過去④
フィリアが書いた物語の感想を言った際、エドワードは実感が湧かないと言った。その理由を彼女の前では明確に進言しなかったが、ある程度理解できていた。それは、現実を知っていたから。
ピンチの時に颯爽と現れ、主人公の苦境を二人で乗り越え、笑い合う二人。これはフィリアの文章力がないわけではない。これはエドワード自身の問題。文字の羅列では表せられない残酷な光景を、眼球に焼き付けてしまったから。
きっと誰か他人があの本を読めば、共感ができたり、胸が感動で熱くなったり、少なくとも良い印象は持つはずだった。読む相手が間違いだった。自分の失言でフィリアの創作意欲を間違った方向にずらしてはならないと、帰ったらフィリアにこのことを話さねばならないと誓った。
目の前にいる魔物を倒して。
「ちゃんとあの時の奴だな」
呼びかけに応じた魔物──赤暴熊がエドワードの方に振り返る。鋭利な野獣の牙をこれみよがしに見せつける姿は、威嚇をしているそれだった。
万が一別の赤暴熊が現れてもいいように、最後に目印を付けていて正解だったと安堵した。足に小さな傷跡がある。情けながらも一撃入れた証。今度はその程度では済まさないと、エドワードも負けじと眼光を飛ばした。
お返しと言わんばかりに咆哮を深淵の森へと撒き散らし、巨躯がエドワードに迫る。木々を薙ぎ倒しながら突き進む化生は、蒸気機関のような迫力を放っていた。エドワードは余計な傲慢さを取り払い、冷静に対処する。
障害物にはなり得ていないが、生い茂る森の木は巨大な熊の移動には強制的に邪魔となっている。そのため動きが多少なりとも鈍る。その利点を生かし、できるだけ木々の間が狭い所をできるだけ走り回る。しかし逃げるだけでは勝てない。エドワードが勝利を獲得するには、決定打になる一撃必殺が必要となる。
(距離を保って最速の刺突。こいつの硬い皮膚や筋肉を貫くにはそれしかない)
逃げ回る間にも思考を巡らせる。確実に倒すための瞬間を探す。
暴熊はナワバリ意識が強く、エドワードはそこに侵入した排除の対象として見られているため、息の根を止めるまでかナワバリから出ていくまで攻撃は続く。通常の暴熊ならば、巨体を生かしたフィジカル全快の突進や鋭利な牙や爪の攻撃が主要攻撃。しかし色がついた亜種にはそれにちなんだ能力を有している。
赤暴熊がエドワードを追い回す行動をストップし、スイカが丸ごと入りそうな大きな口を開けた。
(来た)
エドワードを狙い火炎の息吹を放つ。身を翻して間一髪の距離で躱した。
「熱っ」
足先を少し火傷した。それを確認する暇などなく、エドワードはその眼に討つべき魔物の姿を捉え続ける。
赤暴熊の喉の奥にある火炎袋。それが高温の火の息吹を撃つことを可能にしている。一度浴びれば目の前の魔物と同じく赤く染め上げられ、焼死体になること不可避の異能。
範囲も広く逃げ場はない。しかし息吹の攻撃をしている最中、赤暴熊の体は硬直し身動きが取れなくなることも特性の一つ。隙があり懐へ飛び込むためにはそこしかなかった。
「グレン。私はやるぞ」
エドワードを焼き尽くせず苛立ったのか、熊は連続で火炎の息吹を繰り出す。また木々の合間を縫って攻撃を躱す。息吹の火が森に燃え移るが、今はそれを気にしている場合ではない。まずは猛攻を止めるべく、槍の柄を強く握りしめる。
「ふんっ!」
目を凝らし、めぼしい一本の木を槍で切り倒す。めきめきと音を鳴らして倒れる木は、赤暴熊の脳天に直撃した。この程度の攻撃では暖簾に腕押しに終わるが、相手の攻撃の手を途切れさせることは可能。炎の息吹が中断され隙が生まれた。エドワードは足を止め、爪先を魔物の正面に向け構える。
(ここしかない)
体は前に出すように前傾姿勢に、意識的にも無意識にも筋肉に入れている力を槍の穂先に集中させる。抜かりなく、丁寧に、友が死んだ後も研鑽を積んでいった技術を無駄にしない。友の血を己の血で塗りつぶすことはあってはならない。
この土壇場でも友の声は聞こえない。それはそうだ。死者の天からの声が背中を押すというのは、物語の中だけの話。生きてる間に背中は何度も押してもらった。支えてもらった。後は自分の力で、意志で、自分の背中を前に押し出す。
「見ててくれよ」
隣にもこの世にもいない友に決意する。ただ言いたくなったから。赤暴熊が丸太になった物をどかし息吹を吐くのと、エドワードが地面を踏み込んだのはほぼ同時だった。
