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償いのために連れ去られたと思っていたら、公爵様は最初から私を迎えに来ていたようです

掲載日:2026/10/29

第一章 断罪の日


その日、ハートウェル伯爵家の玄関ホールには、見たこともないほど大勢の人が集まっていた。


王家の紋章を胸につけた監察官たち。帳簿の束を抱えた文官。そして、その中心に立つ、黒い外套の青年。


「グランヴィル公爵閣下のお越しです」


執事の声は、わずかに震えていた。


父が慌てて階段を下りてくる。継母と姉もそれに続いた。私はいつものように、一番後ろの柱の陰に立っていた。家族の誰かが私の名前を呼ぶことはない。呼ばれないほうが、この家では安全だった。


グランヴィル公爵。噂だけは聞いている。三年前に家督を継いだ若き当主で、冷徹で容赦がなく、王太子殿下の信頼も厚い。社交界の令嬢たちが競うように近づいては、凍りつくような視線ひとつで退けられているのだという。


その人が、どうしてうちに。


「これはこれは、公爵閣下。このような田舎の屋敷に、いったいどのようなご用向きで――」


父が愛想笑いを浮かべて手を差し出す。けれど公爵は、その手を見もしなかった。


「ハートウェル伯爵。十年前まで、あなたはひとりの少年をこの屋敷で預かっていたはずだ」


父の笑顔が、固まった。


「その子の養育費として、毎年金貨三百枚が届けられていた。……覚えておいでか」


「そ、それはもちろん。大切にお預かりしておりましたとも」


「大切に」


公爵は、その言葉をゆっくりと繰り返した。


「真冬に麻の服一枚で馬小屋に寝かせることを、この家では大切にと言うのか」


ホールが、しんと静まり返る。


私は息を止めていた。心臓が嫌な音を立てている。


馬小屋。麻の服。冬。


知っている。私はその少年を知っている。


公爵がゆっくりとこちらを向いた。黒髪の間から覗く瞳は、深い灰色をしていた。冬の朝の空みたいな色。……あの子と、同じ色。


「……アシュ」


声にならない声が、唇からこぼれ落ちた。


公爵の目が、ほんのわずかに見開かれた気がした。けれど次の瞬間には、彼はもう父のほうへ向き直っていた。


監察官のひとりが前に進み出て、羊皮紙を広げる。


「ハートウェル伯爵ハロルド。預かり子の養育費の横領、領地税の不正徴収、王家への虚偽申告。いずれも証拠は揃っている。王命により爵位を剥奪し、財産はすべて没収とする」


