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間話11 トーマス視点「善意を纏う影」


キオたちが店を賑わせた、その翌日。

リンネル洋食屋には、午後の穏やかな時間が流れていた。窓から差し込む柔らかな陽射しが、磨かれた床に温かい光だまりを作っている。


ランチタイムの喧騒が嘘のように静まり返った店内で、店主のトーマスはカウンター周りの片付けをしていた。湿らせた布巾が、木のカウンターを滑る心地よい音だけが響く。


ディナータイムまでのこの小休止に、明日の仕込みを考えたり、新しいメニューを空想したりするのが、ささやかな楽しみだった。



その静寂を破って、カラン、とドアベルが軽やかな音を立てた。


「いらっしゃいませ」


反射的に顔を上げたトーマスの目に、一人の男性の姿が映る。仕立ての良い上着をまとった、見るからに身分の高そうな人物だった。


キオと同じような美しい黒髪。

すっと通った鼻梁に、知性を感じさせる落ち着いた眼差し。年は三十代後半といったところか。

その佇まいから、育ちの良さが滲み出ている。


『黒髪……シュバルツ一族の方か』


トーマスの胸が、とくん、と小さく鳴った。昨日来たばかりのキオの親戚だろうか。内心の動揺を悟られぬよう、彼は努めて柔らかな笑みを浮かべた。


「いらっしゃいませ。お客様、お一人様でいらっしゃいますか?」


「ええ。こちらのお店の評判は、以前からかねがね」


穏やかで、耳に心地よいテノールの声だった。


「それはありがとうございます。どうぞ、こちらのお席へ」


トーマスは男を窓際の明るい席へと案内する。椅子を引く音さえ、この空間では一つの音楽のように響いた。


「メニューでございます」


「どうも」


メニューを受け取った男は、指先まで洗練された仕草で、ゆっくりとそれに目を通し始める。


「本日のおすすめは、じっくり煮込んだビーフシチューに、旬の野菜のグリルを添えたプレートになります」


「では、それをお願いしよう。それと……食後にコーヒーを」


「かしこまりました」


注文を受け、トーマスは厨房へと戻る。仕込み済みの鍋をコンロにかけ、魔法で繊細な火加減を調整しながら、手際良く調理を進めていく。


ふと、昨日の賑わいが脳裏をよぎった。キオと彼の友人たちがテーブルを囲み、屈託なく笑い合っていた光景。あの子たちの笑顔は、この店の何よりの灯りだった。


特にキオ。七年前、あんなにも小さく、怯えた子鹿のようだったのに。今では立派な青年に成長し、素晴らしい友人たちに囲まれている。

その事実が、トーマスには自分のことのように嬉しかった。

出来上がったシチューを純白の皿に盛り付けながら、彼の口元には自然と笑みが浮かぶ。


『あの子たちが幸せそうで、本当に良かった』


心の底から、そう思った。


「お待たせいたしました」


湯気の立つ皿をテーブルに置くと、男は「これは素晴らしい」と目を細めた。


「美味しそうですね」


一口、スプーンでシチューを口に運ぶと、男はゆっくりと頷き、感嘆のため息を漏らした。


「……素晴らしい。素材の味を見事に引き出している。魔法の使い方が実に絶妙ですね」


「お褒めいただき、光栄です」


「いえ、お世辞ではありませんよ。この味の深みは、長年の経験と、何より料理への愛情がなければ決して出せるものではない」


料理人として、これ以上に嬉しい言葉はなかった。

トーマスの頬が、照れと喜びで少しだけ熱くなる。


男は時折窓の外の街並みを眺めたり、店内の素朴な装飾に目をやったりしながら、静かに食事を楽しんでいるようだった。その穏やかな時間が、不意に彼の言葉で区切られる。


「実は」


男がカトラリーを置き、トーマスをまっすぐに見た。


「私、キオの叔父にあたる者でして...」


「えっ!」


思わず、トーマスの声が裏返った。


「キオ君の……叔父様でいらっしゃいましたか」


「ええ。シュバルツ一族のヴァーグナー家の者です」


やはり、シュバルツ一族。キオの親戚に間違いなかった。


「これは……大変失礼いたしました。昨日はキオ君が、お友達とご一緒に」


「ええ、その話を聞きましてね。ぜひ一度、お礼を兼ねてお店に伺いたいと思っていたのです」


男は穏やかに微笑む。


「あの子から、七年前、大変お世話になったと聞いております。この場を借りて、深く感謝申し上げます。本当に、ありがとうございました」


「いえいえ!当然のことをしたまでです」


トーマスは慌てて首を横に振った。


「困っている子供がいたら、誰だって手を差し伸べますよ」


「いいえ、それができる人間はそう多くはありません」


男の目が、慈しむように優しく細められた。


「ましてや、それがシュバルツ一族の子供となれば、事情を知る者ほど躊躇するものです。ですが、あなたは分け隔てなくあの子を助けてくださった」


「当たり前です。どんな家の生まれでも、子供は子供ですから」


トーマスの実直な言葉に、男は深く頷いた。


「素晴らしいお考えだ。そして昨日も、あの子たちを温かく迎えてくださったと」


「ええ、本当に楽しい時間でした。キオ君も、お友達も、皆本当に良い子たちで」


トーマスは昨日の光景を思い出し、自然と饒舌になっていた。


「身分だとか立場だとか、そんな垣根なんて少しも感じさせないんです。ただ、友達として一緒にいるのが楽しくて仕方がない、という感じで。見ているこちらまで、幸せな気持ちになりました」


