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◆02:佳人来訪

 インフルエンザの自覚症状はないか?事前に書いた問診票に間違いはないか?入国の目的は?滞在期間は?滞在先は?パスポートは?査証は?ルーナライナ王国?聞いたことがないぞどこの国だ?申告の必要な輸入品はないか?


 

 諸々の質問攻めから解放され、ファリス・シィ・カラーティに正式に入国の許可が下りたのは、飛行機がナリタ空港に降り立ってから実に一時間後の事だった。なんでも未曾有のインフルエンザの大流行だとかで、とくに検疫が厳しかったらしい。


 スタンプの押されたパスポートを手にしたまま、エコノミークラスという名の牢獄に疲れ果てた体を引きずってエスカレーターを降り、急いで手荷物の受取所へ。ベルトコンベアーの一番手前に立ちながら、次々と吐き出されてくるスーツケースに目を光らせ、自分が預けたスーツケースが現れるのを待ち続ける。


 ファリスとて、もちろんわかってはいるのだ。この国には他人のスーツケースをこれ幸いと持っていくような不心得者はまず居ない。それどころか!聞いた話によれば、例えスーツケースを持って帰るのを忘れたとしても、何とわざわざ空港職員がお客の住所を調べて、届けてくれるのだという。


 確かに、ふり返れば空港の無防備に置き去りにされているスーツケースがいくつも目に入る。持ち主はスタンドに軽食でも買いに行ったのだろう、注意を払ってすらいない。


 ――そう、まったく信じられない光景なのだ。


 これが彼女の国の空港であれば、こうしてスーツケースを見張っていなければ、たちまち誰かに持って行かれ、丸一日も経てばケースと中身がそれぞれ闇市のどこかで売りさばかれる事となるだろう。国民の多くが、盗みを心配せずにすむほど安全で、盗みをする必要もない。


 ここは日本。アジアでもっとも清潔で安全で豊かな国。

 


 

 乗り換えの際に誤配されてはいないかという疑念も杞憂に終わり、スーツケースが無事に手元に戻ったとき、ファリスは心から安堵した。


 なにしろルーナライナ唯一の国際空港から一旦ドバイに出て、そこからフランクフルトとバンコクを経由してトウキョウに至るという、ユーラシア大陸を丸三日かけて一周する強行軍だったのだから、多少ナーバスになるのは仕方がないだろう。まして今回は、何も知らなかった子供時代のお気楽な観光旅行とは違うのだし。


 

 私塾のオチアイ先生にお墨付きをもらい、日本語にはかなりの自信があったファリスだが、それでも空港に着いた途端に押し寄せてくる日本語の津波には閉口した。壁という壁に貼ってあるさまざまな広告のポスター、天井と床に描かれた標識と、目の前を流れる電光掲示板のテキストが、これでもかとばかりに異国語のインフォメーションを脳みそに押し込んでくるのだ。


 しかもそのうちの一枚を頑張って読み解いた結果が『コズミックマーケット今年も開催、海外からのお客様も大歓迎!コスプレもおっけー宅配も出来ます』であれば、機内でろくに眠れなかった身にはもはや拷問ですらある。


 それでも三十分をかけて膨大な情報の波から電話マークの看板を見つけ出し、ようよう窓口へ。事前に予約を入れておいた携帯電話ケータイをレンタルする事が出来た。ファリスが普段使っている携帯電話(セルラーフォン)からSIMカードを抜き出し、装填。相性が心配だったが、どうやら無事に動作するようだ。


「しかし、すごい……」


 その液晶画面の大きさ、細かさ、明るさにはため息しか出ない。日本人は”ケータイ”をこよなく愛し、子供でさえスマートフォンに匹敵する機能を詰め込んだ携帯電話を所有しているという噂は、まさしく真実だったわけだ。


 『モノを小さく・薄く・軽くする』事に関しては、日本の技術は飛び抜けていると言わざるを得ない。ファリスの携帯電話など、ごく小さな液晶画面に電話番号が表示される程度で、しかも不便を感じた事はなかったというのに。


 続けて電車とバスの時刻表を見つけ出し、ファリスはなんとかリムジンバスのチケットを購入する事にも成功した。あとはこのバスに乗り、シンジュク駅に辿り着けば、そこで迎えが来ることになっている。ロビーのソファに腰を下ろすと、ようやく人心地つくことが出来た。


「シンジュクク、タ……カ、ダノ、ヴァ、ヴァ……たかだのばば、高田の、馬場」


 借りたばかりの携帯電話に、アドレスが正しく引き継がれているかを確認。事前に入力を済ませてきた、やや発音しづらいaが五つも並ぶ固有名詞を復唱する。これからしばらくお世話になる街なのだ、発音を思い出しておくに越したことはないだろう。