継母が悲鳴を上げた。姉のベアトリスが青ざめた顔で叫ぶ。


「わ、わたくしは関係ありませんわ! 全部お父様がやったことです!」


「黙れ、ベアトリス!」


父の顔は真っ赤だった。唾を飛ばしながら、公爵に食ってかかる。


「あれは、どこの馬の骨とも知れぬ卑しい子供だった! それを屋根の下に置いてやっただけでも――」


「その卑しい子供が」


公爵の声は低く、静かだった。それなのに、ホールの隅々まで響いた。


「前グランヴィル公爵の息子だ。政敵から身を隠すため、身分を伏せて預けられていた。……あなたはそれを知らされていなかった。だからこそ、どう扱ったかがよくわかる」


父の口が、ぱくぱくと動いた。言葉は出てこなかった。


当然だ。弁解なんて、できるはずがない。私はこの目で全部見ていたのだから。


あの子が殴られるのも、食事を抜かれるのも、雪の降る夜に外へ放り出されるのも。


見ていて、何もできなかった。


継母が、父の腕にすがりついた。


「あなた、嘘でしょう? あの汚い子が、公爵家の……?」


誰も答えなかった。答えられる者など、この場にはいなかった。


監察官たちが、屋敷の調度品に次々と封印の札を貼っていく。継母が自慢していた東方の壺にも、姉が先月仕立てたばかりのドレスの箱にも。


「最後にひとつ」


公爵が言った。


「セシリア嬢は、私が連れて行く。今日からはグランヴィル公爵邸で暮らしてもらう」


全員の視線が、柱の陰の私に突き刺さった。


「どうしてセシリアを!? 公爵邸へ!?」


姉が叫んだ。信じられないという顔で私を睨み、それから公爵へすがるように手を伸ばす。


「それならわたくしも連れて行ってくださいませ! あの子よりわたくしのほうが、ずっと公爵家にふさわしいはずですわ!」


公爵は、姉を一瞥しただけだった。返事すらしなかった。


継母は呆然と口を開けたまま、私と公爵を見比べている。


私だけは、驚かなかった。


ああ、そうか、と思った。


これは罰なのだ。


家族の罪は、法が裁く。けれど、見ているだけで彼を救えなかった私の罪は、彼自身が裁きに来たのだ。


公爵邸で何が待っているのかはわからない。それでも、逃げる資格なんて私にはない。


私は柱の陰から一歩、前に出た。


「……参ります」


それが、十年ぶりに彼へかけた、最初の言葉だった。




第二章 あの頃の少年


公爵家の馬車は、驚くほど揺れが少なかった。


向かいの席に座る公爵は、窓の外を眺めたまま何も言わない。私は膝の上で両手を握りしめ、ずっと床を見ていた。


荷物は、小さな鞄ひとつだけ。持っていくものなど、ほとんどなかった。


車輪の音を聞きながら、私は十年前のことを思い出していた。


あの子が屋敷に来たのは、私が七歳のときだった。


その頃にはもう、私はこの家の「余り物」だった。


私の母は、父の最初の妻だった。傾きかけていたハートウェル家を立て直すため、持参金目当てに迎えられた人だったと、後になって知った。父には結婚する前から愛する女性がいた。それが今の継母イザベラで、姉のベアトリスは、その人と父の間に生まれた娘だ。


母が病で亡くなったのは、私が四歳の冬。喪が明けるのも待たずに、父は継母と姉を屋敷に迎え入れた。


母によく似た私の顔を、父は見たがらなかった。継母は私を「あの女の娘」と呼び、姉は私のものを何でも欲しがった。食事はいつも、厨房の隅でひとり。家族の食卓に、私の椅子はなかった。


だからだろうか。馬小屋のあの子を見たとき、他人事とは思えなかったのは。


痩せっぽちで、黒い髪はぼさぼさで、灰色の目ばかりが大きな男の子。名前を聞いても答えなかったから、使用人たちは勝手に「アシュ」と呼んだ。灰を被ったみたいに汚れているから、という意味だった。


父は彼を馬小屋に住まわせ、朝から晩まで働かせた。継母は彼を「目障り」と言い、姉は彼に泥水をかけて笑った。


それでも最初のうち、私は遠くから見ているだけだった。


変わったのは、あの子が来て半月ほど経った晩のことだ。


姉に、母の形見のオルゴールを壊された。泣いて抗議した私を、継母は「生意気だ」と打った。私は屋敷を飛び出し、行き場もなく、真っ暗な馬小屋に逃げ込んだ。


藁の上でうずくまって泣いていると、暗がりで何かが動いた。あの子だった。


叱られる、と思った。追い出される、と。


けれどあの子は何も言わずに、自分がくるまっていた薄い毛布を、私の肩にそっとかけた。そして私が泣き止むまで、ずっと隣に座っていてくれた。


すり切れた毛布は、少しも暖かくなかった。それなのに、あの冬で一番温かかった。


母が死んでから、誰かが私のそばにいてくれたのは、それが初めてだった。


次の日から、私は夕食のパンを半分、ハンカチに包んで隠すようになった。


もちろん、怖かった。見つかれば、私が何をされるかわからない。家族に正面から逆らう勇気なんて、どこにもなかった。


だから、こっそりやるしかなかった。


夜になったら裏口から抜け出して、馬小屋へ走る。初めのうち、アシュはなかなかパンを受け取ってくれなかった。


「施しはいらない」


「施しじゃないよ。毛布のお返し」


三日目に、彼はようやくパンを受け取ってくれた。十日目に、小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。


