本④
体が重い。槍が……うまく扱えない。
(私は何をしてるんだ?)
上空から振り下ろされる巨大な斧が死を予感させた。断頭台にいる咎人を断罪するかの如く勢いだ。エドワードは死なないために一撃を横にそれて躱し、断罪の斧は乾いた地面に衝突した。
「逃げてばかりだな。それとも何か作戦でも考えているのか?」
突如現れた正体不明の黒仮面の人物が挑発するように言う。自分を前に進むための試練だと断言し、容赦なく豪快に持ち前の大斧を振り回し、エドワードに殺意を向ける。森の木々は何本も両者の死闘に巻き込まれ地面に倒れている。
試練と言われても納得できない。何度も話しを持ちかけたが、謎の黒仮面は攻撃の手をやめてくれなかった。加えて目の前にいる自分を襲う者はかなりの強者だった。油断すれば本当に命を奪われかねないと、仕方なくこうして応戦しているが、防戦一方の状況は最初からなんら変わらなかった。
(拒絶しているのか……私は)
槍が重いのは自分が無理に力を入れているから。槍がうまく扱えないのは相手をよく見てないから。この不可解で摩訶不思議な状況を、心の奥で安堵しているエドワードがいる。
フィリアに会う時間を引き延ばすことができている現実に安心していた。
ほとほと自分の情けなさに愛想が尽きる。エドワードは会わなければいけない。小さな世界でひとりぼっちにさせてしまったあの少女に、そして、言わなければならないことを伝えなければならない。そのはずなのに、エドワードは踏み止まっている。動くはずの足を磔にされているなどと言い放って前に進もうとしない。
不安が脳を焼いている。この世にいる時間が後僅かしか残っていない彼女の前に行かなければならないのに、後悔が足枷となって勇気を奪っていく。
資格やらを垂れ流して、彼はまだ言い訳を考えている。
「やはり迷っているな」
槍の穂先と斧の刃がぶつかり火花が散る。黒仮面は追撃する代わりに言葉を投げかけた。
「会うのが遅くなって嬉しがっているのか? そんな自分を惨めに感じている。全く、面倒くさい男だ」
「何がわかる。初対面の相手にとやかく言われる筋合いはない」
「言っただろ? 我はお前を知っている。お前の過去も、今も、苦しみも、想い人も。全て存じている」
「……あなたは一体誰だ?」
嘘はない口ぶりだった。自分のことを知っているのなら、初対面ではないということか?
「どうでもいい。我のことなどどうでもいい。問題はお前だ。迷いがある者と戦おうが面白くない」
「私は面白みなど求めていない。ならさっさとどこかに消えてくれ」
「それでいいのか? 我がいる方が好都合なくせに」
「……」
「何も言わないか。情けないにもほどがある」
言われっぱなしは気に喰わなかったが、全て事実だったから何も言えなかった。悔しさで涙が出そうになった。
「結局、"お前はあの少女のことを愛していなかったのだ"」
「……あ?」
こいつ今なんて言った?
