◆00:ある派遣社員の戦闘
「――ああ。そう。今月ちょっとヤバいんだ。だからまたノート見せてくれよぉ」
おれは手持ちの携帯に必死の猫撫で声を流し込んだ。
「――いや!そこは持ちつ持たれつでさ?こないだ会計学のノート見せてやっただろ?頼むよ、文化人類学は教授の話がわからないとどうにも……な?な?おれが単位ヤバいの知ってるだろ?なあ、頼むよおい……くそっ」
途切れた通話に悪態をつくおれを、隣に佇んでいた直樹が冷たく一瞥する。
「期末テストの準備か?いつ本番なんだ」
「明日の一限だよ」
「履修の進捗は?」
「まだ一回も授業出たことがない」
「……亘理。貴様の無軌道ぶりは今更だが、また随分と杜撰な計画を立てたものだな」
「仕方ねえだろ、バイト続きでそもそも授業に参加するチャンスがなかったんだ」
ましてや定年間近の石頭に定評のある教授である。授業を録画してネットで公開、なんて発想は微塵も湧いてこないに違いない。学友から融通してもらったノートと手管を尽くした代返によりなんとか出席日数は確保できているが、それはあくまで『落第はしていない』でしかない。この試験を突破しなければ、今までの涙ぐましい努力も水泡に帰すだろう。
「留年だけはしたくない。学費もう一年分稼ぐとかほんと無理ゲーですから」
「まあ、貴様の都合はどうでもいい」
直樹はそんな悩めるおれではなく、リノリウム張りの通路の向こうに視線を向けた。
「どうやら追いつかれたようだぞ」
おれは左手でいじくり回していた『サンプル』を握り直す。
「マジすか」
流石にあちらさんも有能らしい。いちいち真偽を確かめる必要はなかった。
攻撃が始まったので。
鼻孔にわずかな刺激臭。直樹の警告がなかったら、その時点で術中に嵌っていただろう。とっさに口元を袖で覆い、今度はおれが警告する。
「烏羽玉の香り。呪術師がいるぞ!」
アルカロイド系の強力な幻覚をもたらすハーブ。普通に民間医療に使われることもあるが、専門家――それも特殊な専門家にかかれば、その危険性は飛躍的に増す。
『這い寄る蔦、搦めよ葛』
何処からか術師の詠唱が響く。途端、周囲に無数のツタが出現し、おれ達に絡みついてくる。実際に植物が生えてきたわけではない。幻覚作用のある薬物を散布し、意識が朦朧としたところで強力な言霊を併用して対象を拘束する呪術だ。事前に気づいて口を覆っていなければ、たまらず術中に陥っていただろう。
「来るぞ!」
「あいよ!」
幻覚のツタはたちまち成長し、蕾を生じ花となる。そして――
『満ちる果実、八ツ裂け朔果!』
散布された化学物質が揮発、化合し、爆発を巻き起こす。事前に攻撃が読めていたからこそ、おれの被害は駅前の特売で買ったジャケットを引き裂くにとどまったが、そうでなければ身体の自由を奪われたまま爆発に巻き込まれ、ジャケットのみならず背中の肉が同じ目にあっていただろう。
「くそ、これ次の秋まで着るはずの一張羅だったんだぞ!?」
「この仕事をやっていてそれを言うか。次は通販の特売で最安値のものをまとめ買え」
『……私の術法を見破るとはな。なるほど、ネズミとはいえ、まんまと我々を出し抜いてサンプルを奪取する程度の知恵はあるということか』
通路の奥の闇から声が響く。己の実力と術式への圧倒的な自信に裏打ちされた威圧感。とっさに後ずさるおれ。敵とおれの間に、直樹が割り込む。
「そういうことだ。そしてネズミの浅知恵でも、貴様程度を噛み殺すのは造作もないぞ、『鞴』」
『ほう?私の名を知るか』
「ネイティブ・アメリカンの呪術を曲解して用いる外道と言えば、この業界でもそこまで多くはないからな」
『ベロウズ』、北米を中心に活動する呪術師。
紛争地域に潜伏し、対立勢力の憎悪を煽り戦災を巻き起こす。
『火種に風を送り込む』、邪悪な鞴野郎。こいつも出張っているのかよ。
『なるほど。では私が敵対者をどのように扱うかも知っているな?我が毒は五臓六腑をねじり、狂わせる。死んだほうがましと懇願するようになるぞ』
「お前ごときに言われるまでもなく、死んだほうがマシ、とは日々思っているさ。……おい、亘理。貴様は先に行け」
「いいのかよ?」
「どうせ薬物を吸い込んだらアウトなのだ。口先が取り柄の貴様が息を止めながら場に残っていてもなんの役にも立たん」
「そうかい、そりゃ失礼。んじゃ頑張ってくれや」
おれはあっさりとその場の全責任を直樹に押し付けると、回れ右して通路の奥に向かってダッシュした。ヤツの言うことは全くの事実であり、――おそらくおれが居ないほうがあいつはやりやすいだろう。十秒ほどして、直樹たちがいた通路から、剣戟と轟音が響き渡ってきた。
「とは言っても、脱出できる宛てがあるわけじゃないんだがねえ」
左手に握り込んだ『サンプル』を見やり、おれはぼやいた。そもそも行く宛がないからあの通路で待機していたわけでもあるし。
ええいしかたない。まずはできることをやろう。走りながら右手で携帯を操作。腐れ縁の学友たちに片っ端からグループチャットとショートメッセージをばらまき、明日のノートを調達すべく打診する。一人でも引っかかってくれればいいんだが。と、早速携帯が振動し、着信をもたらした。
