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第28話「嵐のような黄色」

リンネル洋食屋での心温まる記憶がまだ胸に残る、月曜日の朝。

キオは窓から差し込む柔らかな冬の日差しを浴びながら、昨日の賑やかな1日を思い出していた。

部屋の隅で、きらきらと光る埃が静かに舞っている。


「昨日は楽しかったな」


部屋の隅で翼を休めていたシュバルツが、満足げに喉を鳴らした。


「うん。トーマスさんとアンナさんも、本当に喜んでくれて良かったよ」


キオが微笑むと、シュバルツの尻尾がぱたり、ぱたりと床を打つ。


「お前の友人たちも、良い顔をしていた」


「そうだね。みんな、心から笑ってた」


制服に袖を通しながら、キオは今日の授業に思いを巡らせる。どうか、昨日みたいに平和な一日になりますように。そんなささやかな願いを胸に、彼は部屋を後にした。



午前の授業は魔法理論。

静まり返った教室に、シュトゥルム先生の落ち着いた声が響いていた。テーマは魔法陣の応用についてだ。


「魔法陣は基本形を理解すれば、実に様々な応用が可能です。しかし、基礎という土台を疎かにすれば、いかに複雑な術式も砂上の楼閣と化します」


先生の丁寧な説明に、生徒たちは一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでペンを走らせている。


キオは最前列の席で、時折頷きながらノートを取っていた。隣ではオーウェンも集中している。


「次回の実習では、皆さんに応用魔法陣を構築してもらいます。精霊の力を借りることも許可しますので、各自パートナーとよく連携し、創造性のある魔法陣を期待しています」


シュトゥルム先生の説明は続く。


「特に空間魔法に関わる魔法陣は複雑ですが、これも基礎の組み合わせに過ぎません。焦らず、一つ一つの術式を確かめながら進めてください」


得意分野の話に、キオは自然と口元が緩むのを感じた。

やがて、午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。


「それでは、今日はここまで。次回は実際に魔法陣を描いてもらいますので、準備を怠らないように」


シュトゥルム先生が締めくくると、教室は安堵のため息とざわめきに包まれた。生徒たちが席を立ち始める中、隣からオーウェンが声をかけてくる。


「キオ、昼食、一緒に食堂へ行かないか?」


「うん、行こう」


二人は教科書を鞄にしまい、活気を取り戻した廊下を食堂へと向かった。


昼休みを迎えた食堂は、生徒たちの楽しげな声と、食欲をそそる温かな匂いで満ちていた。


キオとオーウェンは日当たりの良い窓際のテーブルに席を取る。

シュバルツも慣れた様子でキオの隣に静かに腰を下ろした。


「今度の実習、楽しみだな」


オーウェンがシチューをスプーンで混ぜながら言った。


「応用魔法陣か。精霊と一緒に作るのは初めてだから、ソラリスとの連携が試されるな」


「僕も、スバルとどんな魔法陣が作れるか楽しみだよ」


キオがそう言うと、シュバルツは「任せておけ」とでも言うように、小さく頷いて見せた。


「空間魔法の魔法陣なら、お前の得意分野だ。きっと上手くいく」


シュバルツの言葉に勇気づけられたその時、オーウェンがふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、シュトゥルム先生のことで、最近また新しい噂を聞いたんだ」