視界が煉獄に覆われる。熱が肌を刺激し幻想的とも言える炎が体に絡みつこうとする。逃げ場はないが、逃げるつもりもない。それは覚悟を捨てることと同じ。もう友に恥を晒すような真似は絶対にしないと誓った。仇を取る、その言葉を嘘に変えてはならない。
瞬間速度が音速を超え、魂を震わせる烈風が巻き起こる。炎の息吹はかき乱れ、森の木々に燃え移っていた炎さえも掻き消してしまう。音すら置き去りにする刺突は、まるで二人分の膂力を持ち合わせている豪快さが確かにあった。開かれ視界に熊の巨体が映る前に、槍の穂先は屈強な肉体を穿つ音を放っていた。
「どう……だ」
高熱を帯びた瞼を見開く。状況を把握し、表す二文字は────失敗。急所を貫いておらず、これでは確実に仕留めきれていない。エドワードの未熟さが問題ではない。狙いは相応しく、断言できる確実性が第三者から見てもあった。
生み出した風で業火を晴らす直前、ほんの少しだけ槍が描く直線が曲がってしまったのだ。これはどうにもできない無意識のぶれ。
ただの誤差でしかない。しかし今はその誤差が絶対の命取りになってしまった。
「あ──」
絶命しない大熊が右腕を大きく振りかぶった。大爪がエドワードの頭を切り裂き、血飛沫を巻き上げる。槍は肉体から抜かれ、後方にあった木々を破壊しながら倒れた。
「ク……ソッ」
網膜に血が入り視界が霞む。背後にはまだ赤暴熊が立っている。己の負傷を気にしている場合ではない。
「あと……一撃」
こちらに近づく足音が聞こえる。頭に切り傷が入った程度だろう、戦うならさっさと立てと、無理矢理鼓舞し重い体を立ち上がらせようとする。
「ぐぅ……ううぅ……!」
立て、立て、立て。頭の中で無限に連呼し、槍を杖に力を振り絞っている最中。
「やめろ!」
透き通るような少女の声と小石が地面に落ちる音が、整然とした森の中で響いた。そんなはずがないと言い聞かせた。しかし少女の声は続く。
「エドワードさんから離れろ!」
朦朧とした意識が生み出した聞き間違いではない。現実世界の少女が彼の名前を呼んだ。それも強く、躍起するように。フィリアがこの森に、すぐ後ろにいることは確かだとわかった。
(どうして……)
想定外も想定外だ。理由はわからなかったがそれを考える暇はない。小石はおそらく赤暴熊に向けて投げたもの。エドワードを守るために。だがその勇気ある選択は、男に放っていた敵意を自らに向けてしまう愚策でもあった。
「あ……」
フィリアの声が擦れ、彼女の顔から血の気が引いているのが見えなくてもわかった。魔物の足音が遠ざかり、フィリアに危機が迫っていた。あの華奢な体ならば、巨大な熊が軽く小突くだけで命が脅かされる。魔物の影が血だまりに染まる光景は想像したくなかった。
「た……助けて……っ!」
救いを求める声。自分に向けられたものだとわかる。震える足で立ち上がる。視界が霞もうが関係ない。エドワードは眼ではなく気配で敵の居場所を感じ取る。
痛みなど知るか、怯えなど知るか、恐怖など知るか。エドワードを抑制する材料はもう何もなく、原動力は単純なものだった。仇を取りたい、自分にはその義務がある、気を晴らしたい、数々の理屈が生命の循環のように巡っていたエドワードは、その全てを振り払い辿り着いたのは──
(助けたい)
感じ取った気配がする方向に、持てる全力の力を振り絞り槍を投擲した。皮膚の表面に突き刺さる音と苦痛の叫びが重なる。だがこれだけでは足りない。槍の穂先は熊の体を貫通していなかった。
「ぁあああ!」
赤く閉ざされた視界の中駆け出し、距離を詰める。槍の石突を蹴り押し、穂先を分厚い肉体に食い込ませた。決定的な一打がここに為され、徐々に赤暴熊の叫びは小さくなり、巨大な体は地面に崩れ落ちる。
図太い生命力は遂に絶命を遂げた。
「はあ……はぁ……」
「エドワード……さん……」
「……終わったか」
やることを成し遂げた。自分の手で倒すことができた。友の仇を取ったはずだった。なのに……どうしてか、心の何かは欠けたままだった。
「終われば……呆気ないな。グレン」
「エドワードさん!」
二度目の呼びかけでようやくそっちに振り向いた。まだ景色は赤色に染まっているが、フィリアが近づいてきたおかげで面影が少しばかり見えた。
「フィリア様、ご無事ですか?」
「はい。貴方のおかげです。私よりもエドワードさんです。すぐに手当てをしなくては」
「色々聞きたいことはありますが、まずは屋敷に戻った方が良さそうですね。すみませんが肩を貸してくれますか?」
エドワードを支えるように横に立つフィリア。ゆっくりな足取りで、月下の森の帰路を歩き始めた。
