間話10 セレネ、ルドルフ視点「遠くから見つめる二人(本編第24話)」
ひんやりとした石の廊下を、セレネは一人寮へと向かっていた。窓の外からの光により廊下に長い影を落としている。
その時、セレネはふと足を止めた。
どこか開かれた窓からだろうか、中庭の方から微かに声が聞こえてくる。
「なに笑ってるのバカ!!そんなの怖かったに決まってるじゃん!!」
夜の澄んだ空気を切り裂くような、カリナの叫び声だった。
セレネは吸い寄せられるように音のする方へ近づき、太い柱の冷たい陰から、そっと中庭の様子を窺う。
そこに広がる光景に、セレネは息をのんだ。
——カリナが、キオを強く抱きしめていたのだ。
『まさか……』
セレネの美しい翡翠色の瞳が、驚きに見開かれる。
あの異国の娘が、特別な存在であるキオ様に、あんなにも無遠慮に触れている。
神聖な場所に土足で踏み入るような、あまりにも不敬な行為に思えた。
「小さい子供が大の大人に、屋敷を出るな!部屋を出るな!って強く言われて、反抗できるわけないじゃん!それに家族とも離されて...!一人ぼっちにされて...!」
カリナが、まるで自分のことのように泣きじゃくりながら叫ぶ。
「キオがかわいそうだよぉ……!」
その言葉を聞いた瞬間、セレネは不快感に眉をひそめた。
『なんという……』
特別な存在であるキオ様を「可哀想」などと。
まるでそこらにいる、ただの人間のように扱っている。その価値を全く理解していない、愚かしさ。
その時、ふわりと温かい気配が隣に立ち、優しい声がセレネに語りかけた。
「セレネ様。あの子たちは……キオ様を心から大切に思っているのですね」
声の主は、セレネの契約精霊であるテレシアだった。その姿は淡い光を帯びているように見える。
「え……?」
セレネは少し驚いて、隣に立つ美しい精霊を見上げた。
「友情とは、美しいものです。身分や立場を超えて、魂が触れ合うことですから……」
テレシアの言葉は、澄んだ泉の水のように優しく、温かい。
けれど、その言葉が意味するものを、セレネはまだ本当の意味で理解することができなかった。
『でも……キオ様は、他の誰とも違う、特別な御方なのに……』
その時、セレネは自分の斜め後ろに、もう一つ人の気配があることに気づいた。
はっとして振り返ると、そこにはルドルフが音もなく立っていた。
彼もまた、セレネと同じように柱の陰から中庭の光景をじっと見つめている。
そして、その隣には——八枚の光り輝く翼を持つルシエルが、慈愛に満ちた神々しい微笑みを浮かべて佇んでいた。
だが、ルドルフの表情は、精霊のそれとはあまりにも対照的だった。
「ルドルフ様……?」
セレネが思わず小声で呼びかける。
ルドルフの顔は、先ほどの儀式の時よりもさらに血の気を失い、月明かりの下で陶器のように青白く見えた。額には、冷たい汗が滲んでいる。
そして、その瞳は——。
燃えるような憎悪と、焦がれるような渇望。全く相容れないはずの感情が混ざり合った、複雑な光を宿していた。
「あの……異国の娘が……」
ルドルフの唇から、かろうじて絞り出された声は微かに震えていた。
「キオ様に……触れて……」
その様子を、セレネは自分と同じ感情——つまり、平民たちの不敬な振る舞いに対する怒りだと解釈した。
「ええ……あまりにも無礼ですわ」
すると、隣にいたテレシアが小さく首を傾げた。
「でも、セレネ様。あの子たちの心は純粋です。キオ様を想う気持ちに、嘘偽りは一つもありません」
「テレシア様……」
セレネは精霊の言葉に、少し戸惑いを覚える。契約したばかりだというのに、テレシアはこんなにも自分のことを見て、言葉を尽くしてくれる。
でも、今の言葉の意味は、やはりよく分からなかった。
『キオ様は特別な御方なのに……』
その揺るぎない想いを、この優しい精霊にどう説明すればいいのか、セレネにはまだ分からなかった。
その瞬間、中庭では新たな動きがあった。
ルイがキオの前に屈み、その手を両手で優しく包み込んでいる。
「私たち、絶対にキオ君を守るから」という、真摯な声が聞こえてくる。
それに続くように、オーウェンも、カリナも、セドリックも、口々に「守る」と力強く誓っていた。
セレネは、その光景に強い違和感を覚えた。
『守る? キオ様を、ただの人間が?』
それは、この世界の本来あるべき秩序とは真逆ではないか。キオ様こそが人々を導き、その大いなる力で守る存在であるはず。それを知る自分たちからすれば、あまりにも滑稽で、許しがたい光景だった。
「おかしいと思いませんか」
セレネは、隣に立つルドルフに静かに言った。
「平民や異国の者たちが、キオ様を『守る』などと」
しかし、ルドルフからの返事はなかった。
