第8話「ベアトリスの提案」
窓から差し込む陽光が、教室の埃をきらきらと輝かせる。学校生活にもすっかり慣れてきた、穏やかな朝の一コマだ。
「おはよう、キオ」
隣の席のオーウェンが、鞄を置きながらいつものように声をかけてくる。
「おはよう、オーウェン」
この挨拶から一日が始まるのが、キオにとっては何よりも心地良い習慣になっていた。ささやかなやり取りが、胸に温かい灯をともす。
その時、教室の扉が静かに開き、生徒たちの視線が一斉にそちらへ注がれた。そこに立っていたのは、檸檬のように艶やかな黄色の髪を美しく編み上げた、気品あふれる少女。
ベアトリス・ゲルプ・リーデルだった。
入学式で一度挨拶を交わしただけの大貴族、ゲルプ一族の令嬢が、なぜ自分たちの教室に?
教室内に、さざ波のようなざわめきが広がる。彼女の洗練された立ち振る舞いは、明らかに高位の貴族であることを示しており、しかも、迷いのない足取りは何かしらの目的を持ってここへ来ていることを物語っていた。
「失礼いたします」
凛とした声が静寂に響く。
ベアトリスは教室をすっと見渡し、キオの姿を認めると、まっすぐにこちらへ向かってきた。周囲の生徒たちが息をのむのが分かった。
「リンドール様、ネビウス様、おはようございます」
丁寧で、鈴の音のように美しい声だった。
「おはよう、ベアトリス」
オーウェンが王族らしい威厳を保ちつつも、親しみを込めて応える。
「おはよう、ベアトリスさん」
キオも少し緊張しながら挨拶を返した。
「突然お邪魔してしまい、申し訳ございません。オーウェン様にもお目にかかれて光栄ですわ」
ベアトリスは優雅に頭を下げると、改めてキオに向き直った。
「実は、どうしてもキオ様にお伝えしたいことがございまして」
その表情は少し硬く、緊張の色が見え隠れする。だが、彼女の瞳には強い意志の光が宿っていた。
「ここは他の生徒さんもいらっしゃいますので…もしよろしければ、放課後にお時間をいただけないでしょうか」
周囲の生徒たちが、好奇と探るような視線を二人に集中させている。特に貴族の生徒たちの眼差しは鋭く、肌に刺さるようだ。
『僕に、個人的な話……?』
入学式で軽く挨拶を交わしただけの関係だ。
キオは戸惑いを隠せない。
「あの…どのようなご用件でしょうか」
「申し訳ございません。ここでは詳しくお話しできない内容なのです」
ベアトリスは、本当に申し訳なさそうに眉を寄せた。
「もちろん、ご迷惑でしたらお断りいただいても構いません。ただ、どうしてもお聞きいただきたいお話がございまして…」
その真剣な眼差しに、キオは「断る」という選択肢を失った。
「わかりました。放課後、図書館でお話ししましょう」
「ありがとうございます。それでは、放課後に図書館でお待ちしております」
ベアトリスは安堵の微笑みを浮かべ、オーウェンにも軽く会釈すると、再び優雅にお辞儀をして教室を去っていった。
彼女の姿が見えなくなると、堰を切ったように教室は騒がしさに包まれた。
「リーデル家の令嬢が、わざわざキオ様に個人的な話?」
「一体何の用だろうな」
「まさか…縁談の話とか…?」
貴族の生徒たちがひそひそと囁き合う中、キオは重いため息とともに席に着いた。
後方の席では、ルイが不安そうに眉を寄せてキオの背中を見つめている。
「ルイ、どうしたの?」
隣のカリナが、彼女の変化に気づいて小声で尋ねた。
「う、ううん…なんでもない!」
ルイは慌てて笑顔を作り、首を横に振った。
「キオ」
オーウェンが心配そうに声を潜める。
「大丈夫か?ベアトリス嬢は、相当真剣な様子だったが」
「うん…何の話なんだろう」
「まあ、何となく察しはつくが…」
オーウェンは何か言いたげに口ごもり、キオと不安げに顔を見合わせた。
近くの席でその様子を見ていたセドリックも、心配そうに呟く。
「キオ様、大変そうだな…」
彼の言葉には、平民として貴族社会の複雑さを垣間見た者なりの、共感と懸念が込められていた。
