償いのために連れ去られたと思っていたら、公爵様は最初から私を迎えに来ていたようです
第一章 断罪の日
その日、ハートウェル伯爵家の玄関ホールには、見たこともないほど大勢の人が集まっていた。
王家の紋章を胸につけた監察官たち。帳簿の束を抱えた文官。そして、その中心に立つ、黒い外套の青年。
「グランヴィル公爵閣下のお越しです」
執事の声は、わずかに震えていた。
父が慌てて階段を下りてくる。継母と姉もそれに続いた。私はいつものように、一番後ろの柱の陰に立っていた。家族の誰かが私の名前を呼ぶことはない。呼ばれないほうが、この家では安全だった。
グランヴィル公爵。噂だけは聞いている。三年前に家督を継いだ若き当主で、冷徹で容赦がなく、王太子殿下の信頼も厚い。社交界の令嬢たちが競うように近づいては、凍りつくような視線ひとつで退けられているのだという。
その人が、どうしてうちに。
「これはこれは、公爵閣下。このような田舎の屋敷に、いったいどのようなご用向きで――」
父が愛想笑いを浮かべて手を差し出す。けれど公爵は、その手を見もしなかった。
「ハートウェル伯爵。十年前まで、あなたはひとりの少年をこの屋敷で預かっていたはずだ」
父の笑顔が、固まった。
「その子の養育費として、毎年金貨三百枚が届けられていた。……覚えておいでか」
「そ、それはもちろん。大切にお預かりしておりましたとも」
「大切に」
公爵は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
「真冬に麻の服一枚で馬小屋に寝かせることを、この家では大切にと言うのか」
ホールが、しんと静まり返る。
私は息を止めていた。心臓が嫌な音を立てている。
馬小屋。麻の服。冬。
知っている。私はその少年を知っている。
公爵がゆっくりとこちらを向いた。黒髪の間から覗く瞳は、深い灰色をしていた。冬の朝の空みたいな色。……あの子と、同じ色。
「……アシュ」
声にならない声が、唇からこぼれ落ちた。
公爵の目が、ほんのわずかに見開かれた気がした。けれど次の瞬間には、彼はもう父のほうへ向き直っていた。
監察官のひとりが前に進み出て、羊皮紙を広げる。
「ハートウェル伯爵ハロルド。預かり子の養育費の横領、領地税の不正徴収、王家への虚偽申告。いずれも証拠は揃っている。王命により爵位を剥奪し、財産はすべて没収とする」
継母が悲鳴を上げた。姉のベアトリスが青ざめた顔で叫ぶ。
「わ、わたくしは関係ありませんわ! 全部お父様がやったことです!」
「黙れ、ベアトリス!」
父の顔は真っ赤だった。唾を飛ばしながら、公爵に食ってかかる。
「あれは、どこの馬の骨とも知れぬ卑しい子供だった! それを屋根の下に置いてやっただけでも――」
「その卑しい子供が」
公爵の声は低く、静かだった。それなのに、ホールの隅々まで響いた。
「前グランヴィル公爵の息子だ。政敵から身を隠すため、身分を伏せて預けられていた。……あなたはそれを知らされていなかった。だからこそ、どう扱ったかがよくわかる」
父の口が、ぱくぱくと動いた。言葉は出てこなかった。
当然だ。弁解なんて、できるはずがない。私はこの目で全部見ていたのだから。
あの子が殴られるのも、食事を抜かれるのも、雪の降る夜に外へ放り出されるのも。
見ていて、何もできなかった。
継母が、父の腕にすがりついた。
「あなた、嘘でしょう? あの汚い子が、公爵家の……?」
誰も答えなかった。答えられる者など、この場にはいなかった。
監察官たちが、屋敷の調度品に次々と封印の札を貼っていく。継母が自慢していた東方の壺にも、姉が先月仕立てたばかりのドレスの箱にも。
「最後にひとつ」
公爵が言った。
「セシリア嬢は、私が連れて行く。今日からはグランヴィル公爵邸で暮らしてもらう」
