第9話「追随者たち」
翌朝。キオは、昨日ベアトリスと交わした会話を反芻しながら、教室へと続く石造りの廊下を歩いていた。
彼女からの婚約の提案。それを断った自分の判断は、本当に正しかったのだろうか。胸の奥に、まだ小さなしこりのような迷いが残っている。
「おはよう、みんな」
教室のドアを開けると、いつもの顔ぶれが目に入る。ルイ、カリナ、セドリックが固まって近くの席に座っている。キオも彼らに倣い、その近くの空いている席に腰を下ろした。
「おはよう、キオ!」
カリナが太陽のような笑顔で手を振る。
「おはようございます、キオ様」
ルイが控えめに挨拶を返すが、その表情はどこか晴れず、伏せられた瞳には考え事をしているような影が落ちている。
「おはようございます」
セドリックも、いつも通り丁寧に頭を下げた。
そこへ、オーウェンも近くの席に着きながら、キオに向かってそっと声を潜めた。
「どうだった? 昨日の話。……大丈夫だったか?」
キオは、ルイたちに聞かれないよう、さらに声を落として頷いた。
「うん……。実は、婚約の提案を受けたんだ」
「婚約?」
オーウェンは一瞬、目を丸くしたが、すぐに表情を引き締め、同じように小声で問い返した。
「それで、どう対応したんだ?」
「お断りした。利害だけで結ばれる関係は、僕が求めているものじゃないから」
「そうか……君らしいと言えば、君らしいが」
オーウェンは納得したように息をつき、理解を示すように頷く。
「君の考えを僕は尊重する。君が望まないのであれば、それが正解だと思うよ」
「ありがとう、オーウェン。でも、これから彼女とどう接すればいいのか……少し気まずくて」
「自然にしていればいいんじゃないか? 君は誠実に対応したんだ、堂々としていればいい」
その近くでは、ルイ、カリナ、セドリックが普段通りに言葉を交わしていたが、キオとオーウェンが何か真剣な、内密の話をしている空気は伝わっていた。ただ、その内容まではもちろん聞こえない。
ルイは、そんな二人の様子を視界の端に捉え、なんとなく胸がざわつくのを感じていた。昨日、あの美しい上級貴族のベアトリスがキオに親しげに話しかけているのを見て以来、なぜか心がささくれだったように落ち着かない。
「ルイ、どうしたの? なんだか元気ないみたい」
カリナが、ルイの沈んだ様子を心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫……なんでもないよ」
ルイは曖いな笑みを浮かべて、首を振った。
休み時間になり、教室が少し騒がしくなると、オーウェンが改めて心配そうにキオに話しかけた。
「キオ、あまり気に病んでも仕方がない。そう悩むな」
「うん。でも、どうしても気になってしまって……。悩んでいるというか、少し迷ってる、かな」
キオがそう曖昧に答えると、ルイは無意識に聞き耳を立ててしまった。自分には関係のない話だと分かっているのに、キオの「迷ってる」という言葉が妙に引っかかる。
その時だった。エルヴィン・ゲルプ・フォルケが、数人の取り巻きらしき貴族生徒を伴って近づいてきた。昨日のベアトリスの件を受けて、他の貴族たちも積極的にキオに接触を図ろうと動き出したようだ。
「ネビウス卿、リンドール殿下、おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、フォルケ卿」
エルヴィンの丁寧な挨拶に、オーウェンとキオが応じる。
その丁寧すぎる、いかにも貴族といった堅苦しさに、キオは苦笑いを浮かべて口を開いた。
「フォルケ卿。よかったら、君のことをフォルケ君と呼んでもいいかな? ここは学校だし、あまり固い挨拶もどうかと思って。……僕のことも、卿付けは不要だから」
オーウェンもその言葉に頷き、面白そうに続けた。
「確かにな。せっかくだから、僕もフォルケ君と呼ばせてもらおうか。少しは肩の力を抜きたいからね」
二人の突然の提案に、エルヴィンは目を丸くしたが、すぐにぱあっと表情を輝かせた。
「あ、ほ……本当によろしいのですか!? では、お言葉に甘えさせていただきます!」
エルヴィンは嬉しさのあまり頬を赤らめ、喜びを隠せない様子ではにかんだ。
少し談笑した後、エルヴィンは本題とばかりにベアトリスの話を切り出した。
「そういえば、昨日はリーデル家のベアトリス嬢がお見えになったとか。さすがはネビウス家、各方面からご注目をいただいているのですね」
