間話6 ある聖女視点「夜空の君との出会い(本編第1話)」
時は遡り、入学式の前夜
王立魔法学校の入学式を翌日に控えた、静かな夜だった。
ひんやりとした空気が漂う部屋で、私、セレネ・ジルヴァ・マジェスタは、窓から差し込む月明かりだけを頼りに、小さな祭壇の前で跪いていた。
祈りのために解かれた白銀の髪が、銀色の光の川となって床に広がる。
「セレネ」
控えめなノックの音と共に、お父様の静かな声が扉の向こうから聞こえた。
「はい、お父様。どうぞお入りください」
ドアを開けて入室されたお父様は、私と同じ白銀の髪を月の光に輝かせ、いつものように厳かな、けれどどこか期待を滲ませた表情で立っていた。
「祈りの最中だったか。邪魔をしてすまない」
「いいえ。ちょうど、明日のための心の準備をしていたところです」
「そうか。……いよいよだな。明日、お前はキオ様と初めて正式にお会いすることになる」
キオ様。
そのお名前を耳にするだけで、胸の奥がきゅっと熱くなるのを感じる。
「はい、お父様。そのお話は、心に深く刻んでおります」
「うむ。決して忘れるでないぞ」
お父様はそう言うと、私の肩にそっと手を置いた。
その手から、厳粛な覚悟が伝わってくるようだった。
「キオ・シュバルツ・ネビウス様は、黒竜様の血を最も濃く受け継ぐ御方。……『あの真実』を知る我々ジルヴァ一族にとって、どれほど特別な意味を持つお方か、分かるな?」
「――はい」
『あの真実』――その言葉の重みに、私はそっと息を呑んだ。
世に広まる創造神話とは異なる、世界の本当の姿。
私たちジルヴァの一族だけが、代々守り継いできた秘められた教え。
父から授けられたその知識を思うとき、キオ様という存在が、いかに尊く、神聖であるかを改めて実感する。
「お前の使命は、キオ様を支えること。そしていつか、お前はあの方と結ばれる運命にある」
『結ばれる』。
その言葉が持つ本当の意味を、十三歳の私にはまだ掴みかねていた。
けれど、お父様がそうおっしゃるのなら、それが私の運命なのだろう。
「畏まりました、お父様」
私はスカートの裾を軽くつまみ、深く淑女の礼をした。
「良い。明日は遠くからお姿を拝見するだけでいい。焦る必要はないのだ。これから四年間、お前はキオ様のすぐ近くで過ごすことができるのだからな」
「はい」
お父様が部屋を去った後も、私はしばらく祭壇の前から動けずにいた。
月明かりが鏡を照らし、そこに映る自分を見つめる。
磨き上げたような白銀の髪。
静かな光を宿す翡翠色の瞳。雪のように白い肌。
誰もが『聖女』と呼ぶにふさわしい、完璧な少女。
『キオ様……』
心の中で、まだ見ぬその人の名をそっと呟く。
お父様の話の向こう側にいる、特別な方。
明日、初めてそのお姿を、写真ではなく、この目で見ることができる。
期待と緊張が入り混じった不思議な感覚に、私の胸は静かに高鳴っていた。
そして迎えた、入学式の朝。
昨夜のお父様の言葉を胸に、私は鏡の前で入念に身支度を整えた。
手にした柘植の櫛で、腰まで届く白銀の髪を丁寧に、繰り返し梳いていく。
一筋の乱れも許されない。完璧に、完璧に。
それが、聖女としての私の務め。
神に仕える者として、その在り方は常に清らかで、美しくなければならないのだから。
揺れの少ない一族の馬車が王立魔法学校の正門をくぐると、そこには既に新しい制服に身を包んだ生徒たちの姿で溢れていた。
陽の光を浴びて輝く金や赤、落ち着いた緑や青――色とりどりの髪が、まるで春の花畑のようにそこかしこで揺れている。後方には、貴族とは少し雰囲気の違う、平民の生徒たちの姿も見えた。
『本当に、身分に関係なく入学できるのね……』
お父様の言葉が脳裏をよぎる。
『王立魔法学校は、建前上は平等を謳っている。だが、現実には自然と身分ごとに分かれるものだ。それが、神の定めたもうた秩序なのだから』