全員の視線が、柱の陰の私に突き刺さった。
「どうしてセシリアを!? 公爵邸へ!?」
姉が叫んだ。信じられないという顔で私を睨み、それから公爵へすがるように手を伸ばす。
「それならわたくしも連れて行ってくださいませ! あの子よりわたくしのほうが、ずっと公爵家にふさわしいはずですわ!」
公爵は、姉を一瞥しただけだった。返事すらしなかった。
継母は呆然と口を開けたまま、私と公爵を見比べている。
私だけは、驚かなかった。
ああ、そうか、と思った。
これは罰なのだ。
家族の罪は、法が裁く。けれど、見ているだけで彼を救えなかった私の罪は、彼自身が裁きに来たのだ。
公爵邸で何が待っているのかはわからない。それでも、逃げる資格なんて私にはない。
私は柱の陰から一歩、前に出た。
「……参ります」
それが、十年ぶりに彼へかけた、最初の言葉だった。
第二章 あの頃の少年
公爵家の馬車は、驚くほど揺れが少なかった。
向かいの席に座る公爵は、窓の外を眺めたまま何も言わない。私は膝の上で両手を握りしめ、ずっと床を見ていた。
荷物は、小さな鞄ひとつだけ。持っていくものなど、ほとんどなかった。
車輪の音を聞きながら、私は十年前のことを思い出していた。
あの子が屋敷に来たのは、私が七歳のときだった。
その頃にはもう、私はこの家の「余り物」だった。
私の母は、父の最初の妻だった。傾きかけていたハートウェル家を立て直すため、持参金目当てに迎えられた人だったと、後になって知った。父には結婚する前から愛する女性がいた。それが今の継母イザベラで、姉のベアトリスは、その人と父の間に生まれた娘だ。
母が病で亡くなったのは、私が四歳の冬。喪が明けるのも待たずに、父は継母と姉を屋敷に迎え入れた。
母によく似た私の顔を、父は見たがらなかった。継母は私を「あの女の娘」と呼び、姉は私のものを何でも欲しがった。食事はいつも、厨房の隅でひとり。家族の食卓に、私の椅子はなかった。
だからだろうか。馬小屋のあの子を見たとき、他人事とは思えなかったのは。
痩せっぽちで、黒い髪はぼさぼさで、灰色の目ばかりが大きな男の子。名前を聞いても答えなかったから、使用人たちは勝手に「アシュ」と呼んだ。灰を被ったみたいに汚れているから、という意味だった。
父は彼を馬小屋に住まわせ、朝から晩まで働かせた。継母は彼を「目障り」と言い、姉は彼に泥水をかけて笑った。
それでも最初のうち、私は遠くから見ているだけだった。
変わったのは、あの子が来て半月ほど経った晩のことだ。
姉に、母の形見のオルゴールを壊された。泣いて抗議した私を、継母は「生意気だ」と打った。私は屋敷を飛び出し、行き場もなく、真っ暗な馬小屋に逃げ込んだ。
藁の上でうずくまって泣いていると、暗がりで何かが動いた。あの子だった。
叱られる、と思った。追い出される、と。
けれどあの子は何も言わずに、自分がくるまっていた薄い毛布を、私の肩にそっとかけた。そして私が泣き止むまで、ずっと隣に座っていてくれた。
すり切れた毛布は、少しも暖かくなかった。それなのに、あの冬で一番温かかった。
母が死んでから、誰かが私のそばにいてくれたのは、それが初めてだった。
次の日から、私は夕食のパンを半分、ハンカチに包んで隠すようになった。
もちろん、怖かった。見つかれば、私が何をされるかわからない。家族に正面から逆らう勇気なんて、どこにもなかった。
だから、こっそりやるしかなかった。
夜になったら裏口から抜け出して、馬小屋へ走る。初めのうち、アシュはなかなかパンを受け取ってくれなかった。
「施しはいらない」
「施しじゃないよ。毛布のお返し」
三日目に、彼はようやくパンを受け取ってくれた。十日目に、小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。