エルヴィンが感心したような口調で言う。
しかし、その言葉の裏には「自分たちも」というあからさまな下心が見え隠れしていた。
「我々も、もっと学業について相談させていただく機会があればと思っておりまして。ネビウス様の魔法理論への造詣、リンドール様の実践的なお考え、ぜひお聞かせいただきたく」
エルヴィンの言葉に、周囲にいた他の貴族たちの視線が一斉にキオたちに集まった。レナ・ロート・カルメンとマルク・ブラウ・リヒテも、興味深そうに耳を傾けている。
「リーデル様のようにお時間をいただくのは恐縮ですが、私も魔法史についてお二方に色々とご相談したいことがありますの」
窓から入る風が彼女の赤い髪をふわりと揺らす。レナは、その仕草さえ計算されたかのように上品に微笑んだ。
「僕も同感です。特に……」
マルクがそこで言葉を切り、ねっとりとした視線をキオに向けた。
「特に、ネビウス卿の魔法に対するお考えは、とても興味深いものがありまして」
「勉強」という建前を使いながらも、明らかにキオ個人への強い関心がそこにはあった。オーウェンに対しては王族としての敬意が払われているが、キオに対する視線は、明らかに種類が異なっている。
キオは、マルクのその視線に、かつての記憶を呼び覚まされた。――そうだ、この感じは知っている。背筋を冷たいものが走り、思わず鳥肌が立つ。不快で、どこか執着的な、あの視線だ。
「我々も、いずれはそのような良縁に恵まれたいものです」
エルヴィンの言葉に、他の貴族たちが同意するように頷いた。明らかに、ベアトリスの大胆な行動に刺激を受け、キオへのアプローチ合戦が始まっている。
「しかし、ネビウス家ともなると、各家からの縁談も多いのではないでしょうか」
レナが探るように言うと、キオは少し困ったように眉を寄せた。
「そのような話は……」
「まぁ、まだ学生だからな。そんなに焦ることもないだろう」
オーウェンが、キオを助けるようにさりげなく会話を遮った。
「ですが、早めに良いお相手を見つけておくのも大切なことです。特に、ネビウス様ほどの家柄でしたら」
エルヴィンがなおも食い下がった時、マルクが会話に割り込むように少し身を乗り出した。
「ネビウス様、よろしければ今度お時間をいただけませんでしょうか。魔法理論について、色々とご相談したいことがありまして」
その妙な熱心さに、キオは少し戸惑いを隠せない。
「私も、ぜひお茶でもご一緒させていただきたいです」
レナも負けじと、すかさず申し出た。
少し離れた場所にいたルイたちにも、貴族たちがキオを取り囲んで何かを熱心に話している様子は伝わっていた。
「ルイ、今日はなんだか静かね」
カリナが再び心配そうに声をかける。
「あ……ごめん。ちょっと考え事をしてて」
ルイが慌てて答えると、その声に気づいたのか、キオが貴族たちとの会話を中断して、心配そうにこちらを振り返った。
「ルイさん、体調は大丈夫? なんだかいつもと違うみたいだけど」
キオの優しい響きを持つ声に、ルイは少し驚いて顔を上げた。
「大丈夫です……ありがとうございます」
「何か心配事があるなら、遠慮しないで話してくれていいからね」
その真っ直ぐな気遣いに、ルイは複雑な表情を浮かべた。嬉しいはずなのに、なぜか居心地が悪く、うまく返事ができない。
エルヴィンたちは、キオが平民の生徒に親しげに声をかけている様子を、値踏みするようにじっと見ていた。
「相変わらず、ネビウス様は皆さんと親しくしていらっしゃいますね」
エルヴィンが、どこか感心したような、試すような口調で言った。
「それは当然のことだと思います」
キオはエルヴィンの方に向き直り、きっぱりと答えた。
「同じクラスで学ぶ仲間ですから。困っている人がいれば声をかけるのは、普通のことでしょう」
「なるほど……」
エルヴィンはキオの答えに、何かを深く考えるような表情を見せた。マルクは面白くなさそうに顔を歪め、レナも少し困惑したように目を伏せている。貴族としてのキオへの強い関心と、彼が平民と分け隔てなく接することへの複雑な感情が、彼らの間で揺れているようだった。
昼休み。
教室の喧騒から逃れるように、キオは図書館の片隅で一人、本を開いていた。だが、静かな空間でも活字はなかなか頭に入ってこない。ベアトリスのこと、そして今朝のルイの沈んだ様子が、思考を邪魔していた。
「あの……」
不意に、遠慮がちな声がかけられる。振り返ると、ルイが数冊の本を抱えて、おどおどした様子で立っていた。