その言葉を胸に刻みながら、私は大講堂へと続く石畳の道を歩き始めた。
すれ違う貴族の令嬢たちが、私に気づいてはっとしたように足を止め、恭しくお辞儀をしてくる。
「セレネ様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
私は背筋を伸ばし、聖女にふさわしい、穏やかな微笑みを浮かべて一人一人に頷き返した。
誰に対しても優しく、慈愛深く。それもまた、私の大切な務めなのだ。
そして、大講堂の重厚な扉をくぐり――
私は、その光景に思わず息を呑んだ。
足を踏み入れたそこは、まるで神々のための大聖堂のように荘厳な空間だった。
高い天井には、光の差し込む窓から柔らかな光が降り注ぎ、創造神話を描いた巨大なフレスコ画を幻想的に照らし出している。
黒竜、金竜、そして白銀竜。世に知られる三大竜が、威厳に満ちた姿で並び立っていた。
『でも、あの真実を知る私たちには……』
この絵が隠している、本当の意味が分かる。
ここにいるほとんどの人間は、美しく飾られた表向きの神話しか知らないのだ。
「こちらへどうぞ、セレネ様」
案内に従い、私は最前列に設けられた特別席へと腰を下ろした。周囲には、高位貴族の子供たちが緊張した面持ちで座っている。
少し離れた席には、金色の髪がひときわ目を引くゴルト家の王子――オーウェン・ゴルト・リンドール様のお姿もあった。
時折、小さく咳き込む姿は儚げだったけれど、その澄んだ瞳の奥には、鋭い知性の光が宿っているのが見て取れた。
けれど、私の目は他の誰でもない、たった一人の方を探して彷徨っていた。
『キオ様は、どこに……』
最前列の席を、端から順に目で追っていく。
そして――見つけた。
私から数席離れた場所に、その方は静かに座っていた。
まるで、静まり返った真夜中の空を溶かしたような黒髪。
吸い込まれそうなほど深い、紫水晶の瞳。
寸分違わず整った顔立ちは、まるで人が創り出したものではないかのよう。
『あの方が……キオ様……』
息が止まるかと思った。
写真で拝見した姿とは比べ物にならないほどの、神々しいまでの美しさ。
それなのに、どこか近寄りがたい孤独の気配を纏っている。まるで、誰にも理解されることのない、深淵の夜空そのもののように。
『キオ様……』
心の内でその名を繰り返す。あの真実を知る私だからこそ、あのお姿が放つ本当の神聖さが分かるのだ。
やがて、白髭の校長先生が壇上に上がり、厳かな挨拶が始まった。
「新入生の皆様、王立魔法学校へのご入学、誠におめでとうございます。この学校は四百年前、世界を創造した三大竜の御意志により設立されました。黒竜の叡智、金竜の威光、白銀竜の慈愛……」
『黒竜の叡智』。
その言葉に、私は再びキオ様へと視線を向けた。
あの方こそが、その叡智を誰よりも色濃く受け継いでいらっしゃる。
お父様がおっしゃっていた通りだ。あの真実の前では、他のすべてが霞んで見える。あの方こそが、この世界の頂点に立つべき御方なのだ。
「それでは、新入生を代表し、キオ・シュバルツ・ネビウス様に挨拶をいただきます」
その声が響いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
ついに、キオ様のお声を聞くことができる。
会場中の視線が、一斉にキオ様に注がれる。
私もまた、息を殺してその一挙手一投足を見守った。
すっと立ち上がったキオ様は、優雅な足取りで壇上へと向かう。その歩みの一つ一つに、生まれながらの気品が溢れていた。
美しい。神々しい。
そして――壇上に立ったキオ様は、手元の原稿に目を落とすこともなく、穏やかな声で語り始めた。
「私の目標は、楽しい学校生活を送ることです」
『え……?』
その言葉は、私の予想とはあまりにもかけ離れていた。
楽しい、学校生活?
