日々と敵①
「エドワードさん」
「フィリア様」
エドワードが居座っている部屋にフィリアがノックを二回して入ってきた。その姿はやけに楽しそうで、頭にぐるぐるに巻かれた包帯の内側の傷の痛みを忘れてしまうほど癒される笑顔だった。
赤暴熊を倒した凱旋の後、エドワードはフィリアの父のケインにこっぴどく叱られてしまった。まあ当然だった。自分は助けられておきながら無断でその傷を開かせるような真似をしてしまったのだ。頭がしばらく上げられなかった。
けれどその後、フィリアが頼んでもいないのにエドワードの過去を事細かに説明したら、ケインは不意に泣き出し伝播するようにファンたち使用人も瞳を潤わせた。唖然としてしまった。
(なぜ他人にそこまで感情を露わにできる?)
冒険者は死と隣り合わせとも言える職業。職業と言うより放浪者の方が近いかもしれない。何をするにも自由なのは違いないが、怪我をすれば保険が下りるわけはなく、安全も保証されていない。自己責任の塊みたいな仕事。
自由に働け楽しく金を稼げると無知な子どもはよく口にするが、どの世界も時代にも、そんな夢のような仕事はあるわけがない。だからエドワードは誰にも言わなかったのかもしれない。冒険者仲間が命を落とすことは界隈では珍しくないし、友人が死んだことは己の失態。
悲しんでもらうなどと、軽い気持ちになってはいけないと思っていた。だがエドワードの周りは優しかった。この屋敷にある全てがエドワードの欠けた決して埋まらない傷穴を、別の何かで埋めようとしてくれている。
まるで優しさ過ぎて、今まであった常識が嘘なんだと思うようになったほどだ。誰かが近くにいると言うのは安らぎをくれる。それは親友がそうだった。そのきっかけを作り、寄り添ってくれた目の前のフィリアには、感謝してもしきれない。
「どうしました? 新作が出来上がりましたか?」
「いえ、それはまだ。その代わりに、私の本棚の奥から別の本を見つけたんです。また……読んでくれませんか?」
「もちろんですよ」
フィリアは花が咲き誇るように微笑んだ。ただ了解の返事をしただけなのに、心は満たされたように温かくなった。与えてくれる彼女の力は聖母にも匹敵するだろうと断言できた。
「今日は天気もいいですし、サンルームに行きませんか? 日の光を浴びながら読むのは気持ちがいいの
で」
「私が寝てしまうかもしれません」
「それなら問題ありません。読み終わるまでは、私が至近距離で観察し続けているので」
「それは頼もしい」
互いに笑い合う。こうした日々が続くことを願っている自分が確かにいた。
────
「どうですか?」
「そうですね……」
何回同じ言葉を感想を言い合う前に言ったか。数えてはいないが自然と口に出すようになっていた。煌々と輝く自然の太陽の光の暖かさを感じながら、日課となったフィリアの物語の感想を語る。
「この本は前半と後半との面白さの落差が激しかったです。後半のこの敵かも味方かもわからないキャラの正体が明かされてからは目を見張るものがあるのですが、前半のパートは……なんかこう、無駄が多すぎる」
「ぐふっ。や、やっぱり直に言われると精神に効きますね」
「す、すみません」
一応謝罪はするが、正直で良いと本人から了承を得ている。言葉を濁さずに述べることが、この会話をする意味がある。
「でも読んでる時、どうにも思ってしまって。そうだな.....会話シーンが多すぎるんですかね」
「多い……ですか?」
「多分……私の客観的目線ですが。なんでしょうか。まるで平坦な道と言いますか。全てが無駄とは言いませんが、これはいらないのでは? と思う会話がちらほら見かけまして。ほら、こことか」
「うーん……」
フィリアと出会ってから一ヶ月半が経った。一年の四分の一にも満たない日数だが、殆どは鍛錬とフィリアの本を読んで話し合うくらいしかしていない。だからでもないが、少しはまともな意見を言えるようになったと感じている。
それでも素人には変わらない。本業としている人たちからすれば拙いままの言葉だろうが、目の前の少女が真摯に聞き入ってくれるのだから、エドワードは大した気にならなかった。楽しければそれで良いのだ。