「おおっ誰だ!?ノート借してくれる!?助かるぜー!?」
『…………残念ながら亘理氏、吾輩は貴公の学友ではない』
「なんだ、羽美さんですか」
『……ここから脱出する経路を特定したのだが、不要だったかね?』
「いやあ神様仏様石動大明神様!!持つべきものは優秀なバックアップですね!!相変わらず仕事が早い!情報封鎖は解除できたんですね!?」
もともとおれ達がこんな目にあっているのも、建物の見取り図があるはずのサーバーにアクセスできなかったことによる。だからこそ羽美さんに救援を依頼していたのだが。
『……やれやれ。少しは情報を引っこ抜いた功績を労ってもらってもいいのではないかな?サーバーを守っていたのは『鬼蜘蛛』だぞ。吾輩の本職は学徒であって、ハッカーだのクラッカーだのは本業ではないのだがね』
「ああ、あの蜘蛛ヤロウでしたか。それは本当にお疲れ様です」
『鬼蜘蛛』。
アジアを中心に活動するクラッカー。狂信者どもに囲まれてネットのカリスマを気取る軽薄者、と見せかけて、信者共を手足、身代わり、囮として使い捨て、巣の中央に居座る自らの正体を晒すことは決してない、性悪の蜘蛛。こいつもいるってことは。
……携帯に送付された地図をもとに走る、走る。
迷宮じみた通路を曲がり、進み、曲がり、登る。僅かな草の臭いが濃くなり、微細な気流が風の流れとなり――おれは外に出た。
広がる曇天の夜空。月と星は隠され、視界は暗い。左右には深い森。振り返ればおれが今まで居た施設。窓はごく少なく、明かりは乏しい。
――その看板にはごく控えめに『ダイワ自動車 つくば工場』の文字。
おれは胸を抑え、肺に新鮮な外気を送り込む。そして、
「――、――、『それは』、『当たらない』」
風切り音ひとつ。
一拍前までおれの頸があった空間を、鋼の軌道が走りぬける。
『――ふん。よくかわしたな』
視界不良の闇夜の向こう。
分厚く垂れ込める雲のはざまから漏れる幽かな月明かりに、黒焼きの刃がゆらめいた。ようやく、おれの目は暗闇に慣れてきた。
闇夜の向こうに男がいる。
百九十センチの上背、クリーム色の頭髪。タイヤめいた厚みの胸板と、大木の安定感と猛獣の瞬発性を兼ね備えた脚。そして――その手に掲げられた無骨なファイティングナイフ。奇を衒わない順手の構え、微動だにしない切先は、この男が正規の訓練を、それも膨大な量積み上げてきたことを示している。
顔はわからない。だが、その東欧訛りの英語で推察は出来た。
『誰かと思えば『強奪屋』かよ。お前はまだクリミア半島で腐肉漁りの真っ最中って聞いてたがな』
『ほう。俺を知っているか』
ぐつぐつと空気が震える。笑っているのか。
「『鞴』『鬼蜘蛛』が居るとなればてめぇも居るのは道理だろう。まさか海鋼馬公司の三凶エージェントがこんな仕事に揃い踏みとは恐れ入ったね。ダイワ自動車はずいぶんと報酬をはずんだらしい」
『確かについ四十時間前までは向こうに居たよ。だがまあ、呼ばれれば金次第でどこへでも参上するのが派遣社員ってものだ、そうだろう?』
『強奪屋』。欧州特殊部隊崩れ。
格闘戦、重火器、各種車両の扱いに長け、『二割を瞬殺、残り八割は雑でよし』をモットーに、迅速果断な略奪を得手とする危険な男。
「重火器を持ち出してないあたりは依頼人の意向かい?」
「まあそんなところだ。運が良かったな?」
素手でも刃物でも人間を容易にバラせる男に相対して、どこまでアドバンテージになるかは微妙なところだったが。
「さて、ボルトを渡してほしいものだが」
男はざっくりと一歩間合いを詰める。それだけで重圧が五割増しだ。
「お生憎。こいつはおれ達の依頼人が社運をかけて開発したものでな」
おれは左手を開き、サンプル……長さ12センチ程度の一本のボルトを見せつける。
そう、この小さなボルトこそが、おれ達の依頼人……滝沢鉄工所が奪還を依頼したもの。彼らが開発した次世代の高強度ボルトなのだ。鋼材の成分、ファイバーフロー、熱処理の微調整の芸術。従来の材料を使用しながら性能を一割アップさせる。数字だけ聞いてもイメージしづらいかもしれないが、自動車を大幅に軽量化できるとなれば、その有用性はわかってもらえるだろうか。
「ボルト一本のために命をかけるか?愚かだな」
「そのボルト一本を手に入れるために、呪術師やハッカーとつるんで海を渡ってやってくる軍人崩れに言われたくはねえな。だいたいダイワ自動車が滝沢鉄工所に不当な値引きを繰り返すからこそ、彼らは他の自動車に売り込もうとしたんだぜ」
そして、取引先の離反を恐れたダイワ自動車は製品サンプルを強奪。それを取り返しに来たのがおれ達というわけだ。
「ま、そりゃそうだ。お互いここにいる時点で、哀れな雇われの身だよなあ」
『強奪屋』はシニカルに笑った。
「ということで、さっさと片付けて帰るとしよう」
切っ先が一瞬ブレる。上――ではない、それに気を取られたのが失敗――、下!