あの真実の中心におわす、最も特別な方が、そのような……まるで普通の子供のようなことをおっしゃるなんて。
もっと、こう……ご自身の神聖な使命であるとか、世界を正しく導くことであるとか、そういったお言葉を心のどこかで期待していた。
周囲の生徒たちも、小さくざわめいているのが分かる。
けれど、キオ様は柔らかな微笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
「この学校で、たくさんの方々と出会い、たくさんのことを学び、皆様と共に成長していけたらと思っております。家柄に関係なく、一人の学生として、どうぞよろしくお願いいたします」
その声は、春の陽だまりのように温かく、優しい。
『家柄に関係なく』『一人の学生として』。
なんて尊いお考えなのだろう。その分け隔てない慈愛の心に胸が熱くなる一方で、小さな棘のような不安が心に芽生えた。
『キオ様は……ご自身の、お立場を、理解されていらっしゃらない……?』
ご自身がどれほど特別な方であるかお分かりのはず。
それなのに、「家柄に関係なく」だなんて。
それは確かに美しいお心だけれど、しかし――。
「私たちは皆、この素晴らしい学校で学ぶ機会を得ました。髪の色も、生まれ育った場所もそれぞれですが、学びへの情熱は同じだと信じております。この四年間で築く友情や絆が、きっと将来の宝物になるはずです。共に学び、共に笑い、時には共に悩みながら、かけがえのない青春を過ごしていきましょう」
友情、絆、青春。
どれもきらきらと輝く、美しい言葉。
けれど、神にも等しいあの方が、本当に誰とでも対等な『友情』を築くことがお出来になるのだろうか。
その疑問が、小さく、しかし確かな輪郭を持って心の奥に生まれた。
「改めて、どうぞよろしくお願いいたします」
キオ様が深く頭を下げると、会場は温かな拍手に包まれた。
私も、戸惑いを隠しながら周囲に合わせて手を叩いた。
その視線は、ずっと壇上のキオ様に注がれたままだった。
鳴りやまない拍手の中――ふと、私はあることに気づいた。
キオ様の視線が、ある一点に釘付けになっている。
その視線の先を辿ると――平民たちが集まる席の一角に、一人の少女が座っていた。
『え……?』
何の特徴もない、灰色の髪。
ただ、その大きな青い瞳だけが、妙に印象に残った。
隣には、褐色の肌をした異国の少女や、人の良さそうな茶髪の少年もいる。
キオ様は、あの……灰色の髪の少女を、じっと見つめていらっしゃる?
『あの子は……誰……?』
なぜ、キオ様が、あのような平民の少女を?
理由のわからない胸のざわめき。
それが何なのか、この時の私にはまだ分からなかった。ただ、見てはいけないものを見てしまったような、そんな不吉な予感が背筋を走った。
やがてキオ様は壇上を降り、ご自身の席へと戻っていく。
私は、ただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
『キオ様……あなたは、本当に特別な御方……』
心の中で、必死に呼びかける。
『でも……もしかしたら、ご自身の本当の尊さを、まだご存じないのかもしれない……』
入学式が終わり、生徒たちが次々と大講堂から退出していく。
私も席を立ったが、名残惜しく、もう一度だけキオ様がいらした方へと目を向けた。
キオ様の周りには、いつの間にか人垣ができていた。
金髪のオーウェン様をはじめ、多くの貴族たちが先を競うように話しかけている。
キオ様は、その一人一人に丁寧に応対されているようだったが、その表情はどこか疲れているように見えた。
『キオ様……』
声をかけることなど、できるはずもなかった。
聖女と呼ばれてはいても、今の私はまだ、あの方にとって大勢いる新入生の一人に過ぎないのだから。
『いつか……必ず……』
今はまだ、遠くからお姿を拝見することしかできない。
『あの方に、私の存在を認めていただけるように……』
そう強く決意し、私は静かに大講堂を後にした。
その夜、私は自室のベッドに横たわり、高い天井をぼんやりと見つめていた。
今日一日の出来事が、次から次へと心に蘇ってくる。
初めて目にしたキオ様のお姿。あの息を呑むほどの美しさと、神々しさ。
そして、あの優しさに満ちた挨拶。
『キオ様……』
心の中でその名を呟くだけで、胸の奥が甘く痛む。
この感情が何なのか、十三歳の私にはまだ分からない。これが恋というものなのか、それとも、聖なる御方への敬愛の念なのか。
でも、ただ一つ確かなのは、私の世界は今日、キオ様という存在を中心に回り始めたということ。
『私は、キオ様のために生きる』
『キオ様を支え、キオ様をお守りする』
そう決意して、私はゆっくりと目を閉じた。
きっと、夢の中にもあの方が現れるだろう。夜空色の髪を持つ、美しい方が。
明日から、もっと努力しよう。
聖女として、一人の女性として、完璧な人間になるために。
そして、いつかあの方の隣で微笑む日のために。
『キオ様……』
眠りに落ちる最後の瞬間まで、私は心の中で、その尊い名を何度も、何度も繰り返していた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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