「ここはあまり意味を為していないと言いますか、削っても問題ない所じゃないですか?」
「むむむむっ、でもここは重要な……いや、問題ない? いやでもここはなあ。このキャラとこのキャラが喋ってる場面が欲しくてつけたんですよ。絡みが欲しいなと」
「なるほど。しかしそれなら何か突起をつけては? この会話はただ話しているだけです。でも後半からの会話は、所々ラストに至るまでの伏線をさりげなく含ませています。こことか、素直に驚きましたよ」
「あ、ホントです! 確かにそうなっていますね」
「え? 知らなかったんですか?」
「はい。特に考えていませんでした」
呆れの苦笑をしてしまう。たまにそういう所があるから、フィリアの本は独特となって飽きない部分がある。しかし意図せずそうなってしまうというのは、ある意味才能なのかもしれないと感心した。
「後は意外性のある相手と相手を鉢合わせるとか。多少強引なら百八十度展開が変わる展開を起こすか……まあ後者は無理矢理ですかね。話を繋げるのが難しくなる」
「どんでん返しですか。例えば、一行でわっと驚いてしまう衝撃展開とか?」
「それは面白そうですけど、もう有名な作家さんが作っていそうです」
「聞いてたらエドワードさんの意見もわからなくはないですが……でもここはどうしても入れたくて。外したくなくて、そのぉ……」
「難しいですね」
前にフィリアが言っていた。「著者には譲れない文とか展開があるんです。ない方が良い作品になるとわかっていても、頑固として守っちゃうんです」と。エドワードはあまりピンと来てなかったが、そういうものなのだろう。譲れないものならエドワードにもあった。無力な自分が、手の届かない場所に手放してしまったが。
「見たいと思ったんですよ! キャラ同士の掛け合いを。そうすれば面白くなるかなあって」
「その心は理解できなくないですが、読者はそれを望んでいるとは限りませんから」
「エドワードさんは見たくないですか?」
「失礼ですが、はい……今回はそう思ってしまいました」
反逆されるかと思ったが、フィリアは苦い顔をした後に息を吐いた。エドワードの素直な意見を受け止めてくれたのだ。否定の意見も自分の作品の質を向上させるためだと、フィリアは己の心に従っている。吐いた息をまた吸ってから、エドワードに真っ向から向き合った。
「わかりました。まだまだ精進が必要だとわかっただけで、この本は良い収穫でした」
「それは何よりです。しかしさっきも申し上げましたが、後半はすごく出来が良かったです。どうやって思いついたんですか?」
「わかりますか! これはですね──」
それからは彼女の本の良い部分を重点的に話し合った。と言ってもフィリアが一方的にペラペラと早口で喋るのが殆どだった。よほど指摘が嬉しかったのか、縄跳びができて褒められた子どもみたいに満面の笑みを絶やすことなく喋り続けていた。その一言一言が情熱的で飽きることがなかった。そのはきはきと元気な様子の姿は、自分の本にどれだけ熱心なのかが嫌というほど伝わってくる。
それがいつも隣にいた親友と姿が重なったように見えた。溌剌とした性格はよく似ている。無性に少女の笑顔が守りたくなるのは、いなくなってしまった友人が原因なのはわかっていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません」
感傷に浸っていたのが顔に出ていたか。不要な心配はかけまいと自分から口を開いた。
「にしてもこの本、これで終わりじゃないんですね。最後に続くとあったので、続編が気になります」
「ああ、それなんですけどまだできてなくて。その本が棚の奥にあったと言ったじゃないですか。わかる通り大分前に書いた物で、一冊はこの通り完成したんですけどぉ……続きが思い悩んで投げ出してしまって、放置されていたんです」
「そうだったんですか」
でも、とフィリアが続けて自信たっぷりに言葉を吐き出した。
「今なら続きが書けそうです。エドワードさんに言われた改善点を元に考えてみますね」
「それは楽しみです。私が出ていくまでにでも完成を楽しみにしています」
「……え?」