「それは、良かった」


男もまた、嬉しそうに微笑んでいる。


「キオは、本当に良い友人たちに恵まれたのですね。ルイ嬢も、とても聡明で心優しいお嬢さんだと聞いております」


「娘があの子の友人になれて、親としても本当に嬉しい限りです」


「きっと、あなた方の温かい育て方の賜物なのでしょう」


会話はごく自然に弾んだ。キオのこと、ルイのこと、学校での楽しそうな様子。男は終始、熱心な聞き役に徹し、時折、我がことのように嬉しそうな相槌を打った。


『ちゃんとした保護者の方がいて、キオ君も本当に幸せだな』


トーマスは、キオの境遇を心から案じてくれるこの紳士に、すっかり好感を抱いていた。


食事が終わり、香り高いコーヒーがテーブルに運ばれると、男の表情がふと、翳りを帯びた。心配と優しさが入り混じったような、複雑な色合いだった。


「実は……」


男が切り出した。


「保護者として、少しばかり悩んでいることがあるのです」


「悩み、ですか?」


「ええ。他ならぬ、キオのことでして」


男は窓の外へ視線を送り、まるで言葉を選ぶように、ゆっくりと語り始めた。


「あの子が幸せであること、それは私も心から願っています。友人に恵まれ、楽しい学園生活を送っている。それは何物にも代えがたい、素晴らしいことです」


「はい」


「ただ……」


男はそこで一度、言葉を切った。


「我々にはどうしても、貴族という立場がつきまといます」


「立場……」


「ええ。あの子も、いつかはこの甘い時間の終わりを迎え、大人にならなければなりません」


その声には、深い憂いが滲んでいた。


「今の友人たちとの関係は、本当に宝石のように尊い。しかし、将来のことを考えると……この関係が、このまま続いていくのか」


トーマスは黙って耳を傾ける。貴族の世界の複雑さなど、平民の自分には到底分かりはしない。だが、目の前の男が抱える悩みが、紛れもない本物であることは伝わってきた。


「貴族には、貴族としての責務がございます。将来、キオも一族を支える立場になる。その時、今の友人たちとの関係が、あの子の足枷にならなければよいのですが……」


男は、苦渋の表情で言葉を濁した。


「誤解なさらないでください」


トーマスが何かを言いかける前に、男は慌てて付け加えた。


「今の友人関係を否定するつもりは毛頭ありません。むしろ、生涯大切にしてほしいとさえ思っています」


「はい……」


「ただ……それと同時に、貴族社会での繋がりもまた、疎かにはできないのです。必要なのは、バランスなのです」


その言葉には、妙な説得力があった。


「キオは心根の優しい子です。だからこそ、今の友人たちと過ごす心地よさに浸るあまり、貴族社会から孤立してしまうのではないかと……それが、怖いのです」


「なるほど……」


トーマスは腕を組み、深く考え込んだ。確かに、キオのためを思うのであれば、両方の世界で良好な関係を築いておくことは、彼の将来にとって不可欠なのかもしれない。


「今のあの子は」


男は真剣な眼差しでトーマスを見つめた。


「今の友人たちを大切にするあまり、貴族として本来築くべき交友関係を、少し疎かにしているように見受けられます」


「そうなのですか」


「ええ。もちろん、友情は素晴らしいものです。ですが……」


男の表情が、まるで痛みでもこらえるかのように歪んだ。


「将来、キオが社会で孤立しないためにも……親しい者たちが、少しだけ道を示してやる必要があるのではないかと」


その言葉は、トーマスの胸にすとんと落ちた。

自分にもルイという娘がいる。親として、子供の将来を案じ、時に心を鬼にしてでも子の進むべき道を示す。その気持ちは痛いほどよくわかる。


「こんなお話をするのは、大変おこがましいとは承知の上で……」


男はテーブルの上で手を組み、わずかに頭を下げた。


「同じく子供の将来を思う者として、あなたにお願いがあるのです」


「お願い、でございますか」


「ええ」


男は顔を上げ、真摯な瞳でトーマスを見据えた。


「キオの今の環境も大切ですが、いずれ来る未来のために、我々大人が、立場の違いというものを少しだけ、あの子たちに教えてやる必要があるのではないでしょうか」