「ルイさん! どうしたの?」
「少し……お話ししたいことがあって」
ルイは、キオの許可を得るように視線を送ってから、彼の向かいの椅子に静かに腰掛けた。
「昨日、ベアトリス様がいらしたって……私たちも、見ていましたから」
ルイの声は、図書館の静けさに溶け込むように小さく、少し震えている。
「あ……そうだったね」
「高位の貴族の方がわざわざお話しに来られるなんて、何か大切なお話だったのでしょうか……」
ルイは申し訳なさそうに続けた。確かに昨日、教室でベアトリスがキオに話しかけているのを見ていたし、放課後に話をするという約束も聞こえてしまっていた。
キオは少し考える素振りを見せてから、静かに答えた。
「うん。まあ、色々あってね」
キオは詳しくは語らず、曖昧に言葉を濁した。ベアトリスとの婚約という具体的な内容を、ルイに詳しく話す必要はないだろうと判断したからだ。
「そうですか……」
ルイは少し寂しそうな表情を浮かべたが、それ以上は何も聞かなかった。きっと、自分が踏み込んで知るべきことではないのだと自分に言い聞かせるように。
空気が重くなりかけたのを察し、キオが慌てて話題を変えた。
「そ、そうだ、話は変わっちゃうけど、ルイさんは料理の勉強、順調?」
その言葉に、ルイの表情が少しだけ明るくなった。
「はい。あの『魔法調理学基礎』の本、少しずつですが、理解できるようになってきました」
「それは良かった。今度の勉強会でも、分からないところがあったら遠慮しないで聞いてね」
「ありがとうございます」
ルイの顔に、いつもの柔らかな笑みが戻った。
午後の魔法実習は、風の魔法だった。ペアを作って、お互いに小さな風を起こし合う練習だ。
「それでは、2人一組になって練習してください」
先生の指示で、生徒たちがわらわらとペアを作り始める。キオは当然オーウェンと組むつもりだったが、彼が小さく咳き込んでいるのを見て、心配になった。
「大丈夫?」
「すまない。少し体調が優れなくて……。今日は一人で練習するよ」
オーウェンは、キオにうつすまいと気遣うように少し距離を取った。
「それなら僕も一人で」
「いや、僕に気を使う必要はない」
オーウェンがそう言うが、今から他にペアを組んでくれる人がいるだろうか。キオが周囲を見渡した、その時だった。
「キオ、私と一緒にやらない? ルイはセドリックとペアになったから!」
カリナがタイミングよく声をかけてくれた。
「ありがとう、カリナ。助かるよ」
キオとカリナがペアになって、練習を始める。
「えーっと、それじゃあ風の精霊のフワフワくんにお願いするとしますか」
カリナが「うーん」と腕組みをしながら、彼女独自の方法で説明を始めた。
「フワフワくんは少し気まぐれだから、優しくお願いしないとだめなの」
「フワフワくん? 面白い名前だね。どんな精霊なの?」
キオが興味深そうに尋ねる。
「風の精霊さんなんだけど、ふわふわした綿雲みたいな見た目なの。でも、機嫌が悪いと風がぐるぐる回っちゃうのよ」
カリナが楽しそうに説明しながら、「フワフワくん、お疲れ様です」と空中に向かって優しく呼びかけると、二人の間を心地よいそよ風が吹き抜けた。
「すごいな」
キオは素直に感心しながら、自分は自分の魔力で風魔法を試してみた。前世の知識を応用し、魔力の流れを精密にコントロールして、手のひらの上に小さなつむじ風を起こす。
「キオも上手! でも、なんだか私のとは違う感じの風ね」
「僕は精霊魔法じゃなくて、自分の魔力で直接起こしてるからかな」
「そうなのね。私の国では、みんな精霊さんと一緒なのよ。一人でやるなんて、寂しくない?」
カリナの素朴な疑問に、キオは少し考え込んだ。
「確かに、一人だと寂しいかもしれないね。でも、フワフワくんみたいな精霊と話せるのは、すごく素敵だと思うよ」
二人が練習していると、少し離れたところでルイとセドリックも練習しているのが見えた。ルイは一生懸命に呪文を唱えているが、なかなかうまくいかないようだ。
「大丈夫?」
キオが心配して声をかけると、ルイは少し困ったように眉を下げた。
「うまく風が作り出せなくって……」
「私の精霊魔法、教えてあげようか?」
カリナが親切に声をかけたが、すぐに「あ、でも」と首を振った。
「この辺りには、他の風の精霊さんはいないかも。私の故郷だと、精霊さんがたくさんいるから簡単なんだけど……」
