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受験会場にて静寂という名の静寂を聴く

作者: モンク
掲載日:2026/02/08

冬は二回やってくる。

暦の冬と、受験の冬。

二つの冬が同時に押し寄せてくるのだから、これはもう季節の二重課税である。

六十を過ぎた僕にとっては、どちらの冬も、もはや恐怖というより

毎年勝手に届く年賀状のようなものだ。

返事を出す義理はないが、無視するのもなんとなく落ち着かない。


そんなある朝、半泣きの受験生が駆け込んできた。

「キャンパスを間違えました。どうにかなりませんか」

声が震えている。AMラジオの深夜番組みたいに、必要以上に情緒が乗っている。


「正しい受験会場へ行ってください」

職員は淡々と告げる。

その落ち着きは、年季の入った炊飯器の保温機能のように、妙に信頼できる。

受験生は肩を落とし、冬の風に押されるように去っていった。

その背中を見ながら、六十過ぎの僕は思う。

――人生って、だいたいああいうふうに始まるんだよ。

誰に向けるでもなく、空気に向かってつぶやく。

空気は返事をしないが、返事をしないという返事をしている。


試験中に青い顔で退出する子がいる。

逆に、どう見ても体調が悪いのに「大丈夫です」と言い張る子もいる。

その“だいじょうぶ”は、僕の経験上、ほぼ“だいじょうぶじゃない”の意味だ。

日本語は便利だ。ひとつの言葉で、真実と嘘と希望と虚勢を同時に運べる。


若い頃の僕も、似たようなことを言っていた気がする。

人は若いとき、自分の身体を過信する。

六十を過ぎると、逆に過小評価する。

ちょっと咳が出ただけで「これはもうダメかもしれん」と思ったりする。

その両極のあいだに、受験会場の冬がある。

つまり、過信と過小評価の中間試験だ。

合格ラインは、誰にもわからない。


受験会場には、毎年いろんな苦情が舞い込む。

「隣の人の貧乏ゆすりがひどいです」

「隣の人のにおいが気になります」

「前の人の消しゴムのカスが飛んできます」

世界の小さな不具合が、今日この部屋に総出演しているかのようだ。

極限状態の人間とは、だいたいそんなものだ。

鉛筆の音が地鳴りに聞こえ、時計の秒針が人生の残り時間みたいに響く。

静寂という名の騒音が、部屋いっぱいに満ちている。


六十過ぎの僕は、その苦情を聞きながら、心の中でコーヒーをすする。

「まあ、そんな日もあるさ」と。

心の中のコーヒーは、現実のコーヒーよりも熱すぎず、苦すぎず、都合がいい。


長くこの仕事をしていると、ふと思う。

受験で人生が決まる――そんなふうに言われることもあるが

実際にはごく一部の人を除けば、そんなにドラマチックな話ではない。

人生はもっと長くて、もっと複雑で、もっとどうでもいいことでできている。

むしろ、どうでもいいことのほうが多い。

どうでもいいことの積み重ねが、気づけば人生になっている。


受験生たちは真剣だ。

未来とか、期待とか、親のプレッシャーとか、そういうものを背中に

ぎゅうぎゅうに詰め込んでいる。

だが六十過ぎの僕は、その背中を見ながら思う。

「そんなにピリピリしなくてもいいんだよ。肩の力を抜いていけばいい」

肩の力は、抜こうと思わないと抜けない。

そして抜けたときには、もう受験は終わっている。

人生とは、そういうタイミングの悪さに満ちている。


若い頃の僕は、受験生を見ると「もっと頑張れ」と思っていた。

今は「もう十分頑張ってるよ」と思う。

年を取ると、他人の頑張りに優しくなる。

自分の頑張りには厳しくなるのに、不思議なものだ。


受験会場の冬は、今年もやってくる。

そして毎年、少しだけ笑えて、少しだけ切なくて、そして毎年、風が吹いている。

六十過ぎの僕は、その風にコートの襟を立てながら、静かに思う。

――まあ、今年も無事に終わったな、と。

冬は二回やってくるが、終わりは一回で十分だ。

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