ある冬、アシュがひどい熱を出した。
腕には、父に鞭で打たれた傷があった。それが膿んでいたのだ。包帯なんて持ち出せなかったから、私は自分の髪からリボンをほどいて、傷口を縛った。
青いリボン。オルゴールを失った私に残された、たったひとつの母の形見だった。
「いいのか。大事なものだろう」
「いいの。アシュのほうが大事」
あのとき、彼がどんな顔をしたのか、よく覚えていない。暗くて見えなかったのか、私が泣いていたからなのか。
熱が下がってから、私は彼に文字を教えた。地面に木の枝で書いて、すぐに足で消す。アシュは物覚えがとてもよくて、一年もしないうちに、私よりずっと難しい本を読めるようになった。
最初に書けるようになった言葉を、私は今でも覚えている。
それは「アシュ」ではなかった。彼は地面に、少し曲がった線で、セシリア、と書いたのだ。
「自分の名前を先に覚えたら?」
「いい。こっちのほうが大事だから」
照れくさそうにそっぽを向いた横顔に、私は笑った。あの頃、私が心から笑えたのは、あの馬小屋の中だけだった。
「セシリアは、いつも俺に何かくれるな」
ある晩、アシュがぽつりと言った。
「俺は何も返せないのに」
「返さなくていいよ。最初にくれたのは、アシュのほうでしょう」
「……いつか、返す。絶対に」
そう言った彼の横顔が、月明かりに照らされていたのを覚えている。
けれど、その約束は果たされなかった。
私が十二歳になった春、姉にすべて見つかったのだ。
父は私を部屋に閉じ込めた。一週間、外に出してもらえなかった。ようやく扉が開いたとき、馬小屋はもう空っぽだった。
「あいつなら出て行った」
父はそれだけしか言わなかった。
売られたのかもしれない。どこかで死んでしまったのかもしれない。何度も何度も考えて、夜ごと泣いた。
そして、ずっと思っていた。
あの子を本当に救いたかったなら、私にはもっとできることがあったはずだ。屋敷の外の大人に助けを求めることも、父に正面から逆らうことも。
でも私はしなかった。怖かったから。
パンを運んだくらいで、優しくしたつもりになっていた。結局私は、あの家の人間だったのだ。
「寒くはないか」
不意に声をかけられ、私は顔を上げた。
公爵が、こちらを見ていた。その手には、厚い毛織りの膝掛けがあった。
「……お気遣いなく、閣下。大丈夫です」
私はすぐに目を伏せた。
視界の端で、膝掛けを持つ彼の手が、ほんの少しだけ止まった気がした。
けれど彼は何も言わず、膝掛けを自分の隣の座席に置いた。
(きっと、私がどんな人間か見定めているのだわ)
罪人の娘にふさわしい扱いを、彼は考えているのだろう。
私は膝の上の手を、もう一度強く握りしめた。
第三章 償いの日々
グランヴィル公爵邸は、ハートウェル家の屋敷が三つは入りそうなほど広かった。
案内された部屋に入った瞬間、私は立ち尽くした。
天蓋つきの寝台。窓辺には白い花が飾られ、衣装棚には淡い色のドレスがずらりと並んでいる。暖炉には、もう火が入っていた。
「あの、何かのお間違いでは……」
案内してくれた侍女に尋ねると、彼女はにっこり笑った。
「いいえ。旦那様が、セシリア様のためにご用意されたお部屋です」
私は混乱した。
罰として連れてこられたはずなのに。使用人部屋か、それとも物置か、もっとひどい場所を覚悟していたのに。
その夜、私は豪華な寝台の端っこで、身を縮めて眠った。ほとんど眠れなかった。
翌朝、私は決心した。
用意されたドレスには袖を通さず、家から持ってきた一番地味な服を着る。髪をひとつに結んで、部屋を出た。
使用人の控え室を探し当て、驚いた顔の侍女頭に頭を下げる。
「何でもいたします。掃除でも、洗濯でも。どうか仕事をください」
「ええっ!? そ、そんな、セシリア様にそのようなことは……」
「お願いします」