「シュトゥルム先生の?」


「ああ。先生が中庭で猫に餌付けしているのを、見た者がいるらしい」


「猫に?」


キオは少し目を丸くした。あの真面目な先生の姿からは、少し意外に思える。


「そうなんだ。毎日、決まった時間にこっそり餌を持って行っているそうだ」


「へぇ、優しい先生なんだな」


キオが言うと、オーウェンも頷いた。


「前に僕たちが話した、先生が甘いもの好きだっていう噂と合わせると、印象がだいぶ変わるよな。穏やかで、実はすごく優しい人なのかもしれない」


「ああ。甘いものが好きで、猫も好き。なんだか可愛い一面があるんだね」


二人が微笑ましく話していると、オーウェンがさらに声を潜めた。


「それに、もう一つ。先生、意外な人物と親しいらしい」


「誰と?」


「アイゼン先生だ」


「えっ!?あのアイゼン先生と?」


キオは思わず声を上げた。あの『貴様ら!それでも魔法士の卵か!』が口癖の、熱血体育教師と?物静かなシュトゥルム先生の組み合わせは、あまりにも想像がつかない。


「ああ。なんでも、アイゼン先生の趣味が、お菓子作りらしい」


「お菓子作り!?」


今度こそ、キオは吹き出しそうになるのを必死でこらえた。たくましい腕で繊細なケーキを作るアイゼン先生を想像し、肩が震える。


「意外だろう?シュトゥルム先生が甘党だから、アイゼン先生が作ったお菓子をよく差し入れている、という話だ」


「すごい…ギャップがすごい…」


「全くだ。先生たちにも、僕たちの知らない一面がたくさんあるんだな」


オーウェンと顔を見合わせて笑っていると、彼がふと席を立った。


「すまない、カスパー先生に用事があったのを思い出した。すぐに戻る」


「わかった」


一人になったキオは、再び食事に手をつけた。

隣にいるシュバルツの穏やかな気配が、心地よい安心感を与えてくれる。


キオがスープを一口飲んだ、その時だった。食堂の入り口が、にわかに騒がしくなる。


「ですから!それは違うと申し上げているでしょう、エルヴィン!」


「いや、どう考えても僕の解釈の方が正しい!ベアトリス、君は頑固すぎるんだよ!」


甲高い声と呆れたような声が、食堂中に響き渡る。そこにいた全員の視線が、鮮やかな黄色い髪を持つ二人に注がれた。


ベアトリス・ゲルプ・リーデルと、エルヴィン・ゲルプ・フォルケ。

同じゲルプ一族の二人は、バチバチの火花を散らしながら歩いてきた。


「頑固なのはそちらですわ!私は常に論理的に思考しております!」


ベアトリスが持っていた扇子をパシッと音を立てて閉じる。


「論理的?君のどこがだ!今だって完全に感情的じゃないか!」


「なんですって!?失礼な!私がいつ感情的に…!」


「ほら、今も!」


売り言葉に買い言葉の応酬は、ふと、ベアトリスがキオの姿を捉えたことでぴたりと止まった。


「あ…」


彼女の視線を追ったエルヴィンも、キオの存在に気づく。

それまでの険しい表情が嘘だったかのように、二人の顔がぱっと華やいだ。


「キオ様!」


まるで示し合わせたかのように同時に叫ぶと、二人は競うようにキオのテーブルへと駆け寄ってきた。突然のことに、キオはスプーンを持ったまま固まってしまう。


「あ、ベアトリスさん、エルヴィン君…」


「キオ様、ご機嫌麗しゅうございますわ!」


満面の笑みでベアトリスが淑女の礼をとる。


「こんにちは、キオ様。お一人ですか?」


エルヴィンも人懐っこい笑みを浮かべた。

あっという間にテーブルの向かいの席に陣取った二人を、シュバルツが値踏みするように静かに見つめている。


「えっと…何か御用でしょうか?」


キオがおずおずと尋ねると、エルヴィンがニヤリと口角を上げ、挑発するようにベアトリスを見た。


「実はだな、ベアトリス。僕、最近キオ様とかなり親しくさせていただいてるんだ」


その一言に、ベアトリスの眉がぴくりと動いた。


「…なんですって?」


「だってそうだろう?この間も一緒に勉強したし、プライベートな話もたくさんした。それに、キオ様も僕のことを『エルヴィン君』と呼んでくださるようになったんだ」


得意げに胸を張るエルヴィンに、ベアトリスが扇子を広げて顔を隠す。


「それが何だと言うのですか!私だってキオ様とお茶をご一緒しましたし、様々なお話も伺いましたわ!」


「でも、ベアトリス。君はまだキオ様の『友人』という立場にすら立てていないじゃないか!」


エルヴィンの容赦ない一言が、ベアトリスの心を抉った。


「なっ…!」


彼女は言葉に詰まる。確かに、エルヴィンは「エルヴィン君」「キオ様」と呼び合う仲だ。しかし自分は、キオから「ベアトリスさん」と呼ばれている。敬称の違いが、二人の心理的な距離を明確に示していた。