ある冬、アシュがひどい熱を出した。


腕には、父に鞭で打たれた傷があった。それが膿んでいたのだ。包帯なんて持ち出せなかったから、私は自分の髪からリボンをほどいて、傷口を縛った。


青いリボン。オルゴールを失った私に残された、たったひとつの母の形見だった。


「いいのか。大事なものだろう」


「いいの。アシュのほうが大事」


あのとき、彼がどんな顔をしたのか、よく覚えていない。暗くて見えなかったのか、私が泣いていたからなのか。


熱が下がってから、私は彼に文字を教えた。地面に木の枝で書いて、すぐに足で消す。アシュは物覚えがとてもよくて、一年もしないうちに、私よりずっと難しい本を読めるようになった。


最初に書けるようになった言葉を、私は今でも覚えている。


それは「アシュ」ではなかった。彼は地面に、少し曲がった線で、セシリア、と書いたのだ。


「自分の名前を先に覚えたら?」


「いい。こっちのほうが大事だから」


照れくさそうにそっぽを向いた横顔に、私は笑った。あの頃、私が心から笑えたのは、あの馬小屋の中だけだった。


「セシリアは、いつも俺に何かくれるな」


ある晩、アシュがぽつりと言った。


「俺は何も返せないのに」


「返さなくていいよ。最初にくれたのは、アシュのほうでしょう」


「……いつか、返す。絶対に」


そう言った彼の横顔が、月明かりに照らされていたのを覚えている。


けれど、その約束は果たされなかった。


私が十二歳になった春、姉にすべて見つかったのだ。


父は私を部屋に閉じ込めた。一週間、外に出してもらえなかった。ようやく扉が開いたとき、馬小屋はもう空っぽだった。


「あいつなら出て行った」


父はそれだけしか言わなかった。


売られたのかもしれない。どこかで死んでしまったのかもしれない。何度も何度も考えて、夜ごと泣いた。


そして、ずっと思っていた。


あの子を本当に救いたかったなら、私にはもっとできることがあったはずだ。屋敷の外の大人に助けを求めることも、父に正面から逆らうことも。


でも私はしなかった。怖かったから。


パンを運んだくらいで、優しくしたつもりになっていた。結局私は、あの家の人間だったのだ。


「寒くはないか」


不意に声をかけられ、私は顔を上げた。


公爵が、こちらを見ていた。その手には、厚い毛織りの膝掛けがあった。


「……お気遣いなく、閣下。大丈夫です」


私はすぐに目を伏せた。


視界の端で、膝掛けを持つ彼の手が、ほんの少しだけ止まった気がした。


けれど彼は何も言わず、膝掛けを自分の隣の座席に置いた。


(きっと、私がどんな人間か見定めているのだわ)