押し問答の末、私は半ば強引に雑巾と桶を借り受けた。
長い廊下に膝をついて、床を磨く。冷たい水が指先にしみたけれど、その痛みが少しだけありがたかった。
何かをしていれば、罪が少しずつ削れていくような気がしたから。
「……何をしている」
頭上から降ってきた声に、私は雑巾を取り落としそうになった。
顔を上げると、公爵が立っていた。その後ろには、栗色の髪の青年がひとり控えている。側近の方だろうか。
「床を、磨いております」
「見ればわかる。なぜ君がそんなことをしている」
「償いです」
私ははっきりと答えた。
「私はハートウェル家の人間です。家族があなたにしたことを、私も見ていました。何もできませんでした。ですから、どうか――働かせてください。それが、せめてもの」
「やめろ」
鋭い声だった。
私はびくりと肩を震わせた。公爵は眉間に深い皺を刻み、私の濡れた手を見下ろしていた。
「その仕事は、君がすることじゃない。……クライヴ、彼女を部屋に」
「かしこまりました」
栗色の髪の青年――クライヴ様が、困ったように微笑みながら私の手から雑巾を取り上げた。
公爵はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていった。
部屋に戻された私は、寝台の端に腰かけて考えた。
働くことすら、許されない。
(何もさせず、この立派な部屋で、ただ罪悪感に浸っていろということなのね)
それはきっと、床を磨くよりもずっと重い罰だ。
しばらくして、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、昨日部屋に案内してくれた若い侍女だった。ミラと名乗った彼女は、湯気の立つ紅茶を私の前に置いた。
「旦那様から、温かいものをお持ちするようにと」
「……ありがとうございます」
ミラは何か言いたそうに、盆を抱えてもじもじしていた。
「あの、セシリア様。このお部屋のことなんですけれど」
「はい」
「カーテンの色も、寝具も、窓辺のお花も、全部旦那様がご自分でお選びになったんです。ひと月も前から、何度も何度もお直しになって」
私は、カップを持つ手を止めた。
ひと月も前から。つまり伯爵家が裁かれるより前から、彼は私をここへ連れてくるつもりだったのだ。
(最初から、私のことも裁くと決めていらしたのね)
「そうですか。……閣下は、几帳面な方なのですね」
そう答えると、ミラはなぜか泣きそうな顔をして、小さく頭を下げて出ていった。
夕方、また侍女が呼びに来た。旦那様が夕食をご一緒にとおっしゃっています、と。
食堂の長いテーブルには、私と公爵の二人分の席しかなかった。
運ばれてきた料理を見て、私は息をのんだ。
焼きたての林檎のタルト。
子どもの頃、私の一番の好物だった。誕生日にだけ料理長がこっそり焼いてくれて、私はそれを半分、ハンカチに包んで馬小屋へ持っていったのだ。
「……覚えて」
言いかけて、口をつぐむ。
覚えていて当然だ。あの屋敷で起きたことを、彼はひとつ残らず覚えているはずなのだから。良いことも、悪いことも。
これも、きっと試されているのだ。
私は黙ってナイフを入れ、タルトを口に運んだ。甘酸っぱくて、懐かしい味がした。それなのに、喉の奥がぎゅっと詰まって、ちっとも飲み込めなかった。
向かいで、公爵は一口も食べずに私を見ていた。
「美味いか」
「……はい。ありがとうございます、閣下」
また、閣下と呼んでしまった。
彼の灰色の瞳が、一瞬だけ揺れたように見えた。けれど、それが何を意味するのか、私にはわからなかった。
食事を終えて食堂を出るとき、閉まりかけた扉の向こうから、クライヴ様の溜め息まじりの声が小さく聞こえた。
「閣下。いくらなんでも、言葉が足りなさすぎます」
返事は、聞こえなかった。
第四章 閣下とアシュ
