霊夢像
陽の陰は霜露に濡れた五味子の枝葉を照らし、真赤の実の房は瑞々しい色彩をかぐわせ、葉の鳥趾状の脈に沿って一粒の雫が小径に滴って居た。雲無き蒼天の飄然とした息吹は木々の隙間から漏れ出ていた。小径には誰も居ない。葉が擦れる音も、生物の萌芽も感じられない道であった。只、唯物的な空恐ろしさに満ちていた。道を進んで往く。次第に萎れた蓬生が所々に見え、泥土の隙間に足跡が見える。人の名残は硬直した気持ちに幾許かの安堵を感じた。歩く度に蓬が足に触れ、ざあざあと葉音を響かせ、服は水飛沫を浴び牡丹文様の様に染まっていた。朝霧は次第に濃くなり、飄然とした風が首を静かに撫で、巌が河水に叩かれるこごしい音が響いていた。土の中に小石が混じり始め、葦は蓬と絡み合っている。河の方に近づくと水面が見え、水底は遠く、藍色の底は見えなかった。目を閉じる。只、暗い中に幽玄な静寂が広がっていた。些事である、然し、比類無き平穏に包まれていた。此の平穏は何時までも続くようなものでは無かった。礫が踏まれ砕ける音がした。目を開けると下瀬の方に朝霧
の中に一つの影が見えた。眼の前であるが姿は朧気に見えるのみであった。
私は尋ねた
「前に会ったのは何時でしたか」
影は答えた
「久しい方、此先に会いますよ」
私は臥所から体を起こし、夢現に周囲を眺めた。時計は暁の七つを過ぎ、窓の外から見える天上は澄んだ藍色であった。天の先は未だ見えない。