「……っ!」
ノーモーションから地面すれすれを奔る円弧。――足払い。柔道の基本技だが、軍隊格闘技をみっちりやりこんだ『強奪屋』のそれはもはや一つの必殺技である。おれはまったく反応できず、軸足を刈られ草むらにすっ転んだ。
「いってて……!未成年相手にちっと容赦なさすぎじゃないです?ほら、プロはプロらしく、カタギには手を出さないとか、そいういうのないの?」
迫りくる大男に、おれは降参するように両手を掲げた。
「はっ、もちろんカタギには手を出さんよ。一応これでも『仁義』はなるべく通すクチでな。だがもちろん、それは性悪で凶悪なエージェントには適用されん」
「……あれ、もしかしておれの事知ってる?」
『強奪屋』の表情はいっそ褒め称えたくなる程にいい笑顔だった。
「一つ教えてやろう。俺たちがなぜ、日本の車メーカーの仕事なんぞを受けたと思う?」
「報酬がいいから?」
「それもある。だが主な理由は、な。――お前らが噛んでいると聞いたからだよ、『人災派遣』の亘理陽司!!」
男が正確無比な軌道を描いてナイフを突き立てる、ことはなかった。超人的な反射神経で腕を掲げ、攻撃を――闇夜の向こうから放たれた飛び蹴りをガードしてのけたので。
「うそっ、防がれた!?」
闇夜の向こうから『強奪屋』に襲撃をかけた小柄な影が、そんな声を挙げる。おれは憮然としたまま、そいつに声をかけた。
「おいおい、そこはしっかり決めろよ、なんのためにこっちが小粋なトークで場をつないだと思ってるんだ」
「うるさいなあ!せっかく応援に来てあげたんだからもう少し感謝してよね!」
なにか言い返そうと思ってやめた。飛び蹴りをかました小柄な影と、かまされた『強奪屋』は静かに睨み合っており、もはやおれの割り込む余地はなかった。
「ほう、『殺捉者』もいるのか。白兵戦の達者だとか、近頃よく名前を聞くぞ」
「えっ、もしかしてボク有名?」
「真面目にやれよ、来るぞ!」
『強奪屋』の手首がひらめく。ハンマーグリップから橈骨動脈を斬りつけ、鳩尾を突きこむ。シンプルにして最速の殺人術。それに『殺捉者』は反応し、敢えて踏み込みナイフを持った手を内側から弾き、突きを捌く。鋼じみた体幹の『強奪屋』は全く体勢を崩さず、すばやく己の手元にナイフを引き戻すと更に正中線を突きこむ。弾く影。地味だが、背筋が冷えるほど剣呑なナイフファイティングが展開された。
「俺のナイフをここまで捌くとはな、自信に傷がつきそうだ!」
「ボクもびっくりだよ!あそこからの蹴りに完全に反応されるとか、修行をやりなおさないと!」
闇夜の中、腕と腕がぶつかる音が響き、時折僅かにナイフの刀身が煌めく。
「まったく戦闘民族の思考パターンときたら……お?」
おれは転がったまま携帯をながめ、……一つ、大きな安堵の息をついた。
「ちょっと陽司!ボケっとしてないで、今のうちにさっさと逃げるなりなんなりしてよ!」
闇夜の向こうから『殺捉者』の抗議。
「……いや、その必要はない。きちっとここで、憂いなく決着しよう」
おれの豪語に、『強奪屋』が笑う。
「ほう?俺に勝つつもりか?」
「ああ、勝つよ。何しろ――」
おれは携帯とサンプルのボルトをジャケットの内ポケットにしまい込むと、膝を払い立ち上がり。『強奪屋』に笑ってみせた。
「気前のいい友人が見つかってな。文化人類学のノートが手に入る目処がたった」
おれはやつに向けて手をかざし。
「まったく同感だよ、『強奪屋』。哀れな雇われの身の派遣社員。である以上――」
力を開放する。
「――さっさと片付けて、帰るとしようか」
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