罪人の娘にふさわしい扱いを、彼は考えているのだろう。


私は膝の上の手を、もう一度強く握りしめた。




第三章 償いの日々


グランヴィル公爵邸は、ハートウェル家の屋敷が三つは入りそうなほど広かった。


案内された部屋に入った瞬間、私は立ち尽くした。


天蓋つきの寝台。窓辺には白い花が飾られ、衣装棚には淡い色のドレスがずらりと並んでいる。暖炉には、もう火が入っていた。


「あの、何かのお間違いでは……」


案内してくれた侍女に尋ねると、彼女はにっこり笑った。


「いいえ。旦那様が、セシリア様のためにご用意されたお部屋です」


私は混乱した。


罰として連れてこられたはずなのに。使用人部屋か、それとも物置か、もっとひどい場所を覚悟していたのに。


その夜、私は豪華な寝台の端っこで、身を縮めて眠った。ほとんど眠れなかった。


翌朝、私は決心した。


用意されたドレスには袖を通さず、家から持ってきた一番地味な服を着る。髪をひとつに結んで、部屋を出た。


使用人の控え室を探し当て、驚いた顔の侍女頭に頭を下げる。


「何でもいたします。掃除でも、洗濯でも。どうか仕事をください」


「ええっ!? そ、そんな、セシリア様にそのようなことは……」


「お願いします」


押し問答の末、私は半ば強引に雑巾と桶を借り受けた。


長い廊下に膝をついて、床を磨く。冷たい水が指先にしみたけれど、その痛みが少しだけありがたかった。


何かをしていれば、罪が少しずつ削れていくような気がしたから。


「……何をしている」


頭上から降ってきた声に、私は雑巾を取り落としそうになった。


顔を上げると、公爵が立っていた。その後ろには、栗色の髪の青年がひとり控えている。側近の方だろうか。


「床を、磨いております」


「見ればわかる。なぜ君がそんなことをしている」


「償いです」


私ははっきりと答えた。


「私はハートウェル家の人間です。家族があなたにしたことを、私も見ていました。何もできませんでした。ですから、どうか――働かせてください。それが、せめてもの」


「やめろ」


鋭い声だった。


私はびくりと肩を震わせた。公爵は眉間に深い皺を刻み、私の濡れた手を見下ろしていた。


「その仕事は、君がすることじゃない。……クライヴ、彼女を部屋に」


「かしこまりました」


栗色の髪の青年――クライヴ様が、困ったように微笑みながら私の手から雑巾を取り上げた。


公爵はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていった。


部屋に戻された私は、寝台の端に腰かけて考えた。


働くことすら、許されない。


(何もさせず、この立派な部屋で、ただ罪悪感に浸っていろということなのね)


それはきっと、床を磨くよりもずっと重い罰だ。


しばらくして、扉が控えめに叩かれた。


入ってきたのは、昨日部屋に案内してくれた若い侍女だった。ミラと名乗った彼女は、湯気の立つ紅茶を私の前に置いた。


「旦那様から、温かいものをお持ちするようにと」


「……ありがとうございます」


ミラは何か言いたそうに、盆を抱えてもじもじしていた。


「あの、セシリア様。このお部屋のことなんですけれど」


「はい」


「カーテンの色も、寝具も、窓辺のお花も、全部旦那様がご自分でお選びになったんです。ひと月も前から、何度も何度もお直しになって」


私は、カップを持つ手を止めた。


ひと月も前から。つまり伯爵家が裁かれるより前から、彼は私をここへ連れてくるつもりだったのだ。


(最初から、私のことも裁くと決めていらしたのね)