セレネが訝しんで彼の方を見ると、ルドルフは爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、全身をわなわなと震わせていた。
「ルドルフ様?」
「……あん…な」
まるで地の底から響くような、低く、押し殺された声だった。
ルドルフはそのまま黙り、強い視線をカリナ達に向けている
やはり、ルドルフも平民たちの不敬に怒っているのだ。
セレネはそう確信し、強く同意した。
「ええ、私も同感です。キオ様は守られる存在ではありません。崇められ、導かれるべき存在です」
テレシアが、諭すように優しく語りかける。
「セレネ様……。守り、守られる。それは互いの絆です。キオ様も、あの子たちに守られることで、心の支えを得ているのかもしれません」
「でも……」
セレネは言葉に詰まる。
テレシア様の言葉は、自分のことを思ってくださっているのは分かる。契約したばかりなのに、もう自分の心を理解しようとしてくれている。
でも、自分にはキオ様がやはり特別な存在に思えてならない。
テレシアは、セレネの心の葛藤を理解しているかのように、優しく微笑んだ。
だが、ルドルフの怒りの本質は、セレネのそれとは全く違う場所にあった。
『なぜだ……。なぜ、あの娘はあんなにも無邪気に…』
カリナの何のためらいもない抱擁。
ルイの、慈しみに満ちた手の温もり。
友人たちの親密なやりとり。
それら全てが、ルドルフの中で渦巻く黒い感情を、さらに激しく燃え上がらせる薪となっていた。
『僕は……。僕だって……』
その先に続く言葉は、決して口にしてはならない呪いとなって、彼の喉を焼いた。
中庭では、シュバルツが優しく微笑み、その翼でまるでみんなを包み込むように広がっている。
「お前には、本当に良い友人がいる」
竜人の言葉が、かすかに聞こえてきた。
その瞬間、ルドルフの中で何かが音を立てて軋んだ。
『友人……? 違う……あんなものは……』
彼の隣で、ルシエルは変わらず神々しい微笑みを浮かべている。その金色の瞳はどこまでも温かく、何の疑念も抱かせない。八枚の翼が月光を受けて、白銀に美しく輝いている。
テレシアは、そっとセレネの肩に手を置いた。精霊の温もりが、少しだけセレネの強張りを解かす。
「セレネ様、あなたの想いは純粋です。でも、時には心を開いて、違う視点から物事を見ることも大切ですよ」
「テレシア様……」
セレネは精霊の言葉に、少しだけ考え込む。
契約したばかりなのに、テレシア様はもう自分を導こうとしてくださる。今はまだ、その深い意味を完全には理解できないけれど。
「私たちが」
セレネは決意を込めて、顔を上げた。
「キオ様を、正しい環境にお導きしなければなりません」
「……そうです、ね」
ルドルフが、長い沈黙の末に何とか言葉を絞り出した。
だが、彼の頭の中に描かれている「正しい環境」は、もはやセレネが思い描くものとは、全く異質なものへと変貌していた。
「では、行きましょう」
これ以上見てはいられないと、セレネはきっぱりと踵を返した。
「これ以上見ているのも、気分が良くありませんから」
ルドルフは頷いたが、その足はまるで地面に縫い付けられたように動かなかった。
もう少しだけ、あの光景を——。
友人たちに囲まれ、困ったように、けれどどこか幸せそうに微笑んでいるキオの姿を——。
見ていたかった。
それは、身を切られるような拷問であり、同時に、離れがたい甘美な毒だった。
「ルドルフ様?」
先に行くセレネが、不思議そうに振り返る。
「……すぐに行きます」
ルドルフは最後にもう一度だけ、中庭に視線を送った。
カリナはまだキオの手を握っている。友人たちの楽しげな声が聞こえる。
その光景が、ルドルフの脳裏に、決して消えない火傷のように深く、熱く焼き付いた。
『いつか……』
ルドルフは心の中で、血の滲むような声で誓った。
『いつか必ず、あの手を……』
——その手を、引き離すのか。
——それとも、自分のものにするのか。
その答えは、まだ彼自身にも分からなかった。
隣で、ルシエルはただ優しく微笑み続けている。その笑顔は変わらず神々しく、清らかで、彼の真意を何一つうかがわせなかった。
やがて二人が中庭を完全に後にした時、キオたちの温かい笑い声が、冬の冷たい空気にこだましていた。
その音は、セレネには世界の秩序を乱す不協和音に聞こえた。
そして、ルドルフには、決して手の届かない幸福の音色に聞こえた。
テレシアは、そんなセレネの背中を優しく見守る。
『この子は、まだ若い。いつか本当に大切なものに気づける日が来るでしょう』
大地と癒しの精霊は、契約したばかりの主人の成長を、静かに見守ることを決めた。
ルシエルは変わらず微笑んでいる。
精霊たちと共に、二人はそれぞれの道を歩き始める。
同じ目的を掲げながら、その胸には全く異なる想いを抱いて。