「なんだと?」
「覚悟は所詮口だけ。守りたい、一緒にいたい、助けたいの全てが、薄っぺらい好意の上に並べられた矮小な言葉に過ぎなかったんだ。お前が逃げたのも薄い好意がただ冷めただけのこと」
「……るさいっ」
「会おうとしない今のお前がそれを物語っている」
「口を閉じろ」
「お前の感情はただの一時の気の迷いに過ぎな──」
「うるさい!!」
動かなかった体が憤怒によって目覚めた。超速の刺突を繰り出すが斧で防がれる。間髪入れずに二撃、三撃と黒仮面に肉薄していく。
今の言葉は聞き捨てならなかった。
「急に激昂したな」
「当たり前だ! 私をいくら馬鹿にしようが構わない。逃避者で、寂しがり屋で、独りになるのが怖くて仕方がない駄目な男だ。だが、彼女の、フィリア様の気持ちに嘘はない! 私は心から彼女を愛していた!」
「でも逃げた。それはお前の彼女に対する気持ちが小さかったからだ」
「違う! 怖かったんだ。私がいてはフィリア様を不幸にしてしまう。私はフィリア様に依存してはならないと。都合の良い言い訳を並べても、本音はただ怖かった。死に顔を見たくなかったんだ!」
「それでも苦渋を腹に落とし込み、側にいることを選ばなかったのか」
「大切な人の死に顔をどうして三度も見なくてはならない!!」
上段からの斧の一撃を、今度は避けるだけでなく刃の側面に槍の一撃を撃ち返した。斧は半円を描き黒仮面を元に帰る。槍を打ち込んだ時にしたひび割れる音をエドワードは聞き逃した。
今は体よりも言葉を紡ぎたかった。止めていた思いを発散したい。
「グレン、ファン様! 私の親友と恩人、どちらもこの世を去った。まだまだ話し足りなかった、もっと生きててほしかった。残酷な現実に押し潰されそうになったさ。グレンがいなくなったすぐに自殺も考えた。でもしなかった。まだ生きなくてはと思えた。ファン様が亡くなった時は現実を直視したくなかった。でも自分より悲しんでいる少女がいた。恩人から一緒にいてほしいと言われた彼女の側に、心から本気でいたいと思った。彼女が、フィリア様がいてくれたから、私は今日まで生きることができていた」
「……」
「でも叶わなかった。フィリア様が倒れた時は血の気が引いた。努力はした。でも助ける方法が見つからなかった。気が荒くなって八つ当たりまでしてしまった。そんな状況で私はどうすればよかったんだ? 後数年後に心臓が動かなくなる少女の側にいろと? 私は耐えられる自信がなかった。大切な人を二度失った経験をした自分に、彼女の最後の言葉を聞く勇気なんてなかったんだよ!」
ああ、無様だ。自己中心的で愚か。孤独になるのも無理はないと自身を嘲笑う。情けないとわかっていながらも、意思を変えることができなかった。
もう限界だった。何もかもが無意味に思えて仕方なかった。好きな人の元気な姿が見れないのなら、悲しませるだけなら、いてもしょうがないと思ってしまった。もし仮に自分と同じような境遇の人がいたならば、死に際にいる大切な人の側にいられるのだろうか。
その透明な聖人からもらいたい。強さを。勇気を。ボロボロに朽ちている心の内側を治してほしい。壊れない鋼の心を求めた。こんな格好悪いことを言ったら、きっと彼女は興醒めするに違いない。
「……何か言えよ」
「……」
「惨めで弱虫だって言えよ。口だけで何もできない……駄目な奴だって……」
槍の穂先と視線が同調するように下に向く。湧いて出てきた怒りも吐き出しつくしてしまった。世界が陰ってゆく。あの頃と何も変わっていない。フィリアを見捨てたあの頃から何一つ。理想には届かず、未だに何かに依存したがる自分は、憐れに他ならない。
「会いたいのか?」
「……え?」
「彼女に会いたいのか?」
殺意を振りまくのではなく、不意に問いをエドワードに投げかけた。先ほどよりも悪意がない穏やかな言い方だった。顔を上げても黒い仮面が見れるだけで、表情は何もわからなかった。
「いや……だから」
「資格がない会わせる顔がない、これらの不の理由は全て忘れろ。我が訊きたいのはお前の本心。純粋な思い。ただもう一度会って話したいのか、それだけだ」
純粋な、黒仮面の言うことを復唱した。そんな問いを訊かれたら、何重にも折りたたんだ本心が喉のすぐそこまで来ていた。己の弱さはあの頃と変わらない。でも変わらない物はまだある。好きという感情は、時に色褪せずに元の形を保っている。
(我儘を言っていいなら──)
好きと言っていいなら、こんな自分でもいいなら、逃げたことを、別れたことを、離れたことを、傷つけてしまったことを、泣かせてしまったことを、奇跡でも起こって許してくれるのなら、
「会いたいさ」
不貞腐れた子どものように本心を言った。
「そうか」
その時、胡乱な黒仮面は徐にトレードマークである仮面を脱いだ。