「そうですか。……閣下は、几帳面な方なのですね」


そう答えると、ミラはなぜか泣きそうな顔をして、小さく頭を下げて出ていった。


夕方、また侍女が呼びに来た。旦那様が夕食をご一緒にとおっしゃっています、と。


食堂の長いテーブルには、私と公爵の二人分の席しかなかった。


運ばれてきた料理を見て、私は息をのんだ。


焼きたての林檎のタルト。


子どもの頃、私の一番の好物だった。誕生日にだけ料理長がこっそり焼いてくれて、私はそれを半分、ハンカチに包んで馬小屋へ持っていったのだ。


「……覚えて」


言いかけて、口をつぐむ。


覚えていて当然だ。あの屋敷で起きたことを、彼はひとつ残らず覚えているはずなのだから。良いことも、悪いことも。


これも、きっと試されているのだ。


私は黙ってナイフを入れ、タルトを口に運んだ。甘酸っぱくて、懐かしい味がした。それなのに、喉の奥がぎゅっと詰まって、ちっとも飲み込めなかった。


向かいで、公爵は一口も食べずに私を見ていた。


「美味いか」


「……はい。ありがとうございます、閣下」


また、閣下と呼んでしまった。


彼の灰色の瞳が、一瞬だけ揺れたように見えた。けれど、それが何を意味するのか、私にはわからなかった。


食事を終えて食堂を出るとき、閉まりかけた扉の向こうから、クライヴ様の溜め息まじりの声が小さく聞こえた。


「閣下。いくらなんでも、言葉が足りなさすぎます」


返事は、聞こえなかった。




第四章 閣下とアシュ


公爵邸に来て、十日が過ぎた。


床磨きは禁じられたままだった。何か手伝おうとするたびに、侍女たちは青い顔をして首を振る。私は与えられた部屋で本を読むか、庭を歩くくらいしかすることがなかった。


公爵とは、毎晩夕食をともにした。


けれど会話はほとんどない。彼が何か尋ね、私が「はい、閣下」「いいえ、閣下」と答える。それだけだった。


それなのに、部屋には毎日のように何かが届いた。


ある日は、柔らかな革の手袋。床磨きで荒れた指先に気づいたのだろう。ある日は、私が昔好きだった物語の本。ある日は、青い花の鉢植え。


贈り物が届くたびに、胸が苦しくなった。


(こんなによくしていただく理由が、どこにあるの)


ひとつ受け取るたびに、借りが増えていく気がした。償うはずの私が、どうして与えられてばかりいるのだろう。


もしかしたら、それこそが彼の狙いなのかもしれない。


与えられれば与えられるほど、私は自分の罪を思い知る。あの頃、パンの半分しか渡せなかった自分を。


ある晩の夕食で、公爵がふいにナイフを置いた。


「あの家で、君はその後どう過ごしていた」


私は、スープをすくう手を止めた。


「……特に、変わりはありませんでした、閣下」


「食事は」


「厨房で、いただいておりました」


「ひとりでか」


「はい。慣れておりますので」


何でもないことのつもりで答えた。本当に、慣れていたのだ。


けれど公爵は、それきり黙り込んでしまった。テーブルの上で、彼の手が白くなるほど強く握られているのが見えた。


(罪人の娘の暮らしぶりなど、聞くまでもなかったのだわ)


不快にさせてしまったのだと思った。私は残りの食事を、できるだけ音を立てないように口に運んだ。


翌日から、夕食の品数が増えた。どれも、子どもの頃の私が好きだったものばかりだった。


その日の午後、庭のベンチに座っていると、クライヴ様が通りかかった。


「セシリア様。少しよろしいですか」


「はい」


クライヴ様は私の隣に、少し距離を空けて腰を下ろした。


「閣下のことを、どう思っておいでですか」


唐突な問いに、私は言葉に詰まった。


「……とても、お立派な方だと。私などにまで、過分なお心遣いをいただいて」


「過分、ですか」


クライヴ様は、なぜか困ったように笑った。


「私は閣下が公爵家に迎えられた頃からお仕えしています。あの方は十年間、ただひとつの約束を果たすためだけに生きてこられました。剣も、学問も、政治も、全部そのためです」