「それで、フィリア様。なぜこんな陰鬱とした場所に?」
「……今日はまだ眠れなくて、窓から外を眺めていたら、エドワードさんの姿が見えて……それで……」
「夜更かしはいけませんよ」
「そっちこそ。何かと思ってつけてたら大きな熊のような魔物に……」
「今日は私がいたから良かったですけど、今度からは、こんな魔境のような所に一人で踏み込んではいけませんよ」
「貴方がまた行くなら私も付いて行きます。魔物と戦っている間……私がどれだけ心配だったか……」
本当に他人を気遣える優しい子だった。確かに元はと言えばエドワードが外に出てしまったのが原因。己の不手際を詫び、頬を掻いた後に謝罪をした。
「でもご安心を。いや、こうなった後に告げても信用はないですが、今日は前々から決めていたこの森に来たんです。そしてもう用は済みました。これからは無断で行くことはありません」
「あの魔物を倒すためですか?」
「ええ。もう終わったんです」
事を成し遂げた調子ではなかった。そんなエドワードの様子を感じて、フィリアは聞きたかったことを口に出した。
「……グレンと……仰っていましたね」
「……私言ってました?」
「はい。その名の人に語りかけるように」
「ははっ、お恥ずかしい」
「もしかして、エドワードさんが昔、冒険者をしていた頃の」
「お察しの通り。冒険者仲間でした。私のたった一人の」
屋敷では喉に引っかかり言えなかった過去の一部が、今はするっと出てきた。赤暴熊をこの手で葬ったことでつっかえが少しだけ取れたからか。元々隠すようなものでもなかったのだが。
「良ければ、話してもらえませんか? 貴方の過去について」
「……屋敷でも言いましたが、大して面白くはありません。フィリア様が描く物語の方がよっぽど娯楽になる」
「……『悩みがあるなら話せよ。そしたら少しは、心の負担は軽くなるぜ』」
「ん?」
「私の本の登場人物が言った言葉です。覚えていますか?」
「はい、覚えていますが」
確か主人公の相棒が主人公に対して言った言葉だ。やたらに強く、相棒が悩む主人公に寄ってきていたシーンなので、印象に残っていた。
「所詮印刷されたただの文字です。病気を失くすわけでも、争いを止める力もありません。ましてや私の拙い文の一部です。でも、それでも、たった一人の誰かに響く可能性はあると思うんです」
「……」
「庭にいる時のエドワードさんは……重い何かを抱えている顔をしていました」
月明かりしかない森の中、少女の声は一筋の光のように眩しくて、一言では表せない麗しさがあった。一人の青年の口元を緩めるほどには、少女の想いは届いていた。
「つまらなくても知りませんよ」
「こうして支えていますから」
「……私とグレンは友人でした。どこにでもいる、仲の良い友達同士。村で両親の農作業の手伝いをしながらよく遊んでいました。馬鹿みたいに夜遅くまで遊んで、両親にもよく叱られていました」
「やんちゃだったんですね」
「ええまあ、他よりは多少」
「冒険者になろうと思ったきっかけは?」
「さあ、あまり覚えてないですね。グレンが言い出した気がします。有名になろう、歴史に残るようなすげえ奴になろう、物語に出てくる勇者みたいなかっこいい奴になろうとか、いかにも子どもが考えそうな目標を掲げて。ああでも、心が躍ったのは覚えています。とても……楽しかった……」
「素晴らしいご友人だったのですね」
「もちろんです。私には勿体ないくらい。人柄も良くて、誰にでも分け隔てなく話せて、いつでも自信満々で前に突き進んでいく。本当に、こいつなら何かでっかいものになれるんじゃないって思ってました。なれた…はずだったのに…………それが……どうして……」
赤い視界が濡れて滲んだ。額から離れた雫は、風が吹いて無音で地面へと落下した。一粒の雫は喪失感を消してはくれなかった。フィリアがエドワードを支える力を強くする。
「もしかして」
「……その日も冒険者に流れ込んでくる依頼をこなしていました。魔物によって荒らされた村の地下に残っている子どもを助けてほしいと。人助けは別に珍しいことじゃありません。いつものように終わるはずだった。村に辿り着いて、子どもを見つけて、私が子どもを安全な場所まで避難させて、グレンはその間に私と子どもを追ってくる魔物を排除していた。子どもを安全が確保されたら、私もすぐに戻りました。その時にはもう気が緩んでいたんです。グレンなら……私が村に戻る頃には全ての魔物を倒してるんじゃないかって。それくらいグレンは強くて、確かな実力があった。でも……思ったより魔物の数が多かった。力を数で押しのけた奴らは、グレンをボロボロにしていた。私が駆け出した時には既に遅く…………背後にいた赤暴熊の……」