「ちゃんと言えたやん」
素顔が空気に晒された。その顔を"知っていた"。最後に顔を合わせた時のことを半世紀前のことのように昔に感じていた。愛嬌のある軽い笑顔。特徴的な緑髪のおさげ。また会おうと約束した、数少ない友人。
「メレ……さん?」
「久しいなあ。エドワードさん」
メレが目の前に立っていた。混乱でそれ以上言葉が口から出てこなかった。時空を移動したかと阿呆の想像をするが、黒仮面を脱いだその素顔がメレだった。つまり、今まで無尽蔵に斧を振り回していた胡乱な人物こそがメレに違いなかったのだ。一年以上も会っていないメレは、別れた頃と同じ顔をしていた。
ついさっきまで会いたくないと心の中で呟いていたはずなのに、突然現れた今は、懐かしさと困惑が頭をかき乱している。
「えー……なんか言ゆてよエドワードさん。気まずいわ」
「え……あ、えっと……ひ、久しぶりです」
「同じ言葉かいな。せやけど言葉失うのも無理ないわな。びっくりしたやろ? こんなコスプレしてバカでかい武器まで背負ってなあ。そいつが顔見知りやったら、俺腰抜けてまうわ」
「なんで……メレさんがいるんですか?」
言葉をようやく絞り出した。訊きたい疑問を長くしないように、最小限にしてメレに伝えた。メレは悩むように言葉をくれた。
「まあな……ちょっと"芝居"をな」
「"芝居"?」
「でも俺は演劇俳優にはなれんわ。俺の口調きもかったやろ? わざと声を低くしたりして。慣れないことはするもんじゃないわな」
確かに堅苦しいあの黒仮面の喋り方は、いつものメレの口調ではなかった。仮面のせいで声がこもっていた要因もあるが、今思い返せば、普段のメレよりも少し声が低かった気がする。
「なんでそんな芝居なんか」
「俺もやる予定はなかったんやけど……ちゃんと話とう思うてな。俺がこの仮面被ってる被ってる時に言ったことは、全部がホンマちゃうけど、まるっきり嘘やない。俺はエドワードさんのこと知ってもうた。フィリアちゃんとどうなったのか」
「っ!?」
寒気がした。黒い仮面の人物が私情を知っている時は不気味と感じていたが、正体を明かしたかつての友人が口にするのとは訳が違った。どうやって知ったのかは不明だったが、エドワードは黙って聞くしかなかった。
「フィリアちゃんが病気で倒れたのは驚いた。俺が去った後、そんなことが起こってたなんて誰も想像できんわ。そんなフィリアちゃんを置いて……エドワードさんはどっかへ行ってしもうた」
「……」
過去の傷を抉られているようだ。しかし避けようがない。これは己が犯した罪なのだから。罰は受け入れなければならない。
「俺は正直……怒りが出てきた。一瞬見損なった。なんで見捨てた? 泣いてほしくないって言ったんわ全部偽りやったんかって……思うたんよ」
「……そう思いますよね」
「でもすぐに気づいた。そんなことありえへんて。あの時、この森の夜で俺が聞いた言葉は、嘘なんかやない。この斧だって、ほら、ひびがあるやろ? さっきエドワードさんがくれた一撃でできたもんや。この斧めっちゃ硬いんや。俺と別れる前のエドワードさんやったら、無理やったと思う。頑張ったんやろ。フィリアちゃんのために、強くなろうとしたんやって俺にはわかる。俺の知らない葛藤があるんやと思った。でも完全には信じきれんかった、だから、こんな真似してもうたんや。色々心にもないこと言ってすまんかった」
メレが斧を捨てて、自分の行いを悔いて頭を下げた。メレは何も変わっていない。優しく他人のことを考えれる人のままだった。だからこそ、エドワードはまた思ってしまう。そんな優しいメレだから、会うのを拒んだ。
「謝る必要はありません。私は駄目な男です。あなたが言った葛藤も、フィリア様から逃げた理由にはなりません。私が弱かったから、無責任にも約束を放り投げた。私がもっと強かったら……こんな惨めな思いをせずに済んだんです。愚かにも私は、しなくてもいい後悔をしてしまったんです」
だからフィリア様にも、あなたにも会わせる顔がありませんでした。
助けるなんて大ホラを吹いておきながら、側に居続けることを諦めてしまったのだ。
「努力を捨てた私には……何の価値もありません」
「それは違うやろ」
突然メレは、エドワードの言葉に語気を強めて反論した。
「確かにエドワードさんは逃げたかもしれん。でもな、あんたは努力をやめなかった。そうやろ? あんたはあれをずっと届け続けた」
「あれ……」
訊くかれてすぐに思い浮かんだ。あれを。エドワードがした償いとも言えるあれのこともメレは知っているようだった。
「あれは……努力なんて言えるものじゃありません。無力な自分ができた小さな行動に過ぎません。実際無駄でしたし、フィリア様は」
「それがもし、日の目を浴びたって言ったら、どう思う?」
え?