公爵邸に来て、十日が過ぎた。
床磨きは禁じられたままだった。何か手伝おうとするたびに、侍女たちは青い顔をして首を振る。私は与えられた部屋で本を読むか、庭を歩くくらいしかすることがなかった。
公爵とは、毎晩夕食をともにした。
けれど会話はほとんどない。彼が何か尋ね、私が「はい、閣下」「いいえ、閣下」と答える。それだけだった。
それなのに、部屋には毎日のように何かが届いた。
ある日は、柔らかな革の手袋。床磨きで荒れた指先に気づいたのだろう。ある日は、私が昔好きだった物語の本。ある日は、青い花の鉢植え。
贈り物が届くたびに、胸が苦しくなった。
(こんなによくしていただく理由が、どこにあるの)
ひとつ受け取るたびに、借りが増えていく気がした。償うはずの私が、どうして与えられてばかりいるのだろう。
もしかしたら、それこそが彼の狙いなのかもしれない。
与えられれば与えられるほど、私は自分の罪を思い知る。あの頃、パンの半分しか渡せなかった自分を。
ある晩の夕食で、公爵がふいにナイフを置いた。
「あの家で、君はその後どう過ごしていた」
私は、スープをすくう手を止めた。
「……特に、変わりはありませんでした、閣下」
「食事は」
「厨房で、いただいておりました」
「ひとりでか」
「はい。慣れておりますので」
何でもないことのつもりで答えた。本当に、慣れていたのだ。
けれど公爵は、それきり黙り込んでしまった。テーブルの上で、彼の手が白くなるほど強く握られているのが見えた。
(罪人の娘の暮らしぶりなど、聞くまでもなかったのだわ)
不快にさせてしまったのだと思った。私は残りの食事を、できるだけ音を立てないように口に運んだ。
翌日から、夕食の品数が増えた。どれも、子どもの頃の私が好きだったものばかりだった。
その日の午後、庭のベンチに座っていると、クライヴ様が通りかかった。
「セシリア様。少しよろしいですか」
「はい」
クライヴ様は私の隣に、少し距離を空けて腰を下ろした。
「閣下のことを、どう思っておいでですか」
唐突な問いに、私は言葉に詰まった。
「……とても、お立派な方だと。私などにまで、過分なお心遣いをいただいて」
「過分、ですか」
クライヴ様は、なぜか困ったように笑った。
「私は閣下が公爵家に迎えられた頃からお仕えしています。あの方は十年間、ただひとつの約束を果たすためだけに生きてこられました。剣も、学問も、政治も、全部そのためです」
約束。
その言葉に、背筋が冷たくなった。
あの家の人間に報いを受けさせる。きっとそれが、彼が自分自身に誓った約束なのだ。
「……そうですか。よく、わかります」
「いえ、たぶん何もわかっておられないと思いますが」
クライヴ様は、深い溜め息をついた。
「まあ、これ以上は私の口から申し上げることではありませんので」
そう言って、彼は立ち上がって去っていった。
私はひとり、ベンチに取り残された。秋の風が冷たく、指先がかじかむ。
ふわりと、肩に何かがかけられた。
厚手の、柔らかな肩掛けだった。
振り返ると、公爵が立っていた。
「風が出てきた。もう中へ入ったほうがいい」
その声を聞いた瞬間、十年前の馬小屋が、鮮やかによみがえった。
藁の匂い。暗闇。肩にかけられた、すり切れた毛布。
「……ありがとうございます、閣下」
声が震えないように、必死だった。
公爵は、私の隣に立ったまま動かなかった。しばらく沈黙が続き、やがて彼が、ひどく静かな声で言った。
「もう、アシュとは呼んでくれないのか」
心臓が、跳ねた。
あの日、玄関ホールで思わずこぼした名前を、彼は聞いていたのだ。
呼びたかった。本当は、何度も呼びたかった。けれど。
「私に、その名前を呼ぶ資格はありません」
私は俯いたまま答えた。
「あの家で、あなたがどんな目に遭っていたか、私は全部見ていました。見ていて、何もしなかった。……そんな人間が、昔のように親しく呼べるはずがありません」