約束。


その言葉に、背筋が冷たくなった。


あの家の人間に報いを受けさせる。きっとそれが、彼が自分自身に誓った約束なのだ。


「……そうですか。よく、わかります」


「いえ、たぶん何もわかっておられないと思いますが」


クライヴ様は、深い溜め息をついた。


「まあ、これ以上は私の口から申し上げることではありませんので」


そう言って、彼は立ち上がって去っていった。


私はひとり、ベンチに取り残された。秋の風が冷たく、指先がかじかむ。


ふわりと、肩に何かがかけられた。


厚手の、柔らかな肩掛けだった。


振り返ると、公爵が立っていた。


「風が出てきた。もう中へ入ったほうがいい」


その声を聞いた瞬間、十年前の馬小屋が、鮮やかによみがえった。


藁の匂い。暗闇。肩にかけられた、すり切れた毛布。


「……ありがとうございます、閣下」


声が震えないように、必死だった。


公爵は、私の隣に立ったまま動かなかった。しばらく沈黙が続き、やがて彼が、ひどく静かな声で言った。


「もう、アシュとは呼んでくれないのか」


心臓が、跳ねた。


あの日、玄関ホールで思わずこぼした名前を、彼は聞いていたのだ。


呼びたかった。本当は、何度も呼びたかった。けれど。


「私に、その名前を呼ぶ資格はありません」


私は俯いたまま答えた。


「あの家で、あなたがどんな目に遭っていたか、私は全部見ていました。見ていて、何もしなかった。……そんな人間が、昔のように親しく呼べるはずがありません」


長い沈黙が落ちた。


顔を上げることができなかった。だから、彼がどんな表情をしていたのかはわからない。


「……そうか」


それだけ言って、公爵は屋敷へ戻っていった。


遠ざかる足音を聞きながら、私は肩掛けを握りしめた。


どうしてだろう。


罰を受けているのは私のはずなのに、さっきの彼の声は、まるで彼のほうが傷ついているように聞こえた。




第五章 姉の来訪


姉のベアトリスが公爵邸に押しかけてきたのは、それから三日後のことだった。


門の前で騒いでいると聞いて玄関ホールへ向かうと、ちょうど姉が衛兵を振り切って入ってくるところだった。


かつて自慢していた絹のドレスは、裾がほつれて薄汚れていた。没落してから、ろくに着替えもできていないのだろう。


「セシリア!」


私を見つけるなり、姉は甲高い声を上げた。


「いいご身分ね。あんたひとりだけ、こんなお屋敷でぬくぬくと!」


「お姉様……」


「公爵様はどこ!? お話があるの!」


「ここにいる」


階段の上から、冷えた声が降ってきた。


公爵がゆっくりと下りてくる。姉の顔が、ぱっと輝いた。媚びるような笑みを浮かべて、ドレスの裾をつまむ。


「公爵様。わたくし、どうしてもお伝えしたいことがございまして」


「手短に」


「セシリアを手元に置いていらっしゃるのは、あの家への仕返しのためでしょう? でしたら、この子では務まりませんわ」


姉は、ちらりと私を見下ろした。


「この子は昔から地味で、何の取り柄もありませんもの。そばに置いても退屈なだけ。わたくしなら、公爵様のお屋敷にもっとふさわしい華を添えられますわ。両親のことは、わたくしは何も知らなかったのです。ですから、どうか――」


「覚えている」


公爵が、姉の言葉を遮った。


「君が、馬小屋の水桶に泥を入れたこと。俺に泥水をかけて笑っていたこと。……それから、セシリアが夜中に俺のところへ通っていると、父親に告げ口したこと」


姉の笑顔が、凍りついた。


「あのせいでセシリアは一週間閉じ込められ、俺は彼女に別れも言えないまま、あの屋敷から連れ出された。……全部、覚えている」


「そ、それは、子どもの頃のことで――」


「君の両親は、北の鉱山領で労役につくことが決まった。君には修道院を用意してある。本来なら今日、迎えの馬車が出るはずだった。わざわざ出向いてくれて手間が省けたな」


公爵が軽く手を上げると、衛兵たちが姉の両腕をつかんだ。


「いやっ、離して! セシリア、なんとか言いなさいよ! あんた、妹でしょう!?」


引きずられながら、姉が叫ぶ。


私は、何も言えなかった。


言うべき言葉が見つからなかった。かばうことも、責めることもできずに、ただ立ち尽くしていた。


あの頃と、同じように。


扉が閉まり、姉の声が遠ざかっていく。


ホールに残された私は、自分の手を見下ろした。


姉が言ったことは、何ひとつ間違っていない。私は地味で、取り柄がなくて、あの家では余り物だった。


それなのに公爵は、姉の言葉にひと言も頷かなかった。代わりに口にしたのは、十年前の馬小屋の出来事ばかりだった。


泥水のことも、告げ口のことも。まるで、昨日のことのように。


(本当に、全部覚えていらっしゃるのね)