間抜けな声がフィリアの口から洩れた。はい! と元気な返事が来ると思っていたもんだったから奇妙に思った。
「フィリア様、何か気になることが?」
「出ていくって……ここからですか?」
「それはそうでしょう」
「どうして?」
「どうしてって。元々私は居候の身です。運よくファン様に助けられ、この屋敷に厄介となってしまった。しかもまた私の身勝手で怪我をして、滞在期間を延ばしてしまいました。今度こそ傷が治り次第、この場を後にします」
長く同じ場所に居座っていると、自分がいるここが本来いる場所なんだと錯覚する時があった。どこかに長旅を続けていると、そんな感覚が生まれるかもしれない。でもそんなことはなく、帰るべき場所は誰にでもある。レインハート家のこの屋敷には本当にお世話になりっぱなしだった。
家の主であるフィリアの父親は快く受け入れてくれ、ファン含め屋敷の使用人たちは丁寧に接してくれ、フィリアとの日々は心から楽しかった。今ではあの熊の魔物にも少しだけ感謝しているくらいに、今の生活は愛おしかった。しかしいつまでも甘えるわけにもいかない。十分に手を尽くしてもらったのだ。これ以上は下げる頭が地面に埋もれてしまう。部外者が他人様の家に泊まり続けるのはいつか迷惑となる。
それに今のエドワードは無職状態。護衛の仕事に戻らねば自宅の家賃は払えなくなり、貯金もそんなにあるわけではないため一文無しになる日も近い。惰弱なヒモになるほどエドワードは自身の尊厳を捨てたくはなかった。
「いなくなって……しまうのですか?」
フィリアは悲しそうな声で問いかける。まるでエドワードがどこか遠くへ行く──それこそ死んであの世に行ってしまうかもしれないような。そんな顔はさせたくないと優しく言葉をかけた。
「大袈裟ですよ。会えなくなるわけじゃありません。機会は減るかもしれませんが、私でよければ、また今日のように語り合いましょう」
交流が絶えるわけではない。寂しいことは否定できないが、だから居続けるのは甘えになってしまう。どこかでばったりと会えれば、それはきっと素晴らしい再会になるに違いない。フィリアもそう思ってくれていれば嬉しい。
「……そうですね」
哀しい声で笑みを作ってくれた。既に決めていたことのはずだったのに、フィリアの顔を見たらぐらついてしまった。
────
「エドワード様」
家から出ていくことを言葉にしてから、フィリアと相も変わらずの生活を送って一週間、トイレから部屋に戻るために廊下を歩いているところをファンに話しかけられた。
「呼び止めして申し訳ありません」
「いえ全然。何か御用ですか?」
「御用と言うほどでも。ただ、げふっげふ」
言葉を並べようとしたファンは突然せき込んでしまう。慌ててエドワードは近づき背中をさすった。
「大丈夫ですか?」
「げふっ、んんっ。いやはや、すみませんな。心配をおかけしてしまって」
ファンとは屋敷にいる使用人の中でも一番によく話している。だから少しだけファンのことを知っていた。体の中が少しだけ悪いらしい。いくつかの種類の薬を毎日欠かさず飲んでいる。「見ての通りもうただのおいぼれです。体が苦しくなるのも当然ですな」といつか言っていた。
年老いて体が弱くなるのは自然の摂理だとわかっているが、理解は不安を消せはしない。年寄り扱いするなと口に出して怒るかもしれないが、エドワードは心配せずにはいられなかった。
「心配くらいさせてください。お体を大切に」
可憐な少女が自身に言ってくれた言葉をファンに告げた。ファンは一息吸ってから優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。おっと、言伝を忘れるところでした。旦那様からです」
「ケイン様から?」
「明日、朝に旦那様の部屋に来てほしいとのことです」
「私が?」
フィリアの父から呼び出されることは初めてだった。少し違和感を覚えたものの、断る理由もない。それに前もって屋敷から出る日を伝える良い機会だった。
(用が何にせよ、きちんと挨拶をしなければ)
挨拶は別れを意味していたが、翌日ケインから言われたことは真反対のセリフだった。
「エドワードさん。この屋敷に住む気はないかい?」