長い沈黙が落ちた。
顔を上げることができなかった。だから、彼がどんな表情をしていたのかはわからない。
「……そうか」
それだけ言って、公爵は屋敷へ戻っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、私は肩掛けを握りしめた。
どうしてだろう。
罰を受けているのは私のはずなのに、さっきの彼の声は、まるで彼のほうが傷ついているように聞こえた。
第五章 姉の来訪
姉のベアトリスが公爵邸に押しかけてきたのは、それから三日後のことだった。
門の前で騒いでいると聞いて玄関ホールへ向かうと、ちょうど姉が衛兵を振り切って入ってくるところだった。
かつて自慢していた絹のドレスは、裾がほつれて薄汚れていた。没落してから、ろくに着替えもできていないのだろう。
「セシリア!」
私を見つけるなり、姉は甲高い声を上げた。
「いいご身分ね。あんたひとりだけ、こんなお屋敷でぬくぬくと!」
「お姉様……」
「公爵様はどこ!? お話があるの!」
「ここにいる」
階段の上から、冷えた声が降ってきた。
公爵がゆっくりと下りてくる。姉の顔が、ぱっと輝いた。媚びるような笑みを浮かべて、ドレスの裾をつまむ。
「公爵様。わたくし、どうしてもお伝えしたいことがございまして」
「手短に」
「セシリアを手元に置いていらっしゃるのは、あの家への仕返しのためでしょう? でしたら、この子では務まりませんわ」
姉は、ちらりと私を見下ろした。
「この子は昔から地味で、何の取り柄もありませんもの。そばに置いても退屈なだけ。わたくしなら、公爵様のお屋敷にもっとふさわしい華を添えられますわ。両親のことは、わたくしは何も知らなかったのです。ですから、どうか――」
「覚えている」
公爵が、姉の言葉を遮った。
「君が、馬小屋の水桶に泥を入れたこと。俺に泥水をかけて笑っていたこと。……それから、セシリアが夜中に俺のところへ通っていると、父親に告げ口したこと」
姉の笑顔が、凍りついた。
「あのせいでセシリアは一週間閉じ込められ、俺は彼女に別れも言えないまま、あの屋敷から連れ出された。……全部、覚えている」
「そ、それは、子どもの頃のことで――」
「君の両親は、北の鉱山領で労役につくことが決まった。君には修道院を用意してある。本来なら今日、迎えの馬車が出るはずだった。わざわざ出向いてくれて手間が省けたな」
公爵が軽く手を上げると、衛兵たちが姉の両腕をつかんだ。
「いやっ、離して! セシリア、なんとか言いなさいよ! あんた、妹でしょう!?」
引きずられながら、姉が叫ぶ。
私は、何も言えなかった。
言うべき言葉が見つからなかった。かばうことも、責めることもできずに、ただ立ち尽くしていた。
あの頃と、同じように。
扉が閉まり、姉の声が遠ざかっていく。
ホールに残された私は、自分の手を見下ろした。
姉が言ったことは、何ひとつ間違っていない。私は地味で、取り柄がなくて、あの家では余り物だった。
それなのに公爵は、姉の言葉にひと言も頷かなかった。代わりに口にしたのは、十年前の馬小屋の出来事ばかりだった。
泥水のことも、告げ口のことも。まるで、昨日のことのように。
(本当に、全部覚えていらっしゃるのね)
だとしたら、私が何もしなかったことも、きっと。
公爵は私を振り返り、何か言いかけた。けれど、そのとき執事が駆け寄ってきて、王宮からの急ぎの使いを告げた。公爵は短く舌打ちをして、足早に去っていった。
夕方になって、私は公爵の書斎の前に立っていた。
姉のことを謝らなければ、と思ったのだ。家の者が押しかけて、騒ぎを起こした。それもまた、私が負うべきものだった。
扉を叩いたけれど、返事はなかった。まだ戻っていないらしい。