だとしたら、私が何もしなかったことも、きっと。


公爵は私を振り返り、何か言いかけた。けれど、そのとき執事が駆け寄ってきて、王宮からの急ぎの使いを告げた。公爵は短く舌打ちをして、足早に去っていった。




夕方になって、私は公爵の書斎の前に立っていた。


姉のことを謝らなければ、と思ったのだ。家の者が押しかけて、騒ぎを起こした。それもまた、私が負うべきものだった。


扉を叩いたけれど、返事はなかった。まだ戻っていないらしい。


出直そうとして、扉がわずかに開いていることに気づいた。


閉めておこうと手を伸ばしたとき、机の上に置かれた小さな木箱が目に入った。


蓋が開いていた。


その中にあるものを見て、私は息をするのも忘れた。


色あせた、青いリボン。


端がほつれ、ところどころに茶色い染みが残っている。あの冬、熱にうなされるアシュの腕に、私が巻いたもの。


どうして、こんなものを。


震える足で机に近づくと、木箱の下に、紐で束ねられた紙の束が見えた。


何十通もの手紙だった。


封はされていない。どれも出されないままの手紙。そして、そのすべての宛名に、同じ名前が書かれていた。


セシリアへ。


一番上の一通の文字は、まだぎこちなかった。地面に木の枝で書いていた頃の、あの子の字に、よく似ていた。


背後で、扉の開く音がした。




第六章 最初から君だけを


振り返ると、公爵が立っていた。


私の手の中の手紙を見て、彼はわずかに目を見開いた。


「も、申し訳ありません。勝手に……」


慌てて手紙を戻そうとして、指先がうまく動かなかった。紙の束が床に散らばる。


公爵は黙って歩み寄り、膝をついて一通ずつ拾い始めた。私も慌ててしゃがみ込む。


最後の一通に、二人の手が同時に触れた。


「……読んだか」


「い、いいえ。宛名だけです」


「そうか」


彼は拾った手紙を机に置くと、木箱のリボンを、そっと指でなぞった。


「出せなかったんだ。公爵家に迎えられてすぐ、最初の一通を送った。伯爵家に届いたはずのそれは、封も切られずに送り返されてきた。二通目もだ。……それからは、書いても出さなくなった。出せば、君がまた閉じ込められるかもしれないと思った」


私は、言葉を失った。


「あの日のことを話そう」


公爵は、静かに続けた。


「君が閉じ込められた日、俺は君の父親に馬小屋から引きずり出された。口減らしに、どこかの商人に売るつもりだったらしい。だがその途中で、父の――前公爵の使いが俺を見つけた。ちょうど迎えに来るところだったんだ」


「では、売られたわけでは……」


「ああ。だが、君に会わせてくれと何度頼んでも、聞き入れてもらえなかった。君が俺のせいで罰を受けていると知りながら、何もできずに連れて行かれた」


彼の声が、わずかに低くなった。


「十年間、ずっと考えていた。どうすれば、あの家から君を連れ出せるのか。ただ力ずくで奪っても、君は罪人の家の娘として、どこへ行っても後ろ指をさされる。だから証拠を集めた。あの家の罪を正しく裁かせて、君がもう二度と、あの家に縛られずに済むように」


「待って、ください」


頭が、追いつかなかった。


「それでは、私を連れてきたのは、罰では……」


「罰?」


公爵が、初めて聞く言葉のように眉をひそめた。


「ずっとそう思っていたのか。床を磨いたのも、俺を閣下としか呼ばなかったのも」


「だって、私は……!」


堰を切ったように、言葉があふれた。


「私は、何もできなかったんです。あなたが殴られるのも、食事を抜かれるのも、全部見ていたのに。パンを運ぶくらいしかできなくて、怖くて、家族に逆らうこともできなくて。最後には、さよならも言えなかった。そんな私が、償う以外に何をすればいいんですか」


涙が、頬を伝った。


公爵は、しばらく何も言わなかった。


やがて彼は、私の前にゆっくりと膝をついた。視線の高さが、同じになる。


「セシリア。あの家で、俺を人間として見ていたのは君だけだった」


灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。


「パンを運ぶくらい、と君は言う。だが、あのパンがなければ、俺はあの冬を越せなかった。このリボンがなければ、腕を失っていたかもしれない。君が教えてくれた文字がなければ、公爵家に迎えられても、何ひとつ学べなかった」


「それに、君はいつも半分しか食べなかった」


「え……」


「パンも、林檎のタルトも。いつも半分を俺に持ってきて、残りの半分だけを自分で食べていた。痩せていたのは、俺だけじゃない。……あの頃の俺は、それに気づいても何もしてやれなかった」