「そもそも、俺がなんでここにいるんか、明確な理由言ってなかったな。気にならへん? どうしてエドワードさんがここにいるのを俺は知ってたのか。そもそもなんでエドワードさんの内部事情をずっとどこかへ去っていた俺が知っているのか。誰かに聞いたって考えが浮かばへん?」
誰か……フィリア様のことは誰にも話していない。別れた後も、細々と護衛の仕事を再開して日銭を稼ぐ無色な日々を過ごしていただけ。誰かと会話するなんてもっての外。知っているのはケインや屋敷にいた人たちだけだ。
(まさか……)
「我、汝が進むことを許そう」
メレが突然低い声でエドワードに告げた。
「え?」
「やっぱあかんわこの声。ほら、俺が試練て言うたろ? 試練クリアや。ようやく会いにいけるな」
「え……いや……私は……」
何を言い出すかと思ったら、話が振り出しに戻ってしまった。そもそもそれが目的で来たから全く問題ないのだが、後ろめたさは短時間では消えてはくれない。まだ足の裏は地面に磔にされている。そんなエドワードの胸中はお構いなしと言わんばかりにメレが続ける。
「ああそやそや。忘れとった。伝言預かっとったわ」
「でん、ごん?」
「えっーと」
思い出す素振りを見せながら、メレは口を開く。
「『丘の上の草原で、貴方を待っています』」
瞬間、体中に電撃が走った。メレがなぜ自分のことを知っているのか、誰かから聞いたのか、そして発した言葉の意味。その言葉を口にする人を、エドワードは一人しか知らない。すぐに駆け出したかった。
「俺はまだ約束、守ってもらってへんからな」
メレがそう言った。
「会う約束は果たした。後もう一つ。俺が別れ際に言った言葉、覚えてる?」
「……はい」
「守らんと絶交やぞ──友人」
エドワードは走り去りながら、昔のメレの別れ際の言葉を思い出す。
【幸せになれや】
────
混乱してると思った。メレの存在も自分が全力で走っている姿も全て幻で、きっと刹那の瞬きの間にこの光景は終わってしまうのだと思った。だが走っていると息は荒くなるし、森の空から僅かに光を通している太陽は眩しかった。これは現実だと実感する。
疲れは感じない。もっと速く走りたい。速く、速く、あの場所に辿り着きたい。この時のエドワードは、会う資格がないなど考える余裕はなかった。どれくらい走ったか。何時間にも感じたし、数秒のようにも感じた。眼前に見える、緑の丘。
「はあ……はあ……」
汗を拭って駆け登る。早く確かめたかった。
日の目を浴びたとメレは言った。それがもし本当なら、エドワードのあれは無意味ではなかったと証明される。いや、そんな簡単に信じていいのかと疑問が湧く。間違いだったらどうする。希望を打ち砕かれるのはもう懲り懲りだ。
そう思いつつも、願うのを拒めなかった。
天辺が見えた。ふと、朝日が眩しく感じた。丘を登っているのは自分だけだ。朝日に照らされできた影も自分の物だけで、世界に取り残された虚無を味わう。しかし、違うと悟る。いる、先にいる。根拠はない。
だが確かに、この先に誰かがいる。
視界に広がる緑の草原。
「……」
言葉を失う。一年以上ぶりの美しい景色に見惚れたからではない。ファンと来た時と美しいのはなんら変わりない。しかしそこではない。見るべきは一点。
人がいた。
世界は孤独ではなかった。少女が艶やかな金髪を風に靡かせ、背を向けて立っていた。
心臓がうるさくなる。
いるはずがない。屋敷で横になって生死の中を彷徨っているはずだ。いよいよ幻覚を見せられていると自己暗示するが、風が肌を撫でる感覚は本物だった。
自分の気配に気づいたのか、顔を少し上げた。
そしてゆっくりと、体の正面をこちら側に向けて、姿を現す。
少女は──────────




