのお世話役として育てられたのコトよ。子供の頃は一緒におフロ、入って、洗ってあげたのに」
「だからそういうことを人前で言うんじゃないっ!」
顔を真っ赤にしてうろたえる、颯馬と呼ばれた少年。
「何やら……その、大変そうですね……」
呆気にとられた態のファリス。だが、颯馬の年相応の仕草に気を弛めてしまったのは、迂闊と言うべきだったろう。
『――ええ、大変なのです。だから仕事は早く終わらせないと、ね』
たどたどしい日本語から一転、ぞくりと肌が泡立つほどの妖艶な英語の発音。
気がつくと、美玲がするり、と身をこちらに寄せてきていた。
『すみませんね、日本語はまだ覚えたてですの。貴女が英語を理解できて助かりますわ』
声のトーンが落ちると同時に、ビジネススーツにつつまれた豪奢な肢体が、肩に、二の腕に、太股に密着する。
『……それでは、お話と参りましょう。まず要求を伝えなければ交渉も始まりませんし』
ファリス・シィ・カラーティ、十七歳と十一ヶ月。今までの人生で女性に性的な興味を覚えたことは断じてない、はずなのだが、思わず息を呑んでしまう。その隙をつくように、鼻腔に侵入してくる匂いが鼓動を早める。香水か。いや、そんなにどぎついものではない。たぶん服に炊き込めた香。それも、自らの肌の匂いを熟知し、それを最大限に活かすよう調整された――
『貴方がはるばる持っていらした、『鍵』……興味がありますの。渡していただけません?』
吐息と共に耳元に流し込まれる、可聴域すれすれの、ささやくような声。本能的に聞き取ろうと集中してしまい、そして、罠にはまる。
「それは……」
銀髪の少女と黒髪の女が身を寄せ合う光景は、もしも他に見る者が居れば、男性女性問わず胸の奥のなにやら不健全なものをかきたてられたかも知れない。ファリスは自分でもびっくりするほど容易に、「はい」と返事をしかけて、慌てて首を横に振り、体を離す。今自分は、何をされたのか。
『……ううん、やっぱり同性には効き目薄いですね。自信はあったんですが』
見れば美玲が、悪戯に失敗した少女のような照れ笑いを浮かべている。
人間の五感というものに対して、千年以上の長きに渡って積み上げられた研究の成果。
触覚、嗅覚、聴覚。ヒトは何を快とし不快とするかを徹底的に調べ上げ、その成果を以て、快い声、快い触感、快い香りを自在に操り、他者を翻弄し魅了する。この女にとってはごくごく初歩の”技術”にすぎない。
『やはり、こちらで伺った方が健全ですね、色々と』
苦笑を収めると、美玲は今度は一転して、静かにファリスの瞳を覗き込んだ。
「……っ!」
直観的に危険を察知した。だが遅かった。ファリスのアメジストの瞳と、美玲のオニキスの瞳が正対してしまった瞬間、吸い込まれるように視線が固定された。黒い瞳と、その周囲を金環食のように薄く縁取る虹色の紋様。その模様や色あいを捉えようとすればするほど、そのどちらも不思議と変化し、追えば追うほどに意識を絡め取られてゆく。
脳内のうち視覚を司る部分が、否、それどころか他の知的活動を行っている領域までがすべて侵入され、占領されてゆく感触。苦痛も、不快感もないところが逆に恐ろしい。
「…………貴方は、何者……っ」
舌を動かすだけでもすさまじい努力が必要だった。
『私の『眼』を見ながら喋ることができますか。その意思の強さ、さすがに『鍵』を託されるだけのことはあるようですわね……ま、それも時間の問題ですけれど』
驚いたような美玲の声。目の前で喋っているはずなのに、はるか遠くから響く。自分が幻惑に囚われつつあることを自覚しつつも、その”自覚”を構成する脳神経すらも溶かされてゆく気がする。
『もう一度お願いしたいのです。貴方の”鍵”……渡してくださる?』
ささやき声が何重にも脳内に反響する。意識はたちまち塗りつぶされてゆく。与えられた命令を検証することなど思いつく余地もない。