その時、担任のシュトゥルム先生が教室に入ってきた。
「皆さん、席に着いてください。今日は環境が及ぼす魔法への影響について学びます」
授業開始の号令が、ざわついていた空気を強制的に断ち切る。しかし、キオの心は少しも落ち着かなかった。ベアトリスは何を話すつもりなのだろう。見当もつかないが、胸騒ぎだけが大きくなっていく。
『キオ』
不意に、心の中に直接シュバルツの声が響いた。
『心配しているな』
『うん…あの真剣な様子を見ると、きっと大事な話なんだと思う』
キオは心の中で応じる。
『相手の話をよく聞いてから考えればいい。焦る必要はない』
シュバルツの落ち着いた声が、少しだけキオの不安を和らげてくれた。
昼休みになると、オーウェンが人目を避けるようにキオを手招きした。
「キオ、少し話がある」
二人で廊下の隅へ移動すると、オーウェンは真剣な表情で口を開いた。
「ベアトリス嬢のことだが、少し知っていることがある。彼女とは何度か夜会で顔を合わせたことがあるんだ」
「そうなんだ?」
「ああ。各貴族家の子弟とは、挨拶程度だが付き合いがある。それに、噂話も自然と耳に入ってくるからな。彼女はゲルプ一族の中でも特に優秀で、父親からの期待も大きいと聞いている」
オーウェンは少し言葉を選ぶように続けた。
「以前、文学について話したことがあるんだが、驚くほど博識で頭の切れる子だった。ただ…」
「ただ?」
「物事を常に論理的に考える傾向が強い。感情よりも理性を優先するタイプかもしれないな。それが良い方向に働くこともあるが、時として冷静すぎる、冷たい印象を与えることもある」
その説明に、キオはごくりと唾をのんだ。
「それと、これはあまり良い話ではないかもしれないが…最近の貴族社会では、君の話題で持ちきりらしい」
「僕の?」
「そうだ。シュバルツ一族…その本家であるネビウス家の三男がどんな道を歩むのか、各家が固唾をのんで注目している。君の将来について、様々な憶測が飛び交っているそうだ」
自分が知らないところでそんな話になっているとは。キオは軽い衝撃を受けた。
「それで、彼女が僕のところに…」
「可能性は高いだろうな。リーデル家はゲルプ一族の中でも格式高い本家だ。シュバルツ一族との関係をより強固なものにしたいと考えていても不思議ではない」
オーウェンの説明に、キオの胸中は複雑な感情で渦巻いた。
「どう対応すればいいと思う?」
キオの問いに、オーウェンは少し悩む仕草をした後、友人の顔をまっすぐ見て言った。
「正直に話すことだ。君の気持ちを率直に伝えれば、彼女も理解してくれるはずだ。ベアトリスは利口な子だから、無理強いはしないと思う」
午後の授業の間も、キオの心は上の空だった。先生の声は遠くに聞こえ、黒板の文字は意味をなさない記号のように流れていく。放課後の約束が、重く心にのしかかっていた。
『僕は本当に、貴族として生きていかなければならないのかな…』
不安と戸惑いが、冷たい霧のように心を覆っていく。
放課後の鐘が鳴ると同時に、キオは重い足取りで図書館へ向かった。古書の匂いが漂う静寂の中、約束の時間より少し早く着いたにもかかわらず、ベアトリスはすでに窓際の席で本を読んで待っていた。
「キオ様、こんにちは」
彼女はキオの姿に気づくと、本を閉じて静かに立ち上がった。
「こんにちは。すみません…お待たせしましたか」
「いえ、私も今来たところですわ」
二人は図書館の奥にある、人目につきにくいテーブルに向かい合って座った。張り詰めたような静寂が二人を包む。ベアトリスは一度深く息を吸い込むと、意を決したように口を開いた。
「改めて、本日は突然このようなお話を持ちかけて申し訳ありませんでした。実は…」
一瞬の間を置いて、彼女は続けた。
「私の父から、キオ様ともっとお近づきになるようにと、申しつけられておりまして」
あまりに率直な切り出し方に、キオは思わず息をのんだ。
「父は、ゲルプ一族とシュバルツ一族の関係をより深めたいと強く願っております。私がキオ様と親しくなることで、両家の絆を強めることができるのではないかと…そう考えているのです」