出直そうとして、扉がわずかに開いていることに気づいた。
閉めておこうと手を伸ばしたとき、机の上に置かれた小さな木箱が目に入った。
蓋が開いていた。
その中にあるものを見て、私は息をするのも忘れた。
色あせた、青いリボン。
端がほつれ、ところどころに茶色い染みが残っている。あの冬、熱にうなされるアシュの腕に、私が巻いたもの。
どうして、こんなものを。
震える足で机に近づくと、木箱の下に、紐で束ねられた紙の束が見えた。
何十通もの手紙だった。
封はされていない。どれも出されないままの手紙。そして、そのすべての宛名に、同じ名前が書かれていた。
セシリアへ。
一番上の一通の文字は、まだぎこちなかった。地面に木の枝で書いていた頃の、あの子の字に、よく似ていた。
背後で、扉の開く音がした。
第六章 最初から君だけを
振り返ると、公爵が立っていた。
私の手の中の手紙を見て、彼はわずかに目を見開いた。
「も、申し訳ありません。勝手に……」
慌てて手紙を戻そうとして、指先がうまく動かなかった。紙の束が床に散らばる。
公爵は黙って歩み寄り、膝をついて一通ずつ拾い始めた。私も慌ててしゃがみ込む。
最後の一通に、二人の手が同時に触れた。
「……読んだか」
「い、いいえ。宛名だけです」
「そうか」
彼は拾った手紙を机に置くと、木箱のリボンを、そっと指でなぞった。
「出せなかったんだ。公爵家に迎えられてすぐ、最初の一通を送った。伯爵家に届いたはずのそれは、封も切られずに送り返されてきた。二通目もだ。……それからは、書いても出さなくなった。出せば、君がまた閉じ込められるかもしれないと思った」
私は、言葉を失った。
「あの日のことを話そう」
公爵は、静かに続けた。
「君が閉じ込められた日、俺は君の父親に馬小屋から引きずり出された。口減らしに、どこかの商人に売るつもりだったらしい。だがその途中で、父の――前公爵の使いが俺を見つけた。ちょうど迎えに来るところだったんだ」
「では、売られたわけでは……」
「ああ。だが、君に会わせてくれと何度頼んでも、聞き入れてもらえなかった。君が俺のせいで罰を受けていると知りながら、何もできずに連れて行かれた」
彼の声が、わずかに低くなった。
「十年間、ずっと考えていた。どうすれば、あの家から君を連れ出せるのか。ただ力ずくで奪っても、君は罪人の家の娘として、どこへ行っても後ろ指をさされる。だから証拠を集めた。あの家の罪を正しく裁かせて、君がもう二度と、あの家に縛られずに済むように」
「待って、ください」
頭が、追いつかなかった。
「それでは、私を連れてきたのは、罰では……」
「罰?」
公爵が、初めて聞く言葉のように眉をひそめた。
「ずっとそう思っていたのか。床を磨いたのも、俺を閣下としか呼ばなかったのも」
「だって、私は……!」
堰を切ったように、言葉があふれた。
「私は、何もできなかったんです。あなたが殴られるのも、食事を抜かれるのも、全部見ていたのに。パンを運ぶくらいしかできなくて、怖くて、家族に逆らうこともできなくて。最後には、さよならも言えなかった。そんな私が、償う以外に何をすればいいんですか」
涙が、頬を伝った。
公爵は、しばらく何も言わなかった。
やがて彼は、私の前にゆっくりと膝をついた。視線の高さが、同じになる。
「セシリア。あの家で、俺を人間として見ていたのは君だけだった」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
「パンを運ぶくらい、と君は言う。だが、あのパンがなければ、俺はあの冬を越せなかった。このリボンがなければ、腕を失っていたかもしれない。君が教えてくれた文字がなければ、公爵家に迎えられても、何ひとつ学べなかった」
「それに、君はいつも半分しか食べなかった」
「え……」