「もういいです。もういいです、エドワードさん」
苦しそうに話すエドワードを見かねてフィリアが割って入った。歳下の少女に宥められる自分が情けなく思うと同時に、その気遣いが嬉しかった。一息ついてからエドワードはまた口を開く。
「今日のは平たく言えば、仇討ち、尻拭い、けじめ、清算──とまあ、言葉はこのように最もらしく並べられても、実を言えば単なる自己満足に過ぎませんでした。一度欠けたピースは、疾の昔に置いてきてしまいましたから」
満たされない心。それは最初からわかっていた。さっき倒した赤暴熊は、仇ではないからだ。同じではないし、第一あの時は友が相打ちになって既に倒していた。誰の為でもなく自己完結に終わる結果を待つやるせない行動に、エドワードは立派な名前を付けてやりたかった。
「全く私は……何をしていたんだか。余計な心配までかけてしまって」
結果的に良かったことを考えれば、これからこの森を通る新米冒険者の身の安全が少しばかり保証されたことくらいだろう。溢した水のように、時間が経てば乾いて無くなってしまう意味のない行為だ。
「……心配くらいさせてください。いなかったら……心配もできないです」
「? いない……?」
「私のお母様は……病気で亡くなりました」
その話は屋敷の者から少しだけ聞いていた。フィリアの顔は母親譲りのものだとファンもよく言っていた。
「信じられませんでした。あんなに優しかったお母様が、あんなに元気だったお母様が、どうして私を置いて空へと旅立ってしまったのか。悲しくて……悲しくて……」
「……その……何と言ったらよいか」
「あ、いえその、すみません」
「今のは謝る所でしたか?」
「違うんです。話を聞いてほしいとか、そういう意味で言ったんじゃありません。ただ……私たちは……同じだと思ってほしくて。お互い大切な人を亡くした者同士……もちろん、まだロクにエドワードさんを知らない私が言うのはおこがましいのはわかっています。貴方は私なんかよりも辛い経験をされている」
「いや……悲しみに優劣なんてありません。フィリア様も辛かったでしょうに。あなたのような娘がいてくれることに、お母様は喜んでいると思います」
「そう言っていただけて嬉しいです。えっと、それでその、私が言いたいのは、同じ気持ちを持ってる同士だからこそ話せると言いますか、被害者の会という物もこの世にあるわけですし、悩みでも冒険者時代の話でもなんでも、私と話してくれたらなと……あ、ははは。ごめんなさいわかりにくくて。書くのも話すのも下手ですね、私は」
自嘲気味に笑うフィリア。エドワードはそんな彼女の姿が、陽の光に当たらずとも燦々と輝いて見えた。上手下手はどうでもいい。辛い出来事を他人に曝け出してまで傷ついた人に寄り添おうとするフィリアの行動が、嬉しくて仕方がなかった。
今のエドワードが言うべきなのは謝罪ではなく、感謝だと、思う前から口に出ていた。
「ありがとうございます」
「私の本を読んでくれた礼とでも思ってください」
「私もあなたと話したい。お母様のことでも、あなたが描く愉快な物語でも」
「愉快かどうかは私の力量次第ですね」
薄く微笑む両者。帰路はもうすぐ家へと着き、二人だけの時間は終わる。まだ二週間程度、偶然の出会いから過ごした日々は、棘のない緩やかな春の季節を感じさせる尊さがあって、機械のように毎日をのうのうと生きていた時よりも活力を感じられた。
(少しだけ……私は前に進めたかな)
過去を話すことは、確かに負担が軽くなった。言葉には魔法がかかっていることがわかった。一緒にいられる時間は残り少ないかもしれないが、限りある時間を濃密に過ごしたいと、心からそう思った。
「早速話してもいいですか」
「ええ。なんです?」
「私が意見した、本のことです。主人公を助けるのには明確な理由が必要だと。あれは間違いだったようです」
「え?」
「フィリア様があの魔物に襲われそうになった時、私の体は動きました。その時私は……ただあなたを助けたかった。それだけでした。だから撤回をしたくて。あなたの文字は、私にとって間違いではなかった」
今日はただそれだけを伝えて黙った。
「……」
冷たい夜風が吹いて、隣で支える少女の体が熱った事実に、エドワードは気づかなかった。