「それは……」


「例えば、ルイ嬢がキオと過ごす時間を、ほんの少しだけ調整していただく、とか……」


その言葉に、トーマスは戸惑いを隠せなかった。


「調整、ですか」


「はい。今のままでは、キオは平民の友人たちとの時間ばかりを優先してしまうでしょう。それ自体は、決して悪いことではありません。しかし、彼には貴族としての付き合いも必要なのです」


男の声には、切実な響きが込められていた。


「全ては、将来キオが困らないために。そして……ルイ嬢にとっても、いずれ来る辛い思いをさせないために」


「ルイにとっても……?」


「ええ。今は身分の違いなく友人でいられても、成長するにつれ、立場の違いは残酷なまでに明確になります。その時、深く関わりすぎたがゆえに、ルイ嬢が傷つくことになるかもしれない」


その可能性を指摘され、トーマスの胸がちくりと痛んだ。

考えたくはないが、あり得ない話ではない。ルイも、いつかは現実を知るのだ。貴族と平民との間にある、見えないけれど確実な壁の存在を。


「だからこそ、今から少しずつ、互いのためにも適切な距離を保つこと。それもまた、大人の愛情ではないでしょうか」

男の言葉は、あくまで優しく、そして真剣だった。


『……キオ君のためだものな』


トーマスは、男の真摯な態度にすっかり心を動かされていた。


『この方は、本当にキオ君のことを第一に考えていらっしゃる。素晴らしい保護者だ』


親として、子供の将来を憂う気持ちは、自分も痛いほど同じだ。


「……わかりました」


熟考の末、トーマスは静かに頷いた。


「キオ君のために、そして娘のためにも。私達にできることを、考えてみます」


「……!ありがとうございます」


男は、安堵したように深々と頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。ご理解いただけて、心から感謝いたします」



その言葉が、耳に届いた瞬間だった。

トーマスの魂の、その奥底で。

何かが軋むような、冷たい音がした。


——ガチャリ。


まるで、重い錠前がかけられるような、鈍く、決定的な音。


だが、トーマスはその音の意味を知る由もなかった。


心の最も深い場所、意識の光さえ届かない領域で、何かが静かに変質していくことに、気づくはずもなかった。


「それでは、お会計をお願いします」


男がすっと立ち上がる。その時、ふわりと、どこからか熟したリンゴのような甘い香りが漂った気がした。


「ごちそうさまでした。美味しい料理と、大変有意義な時間を過ごせました」


「いえいえ、こちらこそ」


トーマスは、もはや何の疑いも抱かず、晴れやかな笑顔で男を送り出した。


「またのお越しを、心よりお待ちしております」


「ええ、ぜひ近いうちに」


男は優雅に一礼し、店を出ていく。


カラン。


ドアベルの音が、午後の静寂に優しく溶けていった。

一人になった店内で、トーマスは温かい気持ちのまま、後片付けを再開した。


『キオ君には、本当に良い保護者がいて良かった』


心からそう思う。あれほど真摯に子供の将来を案じているのだ。


『今度キオたちが来たら、今日の話をそれとなくしてやろう。大人として、言ってやるべきことがある』


それは、キオのため。

そして何より、愛する娘、ルイのためなのだから。

トーマスは、それが正しいことだと、固く、固く信じていた。




日が傾き始めた、店の外。


陽の光が届かない、建物の間の路地裏の闇。


男——ベゼッセン・シュバルツ・ヴァーグナーは、そこに佇んでいた。


先ほどまでの温和な紳士の面影はどこにもない。彼の口元が、まるで月の光にでも照らされたかのように、ゆっくりと、白く歪んでいく。


その邪悪な笑みに、誰一人気づく者はいない。


トーマスの魂に深く刻まれた錠が、静かに、そして確実にその効力を発揮し始めていることを、まだ誰も知らなかった。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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