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【短編小説】生と死の境界 ~それでも隣に~  作者: 霧崎薫


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第二章 怖いよ、正直

 河野は入院していなかった。「動ける間は動く」と決めていた。月に一度の外来で抗がん剤の点滴を受け、それ以外の日は学校に出て、教壇に立ち続けた。


 透は週に一度、河野のアパートを訪ねるようになった。駅から歩いて十分の、古い六畳ワンルームだった。河野は独身で、狭い部屋に本が積まれていた。哲学書、小説、漫画。秩序のない棚が、河野らしかった。


 二月の日曜日、透が訪ねると、河野は布団の中にいた。抗がん剤の副作用がひどい週だと聞いていた。顔色が紙のように白く、目の下に影があった。それでも河野は透を見て笑った。


「お前、寿司、持ってきた?」


「次は持ってくる」


「口だけだな」


 透は床に座って、インスタントコーヒーを二杯作った。河野は上半身を起こして受け取り、両手で包んだ。


 窓の外、灰色の空から細かい雪が落ちていた。アパートの前の駐輪場で、自転車のサドルに雪が積もっていくのが見えた。


「怖いか」


 透は唐突に聞いた。自分でも予期していない質問だった。


 河野はコーヒーカップを見たまま、少しの間黙っていた。


「怖いよ」


 静かな声だった。居酒屋で大声で笑う声と、同じ人間のものとは思えない静けさだった。


「正直に言うとな、朝起きたとき、一瞬忘れてるんだ。それで三秒後に思い出す。あ、そうだった、って。毎朝それをやってる。慣れると思ってたけど、慣れない」


「そうか」


「お前みたいに哲学を知ってればよかったな。エピクロスだっけ? 死は俺たちに何ものでもないって」


「知ってても意味ない」


「そうか?」


「俺は毎晩それを考えてる。二十年以上。()()()()()()()()()()()()()()。迷路を地図で歩くだけで、迷路の外に出られない」


 河野が笑った。今度は本物の笑いだった。


「それはお前らしいな。お前は昔から、考えすぎて動けなくなるやつだった」


 透は返事をしなかった。


 しばらく二人とも黙った。雪が降り続けていた。駐輪場の自転車のサドルが完全に白くなった。


「なあ透」


「なんだ」


「もしも続くとしたら、どこにいると思う? 俺。死んだあとに」


 透は窓の外を見た。正直に答えるべきか、慰めを言うべきか、一瞬迷った。河野の質問の重さが、誠実な答えを要求していた。


「わからない」


「そうか。まあそうだな」


「わからないのが正直なところだ。脳科学的にも、哲学的にも、どちらにも決定的な根拠がない。それだけ確かだ」


「中途半端な答えだな」


「そうだ」


 河野が少し顔をしかめた。痛みか、それとも別の何かが走ったのか、わからなかった。


「答えを持ってるやつが羨ましいな、と思うことがある。宗教とか、スピリチュアルとか。俺は信じられないけど、信じてる人は楽そうだ」


「答えを持ってるように見えるだけかもしれない」


「それでもいいんじゃないか。見えてるだけでも」


 透は答えなかった。


 雪が少し強くなった。窓の向こうで、アパートの管理人の老人が傘をさして駐輪場を歩いていった。誰かに電話しながら、肩を丸めて歩いていた。何の話をしているのか聞こえなかった。


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