カリナがお願いしているフワフワくんは、どうやらカリナの言うことしか聞かないらしい。
「そうなんだ……」
ルイがすっかり困っていると、キオがそっと近づいてきた。
「よかったら、魔力の流し方のコツを教えてあげる。風魔法は、魔力の調整が大切なんだ」
「本当ですか?」
キオは自分の手のひらに、見本として小さな風を起こしながら説明した。
「こんな風に、魔力を螺旋状に回転させながら放出するといいよ。一気に出すんじゃなくて、ゆっくり、細く調整しながら」
「螺旋状に……」
ルイがキオの言葉通りに真似をしてみると、今度は手のひらにふわりと柔らかな風が生まれた。
「やった……!」
ルイの顔がぱっと明るくなる。その素直な笑顔を見て、キオも自然と頬が緩んだ。
「ルイは理解力が高いね。一度コツを掴むと、すぐにできるようになる」
「キオ様が分かりやすく教えてくださったおかげです」
その自然な笑顔を見て、キオは少し安心した。朝の不安そうな様子とは違って、いつものルイらしさが戻っている。
放課後、キオが教室で荷物をまとめていると、見知らぬ他のクラスの女子生徒がやってきた。
「失礼いたします。キオ・シュバルツ・ネビウス様でいらっしゃいますか?」
「はい、そうですけど」
「ベアトリス・ゲルプ・リーデル様からの伝言をお預かりしております」
その生徒は、小さなクリーム色の封筒を恭しく差し出した。
キオが封筒を受け取ると、生徒は深くお辞儀をして、静かに去って行った。
封蝋を解き、封筒を開けると、中には美しい筆跡で短い手紙が綴られていた。
『キオ様
昨日はお時間をいただき、ありがとうございました。
改めて、今度は一人の人間として、お話しする機会をいただきたく思います。
今度の休日、お時間があるときにお茶でもいかがでしょうか。
もちろん、ご都合が悪ければ遠慮なくお断りください。
ベアトリス・ゲルプ・リーデル』
キオは手紙を読み終え、小さく息を吐いた。昨日断ったばかりだというのに、こんなに早く次の誘いが来るとは思わなかった。
「キオ、何か困った顔をしているな」
帰り支度を終えたオーウェンが、心配そうに声をかける。
「ベアトリスさんから手紙で……お茶のお誘いなんだ」
「ほう。彼女らしい、迅速な対応だな」
オーウェンはどこか面白そうに苦笑いを浮かべた。
「どうするつもりだ?」
「断り続けるのも失礼かもしれないし……。一度だけなら、普通にお話しするのもいいかもしれない」
「そうだな。お茶をする程度なら、何も問題ないだろう」
ふぅ、とキオは再びため息をつき、窓の外を見上げた。厚い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
寮の自室に戻り、ベッドに腰を下ろすと、キオは今日のことをぼんやりと振り返っていた。
『キオ』
不意に、心の中でシュバルツの静かな声が響く。
『今日も色々あったな』
『うん。……少し、疲れたかな』
キオは疲れたように息を吐いた。
『それに、ルイさんの様子が変だったから、大丈夫かなって。なんだか朝からずっと、様子がおかしかったから』
『ふむ……』
『ただ普通に、みんなと仲良くしたいだけなんだけど……。それって、結構難しいんだね』
『貴族としての立場や、周囲の期待に疲れることもあるだろう。そんな時は、俺が支えてやる』
シュバルツの低く、温かい声に、キオの心がじんわりと温かくなった。
『シュバルツ……』
『お前は一人じゃない。どんな困難が待っていても、俺がそばにいる。それを忘れるな』
その優しくも力強い言葉に、キオは張り詰めていた緊張が解けていくのを感じ、深い安心感に包まれた。
『ありがとう。シュバルツがいてくれるから、頑張れる』
『そうだ。焦らず、一歩ずつ進めばいい』
窓の外を見ると、厚い雲の隙間から、夕陽が世界を茜色に染め上げている。明日は、ベアトリスへの返事をしなければならない。そして、ルイとの関係も、もっと自然に築いていきたい。
シュバルツの温かい言葉に励まされ、キオは今日一日を静かに振り返った。友情も、周囲からの期待も、きっとその根底にあるのは、相手を思いやる気持ちなのだろう。
明日やるべきことを胸に刻み、キオはゆっくりと意識を手放した。
最後までお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
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