公爵の声が、かすかに揺れた。


「だから、この屋敷では、もう君に半分を分けさせたくなかった。全部、君のものにしたかった」


あのタルトは、試されていたのではなかったのだ。


彼の手が、私の手に重ねられた。


「償いなんて、最初から求めていない。俺は約束を返しに来たんだ。いつか必ず返すと、言っただろう」


――いつか、返す。絶対に。


月明かりの下の、あの横顔を思い出す。


「十年かかった。待たせてすまなかった」


声が出なかった。泣きながら、首を横に振ることしかできなかった。


「俺が欲しいのは、償いじゃない。君だ。昔も、今も、君だけだ。……これからは、そばにいてほしい」


握られた手が、温かかった。


あの冬の馬小屋で、すり切れた毛布をかけてもらったときと、同じ温かさだった。


私はずっと、間違えていたのだ。


彼は私を裁きに来たのではない。迎えに来てくれたのだ。


「……アシュ」


十年ぶりに、その名前を、まっすぐに呼んだ。


彼の瞳が揺れた。冷徹だと噂される公爵の顔が、くしゃりとゆがむ。


それは、昔、馬小屋で初めて「ありがとう」と言ってくれたときの、不器用な少年の顔だった。


「ああ。……やっと、呼んでくれた」


彼は私を引き寄せ、強く抱きしめた。


私はその胸に顔をうずめて、子どものように泣いた。


どれくらいそうしていただろう。涙がようやく落ち着いた頃、私は机の上の手紙の束に目を向けた。


「……あの手紙、読んでもいいですか」


「全部、君宛てだ。好きなときに読めばいい」


アシュは少し気まずそうに目を逸らした。


「ただ、最初のほうは字がひどい。笑うなよ」


「笑いません」


泣き腫らした目のまま、私は小さく笑ってしまった。アシュも、つられたように笑った。




机の上の木箱に、色あせたリボンを戻す。


今ごろ自分の部屋で、泣き疲れたセシリアが眠っている。目を覚ましたら、今度こそ全部の手紙を渡そうと思う。十年分の、言えなかった言葉を。


「ようやく、ですね」


戸口から、クライヴが呆れたように声をかけてきた。


「床を磨き始めたと聞いたときは、さすがに肝が冷えましたよ。閣下が最初からひと言、迎えに来たのだとおっしゃっていれば済んだ話です」


「……言えるわけがないだろう」


俺は、木箱の蓋をそっと閉じた。


「彼女の家族を裁いた男が、どの口で好きだと言う。あの子が俺を見て怯えるかもしれないと思ったら、何も言えなかった」


「その結果が、半月近くも閣下呼びですか」


「うるさい」


クライヴは肩をすくめて去っていった。


静かになった書斎で、窓の外を見る。晩秋の星が、冷たく瞬いていた。


あの屋敷で過ごした夜は、どれも凍えるほど寒かった。それでも、思い出すのは寒さではない。暗闇の向こうから駆けてくる、小さな足音のほうだ。


公爵家に迎えられてからの十年は、決して楽なものではなかった。


文字は読めても、礼儀も剣も何ひとつ知らない。馬小屋育ちの隠し子だと、親族たちは露骨に俺を蔑んだ。眠る間も惜しんで学び、剣を振り、父が亡くなったあとは、家督を狙う叔父たちを一人ずつ黙らせた。


苦しいときは、いつも木箱を開けた。


ほつれた青いリボンを見るたびに、思い出せた。俺を人として扱ってくれた少女が、あの冷たい屋敷に、まだひとりで残っていることを。


パンの半分。青いリボン。地面に書かれた、拙い文字。


彼女は、それを「それくらい」と言う。


だが俺にとっては、それが世界のすべてだった。


復讐は終わった。だが、そんなものは最初から、ついでにすぎない。


俺が本当に取り戻したかったのは、ただひとつ。


あの冬、俺に毛布の温かさを教えてくれた、たったひとりの少女だけだ。


(完)

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