悪夢
「先生、最近私は、悪夢ばかり見てうなされているんです」
あるやつれた顔の男が、有名な睡眠外来を訪れた。
経験豊富な医者は、まず穏やかに語り掛けた。
「それはそれは、今日までお辛かったでしょう。しかしもう大丈夫。この外来に来たからには、あなたの心が抱える小さなひずみをすぐに見つけて、治して差し上げます」
「なんて心強いお言葉でしょう。いやぁ、近くの医者なんかで済まさず、日本で一番と言う先生のもとへ、足を運んでよかった」
「ははは、恐れ多い評判ですよ。では、まずあなたが悩まされている悪夢の内容を、お聞かせください。おぼろげでも、とぎれとぎれでも、構いませんので……」
医者のゆっくりとした語り口調は、自然とリラックスを誘うようなもので、男も無闇に気を遣わず、話し始めることができた……。
「では何から話そう……。そうだあれがいい……。つい昨日に見た悪夢です。あれはリゾート地の海で、砂浜でくつろぎながら一人、波を眺めているような夢でした。ざぁざぁと響き続ける波、照りつける夏の陽射し……。私がぼぉっとしていると、どこからか五つくらい年下の女が水着姿で現れます。それからまぁ何というか、艶っぽい雰囲気となり……」
男は、そんなことを苦しそうに話すから、医者もふむ、と思った。
つまり、男は実直な愛妻家ということらしいと考えたのだ。いくら夢とはいえこんな苦々しそうな表情をするということは、よほど不倫の空気に流されるのが嫌だったということだろう。夢の中で自分自身で忌々しいと思う行動をとってしまうのは、自律神経の不調によくある症状でもある。
医者は丹念にメモを取った。
「承知しました。他の夢はありますか? 続けてください」
「他ですか? ならば……」
男は顎に指を置いてから、またとつとつと語り始めた。
「三日くらい前に見た夢です。あれは、私がまだ社内でも課長くらいの地位に居た頃の夢です。社外秘のこともあるし詳細は語れませんが……思い出したくもないあのプロジェクト……。私は現実と違って、あの憎たらしい上司の、忠実な手足のように働いていたのです。そして私の働きのおかげでプロジェクトは順調に軌道に乗ったというのに、手柄は上司にかすめ取られ、私は全く正当な評価を受けなかった、という顛末でした。私は辛酸と苦汁を混ぜたのを飲むような気分で目覚め……」
まるで反吐を吐くかのように語るから、医者もその様子を事細かにメモした。
これはまぁ、分かりやすい悪夢と言えるだろう。夢の中に嫌いな人物が現れて、嫌なことをさせられるパターンだ。語り口調から伺うには、現実では違った顛末になっているらしいから、まぁ彼にとっては良かったのだろう。そして言い方から察するに、蛇蝎の如く嫌う上司とも現在、もう深く関わっていないようだ。その上でこんな嫌い方をするなんて、まだよほど根深い因縁が残っているらしい。
まずはそれを解消せねば、と医者は方針立てた。
「ありがとうございます。よろしければ、もう一つくらいお聞かせ願えますか。サンプルは、多い方がよいので……」
「もう一つですか。困ったな、夢日記のようなものも取っていないのだけれど……。あ、そうだ。あれがありました。5日前くらいの悪夢です」
男は閃いた感じに指を立てた。医者もメモを構えた。
男は腕を組んで、忌々しそうに語り始める。
「あれは本当に嫌な夢でした……。私には妻と息子と娘がおるのですが、なんでもない休日に、私たちは回転寿司に出かけていたのです。混んだ店内の活気に釣られてか、はしゃぐ息子と娘。その様子を、半分真面目に、しかし残り半分では楽しそうに、窘める妻……。私は、まぐろやイカやサーモン、定番のネタを取っては、家族に配り、そして自分でも美味そうに、頬張っていた……」
医者のメモを取る手が、ピタリと止まった。
流石に意味が分からず、思わず聞いてしまった。
「それのどこが……悪夢なのでしょう?」
医者のきょとんとした表情が気に食わなかったのか、男はキッと眉を吊り上げた。
「ええ、あなたのような先生が、分かりませんか! この私が、休日に回転寿司なんかで飯を食っていたのですよ、みじめったらありゃしない! それも、手塩にかけた息子や娘が、庶民の空気に当てられてはしたなくはしゃぎ、挙句には妻まで釣られてしまって……。さらにはなんていうことか、夢の中の私までも、粗悪な回転寿司のネタなんかを食っていた。まったく、悪夢以外の何物でもありませんよ……」
「はぁ……」
医者は、咄嗟に間に合わせの返事をした。ああ、そういうことかと冷静に察したのである。
それから、言葉を引き出すための適当な相槌を打った。
「失礼しました。それはまさしく悪夢でしたね。ならば、最初におっしゃられた砂浜の夢も、心苦しかったでしょう……」
ようやく分かってくれたか、と言う風に男は前のめりで語り始めた。
「本当に、その通りです。ま、口外だけはせんで貰いたいですが、私ほどになると、リゾート地で遊ぶならあんな夢の中の年増の女より、もっと若くて器量のいい女を用意できるのです。行きずりの関係なんて、薄汚いったらありゃしない。それに海で遊ぶなら、暢気に砂浜で肌なんか焼かず、クルーザーで優雅に浜風を浴びますから……。なんて退屈で、下品な、悪夢だったでしょう……」
「なるほど……」
医者は適当に頷きながら、どうもこれは重症だぞ、と辟易した。
睡眠外来の医者の領分では、この患者の悪夢の原因を取り除く手段が、どうにもなさそうだからだ。もっとも、この男の性根を変えるものは、誰であっても難しそうだけれど……。
そんなとき、男のポケットから電話が鳴った。
着信は切れと院内のポスターにも書いているのに、酷い話である。
さらに男は遠慮なく、その場で出た。
「おう、おう……。な、なんだって! す、すぐ行こう……」
焦った様子になり、別れの言葉も告げず、診察室から飛び出していった男。
医者は呆気に取られるしかなかったが、男が消え去ってからふと気になって、机のパソコンで検索をかけてみた。
あんまりよくないことだけど、男のカルテの名前を調べてみれば……。
「ははぁ、これは」
医者は一つのネット記事の見出しを見つけた。
『エックス社社長、エヌ氏、過去のプロジェクトでの汚職が発覚。データの隠ぺいに改ざん、挙句の果てにはその罪を、元上司になすりつけたか』
エヌと言う名前は、さっきの男のもので間違いなかった。
「ははは……」
医者は乾いた笑いを浮かべた。
「どうやら私が手を打つ前に、膿が出てきたようだな。傲慢さと言う原因の膿が出きってしまえば、悪夢も少しは減るかもしれない。もっとも、これからしばらく現実の方が悪夢のようになるのだろうけど……」