幽霊を信じない俺が、君のいない世界を信じるまで
高校時代の俺にとって、世界は「効率」と「成果」で構築されていた。
昼休みの喧騒も、放課後の部室から漏れる笑い声も、俺の耳にはノイズとしてしか届かない。ペン先がノートを削る音だけが、未来の俺を形作る唯一の鼓動だった。
「ねえ、幽霊って信じる?」
その日、俺の静寂に割り込んできたのは、数学の教科書を抱えた藍だった。
彼女は絶望的に数学が苦手だったが、「わからない子の隣にいたいから」と、無謀にも教師を目指していた。
俺は手を止めず、冷淡に答えた。
「信じない。死後の世界なんてものは、今を全力で生きられない奴が作る『退路』だ。続きがあるなんて思ったら、人生に甘えが出る。俺は、この一度きりの演算を、最高の結果で終わらせたいんだ」
藍はあっけにとられた顔で俺を見ていた。
「……ゆう君、強いんだね。でも、なんだか堅苦しいよ笑」
彼女の寂しそうな微笑みの意味を、当時の俺という未熟なプログラムは、正しく処理できなかった。
月日は流れ、俺たちは恋人になった。
彼女と過ごす時間は、俺がかつて切り捨てた「非効率」そのものだった。けれど、彼女のぬくもりや笑顔が、俺の冷たい論理を少しずつ溶かしていった。
その日常が「特別な積み重ね」であったことに気づいたのは、彼女の病室でモニターが刻む無機質な波形を見つめるようになってからだ。
「……ごめんね。本当は、大人になるのが怖かっただけなの」
彼女は、病を抱えていた。
医師でさえ、明日を約束できないほどの。
その命はいつ途切れてもおかしくなかった。
消え入るような声で、彼女は言った。
教師になりたかったのは、子供たちの「無限の未来」の側にいれば、自分に迫る死の影を忘れられると思ったから。彼女の「優しさ」は、死という終わりを拒絶する、必死の祈りだったのだ。
一命は取り留めた。しかし、それから十年。
別れは突然だった…。運命は残酷だった…。死神はまだ、彼女のことを見逃していなかったのだ。
結婚指輪が、まだ彼女の細い薬指に馴染む間もなかった。
式の翌日、彼女は眠るように、静かにこの世を去った。
俺は狂ったように働いた。
医用工学のエンジニアとして、彼女の病を根絶するための装置に人生を捧げた。結婚までの十年は、幸福と焦燥が同居する時間だった。
俺は彼女の笑顔の裏で、必死に「間に合わせる」計算を続けていた。
コードを書き、回路を組み、数式と格闘する。
「間に合わせる」ことだけが、俺の生きる目的だった。
だが、現実は残酷なエラーを吐き出した。
完成まで、あとわずか数ヶ月というところで、俺の設計図は「対象不在」となった。
今の俺は、かつての俺が一番軽蔑していた姿をしている。
部屋の隅に、風に揺れるカーテンの向こうに、彼女の気配を探してしまう。
存在しないはずの「霊」というデータを、脳が必死にスキャンし続けている。
俺はようやく、あの日の藍の問いの正体を知った。
霊を信じるということは、弱い人間の甘えではない。
それは、愛してしまった人間が、世界との整合性を保つための「最後の避難所」だったのだ。
俺は、星も見えない夜空に向かって叫んだ。
「俺は、幽霊なんて信じない。あの日からずっと、信じられなかった」
でも。
「君がいない世界を信じることの方が、ずっと難しかったんだ」