 隣のスタンドからたいそう芳しいコーヒーの香りが漂ってくるが、ここはじっと我慢の子である。なにしろ先ほど価格をチェックしたら一杯650エンなどという正気の沙汰とも思えぬ数字が目に入ったので。もちろん食事付きではない。ただでさえ交通費と携帯電話のレンタル代金でギリギリなのだ、無駄な出費など出来るはずもなかった。


「おねえちゃん、なにじん?」


 ふとそんな言葉をかけられ横を振り向くと、5歳くらいの日本人の女の子が隣のソファに座っていた。海外旅行帰りなのだろう、お土産とおぼしき花飾りのついた麦わら帽子をかぶってご満悦の様子である。……実のところ、あまり良くない傾向ではある。正直、今は他人と必要以上のコミュニケーションを取るべきではない。


「ぎんいろのかみのけ。ねー、どこのひとなの?」


 黒い瞳は、興味津々でファリスの髪、肌、目を遠慮無くながめまわす。


 確かに、ファリスの容貌――シルバーグレイの髪に褐色の肌、紫水晶アメジストを思わせる澄みわたった紫紺バイオレットの瞳という組み合わせは、遺伝学的に見ても極めて珍しい。というより確率的にほぼ有り得ないだろう。隣に座っていた母親が娘の様子に気づいてたしなめる。


「あやちゃん、おねえちゃん困っているでしょ、よしなさい」

「だって、きれいなんだもん」


 そのやりとりを見て、警戒していたファリスの口元も思わずほころんだ。


「私はかまいませんよ」

「あら……。日本語お上手なんですね」


 まさか日本語で返事があるとは思わなかったのだろう。母親の方が驚いた。


「はい、日本人の先生に教わりましたから」


 ふと気がつくと、彼女に好奇の視線を投げかけていたのはその女の子だけではなかった。ロビーにたむろする周囲の大人達も、もちろんあからさまにじろじろと見つめたりはしないが、ファリスの容姿に興味を持っているのは明白のようだった。やや声を潜めて、とっておきの秘密を打ち明けるように。


「お姉ちゃんはね、ルーナライナという国の人なの」

「るぅな、らいな?」

「そう。月の国、という意味なの。アジアの中央、山に囲まれた砂漠の国よ」


 かつてシルクロードに栄えた東西交易の要地、それがルーナライナ王国である。このような異相がファリスに備わったのも、いにしえより東西のみならず南北の民が無数に訪れ、何代にも渡ってその血を残していったルーナライナの末裔なればこそである。実際、彼女の国の人々は一人一人髪と瞳の色が違うのが当たり前だった。自分の髪色と瞳が珍しいものだとは、国元を離れるまで彼女はついぞ気がつかなかったのである。


「あじあ?」


 眉根をよせて一生懸命考えようとする子供の姿に苦笑いをせざるをえない。実のところ、説明だけでルーナライナの位置を正確に把握するのは、子供どころか、大人、政治家でさえも困難なのだ。だから結局、こう言い直すことにした。


「とても遠いところにある、山と砂がたくさんある国なの」


 その説明の方がすんなりと理解できたのだろう。子供はにっこりと笑うと、


「じゃあ、きっと、お姉ちゃんはそこのお姫さまなんだね!」


 そう言った。


「なんでそう思うの?」

「だって、とっても目がきれいなんだもん」

「……ありがとう。あやちゃん」


 そう微笑んだファリスの表情は、いくつかの心情がないまぜになったものだった。

 


 

 頭上に掲げられた電光掲示板が点滅した。


 たった今予約したばかりのバスがもう到着したらしい。『トウキョウでは、バスと電車は五分に一本、必ず時間通りに到着する』……噂には聞いていたが、これも正直、旅行者のジョークだとばかり思っていた。その結果、予定時刻の10分後に来ればもうけもの、と考えていたファリスは完全に意表を突かれることになった。


 慌ててスーツケースを引っ張り起こし、携帯電話を片手のままにあやちゃんとその母親に別れを告げ、空港のゲートをくぐって外に出る。十一月の日本の冷たく乾いた空気は、もはや充分冬の気配を漂わせていたが、それまでバンコクの空港で味わっていた蒸し暑い空気に比べれば、よっぽどファリスにはなじみ深いものだった。


 初めての日本の空気を味わいつつ、重いスーツケースをようよう押し歩きながら、指定された番号が掲示された乗り場に向かおうとした、まさにその時。


「ファリス・シィ・カラーティ第三皇女殿下?」


 横合いから、英語で声をかけられた。


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