「パンも、林檎のタルトも。いつも半分を俺に持ってきて、残りの半分だけを自分で食べていた。痩せていたのは、俺だけじゃない。……あの頃の俺は、それに気づいても何もしてやれなかった」
公爵の声が、かすかに揺れた。
「だから、この屋敷では、もう君に半分を分けさせたくなかった。全部、君のものにしたかった」
あのタルトは、試されていたのではなかったのだ。
彼の手が、私の手に重ねられた。
「償いなんて、最初から求めていない。俺は約束を返しに来たんだ。いつか必ず返すと、言っただろう」
――いつか、返す。絶対に。
月明かりの下の、あの横顔を思い出す。
「十年かかった。待たせてすまなかった」
声が出なかった。泣きながら、首を横に振ることしかできなかった。
「俺が欲しいのは、償いじゃない。君だ。昔も、今も、君だけだ。……これからは、そばにいてほしい」
握られた手が、温かかった。
あの冬の馬小屋で、すり切れた毛布をかけてもらったときと、同じ温かさだった。
私はずっと、間違えていたのだ。
彼は私を裁きに来たのではない。迎えに来てくれたのだ。
「……アシュ」
十年ぶりに、その名前を、まっすぐに呼んだ。
彼の瞳が揺れた。冷徹だと噂される公爵の顔が、くしゃりとゆがむ。
それは、昔、馬小屋で初めて「ありがとう」と言ってくれたときの、不器用な少年の顔だった。
「ああ。……やっと、呼んでくれた」
彼は私を引き寄せ、強く抱きしめた。
私はその胸に顔をうずめて、子どものように泣いた。
どれくらいそうしていただろう。涙がようやく落ち着いた頃、私は机の上の手紙の束に目を向けた。
「……あの手紙、読んでもいいですか」
「全部、君宛てだ。好きなときに読めばいい」
アシュは少し気まずそうに目を逸らした。
「ただ、最初のほうは字がひどい。笑うなよ」
「笑いません」
泣き腫らした目のまま、私は小さく笑ってしまった。アシュも、つられたように笑った。
机の上の木箱に、色あせたリボンを戻す。
今ごろ自分の部屋で、泣き疲れたセシリアが眠っている。目を覚ましたら、今度こそ全部の手紙を渡そうと思う。十年分の、言えなかった言葉を。
「ようやく、ですね」
戸口から、クライヴが呆れたように声をかけてきた。
「床を磨き始めたと聞いたときは、さすがに肝が冷えましたよ。閣下が最初からひと言、迎えに来たのだとおっしゃっていれば済んだ話です」
「……言えるわけがないだろう」
俺は、木箱の蓋をそっと閉じた。
「彼女の家族を裁いた男が、どの口で好きだと言う。あの子が俺を見て怯えるかもしれないと思ったら、何も言えなかった」
「その結果が、半月近くも閣下呼びですか」
「うるさい」
クライヴは肩をすくめて去っていった。
静かになった書斎で、窓の外を見る。晩秋の星が、冷たく瞬いていた。
あの屋敷で過ごした夜は、どれも凍えるほど寒かった。それでも、思い出すのは寒さではない。暗闇の向こうから駆けてくる、小さな足音のほうだ。
公爵家に迎えられてからの十年は、決して楽なものではなかった。
文字は読めても、礼儀も剣も何ひとつ知らない。馬小屋育ちの隠し子だと、親族たちは露骨に俺を蔑んだ。眠る間も惜しんで学び、剣を振り、父が亡くなったあとは、家督を狙う叔父たちを一人ずつ黙らせた。
苦しいときは、いつも木箱を開けた。
ほつれた青いリボンを見るたびに、思い出せた。俺を人として扱ってくれた少女が、あの冷たい屋敷に、まだひとりで残っていることを。
パンの半分。青いリボン。地面に書かれた、拙い文字。
彼女は、それを「それくらい」と言う。
だが俺にとっては、それが世界のすべてだった。
復讐は終わった。だが、そんなものは最初から、ついでにすぎない。
俺が本当に取り戻したかったのは、ただひとつ。
あの冬、俺に毛布の温かさを教えてくれた、たったひとりの少女だけだ。
(完)




