第三章 水上凪 ――答えを売らない女――
書店で本を見つけたのは偶然だった。
校了後の解放感と、河野の病状が悪化しているという連絡が同じ日に来て、透は神保町をあてもなく歩いていた。古書店の密集した通りを過ぎ、カレー屋の看板を横目に見て、ふと入った書店の文庫コーナーで、背表紙が視界に飛び込んできた。
「魂の地図──前世と転生の記録」
著者:水上凪。
透はまず手に取らなかった。そういう棚には近寄らない主義だった。脳科学の編集者として、スピリチュアル系の出版物は仕事上の忌避リストに入っている。
五歩歩いて、しかし引き返した。
書名の下に小さな著者写真があった。若い女性だった。特別な雰囲気はなく、まっすぐこちらを見ている目だけが印象に残った。
裏表紙を読んだ。「幼少期より死者の姿・前世の記憶を知覚する。独学で東西の神秘哲学を修め、現在は都内でヒーリングサロンを主宰。本書は著者が実際に体験した三百件以上の霊的事例を、批判的に分析した記録である」。
批判的に。
その四文字が引っかかった。透は本を買った。
翌週、読み終えた。
期待していたものとは違った。著者は自分の体験を誇示しない。むしろ体験の「解釈」に対して慎重な距離を保ちながら書いている。「私が知覚するものの性質については、私自身も確信を持っていない。ただ現象が起きていることだけは、否定しようがない」。脳科学の論文を引用し、NDEの研究を参照し、仏教哲学との接点を丁寧に論じていた。
透はサロンの連絡先をウェブで調べた。
「なぜ連絡しようとしているのか」と自問した。答えは出なかった。ただ、携帯の画面を見ながら、河野の声が耳の奥で鳴っていた。「答えを持ってるやつが羨ましい」。
予約フォームを埋めた。
サロンは世田谷の住宅街にある古い一軒家を改装した建物だった。外壁は白く塗り直されていたが、軒の木材が古さを残していた。表札に「NAGI」とだけあった。
玄関の引き戸を開けると、線香の臭いはしなかった。代わりに、湿った木の香りと、かすかなハーブのようなものが混ざっていた。奥から、
「どうぞ、靴はそのままで」
という声がした。
水上凪は、透の想像より若く、そして小さかった。三十二歳と聞いていたが、座っているとその半分くらいの年齢に見えた。年齢不詳といったほうがいいかもしれない。グレーのニットと黒のパンツ。化粧は最低限。手に文庫本を持っていて、透が入ってきても慌てて置こうとしなかった。
部屋の真ん中にローテーブルと座布団が二つ。壁際に本棚。神秘的な装飾は何もなかった。キャンドルもなく、水晶もなく、透が想像していた「霊能者の部屋」のモチーフが欠片もなかった。
「槙野さんですね。こちらへ」
透は向かいの座布団に座った。テーブルの上に湯飲みが二つ置かれた。お茶の色が薄い緑だった。
「本を読みました」
「そうですか」
「疑問があります」
「どうぞ」
透は準備してきた問いを順番に出した。
臨死体験の神経科学的説明の可能性について。
輪廻転生の科学的根拠の欠如について。
霊的知覚と統合失調症の知覚異常との鑑別について。
凪は怒らなかった。防御的にもならなかった。ひとつひとつの問いに、穏やかに、しかし鋭く応じた。
「NDEの神経科学的説明は、現象の相関関係を述べているだけで、因果関係の方向を決定していません。脳の状態AのときにNDEが起きる、というデータがあっても、脳の状態AがNDEを生み出した証明にはならない。逆の可能性を排除できていません」
「知っています」
凪は微笑んだ。
「でもあなたは今、私を論破しに来たわけじゃないですよね」
透は黙った。
「本当のことを言うと、あなたが来た理由はわかります。近しい人が、死に向かっている」
透の胸の奥、肋骨の内側の冷たい塊が、一瞬だけ鋭くなった。
「なぜわかるんですか」
「見えるから……というのは、あなたが今聞きたい答えじゃないですね?」
「そうです」
「あなたのことを、少し話しましょうか。答え合わせをしながら」
透は頷いた。
凪は湯飲みを両手で持ち、少し目を細めた。それから、透の祖父の話をした。透が一言も話していない祖父の話を。
棺の中の顔。密度の喪失。縁側と、最後に消えた蛍の光。
透の背筋を、熱いものが走った。鳥肌ではなかった。もっと深いところから来るものだった。
「……どこで知ったんですか」
「さっきも言いましたよ。見えるから」
凪はただそれだけを言って、お茶を飲んだ。




