第一章 おじいちゃんは、どこに行ったの?
八月の蝉の声が嘘のように、通夜の夜は静かだった。
透は畳の端に正座して、棺を見ていた。白い布をかけられた棺の蓋は開いていた。開いたままにしておくのが、この家の流儀らしかった。大人たちが線香の煙の向こうで低い声で話している。誰かが鼻をすすった。祖母が台所で何かを洗う音が、やけに大きく聞こえた。
透は近づいた。
八歳の足は畳の目をひとつずつ踏んで、棺の縁に手をかけた。見下ろした瞬間、胃の底が冷たくなった。
おじいちゃん、だった。顔の輪郭は昨日と同じだ。額の皺も、白い眉毛も、少し開いた口元も。しかし何かが決定的に違った。それを八歳の透は言語化できなかったが、長じてから何度も反芻するうちに、ひとつの言葉だけが残った。
密度。
棺の中に横たわっているのは、昨日まで部屋の空気を押しのけて存在していた人間と、同じ密度を持っていなかった。何かが抜けていた。煙草の臭いも、笑い声も、こちらを向く眼差しも、それらを束ねていた何かが根こそぎなくなって、残骸だけが白い布の上にあった。
「おじいちゃんは、どこに行ったの?」
母は透の肩に手を置いて、
「お空に行ったのよ。遠いところから、ずっと見守ってくれるの」
と言った。
透は返事をしなかった。
母の手の温かさを感じながら、透はその言葉が嘘だと知っていた。嘘をついているという意味ではなく、その言葉の形と、棺の中の現実の間に、橋のかけようのない溝があった。お空、という言葉は、あの密度の消失を説明できていなかった。何も説明できていなかった。
蝉の声が再び聞こえた気がした。それとも耳鳴りだったかもしれない。
透は棺から手を離して、縁側に出た。庭の暗闇の中に、蛍が一匹だけ光っていた。明滅するその光を、透はずっと見ていた。消える。光る。消える。光る。次に消えたとき、もう光らなかった。
それが透の最初の記憶だった。正確には、最初の「問い」の記憶だった。
◆
二十七年後の冬の夜、槙野透は仕事部屋の天井を見つめていた。
三十五歳。神保町の出版社で科学書の編集を担当している。いま手元にあるゲラは脳神経科学者の書いた死生学の概説書で、三日後が校了だった。赤ペンを持ったまま、透は三十分動いていなかった。
マンションの十二階。外はこの冬一番の冷え込みだと天気予報が言っていた。窓のサッシがかすかに鳴っている。ヒーターの排気が乾いた空気を攪拌している。コーヒーカップが空になっている。
透は思考の海の底に沈んでいた。
きっかけはゲラの一節だった。「意識のハードプロブレムとは、物質的な脳の活動から、なぜ主観的な体験が生じるのかという問いである。現代の神経科学はこの問いに、根本的には答えていない」。仕事として何十回も読んだ文章だ。しかし今夜は、その一文が皮膚の下に潜り込んでくるような感触があった。
答えていない。
つまり「なぜ私は今ここにいる感じがするのか」も、「なぜその感じがいつか完全に消えるのか」も、誰も本当のことを知らない。エピクロスの「死はわれわれにとって何ものでもない」は知っている。ストア哲学も、仏教の無我も、TMTも知っている。知識として持っていて、それが何の役にも立たない。
胸の奥の、肋骨のすぐ内側のあたりに、冷たい塊のようなものがある。いつもそこにある。昼間は仕事の密度に紛れて存在を忘れているが、深夜になると輪郭をはっきりさせる。
そのとき、携帯が鳴った。
発信者:河野信也。
河野は大学時代からの友人だった。哲学科で同じゼミに所属していた。今は中学校の国語教師をしている。飾らない男で、酒を飲むと大声で笑った。最後に会ったのは去年の秋で、二人でビールを飲みながら、お互いの仕事の愚痴を言い合った夜だった。
「透か。遅くにすまない」
「いや、起きてた。どうした」
「病院に行ったんだ。検査の結果が出た」
透は赤ペンをゲラの上に置いた。
「膵臓癌だって。ステージIVだ」
静寂。ヒーターの音だけが続いていた。
「余命は……半年から一年、だって言われた」
透の喉の奥が、乾燥したアスファルトみたいに収縮した。
「透、聞いてるか」
「聞いてる」
「そうか」
それからしばらく、二人とも何も言わなかった。電話越しに河野の呼吸が聞こえた。規則正しい呼吸だった。ずいぶん落ち着いている、と透は思った。落ち着いているふりをしているのだと、すぐにわかった。
「わかった。近いうちに会いに行く」
「ああ。何か美味いものを食いたい。寿司がいい」
「寿司な。どこでもいい場所を探す」
「ありがとう」
電話が切れた。
透はスマートフォンを机の上に置いた。赤ペンを持ち直した。ゲラの文字が滲んで見えた。滲んでいるのは文字ではなく、透の視界だった。涙が出ているわけではなかった。ただ、ピントが合わなくなっていた。