ベアトリスは淡々と、しかし淀みなく説明を続ける。その冷静さが、逆にキオの警戒心を煽った。こんなに直接的に話すということは、何か明確な意図があるに違いない。
「それで、私なりに考えてみました」
ベアトリスの瞳に、慎重に考え抜かれたであろう決意の光が宿った。
「キオ様も、貴族社会からの様々な期待にお疲れのことと存じます。他家からの煩わしいお誘いも多いのではないでしょうか」
キオは黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「そこで!」
ベアトリスはすっくと立ち上がると、真摯な瞳でキオを見つめて言い放った。
「キオ様! 私と婚約なさいませんか!」
その言葉は、まるで雷鳴のようにキオの頭に響いた。「婚約」という言葉が、想像していた以上に重く、現実味を帯びて迫ってくる。
『僕は…まだ13歳なのに』
心臓が大きく跳ね、血の気が引いていくのが分かった。
「もちろん、私にとっても利点がございます。父の期待に応えられますし、何より、キオ様のような方とお話しできる機会が増えるのは喜ばしいことですわ」
ベアトリスは微笑んだが、その笑顔の裏に複雑な計算が見え隠れしているように感じられた。
「ただし」
彼女は少し声を低める。
「これはあくまでも、形式上の婚約です。互いに私生活を束縛するつもりはございません。キオ様が他の方と親しくなることを妨げるつもりはありませんし、私も同様にいたします」
それは、あまりに合理的で、あまりに貴族的な提案だった。けれど、そう簡単に割り切れるものではない。
「率直に申し上げますわ」
ベアトリスは、少しだけ遠慮がちに続けた。
「キオ様は最近、平民の方々とも親しくされていると伺っております。私はそれを否定するつもりは全くございません。むしろ、そのような分け隔てのないお考えを尊敬いたします」
キオは思わず身構えた。
「ですが、貴族社会には貴族社会の規律…そして、考え方がございます。失礼を承知で申しますが、キオ様という魅力的な殿方が、ただの平民の娘たちと親しくなさることを…快く思わない貴族の令嬢方が大勢いるのも事実です」
ベアトリスの目は、真っ直ぐにキオを射抜いていた。
「ですから、私がキオ様の婚約者という立場になることで、他家からの干渉を防ぐ『防波堤』の役割を果たせると考えております。ゲルプ一族の本家であるリーデル家の娘が相手であれば、表立って文句を言う者もいないかと」
確かに、彼女の言う通りかもしれない。他の令嬢たちからの執拗なアプローチがなくなれば、穏やかな学園生活が送れるだろう。
「ベアトリスさんは、とても…率直なんですね」
ようやく絞り出したキオの言葉に、ベアトリスは少しだけ胸を張った。
「はい。回りくどいお話をするよりも、お互いの立場と利害を明確にした方が、良い関係を築けると判断いたしました」
上品な笑みを浮かべ、彼女はキオに問いかける。
「いかがでしょうか?」
キオは静かに目を閉じた。
『でも、本当にこれでいいのだろうか…』
その時、キオの脳裏に、優しく微笑む両親の姿が浮かんだ。母ルカと父ウォルク。二人は、貴族には珍しい恋愛結婚だった。お互いを見つめ合う時の優しい眼差し、食卓の下で自然に手を取り合う仕草、何気ない会話に滲む思いやり。あれこそが、自分が知る「愛」の形だった。
前前世では、仕事に追われる会社員で恋愛どころではなかった。前世では、魔法の研究に没頭するあまり、人との関わりを絶っていた。恋人はおろか、家族とも疎遠だった。
だからこそ、今世で初めて得た両親からの深い愛情と、二人の美しい関係に、強い憧れを抱いていたのだ。
『僕は…両親のような愛を見つけたい』
しばらくの沈黙の後、キオはゆっくりと目を開き、静かに口を開いた。
「ベアトリスさん、お気持ちはありがたいのですが…」
キオは意を決して、真っ直ぐに彼女の目を見て続けた。