「ぐ…ぐぬぬ…!」


みるみるうちに顔を赤くしたベアトリスは、次の瞬間、バッと勢いよくキオの方を向いた。


その気迫に、キオはびくりと肩を震わせる。


「キオ様!」


ベアトリスがテーブルに両手をつき、身を乗り出した。


「わたくしと、お友達になってくださいまし!」


「え…えぇっ!?」


あまりに唐突な申し出に、キオは困惑するしかない。


「このエルヴィンなどより、わたくしの方がキオ様に有意義で楽しい時間をお約束できますわ!教養も、会話の引き出しも、それに…!」


「はぁ!?何を言ってるんだ、ベアトリス!」


今度はエルヴィンが立ち上がった。


「僕の方がキオ様のことをよく理解している!」


「理解しているですって!?あなたがキオ様の何をご存知だと言うのですか!」


「君こそ、何を知っているんだ!」


二人の間で、バチバチと見えない火花が散っている。

キオはただただ、この嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。


『…どうしてこうなったんだろう…』


心の内で呟くと、頭の中にシュバルツの楽しそうな笑い声が響いた。


『賑やかなことだな、キオ』


『笑ってないで助けてよ…』


「キオ様!」


再びベアトリスがキオに向き直る。


「今度の土曜日、わたくしと街へ出かけませんか?素晴らしい美術館がございますの。そこで芸術について、心ゆくまで語り合いましょう!」


「待て待て、横入りするな!」


エルヴィンがすかさず割り込む。


「キオ様、僕とは博物館の特別展示へ行きましょう!古代魔法史の、大変貴重な資料が公開されるんです!」


「いえ、美術館の方がキオ様の感性をより豊かにしますわ!」

「いや、博物館の方が知的好奇心を満たせる!」

「美術館!」

「博物館!」

「美術館ですわ!」

「博物館だ!」


キオは二人の凄まじい気迫に完全に気圧されていた。


「え、えっと、あの…」


「「キオ様、どちらが良いですか!」」


二人の視線が、ぐさりとキオに突き刺さる。

その圧力に耐えきれず、キオはほとんど無意識のうちに頷いていた。


「あ…う、うん…どっちも、素敵だね…」


その瞬間、二人が同時に歓声を上げた。


「「やった!」」


「では、美術館に決まりですわね!」


「いや、先に誘ったのは僕だから博物館だろう!」


「いいえ美術館です!」


「博物館だ!」


再び始まった口論に、キオが呆然としていると、ついにベアトリスが叫んだ。


「もう!でしたら、両方行けばよろしいでしょう!」


「そうだな!その手があったか!」


エルヴィンもあっさり同意する。


「では、今度の土曜日は、美術館と博物館、両方参りましょう!これで決まりですわね、キオ様!」


「え…あ…はい…」


キオが何かを言う前に、話は勝手に決まってしまった。


「それでは、楽しみにしておりますわ!」


「僕も楽しみにしてますね、キオ様!」


目的を達成した二人は満足そうに頷くと、嵐のようにやって来た時と同じく、また口論をしながら食堂を去っていく。


「やはり芸術鑑賞が先ですわ…」


「いや、歴史的価値を考えれば博物館が…」


賑やかな声が遠ざかっていく。




後に残されたのは、静寂と、呆然と固まるキオだけだった。


「…………え?」


一体、何が起こったのだろう。

気がつけば、今度の土曜日に二人と美術館と博物館を巡るという、ハードな予定が組まれてしまっている。


「…僕、頷いたっけ…?」


キオが力なく呟くと、隣でシュバルツがくつくつと喉を鳴らし、肩を震わせて笑っていた。


「スバル…」


キオがジト目で睨むが、シュバルツは全く意に介さない。


「ははは…実に賑やかな友人たちだな」


「もう…」


キオはがっくりと頭を抱えた。


そこへ、用事を終えたオーウェンが戻ってくる。


「待たせたな、キオ」


オーウェンは席に着きながら、まだ食堂の出口で言い争っているベアトリスとエルヴィンの後ろ姿に気づいた。


「あれは…ベアトリス嬢とフォルケ君か?何かあったのか?」


オーウェンの純粋な問いに、キオは力なく乾いた笑いを浮かべるしかなかった。


「えっと…僕にも、よくわからないんだ」


「よくわからない?」


「うん…気がついたら、今度の土曜日にあの二人と美術館と博物館に行く約束になってた」


「は?」


オーウェンが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。


「どういうことだ?」


「僕が聞きたいよ…」


キオは心底困惑していた。隣では、シュバルツがまだ楽しそうに肩を震わせている。


「まあ、良い経験になるだろう」


「スバル…はぁ」


キオは深々と、長いため息をついた。

気を取り直して昼食を再開すると、オーウェンが苦笑しながら言った。


「それにしても、賑やかな二人だな」


「そうだね。僕も驚いたんだけど、あの2人ってあんな感じで声を出すことあるんだね。初めて見たよ」


「ゲルプ一族の中でも、あの二人は特に優秀で、周囲の期待も大きいからな。だからこそ、同じ一族の者同士、お互いを強く意識してしまうんだろう」


オーウェンの説明に、キオは少し納得した。


「でも、なんだかんだで仲は良さそうだよね」


「確かに。あれだけ言い合っていても、本気で嫌い合っているようには見えないな......まあ、土曜日は頑張ってくれ」


オーウェンは、同情と面白さが半分ずつ混じったような、絶妙な笑顔でキオを励ました。


「うん…頑張るよ」


キオは苦笑いで応える。


食事を終え、二人は午後の授業へと向かう。食堂を出る時、キオはもう一度、あの二人が去っていった方向を振り返った。


『一体どうなるんだろう…』


大きな不安と、ほんの少しの期待。

そんな複雑な気持ちを抱えながら、キオは午後の教室へと足を向けた。

その後ろで、シュバルツが楽しそうに尻尾を揺らしていた。



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