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第18話 帰りを待つぬくもり


 春の夕暮れは、どこか柔らかい匂いがする。

 放課後の空は淡い橙色に染まり、遠くの雲の端だけが金色に輝いていた。校門を出ると、街路樹の若葉が風に揺れ、ほのかな草木の香りが運ばれてくる。道端にはたんぽぽやヒメオドリコソウが咲き、アスファルトの隙間からも小さな命が顔をのぞかせていた。


 優衣は少し足早に安息の空間に向かった。

 授業やクラス替えの緊張で、心も体も少し疲れているはずなのに、胸の奥にはわくわくした気持ちがある。

 ――ヴァイスが待ってる。

 ほんの少しだけ息が弾んだ。


 安息の空間に入り玄関前に立つと、ドア越しに 小さな足音がバタバタと響くのがわかる。その音は、一日の疲れを包み込むようなあたたかさを持っていた。


 カチャリ――。

 鍵を回し、扉を開ける。


 その瞬間、ふわっと白い影が飛び出してきた。


「わっ!」

 思わず笑い声がこぼれる。


 ヴァイスだった。

 小さな体いっぱいに喜びを詰め込み、耳をぴんと立て、尻尾を高速で振っている。瞳は星のように輝き、今にも「おかえり!」と叫び出しそうだ。前足を軽く浮かせて小さくジャンプし、床を駆け回りながら全身で喜びを表現していた。


「ただいま!ヴァイス!」


 優衣が靴を脱ぎながら声をかけると、ヴァイスはさらに勢いを増し、前足を伸ばして抱きつこうとする。


「はいはい、落ち着いてったら!」

 そう言いながらも、その必死な姿に胸がきゅっとなる。


 優衣はそっと腰をかがめ、ヴァイスを抱き上げた。ふわふわの毛並みからはほんのり春の日差しの匂いがする。きっと窓辺で日向ぼっこをしていたのだろう。


「よく一人でお留守番できたね!おりこえさんだったよ!待っててくれてありがとう」


 ヴァイスは「キュン」と短く鳴き、頬に鼻先をすり寄せてきた。そのぬくもりが、心の奥の固さを一瞬で溶かしていく。


 玄関からリビングへと足を踏み入れると、部屋の中も春の匂いに満ちていた。昼間に開け放たれていた窓から、桜の花びらが一枚、床の上に落ちている。優衣はそれをそっと拾い上げ、テーブルの端に置いた。


「今日は桜の道を通ってきたんだ。すごくきれいだったよ」


 ヴァイスはもちろんまだ難しい言葉を理解できないが、その声色を聞いて、うれしそうに耳を傾けているように見えた。


 制服のままソファに腰を下ろすと、ヴァイスはすぐに膝の上に乗ってきた。小さな体は春の日差しを吸い込んだように温かく、柔らかな毛並みが指先に心地いい。


「今日ね、席替えがあったんだよ。窓際の席になったの」

 優衣はまるで友達に話すように、一日の出来事を語った。ヴァイスは時折まばたきをしながら、じっとその声を聞いている。


 ふと、窓の外を見ると、空は茜色から紫へとゆっくり色を変えていた。風がそっとカーテンを揺らす。


 ――この時間が、ずっと続けばいい。


 以前は学校から帰っても、ただ静かな部屋があるだけだった。けれど今は違う。小さな足音と、柔らかな体温と、自分を待っていてくれる存在がある。それがどれほど心を支えてくれるか、唯は身にしみて感じていた。


「ヴァイスがいてくれて、本当に良かった」

 自然とそんな言葉が口からこぼれた。


 ヴァイスはその声に反応するように、小さく「クゥン」と鳴き、さらに顔をすり寄せた。その仕草がたまらなく愛おしい。


 やがて優衣は立ち上がり、制服を脱いで部屋着に着替えた。ヴァイスはその間もずっと後をついてくる。足元をちょこちょこと動き回る姿が、まるで春の小川に遊ぶ魚のように軽やかだ。


 キッチンでは夕食の準備が始まる。今日は春野菜のスープと、焼きたてのパン。コンロの上で湯気が立ちのぼり、玉ねぎや新じゃが、菜の花の甘い香りが広がる。ヴァイスは足元でおとなしく座り、ときどき背伸びして鍋をのぞこうとする。


「これはヴァイスのご飯じゃないんだよ。まだヴァイスには早いよ」

 笑いながらそう言うと、ヴァイスは尻尾を振り、またお座りをして待っている。


 夕食を終えると、二人はまたソファへ。優衣はブランケットをかけ、ヴァイスを腕の中に抱き寄せた。外では春の夜風が木々を揺らし、遠くから虫の声が聞こえてくる。


「これからもずっと、一緒にいようね」

 その言葉は、春の夜に溶け込むように静かで、でも確かだった。


 優衣はヴァイスの頭をそっと撫でる。ヴァイスは安心したように目を閉じ、小さな寝息を立て始めた。


 こうして今日も、春の帰り道から始まったあたたかい時間が、静かに、幸せの中で幕を閉じていく――。

読んでいただけることが、私の大きな励みになっています。ありがとうございます。

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