「そのお話、お断りさせていただきます」
ベアトリスの表情が一瞬、凍りついた。
「僕は、婚約を利害関係の道具にしたくありません」
キオは、自分の心の底からの言葉を紡いだ。
「確かに、あなたの提案は理にかなっていて、お互いに利点があるのかもしれません。でも…僕は、婚約するのであれば、その人との心の繋がりを何よりも大事にしたいんです」
「キオ様…」
「僕の両親は、お互いを心から愛し合って結婚しました。二人を見ていると、本当の愛がどれほど温かくて美しいものかが分かります。僕も、いつかそんな関係を築きたいと、そう願っているんです」
キオの言葉には、両親への深い愛情と憧れが込められていた。
「もし僕が誰かと婚約するとしたら、それはその人を心から愛している時だけです。最初から利害を考えた関係では、両親のような愛は生まれないと思うから」
ベアトリスは、彼の言葉に明らかに動揺した様子を見せた。
「それに、僕はまだ13歳です。婚約という人生の大きな決断を、こんなに軽々しく考えるべきではないと思います」
キオの率直な言葉に、ベアトリスはしばらく考え込んでいた。
「もちろん、あなたと親しくなることを否定しているわけではありません。でも、それはお互いを一人の人間として知っていく中で、自然に築かれるべき関係だと思うんです」
「そんな…しかし、貴族社会では…」
「ええ、複雑な世界だと思います。でも、だからこそ、僕は人との繋がりを大切にしたいんです」
キオは、穏やかに微笑んだ。
「もしベアトリスさんが、本当に僕と親しくなりたいと思ってくださるなら、利害を抜きにして、一人の人間として接していただけませんか。そうしていただければ、僕もきっと、自然にお応えできると思います」
ベアトリスはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと息を漏らすように苦笑いを浮かべた。
「キオ様は…私が思っていた以上に、ロマンチストでいらっしゃるのですね」
「そうでしょうか?」
「はい。ご両親のお話を伺い、あなたがそのような純粋な愛に憧れを抱いているのだと、よく理解できました」
その時、ベアトリスの瞳に宿っていた計算の色が消え、純粋な興味の光が灯ったように見えた。
「だからこそ、より一層、興味が湧きましたわ。父の期待とは別に、今日のあなたのお話を伺って、私も個人的にキオ様がどのような方なのか、もっと知りたくなりました」
彼女はすっと立ち上がると、キオに優雅に一礼した。
「今日のところは、これで失礼いたします。ですが、これで諦めたわけではございませんわ。次は、ゲルプ一族の令嬢としてではなく、一人のベアトリスとして、改めてキオ様にお話をさせていただきたく思います」
「それは…歓迎します」
キオも立ち上がって応じた。
「ただし、今度は利害ではなく、お互いの本当の気持ちでお話ししましょう」
「もちろんですわ。ご両親のような美しい愛を求めるあなたのお気持ち、とても素敵だと思います。そして、ご自身の信念に基づき、慎重に判断されるそのお考えも、尊敬いたします」
そう言い残し、ベアトリスは静かに図書館を去っていった。
一人残されたキオは、大きく息を吐き出した。
今日の会話を振り返り、彼女の提案を断ったのは正解だったと確信する。それでも、心の片隅に小さな不安が残る。
『本当に、これで良かったのかな…』
迷いが胸をよぎるが、やはり両親のような愛こそが自分の理想だと強く思った。
『お父さん、お母さん…僕も、いつかあなたたちのような愛を見つけたい。でも、今はまだ、その時じゃない。もっと時間をかけて、自分の心で考えたいんだ』
複雑な貴族社会だからこそ、純粋な関係を守り抜きたい。そして、まだ13歳の自分には、焦らずにゆっくりと歩む時間が必要なのだ。
キオはそう心に誓い、夕焼けに染まり始めた図書館を後にした。
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