「『鍵』は……『鍵』は私が……今……」
頼まれたことをするだけ。何の問題もないはずなのに。
『ええ。渡してくださいますよね?』
でもそれは。お父様と、国のみんなの願いが。いなくなる子供と、連れ去られる若者。誰にも泣いていて欲しくない、あれが最後の――
その時。
『いやーどうも!お久しぶりっスねぇ美玲さん!』
妙に軽薄な男の英語が、唐突に大音量でびりびりと車内に響き渡った。
『お取り込み中のところ失礼します!ってかそんなおいしいシーン。ギャラリーが童貞の颯馬だけ、ってのは勿体ないにも程がある!とここでおれは力説したいわけなんですよ!』
美玲が反射的に音の方向へと視線を逸らす。その瞬間、ファリスは幻惑の檻から解放され、正気を取り戻した。とたんに、まるで数キロを泳ぎ切ったかのような疲労感が脳裏に押し寄せてくるが、声の方向を確かめないわけにはいかなかった。
そこにあったのは、リムジンに備え付けのハイビジョンテレビとオーディオセットである。だが先ほどまでニュースと地図を写し出していたはずのその画面には、ノイズの砂嵐が踊り、オーディオセットから最大音量で、皮肉っぽい青年の声が流されていた。
『……あらその声。どなたかと思えば『人災派遣』の亘理さんじゃありませんの。お呼びした覚えはありませんけれど?』
恐らくは不慮の事態のはずなのに、おくびにも出さず嫣然と笑みを浮かべる美玲――そして、先ほどから一言も発しないまま、への字をかすかに笑みの角度に釣り上げる劉颯馬。
『すみませんね、おれもお騒がせをするつもりはなかったんですが。実は先ほど、遠路はるばる来日いただいたウチのお客さんが、空港に着いたとたん、土地勘のない外国人を相手にするタチの悪いポン引きに絡まれたってえ話を伺いまして、あちこち探し回っていたというわけですよ』
まるで原稿でもあるかのように、すらすらと並べ立てる青年の声。
『んでまあ、調べてみれば、ウチのお客さんが美玲さん達の車に保護されているじゃあありませんか。さっすが、華僑の流れを汲み、義と侠を重んじる好漢武侠が集まるマンネットブロードサービス社のエース社員。ココロイキからしてひと味もふた味も違いなさる』
颯馬の唇は、いまやはっきりと笑みの形を作っていた。
『そのうえわざわざ『双睛』と『朝天吼』の二人までが護衛についていただけるとは、ありがたいことこの上ない。イヤほんと、空港のしょうもないポン引きどもに爪の垢でも飲ませてあげたくてしょうがないですね』
『そうですか、この方は貴方のお客さんでしたの。たまたま空港でお知り合いになったのですけど、それはまさしく奇遇ですわ。ではいったん弊社にお連れした後、せっかくですから少しお話しして、改めて御社に送り届けさせていただきましょう』
『あーいえいえ!美玲さんにわざわざそんなお手間を取らせるのは申し訳ないですよ。たまたまおれ達も近くにいましたので……』
そこで一拍置く、亘理と呼ばれた青年の声。颯馬が組んでいた足を解き、かすかに呟く。――「来るか」と。
『ウチの若いのを迎えに寄こしました』
申し合わせたように、運転席から入る通信。
『美玲様!高速道路の路上に人影が……!こ、子供……いや、学生?』
『轢きなさい』
即答であった。
『は!……は!?いや、しかし!』
『それでちょうどいいくらいよ』
『で、ですが……ば、ばかな、子供がこっちに向かって走って――!』
それ以上の報告は必要なかった。
何しろ、轟音と共に通信そのものを遮って、粉々に砕け散ったフロントガラスの吹雪と、叩き割られた仕切り板を巻き散らかし、『殺捉者』――七瀬真凛がドロップキックの体勢まま後部座席に飛び込んできたので。
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